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森で迷う   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 範疇という漢字は厳めしいが、CATEGORYカテゴリーという片仮名は随分と洒落ていると思っていた十代の私。どこにでもいた昭和五十年の春に受験を失敗した少年Bだった。気楽な文系志望で、先々は教師にでもなって田舎へ戻って、焦がれていた探偵小説でも書いてみようと安易に夢想していた。そして典型的な十代の危機だったのか、備わっていた厄介な気質なのか、それは客観的な感想にまかせるにしても、私は捉えられてしまった。何に?お座なりにいえば数学に捉まってしまった。具体的には、土手を自転車でのんびりと走っていながら、額の裏では金団雲に跨って滑空している数学者という人種に魅せられてしまった。たとえば誰?フーリエとか、ポアンカレとか、ヴェイユとか…どうも小説家の好みもそうなのだが(バルザックとかフロベールとかサルトルとか)ちょっと癖のあるフランス人が好きな質であるらしい。
 昭和五十年の暮れ、浪人生は本屋でふと森毅先生の「異説数学者列伝」に目をとめてしまった。人間は憧れていたり憎んでいたり、つまり気になっている存在からは逃げられない。恐る恐るその本に指をかける私の横顔は、初めて春本を手にしたときのように蒼白だったに違いない。まず森先生らしい前書の「よくあるヘンな奴だけれどもエライところもある」とか「ボロボロたちによって数学は作られる」のボロボロ史観にやられた。皆どこにでもいる生活に追われた駄目男じゃないか。野心満々で孤独に苛まれていた一人に「矮小な哲学から偉大な数学は生まれるのか」のポアンカレがいた。彼は危うい試験の綱渡りの末にエコール・ポリテクニクを経て鉱山技師になる。想像してみたまえ、世間知らずで不器用な青年が、日中は坑内に入ったり測量したりして、夜半には鉱夫たちの酔唄を聞きながら偏微分方程式を書き連ねている姿。二十世紀初頭の懐古趣味と言うなかれ、ここに人間の神々しさを見ないでどうする。誰か映画にしてくれないものか(フランス人だったら企画しているのではないか)。レーニンは「唯物論と経験批判論」でポアンカレを攻撃したらしいが、矮小にしろ偉大にしろ、哲学は時代の制約を受けがちで体系化が難しいだろう、と私は浅学ながら言いたい。今や偉人の理想郷とされた連邦国家は100年も保たれず、数学大国ロシアはポアンカレ予想を解決するほどの人材を輩出している。いずれにせよ、未来への不安愁訴で蒼ざめきっていた私は、近眼の狸のようなポアンカレに「気軽にやってみたら?月のデコボコとか林檎の皮剥きの数学を、気軽にね。森で迷ってみなよ」と耳元で囁かれてしまった。
 それから後は、おかげさまで受験は理系志望へ一応変更となり、いっぱしの数学者の卵気分に皮膚疾患のように被われてしまった。中学時代に唾した三角関数がフーリエ級数の幼姿だったと知り懺悔して、求積計算に疲れてふと目にしたルベーグ積分の概念構築に急いで逃げ込んだ。見ているもの、聞いていること、読んでいること、全ての存在事象を数学的範疇といったような風呂敷の上にちょっとの間でも転がしておかないでは気がすまなくなった。日々の危うい認識の中で確実なのは、代数と解析と幾何という三つの定規のような剣のような棒切れで、触れられ小突かれ叩けるもののみとなっていった。三本の如意棒は、女性からの優しい言葉を撥ねつけ掃い、シェイクスピアの古英語を泣く泣く粉微塵に粉砕し、酒でとばすはずの憂いに酒以前に頂門の一針の代わりとして刺したものである。傍目から見れば、居直り浪人生の立派な現実逃避。そして、あっさりと受験勉強そのものが放逐された。窓の下の通りから「あいつはやっぱり狂ったみたいだね」という声を何度か聞いたような気がした。生活しなければならないので、運送会社の助手、メッキ工場やガラス工場などでアルバイトとして働いた。正社員にならなかったのは、就業以外の時間を拘束されずに思索や創作に使いたかった。こう書いていても、若気の至りとはいえ随分と立派な冠をかぶった野良猫だった、と肌を泡立て大苦笑にならざるをえない。そんなことで、日常における浮世の認識とやらは、三本の如意棒を構えたような気になっていれば、発狂する手前でなんとか踏ん張って擦過していった。はたして数学そのものとの関係はどうなっていたのか?カッコよさとか知的憧れのような観念の爛れの裏に隠れていただけのことじゃないのか?正直なところ、小説を書いているということと同様に、例えば「リーマン・ヴェイユ予想の解決」という活字を凝視している自分を、他人に見られることは身の毛もよだつことだった。