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Pusan   Vladimir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 ジェイムズ・モリソンは六十六歳になっていた。退役してから十数年が過ぎたように感じられた。ここ釜山のアルファベット表記も、もはやPUSANではなかった。
 影島へ架かる橋には、三台の羊歯草色の軍用トラックが流れていくところだった。厳めしさはあまり感じられない。南港の彼方には遠のいていくばかりの積乱雲があって、午後の満腹感が水産市場のある南浦洞界隈に居座っていた。
 トレイシーの憤懣もシャワーの飛沫に霧散していったようなので、ジェイムズは老眼鏡をかけて財布の混雑を整理しはじめた。エンとウォンを扱くように分別して真新しいドル束を今日も確認する。そして使用する機会もないVISAカードの下に紙片を見つけた。失敗して処分されたコピー紙の裏には、中国語の看板のようにきちんと並べた日本語と、豹変したかのように書き慣れた電話番号が走っている。ジョンストン大尉の器用そうな指使いが見えるようだ。元上官へ紙片を渡したときの大尉の笑顔が明滅した。
「まったく、物価の高さといったら一般人じゃやっていけませんよ。そこで倹約家のモリソン大佐へお勧めの宿はここです。従兄弟の息子が日本に来た時に随分と探したようです。アサクサっていう地区なのですがね、日本らしくていい街ですよ。上野、UENOという駅に着いたら電話してみてください」
 ジェイムズは掌の中で丸められるコピー紙の断片の感触を味わっていた。
 東京には何があったのだろう。
 裏通りに面した畳敷きの慎ましさに、旅費の節約がなったと思ったのもつかの間、トレイシーが大尉の奥方に紹介されたスキヤキの店は、凄まじい砂糖と脂肪牛肉が、悪質なコレステロールを狂喜させて、フクザワという偉人が睨視する紙幣が無愛想な顔のまま財布から出ていった。牛肉に連なる繁栄の証は試しに乗った電車にもあった。座っている乗客は老いも若きも殆どが目を閉じていたのである。無情な感慨そのままに墜落した軍用機の屍骸群を思い出してしまう。アメリカ人にとって日中の東アジアの人間は眼鏡の下で寝ているように見える。ジョンストン大尉は「夜になると猫のように厄介ですがね」と言って苦笑してみせた。寝ているように見える黙考あるいは機略なのだろうか。あれほど安堵と倦怠を装えるものだろうか。目的地に着けば速やかに乗り降りする、とりわけ畏怖せず、とりわけ微笑まずに。四十年前、ここ釜山から日本の立川へ飛んで降り立った時、疲弊している大柄のニューヨーカーに、日本人の誰もが見よがしに微笑んでくれたものだった。今となっては微笑む必要も焦燥もなくなったのだろうが、確かに彼らは微笑まなくなっていた。
 日本の記憶が寝入り端のように薄乱しかけたとき、トレイシーが黙考している夫を伺うように出てきた。脚線美を強調するようにバスローブを上げ気味に結んでいる。望まなかった旅のやるせなさも、元バレリーナの姿態を崩すものではなかった。
「考えていたんだ、ウェールズの秋、カーナーボンの秋はきっと素晴らしいだろうと。そこで君の詩を聞きたいものだ」
 四十歳になったばかりの妻は、少女のように俯いて唇をほころばせた。いつものように老いた夫の腕の中に身を寄せる。自分をも含めた外界から、過敏な彼女を守ることが夫婦生活である、とジェイムズは己に言い聞かせてきた。

 ローウェルの繊維工場の親方の家に生まれ育った典型的な優等生は、日本軍の真珠湾攻撃に憤怒して、ウェストポイントを究極の学校として選んだ。いよいよ最前線に投入されようとした時、原子爆弾の二発でジャップは降伏した。ところが太平洋から目を背けてまもなくに、彼の生涯の地図としてマンハッタン島の次に記憶される朝鮮半島が緊張する。彼は最初の妻を娶ったばかりだったが、情報を整理すべく東京に配属され、二週間後には佐世保にて準備させられた。勃発後は仁川上陸から縦横に転戦する。板門店の講和が成立した翌年にウェストポイントへ呼び戻された。最初の妻が精神病院に入ったのは、それからしばらくしてからである。その妻が十四年前に自殺した直後にトレイシーが現れた。
 トレイシーはウェールズのスウォンジーの庭師の次女である。王立バレエ学校に憧れてロンドンへ上がってみたものの、ウェイトレスをしながら個人レッスンを受けて煩悶していた。友人の兄がスクール・オブ・エコノミクスへ通っていて、夕食を伴にした時に遊学していたロチェスターの銀行頭取の息子にみそめられた。バレエも英国も静謐も捨てて大西洋を渡ってみたものの、姑の圧倒的な存在に神経衰弱に陥ることになる。離婚してからはリバーデイルの叔父のもとに身を寄せた。詩作の仲間のパーティーに招かれているうちに、包容そのものといった大柄で幾分寂しげな軍人と知り合う。ジェイムズは彼女の詩に横たわる虚無に涙した最初の男だった。
 トレイシーはすでに目を赤らませていた。
「あたしがわがまますぎるのよ…あなたにとって国連墓地がどんな意味を持つのか知っていながら…」
 ジェイムズは紅の落ちた唇に指をあてて制した。
「慌ただしい旅は僕たちにはむかない。それに…生きて動いている蛸を、きみに食べさせようとした私が子供っぽかった」

