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阿蘭陀you   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 運河沿いのヤッコの店に、ルート・ファン・マーネンが立ち寄って昼食をとったのは、五月下旬の雲が早く流れる日だった。
 ルートは席へ案内されてから隣りの卓の婦人二人に気がついた。階下に住むファン・ノルド夫人とレース編み教室の校長である。ご婦人方は叱責されたかのように黙ってしまった。ルートは小波が聞こえてきそうなほどの静けさに蝕まれて苛立ち、ヤッコの妹を呼びつけて慌しくチーズとハムを重ねたキッシュを注文する。食に執着しない質ではないが、女性が卑近だと注意が散漫になり選別する判断力をなくしてしまうのである。たしかに彼は小柄でいつも陽に萎れたような顔をしている。しかし見劣りすることばかりが彼を憂鬱にさせるのではない。
 ルートの母は日本人だった。彼女たちは早ければ五分後には、日本ないし日本人について話しはじめるだろう。
 二人ともアスパラガスのキッシュを食べているが、次はインドネシア料理店で海老を使った料理を食べよう、などと節操もなく話題を歪曲させて、オランダの過去の酸臭が互いの利得脳を刺激するまで待つに違いない。
 実はうちの祖父がスラバヤ郊外に農園を持っていたらしいの。うちの祖母はマラッカで教員をしていて牧師だった祖父と出遭ったらしいの。ロマンティックな時代ね。熱帯の美しい島々らしいわ。
 そこへ日本の軍隊がやってきた。国家の利益も個人のそれも総て奪われた。中国人のような顔かたちで、英国人のように機略に敏で、独逸人のような心身の堅牢さを尊崇している、憎むべき日本人。
 ルートの父ファン・マーネンその人が苦労絶えない人生だった。アルクマール近郊の農民の三男に生まれて、市場で袋の人と呼ばれるチーズ仲買人に憧れていた少年は、ジャワ島の蝋染め更紗や木彫り細工を扱う男に可愛がられる。この男はロッテルダムとハーレムにも住いを持っていたが、裏社会に通じていて大量の大麻を仲介していた。ファン・マーネンも気がつくと幹部の一人になっていた。やがて警察当局の摘発と検挙を度々うけることになって、出たり入ったりの後にアジアへ逃亡する憂き目となる。独立後まもないインドネシアでは、通訳や偽造文書作りをしながら隠れ家を移り替えた。最終的にはロンボク島で宿泊を兼ねた観光案内を営んでいたが、植物の調査に来ていた大阪の薬科大学院生だった女性と結婚する。妻となった日本人女性が出産して男子をもうけてみると、我が身を省みて子には正規な教育を受けさせたくなるのが人情で、母子をなんとか故郷アルクマールで生活できるよう取り計らった。そして父ファン・マーネンは、故国での妻子の落ち着きを見届けると、破荒を極めて自滅するようにチモールの騒乱に首を突っ込んで、流れ弾を迎えるようにあたって客死した。
 母チカコは旧姓、島根千賀子といって羽曳野の医者一家の次女である。しかし数多い経営と蓄財を玉条とする医者一家と違って、宗教的な背景もなく在野と奉仕を旨とする家柄であったので、チカコも二十代を漢方の生薬材料の採集と分析に費やすといった女性だった。この少々奇矯な娘が三十半ばになってロンボク島へ渡ったときである。島で世話になった疲弊して哀愁そのもののような中年のオランダ人を忘れられなくなった。二人はジャワの神々に祝われて婚姻し翌年にルートが生まれた。
「この国ネーデルランドは母さんの父さん、日本のあなたの祖父さんに似ている。探求心が旺盛で屈託なく世話好きなので誰からも好かれるけれど、町育ちで誇り高くて金銭に敏感な妻にいつも小言を言われて疎んじられている」
 母は息子に何度もオランダと日本の関係を可笑しそうに語ったものだ。
「この世界は、およそ百年前までは現地お構いなしの略奪ゲーム。今でも年配者から耳にするのはインドネシアを失った恨み節。でもね、およそ二百年前の日本は随分とこの国と仲がよくてね。この国の知識そのものがユーロの知識、特にあたしの生まれた家のようにmediciになろうとした人たちは熱心にnederlandseを学んだらしくて、想像してみて、ちょん髷、そう相撲レスラーのような頭をした人たちがkinderenのように学んだらしいわ。今もそうだけれど、この国と日本は、父さんと母さんが疲れ果てて出会ったときのようにお互いさま。ちょん髷の日本人がZij vergissen zich と言って笑われたように、この国の商人たちも商売を続けるために、脱げと言われれば脱いで、踊れと言われれば踊ったらしくて、ここ、この長崎という港町にはOlanda you という言葉があったのよ」
 ルートは母が書いたアルファベットの紙切れを、日本の観光案内書の「長崎」の頁に挟んだままにしてあった。
「そうね、観光なら行ってもいいけれど…日本で働くことは勧めないわ。東インド会社も逃げ出す日本よ。お父さんとお母さんの息子であるルート、あなたが日本で働くことは勧めない。お父さんもロンボク島あたりまでの冒険だったのよ、お父さんの身の丈に合ったね。日本じゃ生活できなかった質よ。そうね、二百年前だったら生活できたかもしれない。誰かが転ぶと、子供たちが『おらんだのようじゃ』と言って笑っていたらしい、二百年前の長崎だったらね」

                                       了
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