謙虚な自分がいたわけではない。午前にフーリエ変換のひとつを読解しきってみても、午後には他人がくれる缶ビールの一缶のためならば級数の収束など喜んで捨てる自分を実感していたからだ。確かに恵まれた今生の私は、人はパンのみによって生きるにあらず、と呟くことはできる。しかしこのパンのみによらない世界は、憧れるだけの中途で計算を投げ出して呪詛してばかりいる輩に辟易しきってもいる。そういう輩はだいたい「ぽわーん」とした田舎者が多い。ガウスやワイエルシュトラースが寒村出身だと知って、清貧さが修道院僧のような彼らの数学の練磨を導いたと想っていた。しかしアーベルは…ノルウェーの寒空の下での若い死は想うも嫌だった。北欧の美しい白皙の数学者の死などは、極東の都会で神経症に陥っている浪人崩れの田舎者の妄想だと言い聞かせた。「もう頼むから俺を放っておいてくれ」と言いたくなっていった。思索や創作は麻疹のような一時的な病で、ポアンカレ狸の「森で迷ってみなよ」とした耳元の囁きも、大人ぶった苦笑に強引に投げ遣りにかき消されていった。
 それでもポアンカレは、数学は私から離れなかった。平成七年、曲がりなりにも小さな商事会社の大阪支店長になっていた私は、フランクフルトの化学メーカーへの出張の帰りにパリへ寄った。初めてのパリだった。中年男が痺れたように東京はむろんドイツの都市とは違う別世界だと痛感していた。ひたすら歩きまわった。その頃はバルザックに心酔していたのだが、革命の記念碑とかエッフェル塔などの名所はどうでもよかった。この石畳を蒼ざめたガロアや気取ったコーシーが歩いたのだ。学士院へ向かう橋の上では、小太りなフーリエがぶつぶつと独り言を呟いていたかと想うと、若者のように小躍りして擦れ違う人にハイタッチしたかった。そうだ、この歓喜はエコール・ポリテクニクのパリ、数学の都パリにいるからだ。ポアンカレは「科学と方法」で「突如として啓示を受けることはある。それは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示している」と言っている。ポアンカレが言うこの「数学的発見における精神活動の関与」と、日本人の中年男の感激を一緒にしては甚だ申し訳ないが、人にはそれぞれ神仏のごとく尊崇する認識があるのだとしたら、私は数学にポアンカレ狸(いい加減な日本人だから狸のままでいいのだ)に感謝しなければならないと思った。調子にのってナンシーまで行ってみようか、とまで思案しはじめていた。医科大学教授ポアンカレの放心息子アンリが、そこで産声をあげて不器用さをからかわれながら育った大聖堂の町なのだ。ああ、しかしセールの「数論講義」を途中で投げ出したニッポンの猫背な小父さんには一日とて猶予はない。そして私は何とか大人の男になっていたのだろうか。学士院の方からセーヌを渡り戻るときに言葉が浮かんだ。
「無意識だったかどうかは分からんが、アンリよ、若いときに夢中になるなら数学だよなあ、実存主義もいいけれど、やっぱりトポロジー、やっぱり数学だよなあ」
 平成十五年、グリゴリー・ペレルマンは一連の論文でポアンカレ予想を解決した。私の耳の端にも解決のニュースは引っ掛かったが忙しさにかまけていた。すると検証後に与えられた平成十八年のフィールズ賞受賞をペレルマンが無視しているニュースが追いかけてきた。暇なときに関係する情報を集めていると、二十歳の自分が「3次元ホモトピー球面は3次元球面に同相だ、なんていう直感的に分かりそうなことを証明できないわけだから、人間っていうのは本当に厄介な生き物だなあ」と言っていたことを思い出して独り笑ってしまった。しかし一連の騒動のおかげで私はサーストンの幾何化予想を知ることができた。具体的に幾何化できるものを、組んず解れずしながら甲虫を一匹一匹拾うように「ぽわーん」と提示しちゃったのだから凄い、と久々に寝つくまで興奮していた。そしてペレルマンよ、たまには湿気たロシアの森から出て来なさいよ。君が頑張ったことは君が思っている以上に多くの人間が知っているのだ。そして君は先々、森の茸にはなれるかもしれないが、数学そのものには、神々にはなれないのだ。神々に近づくには、アンリのように市中にあって衆愚の傍らで思考し続けるしかないのだ。おそらくそれは世紀の問題を解決した数学者から、世紀の問題を提起した大数学者へ変貌する道だろう。そして天才じゃない私たちは、あんまり苛立たずに、時として大人ぶらずに、数学の森で迷ってみましょうよ。

                                       了
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