 ジェイムズが投げ出すように寝てしまったので、トレイシーは机上の簡単な冊子の表紙を飾っている竜頭山公園へ行くことに決めた。夫に目的があればこそ、可愛い妻にとって定まりの観光は我が侭な好材となる。子供を持たない女が街の喧騒に惹かれぬはずはなかった。
 夫への伝言を残して、エレベーターを降りきった時、ホールへ曲がって来る小柄な老人と目が合った。盧(ルゥ)だ、あたしはついていない。あたしはアジアを好きになれない。盧明寛は空港から国連墓地に付き添った退役軍人である。偏平な顔相にたなびくような顎鬚は中国の賢者を思わせる。股間にとどいている派手なペイズリー柄のネクタイがトレイシーを怯ませた。
「モリソン夫人、アジェが見つかったと御主人にお伝えください」
 トレイシーは流暢な米語に頷きながら、自分の肩ほどまでしかない老人を冷ややかに見下すことにした。
「主人は疲れたので休んでいます」とゆっくり英語らしい発音を吹きかけた。「私は出掛けるところなので、戻ったら伝えましょう。ところで、そのアディって言うのは軍事機密ですの?」
 盧は躊躇なく爬虫類のような眼のまま答えた。
「アディではなくアジェ、アジェとは聖なる女子を意味する韓国女性の名前です」
 トレイシーは迂闊にも怒りを覚えた。
 老人はエレベーターの上昇スゥイッチにゆらりと細腕を伸ばした。
「部屋へもどりましょう。いかなることがあっても、患って寝込んでいても、早急にお知らせすることになっているものですから…」
 右端の箱が猛烈な勢いで最上階から降りてきた。左端は三階で止まったままである。真ん中が地下から悠然と上がって開いた。
「公園を…公園を案内してくださらない?」
 彼女の言葉はロチェスターで身につけた響きに変わっていた。
「わたしもこの歳ですので、滅多なことには驚かなくなりました。それでも…それでも、女性の自殺の原因として、十人のうち九人までが男性との悲恋物語らしいのです。女は愚かなもの…特にキドゥニー・パイも焼けない詩ばかり書いている愚かな女は、耳を塞げばよいことも、敢えて聞きたいものなのです」
 盧明寛はうな垂れように吐息をついた。ネクタイを掻き毟るように外して英語を置きはじめた。
 トレイシーは車が公園に入るまでに、アジェ(聖子)が釜山に駐留していたジェイムズの隊の人気者だったことを知った。
 中尉になったばかりのジェイムズの許に、 一週間に一度の割合で蝋紙の包みが届けられた。中身は大抵は鶏肉か山菜である。一度だけ牛舌が届けられたことがあった。ジェイムズの隊を港の市場で、さらに山中の教会でねぎらった少女、それが「アジェ」だった。強壮そのものだった米軍士官も、チョコレートを受け取って喜ぶ「聖少女」に和まずにはいられなかった。
「アジェの母親が包みを持ってきたらチョコレートを渡してくれ」
 ジェイムズは多忙を極めるなかでも、神父が言う「聖少女」への気配りを忘れなかった。 
釜山から立川へ飛び去る時、見送りの中に畏れていた神父たちの一団があった。アジェは誰かに仕立ててもらった若葉色のワンピースを着ている。感極まったジェイムズの涙声を、神父たちが正確に伝えられたかは不明だった。
「とても奇麗だよ。僕をさしおいて誰が作ってあげたんだい?いや、聞くのはやめよう。僕は、妻もいる、チョコレートおじさん。十年後、二十年後になるかもしれないが、痩せていないアジェを、チョレートを食べ過ぎて丸々と太ったアジェを見にくるよ」
 トレイシーは李舜臣の像を仰いで、夕凪に吹かれるブルーネットをかきあげた。一気に話し終えて咳き込む老人の背中を摩る。通り過ぎる若い男女たちが、二人を訝しげに見て行った。
「ジェイムズったら…あの恐い大佐が、チョコレートおじさんだったなんて」

 ジェイムズ・モリソンとアデこと兪聖子の感動的な対面の場は、市内の軍付属病院の窓外の木立も美しい個人病室だった。
 子宮癌と診断されていたアジェは、薄く化粧して眉毛をひかれて、軽やかな歯音たてて胡瓜を頬張りながら外を見ていた。母親らしき老婆が、純白のパジャマ姿の娘のベッドの傍らに、昨晩に買い求めた真紅のだぶついた運動着姿で、漬けたばかりのオイキムチが入った丸底のポリエチレン容器を持って座っている。定刻になると、小百合の花束を抱えたトレイシーを入口で促しながら、ジェイムズは小箱を持って巨体を折り曲げるようにして入ってきた。夫妻も母娘も充分に目を細めている。泣かぬ者はいなかった。盧による手際よすぎる配慮は、すでに軍関係者や報道陣も待機させていたが、ジェイムズとアジェの会話を聞き取れぬ者も鳴咽し続けていた。
 こうしてモリソン夫妻のPUSANでの休暇は慌ただしく過ぎていった。

                                       了
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