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フォーキオンの噂   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 十三歳のアレクサンダーがいた。十三歳の少年というものは、生き急がなければならない往時にあっても、やはり十三歳の少年であったのではないかと想い、彼らの生意気な喋り合いの戯曲に乗り出してみる。往時の最高の学び舎にあった王子と取り巻きたちに翳をさすのは、いつの時代も父王とその取り巻き連中である。そして彼らの父たちの怒りと憂いについて問えば、答える学び舎の師が優れていればいるほど、師に爽快な村娘のような嘲りを期待することはできない。すなわち、すでに優れた息子の野心を育むのは、いつも不機嫌な男にしか見えない父に他ならない。


 紀元前三四一年 初春

場所
 マケドニアの首都ペラの郊外高台 花盛りのミエザ学園

登場人物
 アルケ…アレクサンダー 十三歳
 貴族…プトレマイオス 十三歳
 アンフィ…ネアルコス 十五歳
 算術…ハルパロス 十一歳
 先生…アリストテレス 四十三歳

(中央に一脚分の間隔を空けて二脚の豪華に見える肘掛け椅子があって、上手側にアリストテレス、下手側にアレクサンダーが会話の途中の黙考に陥っている。アレクサンダーの右脇から離れて点々とストール型の椅子が三脚置かれている。上手からプトレマイオスを先頭にネアルコス、飲み物のコップを持ったハルパロスの順に登場してくる)
貴族 おお、アルケはやっぱりここにおられた。
アンフィ 声が大きい、こっちだ。
(ネアルコスはプトレマイオスの口元を抑えるようにして引っ張り、三人は控えめにアリストテレスとアレクサンダーの背後を回って、アレクサンダーの右隣からハルパロス、ネアルコス、プトレマイオスの順に腰掛ける。ハルパロスは恭しくコップをアレクサンダーに差し出す)
先生 なぜアルケと呼ばせているのですか?
アルケ ヘラークレースの幼名から、と言ったら笑われますか。
先生 なるほど…(ハルパロスがアリストテレスに飲み物は?という仕草をしたので首を振りながら)彼を、ハルパロスを何と呼んでおられるのかな?
アルケ マカタスの子ハルパロス、ハルパロスを呼ぶには算術の他に何がありましょう。
算術 (照れ笑いをしながら)私は幾何と呼んでいただきたいと申し上げたのですが。
貴族 アカデメイアからは遠い遠いここ、ペラにいる限り算術のままだろうね。
先生 いつも元気なプトレマイオスのことは何と?
アルケ (一気に飲み干して)ラゴスの子にして、気がつけば我がヘタイロイ(側近騎兵隊将校)として大声を張り上げるプトレマイオス、彼はとりあえず貴族と呼んでいます。
貴族 先生、我が王はペリントスとビュザンティオンをご所望です。
アルケ そして(ネアルコスをちらりと見て)アンドロティモスの子で、アンフィポリスに住んでいるネアルコスはアンフィと呼んでいます。
貴族 先生、エレトリアの蛇を追い出したフォーキオン将軍にお会いになられたことはありますか?
アルケ (右手を制するようにあげてから頬杖をつく)彼らが来る前に言われたポリティアについて…
(また言いかけようとするプトレマイオスの口元をネアルコスが難なく優雅に抑えこむ)
先生 そうでしたな、兄と弟の関係に原型をもつ共同がポリティアと言いました。
アルケ それは家族が共同に至る分かれ目であって、元々の家族の終わりになるので…
貴族 (大きく頷いて指を鳴らして)兄弟は他人の始まり!
先生 先走りしてはいけません。元々は家族だということを、父を同じくしているという事実から考え直さなければなりません。
(アレクサンダーは頷きながら振り返る。そしてプトレマイオスを見つめながらコップをハルパロスに渡す)
アルケ 算術、おまえもまた政治については苦い薬湯のように感じているのか。
算術 薬湯というよりも…葡萄酒と申しましょうか、男にとっての喜びであり、過ぎれば悪癖ともなる。
貴族 (ネアルコスの右こぶしを撫でながら)なんとも美しい、男にとっての悪癖とは。
アルケ そうだな、ほとんどの悪癖とは喜びに捕まることだろう。
