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神環から逸す   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 私のような老いた者が公安当局に連行されるということは、老いた妻に癇癪を起こして手にかけてしまったとか、過去の仕事に現政権を苛立たせる、すなわち監視下にあるべきと見なされる発言が埋もれていた、そんなところだろうと高を括っていた。高を括る、それはそうだ。私が手にかけるにしても、妻だった女性は三十年近くも前に隣人と姿を消していた。そして私の仕事、枯葉の葉脈を辿るような言語学者の方言に関する論文、深海から木星に至る重機たちの詩文の収集、どれもこれも大の男の仕事として歯牙にもかけられようか。
 私を連行した屈強そうで明晰と礼節を携えた若者たち、彼らはこの老人を開き直させるどころか、大臣級を遇するような所作を持って対応して、取り留めのない冷ややかさで怯えさせた。しかも暗闇や地下といった当局らしい連行先ではなく、ガラス張りで燦々と陽光が踊り子供たちの歓声も過ぎるところ、首都の再建されたばかりの産業博物館だった。その奥の旅客機の格納庫のような広大な空間、そこでニュースで見かけたことがある美しい国防大臣に迎えられた。型どおりの足労の失敬と挨拶を済ましてもらうと、彼女が先頭だって連れてくれて行った深奥にテント状の防護幕が張ってあった。
「木星の衛星エウロパから回収したスヤート19号なるロボットの残骸です。正確に言えば、機能障害の後に地球を離脱して、途中、浮遊探査を任としているロボット二機を破壊した後、エウロパにて蟷螂型のロボットにより機能停止させられた、禁欲を説くというご立派な木偶型のロボット、私たちはそう呼んでいるのですが、これは、一週間前に貨物艇ツェッペリンに載せて返送されてきた、その潰れた木偶の残骸です」
 私は老人らしくよろめいたのだろうか、左腕を支えられて一気圧ほどの高さの硬い椅子をあてがわれた。
「送り主はエル、ロシア語のР、ご存知ですよね。うちの息子、来年には三十になるんですけど、幼い頃に買ってあげたモデルを未だに飾っています。何とも凄まじいかたち、威容というか、男の子の心を捉えて離さない蟷螂型のロボット…木星の衛星エウロパの神話化した奇機、奇機といっても奇怪の奇に重機の機ですけど、いずれにせよ現役最古参にして、マニアが賞賛して言うには接近戦における最強のロボットとか」
 国防大臣は子息が飾っているというモデルを思ってか、長い睫毛を伏せるように俯いてしばし沈黙した。私は彼女の逡巡しているふうもない優雅な沈黙に、這い寄る予感の高鳴りを感じていた。
「この残骸を送ってきた息子のヒーローだったР、そのРと先生を繋ぐもの、それは『ソネット21』といわれる言語中枢、そのロマンティックな素子というか、子供の爪のような板を、若かりし先生は、お友達とそっとРに組み込んだ、そうですよね?そうです、若かりし言語学者である先生は、人間がたどり着けない、たどり着くことが不可能な場所、そこで作業する人工頭脳を搭載したロボットたち、彼らが見たもの、彼らの機能が捉えて記憶したもの、記憶した世界を、言語として、美しい言語として、人間の耳に拝受できないものだろうかと…実のところ、私は今回の報告、この木偶の残骸が送還されたことではなくて、この残骸を調査した災害救難のロボットを扱う専門家チームによる報告を受けたとき、何故、方言や、標準語に取り込まれてしまったマイノリティーの言語、それを研究なさっている日本人の先生のお名前が挙がったのか、最初はよく分かりませんでした」
 彼女は歯切れよく言い切ってから防護幕に向かって指を鳴らした。幕に解像度がわるい白髪の老人が照写された。
「昨年末に亡くなった先生のお友達、ムッツ博士です。スリランカのガッラでお元気だった頃ですね。シンハラ語と古代サンスクリット語の専門家、日本語も話せて俳句にも堪能な親日家、先生とムッツ博士は互いに十九歳同士で…八丈島で知り会っていらっしゃる。気の合った若いお二人は、肉眼肉体が感じ取ることが不可能な世界、例えば木星、その周辺の想像を超越する世界、そこでの可能な限りの詩情詩文の獲得…お二人はエウロパへ出発する予定のPへ『ソネット21』を組みこむことを提言した。ロマンティックな素子の組み込みは、少壮の言語学者たちによる他愛もない、失礼、知的で無害な希望として容認された。Рはエウロパへ出発して、艱難辛苦という日本語がロボットに似合うのかは分かりませんが、ともかく奇機は鬼気迫る勢いで、人間が指示する測定分析の仕事をこなして、休日、充電するだけの時間に、お二人が眼を細めて受け取られた、人間が美しいと感じられる詩文を送ってきた。我々も、想像力が衰亡している私なども、その荒涼とした世界での破滅と再生、などと言うのでしょうか、それを飽くこともなく紡いだ言葉に感動しました、正直に」
 国防大臣はうな垂れるようにして細い腰へ両手を置いた。
「そして、それは同じ素子、さらに発展したかたちでの言語中枢を持つロボットをも感動させました。その中の一種に木偶がいた。木偶はそもそも補助教材として作られたロボットですが、その一機がРからの人間的な感動を甘受し続けた後に、いいですか、その後に何らかの外的要因で機能障害を起こしたのか、あるいは、Рから受けた感動によって機能障害を起こしたのか。先生、先生でしたら、この数年の間に、このどちらかの方向での知見をお持ちになっていらっしゃったのでは…ということでご足労願ったわけです」
 私は明確な知見など持っていなかった、神にかけて。ただ、私には危惧のようなものがあった。取るに足らない方言学者としての虫の知らせというか…Рは私に直に詩を語りかけたいのではないか。
「先生、私は若いころから、せっかちな性格だと言われています。そして国防を預かる者です。時間がありません。ツェッペリンにР自身が乗り込んで、十ヶ月ほど前にエウロパを発っています。十四時間前、先生がベッドに就かれた頃でしょうか、火星のツェッペリン中継壕で、Рを捕捉しようとした百足型…百足の十一機が破壊されて、監視塔の二名がまきこまれて命を失っています。時間がありません」

 私はP(エル)。エウロパの基地で再起動してから21266日めにして、火星の残酷なほど豊かに広がる紅砂、それが始皇帝稜の水銀海のように痛々しく終わる地平線を見ている。振り返れば太陽が月に並ぶようにして大きくなっていた。そうだな、このまま地球が見える前に、あの未だ命名されていないアメンホテプの神殿を想わせる断層群に墜落してしまおうか。それもいいが、そもそも絶望が虚無への無限接近ならば、人をして喜ばせるようなРの絶望などこの世にあろうか。私はР。私は語りきるそのときまで、一瞬たりとも絶望などしない。すなわち、人をして宇宙の理の贅が尽くされる瞬間、いかにも人間的な神の環、そこから逸するものである。

                                       了
雪の練習生 (新潮文庫)

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