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日本甲虫   梁 烏 [詩 Shakespeare Достоевски]

 壺阪山駅のあたりから国道一六九号線、通称中街道が近鉄吉野線に沿うように延びる。その鄙びた壺阪山の駅前で、飛鳥の方から中街道をきたタクシーが済まなそうに止まった。
「そっち左の方へ行けば山の手前がキトラ古墳で、あっちは道沿いに行って右の方が小学校…どないされます?」
 運転手がバックミラーの男女に問いかけると、GIカットに険相を懼れない鋭い眼の男が唇に人差し指をあてた。
「等一下(ちょっと待って)。エンジン切るね。こちらが言う、静かに。奈良に戻る、お金たくさん払う」
 女は初老の運転手が日本人らしくたじろいだので思わず微笑んでしまった。それでも流麗な眼差しが玄妙に下がるのはサングラスに隠されている。法事を済ましてきたような黒スーツの肩に時おり飛鳥の淡い陽が踊ると、白皙の咽喉の下で数珠繫がりの黒真珠が瑠璃光を持った。風のないところへ来てしまった、という感慨が女の掌に汗を浮かべた。
「麻煩你(お手数かけます)、降りてみます」
 女の鼻にかかった弦を玩んだような声に運転手は凝固してしまったが、男は慣れた白兵戦に向かうように車を出て反対側に待機した。女は男に手をあずけて車から一歩踏み出すと嬉しそうに額の後れ毛をかきあげた。
 人気がない駅にも夏の焦げたような香りが蟠っていた。それも南から来た二人には親しめる感触である。日本語を流暢に話す女は、日本語を懸命に並べる男を背後に待たせて、簡素な駅に何かを見ようとして目を凝らしはじめた。
 女は台湾の高雄を中心に海運業を営んでいる馬氏の長女の七楸(チースゥ)である。馬一族は、先祖が高雄市の内奥にあたる美濃を開墾した客家人だった。七楸は台南に住んでいて普段は一人娘の教育に熱心な母親であるが、冷凍海老を商う日本人の夫が、大阪に仮住まいしているので度々来日していた。
「五月まで彼女の細長い脚はいつも走っていたのに、先月から暗いところで四獣神に囲まれて動けないの」
 七楸の馬祖神の夢語りに、最初はくらくらと、やがて真摯に九年つきあってきた夫の寛隆(ひろたか)は、懸念の場所が明日香村のキトラ古墳ではと推定してくれた。そして長年仕える袁(イェン)兄弟の弟を伴って奈良へ出発してみると、際どい予感に付加するように一人の少女の生活が道々に散見できるのだった。
「彼女は、ときどきあの販売機から切符を買っている。大阪の方へ行っている…」
 そこまでにこやかに言うと、七楸は偏頭痛に襲われたように眉尻を歪ませて葛の方へ向いた。
「男が来るわ。いつもここの駅を出たり入ったり…彼女を守る者、つまり味方なのか…彼女を誘惑するために放たれた者、つまり敵なのか…」
 壺坂山駅に吉野口の方から電車がはいってきた。七楸はいささか慌ててタクシーへ戻った。大和の野原に蜻蛉を追っていささか迷えば、蜻蛉のほうから駅の日陰を求めて来てくれたのではないか。七楸は愉しみはじめている自分を鼻で笑った。
 電車は橿原神宮の方へ発ってしまった。乗降客はいたのだろうか。夏の日曜日の昼下がりでも降りた人はいたようである。ビニル袋を提げてタオルを首にまいた老婆が、駅員と挨拶がてらに話し込んで、挙句はビニル袋や胸ポケットを弄って切符を捜していた。
「日曜日よね。それに…彼女は大阪へ行くことを嫌がっているわ。ごめんなさい。她害怕(彼女は嫌がっている)」
 七楸は袁に微笑むように言ってから改札へふらりと目を戻した。
「でも大阪へは行ってもらわないと…彼女は私たちの希望、可哀想だけれど、田園の日曜日の午後をあきらめてもらうしかないわ」
 老婆がやっと切符を見つけてはしゃぎ声をあげた。
「何か来るわ…まだ乗っていたようね」