貴族 (ネアルコスの右こぶしを扱くようにしながら)自慰そのものですな。
(ネアルコスが爆発したように笑い出して、プトレマイオスは両手でネアルコスの右腕を扱き、それを見てハルパロスは卑屈に笑い、アレクサンダーは微笑む)
先生 なんとも、諸君はお若い。(日の傾きを気にしながらゆらりと立ってから嘆息をもらす)いいですかな、私は政治学が倫理学の延長線上にあることを延々と説き続けよう、明日も、明後日も、アリストテレスに命がある限り。
(アレクサンダーはアリストテレスの帰りを先導するように、ハルパロスに顎を振って示唆する。ゆっくりとした下手への二人の退場をプトレマイオスが凝視し続け、それを見ながらアレクサンダーは己のほくそ笑みを右手で隠そうとする)
貴族 (立って日の方に左手を翳しながら)なんとも諸君はお若い。いいですかな、私は政治が倫理の延長線上にあることを延々と説き続けよう、明日も、明後日も、アリストテレスに命がある限り。
(またネアルコスは爆笑するが、アレクサンダーの様子を見て真顔になってプトレマイオスを引き下ろす)
アルケ 貴族が気になるのは…どうしてもフォーキオンなのか。
貴族 (ぎくりと振り仰ぎ)我が王の目の上のたん瘤ではありませんか?
(ネアルコスは大きく頷くが、アレクサンダーは反り返って下手の方を遠望する。間もなく戻ってきて入りかけたハルパロスに向かって、指を立てて呷る仕草で瓶物を持ってくるように示唆する)
アルケ 我が王とは…わが父のことを言うのだろうな。
アンフィ 貴族 言うまでもありません、マケドニアのフィリッポスさま!
アルケ (制するように右手を掲げて)父と息子の関係に、国家のあり方としての王制を関連づけるアリストテレスは、兄弟の関係にポリティアというものを関連づけてもいる。(舌打ちをして項垂れる)王政とポリティアとでは水と酒だ。
(ハルパロスが走って持ってきた瓶をアレクサンダーはしっかり受け取ってらっぱ飲みして、大きく息を吐いて瓶の中の液体を見つめる)
アルケ 父は何故、アリストテレスを呼んだのか。
アンフィ 誰もが認める随一の先生だからでしょう。
算術 戦術と戦略、それら以外のもの全てを教授できるのはアリストテレスだけなのでしょう。
(アレクサンダーはしばし目を閉じて黙考してから、唐突にプトレマイオスに向かって瓶を突きつける)
貴族 (走り寄って膝まづいて瓶を受け取り、素早く一飲みして)アリストテレス、あの先生からはデモステネスやヒュペレイデスらの情報を得ることができます。
アルケ アリストテレスからギリシャの情報を得ると…あの先生がだな、デモステネスやヒュペレイデスの馬術や剣さばきを語ってくれると思うか。
貴族 (瓶を持って逡巡とうろついてから意を決したように)大王が哲学や倫理学に興味を持って精通しようとしている、すなわち、大王が戦術と戦略ばかりに長けようとしているのではない、というところを見せるためでは?
アルケ 大王とは我が父のことか。
貴族 (瓶を投げるようにネアルコスに渡して)アルケ、あなたの他に大王がおられましょうや?
アルケ 大王か…私が軽口を求めないことは知っているな。
アンフィ (瓶をハルパロスに押しつけて)お許しください。ご存知のように、貴族は一般的な物の見方や考え方にいちいち反発したいのです。
アルケ それがプトレマイオスだ。アンフィ、今日は飲んでも構わないぞ。先生が帰られたら水は葡萄酒に取って代わられる。
(ネアルコスはハルパロスから瓶を受け取り、薄ら笑いのプトレマイオスを睨みつけながら一飲みしてハルパロスに返す)
算術 (瓶を舐めるように一飲みしてからアレクサンダーに渡して)思い出しました、我が王がエウボイア島から戻られた宴のこと。貴族が言った、最近は太陽と月が海から上り海へ下っているのではない、と思うようになりました、とのあれにはさすがに我が王も嘆かれました。
アルケ (声に出して笑い)そうそう、我がプトレマイオスが見事にエジプトのプトレマイオスを蹴とばしたわけだ。
貴族 (また逡巡とうろついてから)補足しよう。あの時は、前の晩に寝違えていて、葡萄酒の酔いが回ってくると、我らの海と大地が、昼側では太陽に向かい、夜側では月に向いているのではないか、と思ったのだ。
