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Cocolo   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 悟(さとる)は新薬師寺の畳に正座していた。顎先から干上がった潅木のような右手甲に、うたた寝のよだれのような粘ついた汗が落ちた。目の前の邦子は、真夏でも相変わらず涼しい面立ちだった。
「待ちに待った年寄りの冷や汗だな」
 ココロがそう言った。ココロは「COCOLO」である。松尾の鈴虫寺の石段を下った茶屋、そこでコーヒーを啜っているときに「COCOLO」というスペルが浮かんだ。ココロは悟にとって偉大な発見だった。ココロは永らく顳かみに巣くっている京都で言うタニコである。一般的にはダニ、漢字では壁蝨やら蜱やら蟎とか厄介なものになる。呼び方はともかく、ココロ自身が壁蝨だと言っているのである。それは悟本人が鏡を見ても、他人が禿を探すように白髪頭を掻き分けても見えはしない。しかしこの十一年は、明確に巣くっているココロを感じていた。
「それにしても、もともと誰とも関わっていなかった、とは醒めた言いようだ」
 ココロはそう呟いたかと思うまもなく、些か慌てて顳かみから鬢へ下りてきた。そして糸屑のような舌をのばして汗を吸う。ひとつ、ふたつと数えた後で、やはり潤った講演者よろしく囁いた。
「そうだった…海の始まりは、他人が見て解しかねる、不穏な冷や汗のにじみに似ている。何故に苦痛の代償として、微小な海が生まれるのか。あらゆる海が、あらゆる汗が、そしてあらゆる生が、腐食した昆布のような長大で薄茶けた二文字、徒労という二文字が漂いはじめるのを待っている。赤子のよだれも、断末の冷や汗も、等しく徒労を予感させる海の始まりなのだ」
 悟は唸るようにして、左の鬢の汗を押さえた中指を、悠然としている邦子(くにこ)の方へかざすようにして突きつけた。
 ココロは左の後足で顳かみを叩いて悟に強く言わせた。
「汗の輝きを見てくれ。このぬめりに、存在のしたたかさを見てほしいのだ」
 邦子は老婆らしく崩れるように腰をひねって、形のよさが残る鼻を天井へ向けた。かつて悟をときめかせた黒真珠のような瞳に、白髪眉が寒々と影を落とす。何を見ているのだ?何も見ていなかった邦子は、ほろりと呆れるように言った。
「人は変わりゃしませんなぁ、そんな芝居じみたとこ」
 悟はあんぐりと口をあけてしまった。ココロは危機を感じて、左の前足と中足を目尻に突き立てようとした。しかし間に合わない。悟はココロを背後に打棄るように反った。そして膜を破ったような哄笑がおきた。しばらく膝を叩いて、追われる老猿が歯をむくように、醜悪の極みなる笑いが続いた。
 邦子が立腹して立ち上がるまでに、三度顔を変えるのをココロは見た。まずは怪訝そうな顔が、藪の奥から覗くように焦点に収まった。それは出会った六十年あまり前の遠乗会の顔だ。女はさも性に不意打ちされたように、己が存在の端緒に迎合せざるえない。次は先程十五分前の顔、泰然を慌てて繕ったような顔が続いた。不安にファッサードを下ろすような時、そこに人間の顔などあろうものか。そして、境内で破水してしまった孕み犬のような思い詰めた顔。あれはあの時の顔だ。悟が邦子を奪った昼下がり、五十五年前の夏休みの図書室での、大いなる喜悦の後に廻ってきた顔だった。
 悟は畳の縁に縋るようにして立ち上がった。ココロは二本の後足で踏ん張り、残り四本の前中足を顳かみに連打して悟に言わせた。
「おっしゃるとおり、塞兎尼(さいとに)さまが仰るとおりです。私はあなたの中には、いなかったのかもしれません。しかしどなたもいなかったのだとしたら、塞兎尼さまも、いや、目の前の清水邦子も、いなかったのでしょうか?」
 邦子は引きずった足を止めた。そして咽かえるような日盛りの夏の庭に、捨て身の虎視を投げた。
「ぼけた、と言わはりたいのでしたら宜しゅうに。もそっと、何て言うか、その…明晰な方やと思っておりましたのに」
 悟には殆ど聞こえなかった。しかしココロは認識のために、邦子の言葉を甲殻の頭で何度もくりかえす。認識のために?禅尼となった在るがままの邦子、彼女に認識は不要になっていた。ココロは大きく息を吐いた。悟は倣って深呼吸する。薄暗がりの中で、形相をも吸い込まんばかりに、ひからびた唇は決意しようとしていた。
 邦子は漆喰に照る白光に目を細めて言った。
「怒らんといてくれやす」
 ココロは言いかけた牙口を左前足で抑えた。悟が感ずるがままに行為させる。それは認識の放棄に繋がるかもしれない。しかし存在をかける最悪のときには、認識が目を瞑らなければならない予感というものがあった。それは殻を破り出る前から、壁蝨のココロの腑虫のようなものであった。悟は歩きだしている、老いてはいたが。そして摺り足で邦子へ近寄っていった。
「お庭はこんなんでしゃろうか」
 邦子はそう言ってから肩を落とした。
「ここはこんなもんやろ、禅寺と比べたらあかんわ。そやけど、おんなじ臨済宗でも、どこでも、庭ひとつ維持されはるのは大変でっしゃろぅ?」
 振りかえった邦子の目は、遠乗会の出会いのそれだった。ココロは左前足に牙をたてる。そして悟もココロも、同時に遠雷のような嘶きを聞いたような気がした。そのままココロの牙は、左前足を噛み砕き落とした。
「どないしやはりました?」
 これが新薬師寺で言った邦子の最後の言葉になった。
 悟も地上で最後となる女の袖にふれた。乾いた濡れ紙のように軽い。薫りは意外に樹皮香だった。邦子は逆らわなかった。古樺のような頬の上で、最後のおののく眼差しを見せる。悟は彼女の骨をしっかりと掴んだ。ココロは右前足をしっかりと突きたてる。悟と邦子の目が爛々と接近した。ココロは伸び上がって硬直が繋がる瞬間を見る。邦子は掴みかえした、応ずるように。ココロは右前足を弾くように浮かしてみる。落ちるしかなかった。万が一に、悟の肩から邦子の袖へ滑り引っかかる、そのようなことはあるだろうか?どちらにしても悟から離れれば、足の一本足りない甲殻虫にすぎない。
 悟は邦子を引きずって行った。雛が集まっていたように軋み鳴っていた廊下が、息を潜めるように止んだ。靴と草履にはきかえるときには、互いの手を毎度のように許していた。
 ココロは痺れた頭をやっと上げてみる。つや光の廊下の上は眩しかった。
「なんや蜘蛛かいな?これは…タニコや、赤いタニコや、気持ち悪ぅ」
 住職が眼鏡をかけなおして見ていた。潰すわけにもいかないようで、摘んで捨てるしかないかと思案する。悟がお堂の方を指して怒鳴ると、住職は塵のようにココロを軒下へ指で弾いた。そして懐中の鍵を探しながら二人を追って行った。
 悟と邦子が、十二神将を堪能して出てきた刻、庭は深々と虫の音に満たされていた。

                                       了
手長姫 英霊の声 1938 -1966 (新潮文庫)

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