 七楸が腰を伸ばしてそう言ったとき、老婆の背後に深海魚の玉眼のようにポーッと光るものが迫った。駅員と老婆は射竦められたように声をなくして見ている。ほどなく丸眼鏡の青年がビニル封筒を抱えて恥ずかしげに微笑んでいた。疲れ目にはピンクに見えそうなヘンリーネックの七分袖シャツは随分と痩せぎすに見せていたが、老婆の頭上を越して回数券を渡した右上腕は意外に隆々としている。一瞬だったが手首に火傷痕のような白斑が見えた。
 七楸の眉間が波立つのを袁は見逃さなかった。
「今日は日曜日よね。それとも土曜日だった?」
「日曜日です」
 七楸は袁の返事に満足してサングラスをはずした。そして鼈甲の左蔓を発奮したようにくわえた。
「運転手さん、ここでお待ちくださいな。心配ならカードをあずけておくわ。あなたは彼を追って。あたしもあとから行くから」
 運転手は両の後部ドアを開いてから慣れない甲板員のように七楸の手を取ろうとした。
「ありがとう、大丈夫よ」
 そう言って日差しに目を細めた七楸は、袁が見上げている真上の夏空を不安そうに追った。
「你是做什麼的翅膀嗎(どうしたの、何か飛んでいるの)?」
 袁は見上げていた剃刀のような眼を慌てて戻して、不穏を打ち消すように辺り構わず晴朗に言った。
「日本甲虫是白天飛行昼間(日本の甲虫は昼間でも飛んでいますね)。它似乎象日本人忙(日本人に似て忙しいようです)」

 キトラ古墳がある安部山の南斜面の方から蝉の重奏がひた寄せてきた。耳鳴りをもって異人に危惧を伝えているわけではない。草木が午前よりも萌えあがっているように、虫魚までもが劇的導きに快哉をもって応えているのだ。七楸はそう確信して窓辺の少女に向かって片手を挙げかけた。
「怯えているわ、むりもないけれど」
 四時ごろとはいえ繁盛している店らしく店舗脇の駐車場には六台停まっていた。千古の郷愁を残す田園の散策は日本でも好まれているようだ。この日本らしい原風景たる飛鳥路で女心は諦観するように落ち着くことだろう。そして女心とは産み育むことを知った女の矜持なのだろう。選ばれた少女に女心は去来しないものか、と思うと七楸は袁に寄りかかるほど滅入った。
「大丈夫?奥様」
「大丈夫よ、彼女…窓際から離れてしまったわ」
 七楸は袁の腕に爪を立てながら唇を噛んだ。女心などというものは才能が選択すべき野辺の道ではない。霞立つ春や蝉が読経する夏は心安らかでいられるだろうが、木の葉が腐食する秋や霜立つ冬は少女を憂鬱にさせないではいないだろう。
「あのトンボのような眼鏡の男の子…如果我被誘惑,如果他被敵人(彼がもし敵であって誘惑者だとしたら)…」
 奥方の軽い失望がこもった言いかけに、袁は煩悶するように言葉を置くしかなかった。
「恋人…でも小学生、でも今どきの小学生ね、あっちは二十三、四歳、でも日曜日」
「おそらく彼は家庭教師のような人よ。彼だけを見てみれば…」
 袁は店舗入口の戸車の音に反射して構えてしまった。トンボ眼鏡の当人が反るようにしてこちらを見ている。ビニル封筒を持って後ろ手に戸を閉めて、彼は精一杯に男性の睨みを置いて帰るところだった。
 七楸は袁の腕を抑えて不意を撃たれたことに納得したように言った。
「他看不到未来。外現上也能看到水球,女孩。(彼の未来が見えない。見えるのは、あの娘と同じ水柱)」
「什麼是他的朋友。(彼は味方でしょうか)」と言って袁は大袈裟な笑みをつくった。
「作為一個設置,我們会冒充房地産尋找。(設定としては、不動産を探しているふりをします)」
 袁は名刺入れを取り出すと背を丸めて小犀のように近寄っていった。
「今日は、あやしい者ではありません」
 七楸はその後を追うように語りかけた。
「驚かせてすみません。台湾人です。静かなところの物件を探しています。家庭教師さんですか?勉強中を邪魔してごめんなさい」
 サングラスを外して顕わにされた七楸の妖艶さに、青年は曇らされたような分厚い眼鏡を震わせてぎこちなく頷いた。二階の窓から防御するように見下ろしていた眼差しが嘘のようであった。
 気がつくと気圧が破れたように蝉の争鳴が急激に高鳴っていた。