アンフィ (呵呵大笑)お許ひふぉ。
アルケ (ネアルコスが酒に弱いことは周知)今日は一段と早いな。
アルフィ (プトレマイオスを殴るように指して)こいつはヘタイロイとひての剣はからっきひで、その~口先だけのラゴスの子でしゅから。
貴族 ネアルコス将軍には葡萄酒、遥かペルシャのダリウス王にはビュザンティオンの娼婦。(ハルパロスを指して)どうだ、美しいだろう?
算術 それなりに。
アルケ (ぐびぐびと飲んでから)人にはそれぞれ好み、弱み、というものがある。なるほど、だから貴族は高潔の噂高いHo clestos(高士)と呼ばれる、我が父の目の上のたん瘤、フォーキオンが気になるのだな。
アルフィ (プトレマイオスの胸倉をつかんで)おまえは、俺がHo clestosだと?おまえはいい奴だにゃ。
アルケ (嘆息をもらして)そうだ、今の我らは恵まれている。酒好き、女好き、高潔さ、なるほど、人をして求めてやまないものなのだろう。
貴族 (ネアルコスの手を払って、逡巡しようと立って)整理しますと、フォーキオンの高潔さはアルフィの酒と表裏一体なのでは?
アルフィ 表裏ぃ一体なんだってぇ!俺がフォーキオンなら…(ゆらりとハルパロスを見る)フォーキオンが俺なら?
算術 フォーキオンがあなたなら、ミエザの井戸に走っていって桶いっぱいの水を飲むでしょう。
(ネアルコスは一瞬、理解できないでいるが、アレクサンダーが大きく鷹揚に頷くのを見て下手へどたどたと走り去る)
貴族 (ほっとしたようにしばらく逡巡して、小走りにアレクサンダーの足元に胡坐をかいて)フォーキオンは危険です。
アルケ (瓶をプトレマイオスに渡す)父は危険とまでは思っていないようだ。
貴族 我が王の和解策を受け入れるようアテネ市民に説いているようです。
アルケ 和解はデモステネスらが黙っていないだろうな。
貴族 そして我が王は向かってくるデモステネスらを破られるでしょう。
アルケ (飲んでいないプトレマイオスから瓶を取って)残るフォーキオンが危険だというのか。
貴族 高潔な者はアリストテレス同様に大王の好まれるところでしょうが、買収することが難しい者は大王にとっては厄介者となるでしょう。
(アレクサンダーはなだめるようにプトレマイオスの肩を軽くたたいて微笑み、一口飲んでから頬杖をつく)
算術 噂では、フォーキオンが笑ったり泣いたりしたところを誰も見たことがないそうです。
アルケ フォーキオンのようなギリシャ人は果たして珍しいのだろうか。
算術 難問です、ギリシャ人が我々よりも優れていると認めるように。
貴族 我々よりも優れているギリシャ人が、やがては我らの王に膝まづく、こっちの方が難問中の難問だ。
算術 その通り…おまえの詩才は駄馬にも等しいが、おまえの直観力はザンザスの蹄を想わせる。
貴族 おまえこそ見えているはずだ、フォーキオン然り、アリストテレス然り、ギリシャそのものが危険なことを。
アルケ (空になった瓶をプトレマイオスへ向かって放る)なんとも、私は恵まれている、お前たちがこうしていてくれて。
算術 大王の意欲が我らに意見させるのです。
貴族 大王の世界への意欲を誰が咎められましょうや。
アルケ (首を振りながらハルパロスに指を一本立てて瓶の催促をする)笑い、泣き、そして飲み続けるとするか。
(プトレマイオスは喜び勇んで下手へ向かったハルパロスの後を追う)
アルケ 参ったな…アリストテレスはよく聞いてくれる。しかしアリストテレスの知の広がりはエーゲ海の広がりほどにしか思えない。私は傲慢なのだろうか。傲慢なのだ。フォーキオン?やがて見ることになるフォーキオン。笑いも泣きもせぬ者が、この世の広がりを求める私の助けになるとは思えない、まして和解と安寧を求めるギリシャ人であれば。
(椅子から立って、下手のプトレマイオスとハルパロスに向かって手をゆらゆらと振りながら)まずは髪を伸ばしてみようか。

                                       幕
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