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神と憐れみと慈悲の敵   Vladimir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 イワン・プラトノヴィッチ・ボブリャノフ警部は、長官から直々に手渡されたワレリー・モロトフの顔写真を訝しげに見ていた。かつて大統領だった酔っぱらい白熊に酷似している。しかし笑みを漏らしている時ではない。あと十分もすれば、この金髪碧眼で大男の屑野郎に取調室で向き合うことになる。イワンは軽く舌打ちするとモニターの画面へ流し目を上げた。
 画面のそこはチェチェン共和国の東部の小都市グデルメス、瓦礫を転用した戦没者慰霊碑は紛争後のものだろうが、花を手向けている男は中国人のようにも見えた。実際は竹之内瞭(あきら)という元自衛官の日本人だった。戦場カメラマンとか物好きなジャーナリストなら見逃されただろうに、軍事訓練の経験者とは、なるほど厄介な構図に見える。そして次の画像は若かりしワレリー・モロトフ、彼の両脇で一緒に写っているのは竹之内と姉の美恵、背景は日本でも有名な御茶ノ水のロシア正教会らしい。この姉がシベリアでダイヤモンド公社を巻き込んだお騒がせ日本人、彼女は在職していたオクト・ワグネルから見限られて2009年に関西空港で不審死に至っていた。その弟が今になってグデルメスに現れたからといって…イワンは弾くようにモニターの電源を切った。
「ワレリー・クロコヴォビッチ・モロトフ、今年で六十四歳になります。出身はここサンクトペテルブルグ、もちろん当時はレニングラードで、チェエルヌイシェフスカヤ駅に近い今はなくなってしまった連邦公団住宅に生まれました」
 イワンは遥か南のロストフに生まれ育ったので、モスクワっ子とペテルブルグ気取りを斜に構えて見る癖があった。
「モロトフさん、あなたが東京の東武練馬の駅近くの店で定期的に会っていた、自衛官という軍務についていたタケノウチ、覚えておいでですよね?」
 イワンはそう言いながらチェチェンでの三枚の写真をさらりと並べて見せた。
「これは…どこですか、ペテルブルグではないし」
 イワンは一枚がグロズヌイの街頭で、二枚が「悲しい」グデルメスのものであることを告げた。
「ええ、はい、この日本人…そう、タケノウチから情報を得るべく…そう、東武線の練馬の駅で降りて…正確に申し上げましょう。私は1984年から1988年までの4年間、外国語学校のロシア語教師として日本へ入国して、ご存知のように、ソ連国家保安委員会のジダーノフ大尉の支持指導のもとに、日本の軍部にあたる自衛隊…そう、朝霞駐屯地に軍務していたタケノウチに接触していました」
 イワンは揉み手をしながら首を傾げるようにして微笑んだ。
「モロトフさん、我々は何もご存じないのですよ、KGBのことも、日本という国のことも」
 六十四歳になるワレリーは、微笑み返しながらも手汗を感じていた。
「ええ、そう、私がまだ諜報活動に慣れていなかったということもあったのでしょうが、アキラは、そう、アキラ・タケノウチという男は、情報源としては的が外れていたようでしたね、つまらないものばかりで」
「例えばどのような?」
「例えばですね…たしか市ヶ谷、市ヶ谷という所に総監本部のような部署があって、そこのお偉方の健康診断の結果ですとか…そうそう、朝霞駐屯地の三尉だったかな、射撃も格闘も超一流の三尉がTVに出演したこととかでした」
 イワンは大袈裟に何度も頷いてから閃いたように天井を見上げた。
「なるほど、それなら彼の姉、オクト・ワグネルに在職中だったミエ(美恵)からの情報の方が、はるかに千金に値した、ということですか?」
 ワレリーは「美恵」の名前を聞いて畏怖するように仰け反った。
「それは順序として…そう、タケノウチに直接に接近するのは困難以上に愚行でしたから、上からの指示どおり、シベリアなどの金属を実際に売買していてロシア語に堪能な商社勤めの姉ミエに接近して…そう、半年くらい経ってからですね、自衛官である弟アキラと面識を持つことができました」
 ワレリーは咳払いしてから腹を括ったように両肘を机上についた。
「今日、呼び出されたのはミエが起こした事件、あれに連座していなかったのか、ということでしたら」
「私も先週から殺人事件を二つ抱えている身ですから、上からの指示どおり、弟アキラに関係したことだけをお聞きしましょう」
 ワレリーは拍子抜けしたように両肘を落として目尻を下げた。
「このアキラは写真のとおりにグロズヌイとグデルメスを本人曰く観光しています。ただ日本人であり、軍事訓練を受けた元自衛官であり、何よりも問題となっているのは、ベラルーシの中立的な新聞社の取材に応じていることです」
「それが私と…そう、世間にも疎くなっている私と、今頃になって、どんな関わりがあるというのでしょう…」
 イワンはまた大袈裟に頷きながら窓辺へ立った。ヴァシリー島に渡る宮殿橋が渋滞している。事故でもあったのだろうか。
「唐突ですが、あなたはロシアを愛していますか?」
 沈黙が待機していたかのように、そして使い慣れているかのように置かれた。
「そうですね…今となっては難しい質問ですね」
「なるほど、私も六十を過ぎたらそんな言い回しをしたいものですな。ところで、このアキラの右腕、上腕に日本語の刺青が施されている。グロズヌイでの身体検査、そして取材に応じている際に本人が披露していて、自慢そうにロシア語で『神と憐れみと慈悲の敵』と読み上げてくれた。どうしました?」
 ワレリーは茫洋とした眼差しを上げた。そして芝居がかった震える手つきで両の側頭部を押さえた。
「神と憐れみと慈悲の敵…」
「ええ、自衛官時代にあなたから教えられたと言っています。何の意味ですか?」
 ワレリーは側頭部を押さえていた両手を頬まで下げてきてから警部を見上げた。
「彼は危険な人物です。そして彼は危険な日本人です。そう、シラーのヴァレンシュタイン、ヴァレンシュタインをご存知ですか。有名な傭兵隊長のヴァレンシュタインですよ」
「傭兵隊長?」
「そう、傭兵隊長ヴァレンシュタイン、彼がやったことは、強盗、殺人、それから強姦、あとは…神への嘘の誓い、そして自身の鎧にその言葉『神と憐れみと慈悲の敵』を刻みいれていました。こういう男が現実にいたことを彼に、アキラに教えました」
 イワンは若いころにグジェリで老婆を審問したときを思い出してしまった。
「それはまた…ロシア語教師が自衛官から情報を得るうえで、どういう経緯でそんな話になったのでしょう」
 ワレリーは警部の憐れむような目尻に微笑むしかなかった。
「私は焦っていたようです。あの頃、そう、ソヴィエトがなくなったら、祖国が解体されたら、私は帰国を命令される…そう、私はいっそのことロシアを捨てて、日本へ帰化することも考えていました…」
「それで傭兵隊長は?続けてください」
「彼は、アキラは、姉ミエの影響もあってか、ロシアへ渡りたがっていました。当時の連邦の状況を知る者なら、考えてもみてください、狂気の沙汰もいいところです。しかしアキラは、日本の安穏とした現実に飽きていたのでしょう、日本から遠い大陸の戦史にロマンを見ていたのです。そして私がヴァレンシュタインを語ったとき、アキラの目は驚喜で輝いていました」
 イワンは取り逃がしたときのように荒れた拳を机に置いた。

                                       了
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