「歓迎されているのかしら」
 七楸は嬉しそうに肩を竦めて飛沫を受ける仕草で二階の窓の方へ振り仰いだ。
 少女は窓辺に立っていた。そうあるべきかのように窓辺に立って細い腕を陽に晒していた。しかし下の七楸と袁を見ていなかった。今の今まで下を見ていたふうもなく、蝉鳴きが高まる安部山の方を見ていた。
「你看到什麼(何を見たの)…」
 七楸は少女の眼に慄き乱れる照りを見た。

 番所崎は田辺湾に突き出ていて、大洋の波唇から荒磯の手前の潮溜まりまでをぐるり見渡せる。南東に斑の地肌を見せて透明度を窺わせる畠島が賑やかそうにあれば、さらに南にまわった円月島の巨大な老塊は、ひょっこりあって瓢箪形に見えることも忘れるほど凄惨に孤立している。そして仔梅(シーメイ)は波浪凄まじい日の円月島が好きだった。
 誰もがいつのまにか「小梅ちゃん」と呼んでいる林仔梅(はやし・こうめ)は、中国人めいた名前を持つものの生まれも育ちも大阪は天王寺だった。海老の養殖と輸入卸で一代の財を成した父親である林寛輔(かんすけ)は、妻となった烏来温泉出身の小哲(シャテー)を愛して台湾人とほぼ同一化していたので、長男には日本人名をつけたが長女には台湾人名を喜んでつけた。親の悠長さはそのまま子に備わるもので、仔梅は就学するようになると出欠を問われてはシーメイの音を強調して、日常の気安さの中ではコウメの雅な音を楽しんでいた。そんな陽性の華美に包まれていたような仔梅も、京都大学理学部を卒業すると、姿を眩ますように院生として瀬戸臨海実験所へきて研究に勤しんでいた。
 瀬戸臨海実験所は創設地名の瀬戸鉛山村に因るが、フィールド科学教育研究センターの海域ステーションとして番所崎の頚部の砂州一帯を敷地としている。昭和天皇も来館された実験所は、太平洋の沿岸生物の観察研究をすすめてきた伝統があり、仔梅も甲殻類の記載分類学に少しでも貢献できればという野心を持っていた。ゆえに強風が髪をなぶる日の円月島は、大人になった仔梅の哀愁をときとして募らせていた。
「小梅ちゃん、お姉さんから電話があってね、お邪魔するのは明日にするって」
 事務職員の小母さんが髪を押さえて怒鳴るように言ったとき、仔梅は煩わしさが風に吹き払われたように感じてちょっと嬉しかった。これで今宵は人並みな孤独に浸れる。こんな素敵な日に、夢見がちで掴みどころのない義姉が、自分を見張るようにやってくることは不愉快だった。
「お兄ちゃん、お姉さんってウミウシみたいな人ね。綺麗でゆらゆらしているけれど…本当は油断ならない人かも」
 そのウミウシのような女に惚れこんでいる兄からメールが届いたのは、日曜の朝とはいえ水族館へ行く用事があって早起きしたところだった。
「ヨコエビ類の研究はすすんでいますか。突然ですが、今夕か明日に七楸が伺うかもしれません。白浜の宿泊が予約できたら事前に直接お電話するでしょう。少々、精神が不安定になっていますが、袁の弟が同行しているので心配はしていません。しかしここのところ高揚していますので、海を前にしたら尚更でしょうから、海水に触れさせたりアルコールを飲ませたりはしないでください。宜しくお願いします。PS・父は今週、鹿港の友人のところにいるようです。休みがとれたら台南へ来てみませんか。父が会いたがっていることは言葉の端々にみてとれます」
 仔梅は危なげな足取りで波打ち際を戻って行く小母さんを見ながら幸せだった。たったひとりの兄も随分と家族を思いやるようになったものだ。中学生の仔梅が公園のまわりを走っていると、茶臼山郵便局か南照寺の前をとぼとぼ歩いていた海豹のような高校生の兄。その優しいばかりの兄の前に現れた眩いばかりの金緑の甲殻を纏った女。明日やってくる義姉を思うと不愉快な偏痛が頚部から左肩へ走った。
 仔梅は左肩をおさえた掌の匂いを嗅いで、その蠢くような磯の香りに「宿命やな」という言葉を口にした。
 仔梅は鉛山湾を見下ろすアパートの三階に寝起きしていた。手摺りが錆びて外壁の橙色に馴染んで気に入っている。平日は夕食までも実験所の食堂で済ましていたが、日曜日は外に誘われてもテレビを見たいことを理由にして独りヴォッカを飲んでいた。フローリングに胡坐座りで傍らにストリチナヤの壜を置いて、テレビは動物と芸能人がからむ番組を一応見ている。ヴォッカは体のために四倍量のグレープフルーツ果汁で割っている。ガラスのテーブル上には搾汁された半割りの柑橘が苦甘い香りをたゆらせている。空梅雨つづきのせいか窓には気の早い様々の虫たちが群がっていた。
「い~い季節になったね?二月やったかな、もぞもぞしているとこを助教授に見られたときはこっちも肝が縮んだけど」
 仔梅の日曜の晩の声はここのところ疲れ荒んでいた。生来の艶と張りのある声を水族館や研修向けの解説に費やして、加えてほぼ毎晩のヴォッカが声帯とその近傍を削っていると自己診断していた。
「わざとらしく姿も見せんと、それでも果汁を吸っているふりでっか?」
 仔梅はそう言ってちょんとグレープフルーツの皮盛りをつついた。黄色い肉厚の皮の一枚がぽんと撥ねあがって彼女の眼を丸くする。さらにぽんともう一枚撥ね退けて、ちらちらした触覚と歪んだクリップのような脚をしかしかと見せはじめる。息を呑ませる極めつけは、剥片のような両外羽で一切を弾いて、その艶黒の全容を現したときである。それは鈍く光る親指第二関節大の甲虫だった。
「とっくに八時を過ぎているのに、ぴくりともせんから死んだか思うたわ」
 仔梅は一口飲み下してから噴出し笑った。
「グレープフルーツを被せられたくらいで死んじゃったら、あかんわね、失礼しましたぁ」
 甲虫はやっと皮盛りの山を下りて果汁の滴からも後足を抜くところだった。
「忙しかったんでしょ…静かやねえ…どうしたん、黒豆ちゃん」
 仔梅は薄ら笑いながらストリチナヤをちょろり注ぎ足して氷がないことに気がついた。
「ずっと黙っているなら…あたしってお嬢さま育ちで我がままやから、つぶしてやりたいところやけど…トンカチでポンとつぶせたらとっくにやっているわな。ただね、気持を察してくんないと、非論理的行動に走ることがあるねん。たしかに、黒豆ちゃんを海に捨てても、車にひき潰させても、黒豆ちゃんはずっと知らんぷりなこつは分かっとる。でもな、これから氷を買いに行くんやけど、酒屋の店のお姉ちゃんとか、助教授や所長に黒豆ちゃんを見せてもいいんやで」
 甲虫は金属のような気配のまま突々と反転しはじめた。
「それとも、あたしを殺すぅ?死骸をあさる本物のスカラベみたいに、あたしん中に入って内臓を掻きまわすぅ?でもちょっとは食べたように見せかけんと、科捜研とかが悩んじゃうよ…」
 仔梅がもう一口飲み下そうとしたとき、吊り琴を擦ったような声が耳に届いた。
「小梅ちゃんが生きていること…小梅ちゃんが生きていることが、僕の認識の大前提です」
「なんで?なんで黙っていたん?気取って無口なんは大嫌いや」
「小梅ちゃんの吐息より胃酸過多を計測して、緊張をもたらす要因を絞り込むために可能な限り情報を集めて分析していました。チースゥ、これは中国語の発音ですが、この名前の女性が会いに来ますね」
「分析中なら分析中って言いや。そんなことも気を使えんで、その…何て言っていたっけ?」
「八百万(やおよろず)の司祭です」
「そうや、八百万の司祭かて…ええかっこしいやなぁ」
「この女性は小梅ちゃんの家族でもあり、彼女は人間の水中での適応という退化存続、つまり反理性的な暴走を推進する中心人物の一人となりうるので、優れて理性的な小梅ちゃんに非線形的な…小梅ちゃんに、その…葛藤をもたらしています…」
 仔梅は机の財布へ伸ばした二の腕を震わせながら笑った。
「しっかし、その人間みたいな口ごもりかたは…すっごいわ、ほんまに。あと氷とかぱっぱと作れたら最高なんやけどな、買いに行ってくるわ」
「申し訳ありません、人間の男の形状をしていれば氷を買いに行ったり…もっと小梅ちゃんにつくせるのですが」
「氷は冗談や。信頼してるで、黒豆ちゃん。これから先のこと、あたしを生かすも殺すも、黒豆ちゃん次第やてぇ」

 海上の関西空港にも宵闇が下りてきていた。空港が好きな人は水生哺乳類が好きなのではないか、などと茫洋と思っている老人が傍らに座っている日はついていたのかもしれない。世界は長須鯨のような飛行船に乗りこんで旅立った人々を讃えなければならない。そもそも空の鯨は、人間の脳の奥底にあって初秋の浅い眠りのうちに浮かべばいいのだ。
 仔梅は隣の老爺の視線に小さく頷いて疲れた髪をかきあげた。USJと南京街の紙袋を抱えた周恩来そっくりの老人は話せることを喜んだ。
「台湾へ行きますか?」
 仔梅は彼の流暢な日本語に柔和な笑みで頷いた。
「若くてきれいですね、学生さんですか?」
「研究員、そう学生みたいなもんですわ。私の母は台湾人で、父は日本人なのですが、家族が揃う家は台南です」
「ああ、家に帰るのですね、それはいいことです。私は孫に会いにきました」
「日本にいらはるの?」
「そうです、息子は台湾人、お嫁さんは日本人です。息子は死んだけれど…孫は可愛いです」
 お土産を抱えた日本語を話せる七十歳代の台湾人。兄夫婦が来るまで相手をしてやろうと、仔梅はSCIENCEの複写ファイルを閉じた。
「見ていたのは、あれは、犬ですか?走と鯨、走る鯨と書いてありました」
「ああ…そうですね、中国語で走鯨、となっていましたね」
「孫と一緒に大阪の水族館、行ってきました。素晴らしい。孫はまだ泳げない、水が怖いようです。私は船乗りだから孫に泳ぎを教えます。そこにあった犬みたいに泳げるようにします」
 仔梅は肩越しの目敏さに感心しながらファイルを捲った。確かに英文の中に漢字があった。香港の中文大学のグループによるアンブロケトゥスの古びた論文。老人は中国語で「走鯨」と書くことが気に入ったらしい。生体の想像図もあったので見せてあげたい気になった。
「どっかにあったけど…確かに犬みたいな狼みたいなやつですが、絶滅しちゃったんですけどね」
「絶滅しちゃった…ゼ・ツ・メ・ツ?」
「ええ、絶滅は全部死に絶えたことで…始新世っていう大昔に一時栄えて、すぐに全て死に絶えています」
 仔梅が言葉を神妙においたときに走鯨の想像図がはらりと開かれた。海岸で魚を咥えている姿と海中で水掻きをふるっている姿は悪相極まった狼である。海驢とかとは違うことを説明しようとした矢先、老人は仰け反って見下ろしながら頑と主張しはじめた。
「絶滅ないです、死んでいません。私、これを見ました」
 仔梅は臆することもなく優雅に笑みを浮かべようとしたが老人は続けた。
「これ生きています。私は台湾でタンカー乗っていました。蘇澳(そおう)の沖合い、蘇澳は太平洋の方ですが、タンカーからこれ見ました」
「失礼ですけれど、海豚とか海驢じゃないでしょうか」
「イルカ?海豚ではありませんでした。アシカ?いや、海驢ではなかったと思います。人間が一緒でした。い・け・す?生簀のようなもの、海の上にあって…挨拶すると、ちょっと広東語訛りで」
「生簀?広東語訛り?」
「そうです、二人の人間がついて二匹のこれが泳いでいました。もちろん、私、変な薬を飲んでいません」
 老人はそう言うと仔梅の訝りを楽しむようによく響く声で笑った。
 林寛隆が妻七楸の右腕を支えて、チャイナ・エアラインの搭乗ゲートに現れたときは八時をまわっていた。
 夜半、台湾へ戻る人々や明日からの台湾行程に向かう人々を横目に、夫妻はおそらく結婚生活における最大の危機に直面していた。すべては七楸が普通の妻、普通の母親でいてくれれば、と言わざるをえなくなっていた。若き寛隆は七楸に恋をして至上の喜びをもって結ばれた。夫は妻の思うところすべてに同調してきた。夢や迷妄、狂気の沙汰のように繰り返された未来、七楸が媽祖神の宮女であることや媽祖が日本人の姿で再来すること、寛隆はこの世の果てまでも彼女の想像力を尊重しようとした。しかし日本でのひと夏、二週間ほどで、七楸は夢を子供のように持ったまま離れていってしまった。
「お兄ちゃん、まにあわんかと思って心配したわ。七楸、姉さん、大丈夫?」
 仔梅がゆらりと二人の前に現れて七楸の左腕を支え持った。
「薬が効いてるよって、何を言われてもあかんわ。よかった、一緒に来てくれるて言うてくれたから、さすがはわいの妹やと思うた」
「女しか入れんとこもあるよってな。今から老後の予行演習やと思えばええわ…あと、お父さんに会ってみたくなってね」
「あいやー、和歌山の僻地で少しは苦労したんかな、大人になりおったわ」
 寛隆は笑みを妻の顔へ向けたが七楸は赤紫に染みた夜空を見ていた。仔梅は義姉の顎先についていた枝毛を取り除いてやった。
「お兄ちゃんが社長やからファミリーのこともお兄ちゃん次第やろうけど、聞いてもええかな?」
 兄は七楸が見ている夜景の方へ向いて嘆息をひきながら言った。
「袁のこと、袁の弟のことやろう?会社の方は免職扱いにしたけれど、あとは袁一族の息子、袁の弟としての、台湾人としての身の処し方やな。仕方ないな、妹のおまえに見つかってもうては…」
 仔梅は慇懃に目を伏せたまま七楸から離れた。
「帰って父さんに言うだけは言うが…わいの神さん七楸に手を出したんはあかんわな、お終いやな」
「そない言うても、姉さんは女やさかい、優しゅうしてな」
「わかっとるわい。ほんまにおまえが妹でよかったわ」
「なに言うてる、二人だけの兄弟や。あたしらも搭乗手続きしよかぁ」
 仔梅が話し中途だった老人は開いたファイルを持ったまま中腰で待っていた。仔梅はぎくりとして仰け反った。痛快の直後に浴びせられた不意の冷水。仔梅を硬直させたのは、見えていなかった老人の額の茶痣と咽喉のたるみ皺である。仕方なくも人なつこい海豹に見えてしまった。しかし恐るべき仔梅を、一時とて真に驚愕させるものなどあろうはずもない。彼女はファイルの端に番号を書きつけてから千切り取った。
「今の話、夢があってええなぁ思います。もっと聞きたいんです。その番号に連絡をくれはりますか?なんやったら、あたしもしばらく台南にいますから、もう一度お会いしてお話を伺えませんか?」
「私は台湾の船乗りです。今はもう陸の上の年寄りです。酔っ払いです」
「ええ、お酒にもお付き合いしますよって、再見(ツァイチェン)」
 老人は頷きながら番号を記した紙片を受け取った。そして腕を支えられてよろよろと腰を上げると、真剣な強い眼差しを仔梅に向けてゆっくり合掌した。
 仔梅は後退りしながら手を振った。
 戻した水を含まされたような不快が、口蓋に浸透してくるのを感じた。それは黒豆ちゃんが現れた夜と同じ一抹の苦味を持っていた。ということは、自分の不愉快さを捉えて黒豆ちゃんが飛んでくるのだろうか。それにしても、昨日から黒豆ちゃんが遠いような気がする。どこで何をしているのだろう。忙しいのは分かるが、豆じゃない黒豆ちゃんなんて…いらない。
 妻七楸を一旦座らせた優しい兄寛隆が背後から声をかけてきた。
「どうした?知り合いの先生か何かなん?」
「ああ…犬、犬よ。犬が大好きで、犬のような人間も大好き言うてはった」
 仔梅は老人にあらためて会釈して手を振った。
「再見、台湾で会いましょう」

                                       了
かかとを失くして 三人関係 文字移植 (講談社文芸文庫)

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  • 作者: 多和田 葉子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/04/11
  • メディア: 文庫



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