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小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka ブログトップ
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ファルーカに揺られて   Naja Pa Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 リィディアとグロリアのショア親子にとって、そこがアスワンの船着き場であれどこであれ、互いの消費効果の確認は欠かせないものだった。同郷人でも聞き取れないような母娘の早口舌戦を、エマは棕櫚の葉で風を送っていた召使のように静観しているしかない。だいたいにおいて、母娘が互いの財布を覗き込み合って支払いの記憶を遡るときは、どんなに親交の厚い友人隣人でも話しかけないことが鉄則である。
「あなたは、自分がリネットか何かになったつもりでいるから、気がついたら財布の中が薄くなっているのは当然よ」
「リネット?Death on the Nileのリネット?たしかにロイス・チャイルズっていう女優は嫌いじゃないけれど…撃たれて死んじゃうんでしょ?それじゃ、お母さんはあたしに旅先で死ねって言っているわけ?」
 娘リィディアの後ろに並んでいた母グロリアは、目尻を下げて後ろのエマへ振り返り、母親らしく引き際を心得ている笑みを浮かべた。
「ウォーリック出身の女ってね、本来は変に誇り高くて見栄っ張りなはずなのに、親子ともなると駄目よね、誇りも見栄もない請求と支払いの空騒ぎばっかり。エマは冷静だから…そもそも今の話の発端は何だっけ?」
「発端は…出てきた鳩が小さかったことじゃないかしら」とエマはいつもの放るような言い方をした。「ショア親子とあたしエマ・ウェインの最初で最後のナイル巡りなのに、あのハマム・マッハシの鳩は小さかった。リィディアが、鶉(うずら)なら鶉って言ってほしいって言うのは分かるわ」
「あたしが言いたかったのは」と先頭のリィディアは黙ってはいない。「Death on the Nileのリネットどころか、娘がウォーリックを卒業するまで働きづめに働いて、趣味といえばポアロやマープルの映画やTVしかなかった母を、やっとカイロまで連れて来れて…」
 グロリアは羽ばたくように娘の立派な胸を叩いた。
「乗船よ。あなたでつかえているわ」
 リィディアは胸を押さえて反転し、手を差し出している少年クルーを見て息を呑んだ。大柄な娘リィディアが慌てて乗り込んだ後に、痩せぎすの母親グロリアが続いて乗り込むと、エマの背後の方で囁くような笑いが点滅していた。そして慌しいショア親子が席を自ら決めるとなれば、ファルーカであろうがガレオン船であろうが、ともかく船首の方が空いていれば彼女たちの席はそこであった。望みどおりに母娘は舳先も近い右舷の最前席に就いて、エマも安堵したようにグロリアの左隣に座ることができた。連なるようにエマの左隣に座ったのは、ピンクのヘカブを被った猫の眼をした女性だった。
 ファルーカは優雅に軋み音をもって出航した。帆はなかなかナイルの川風を張らみきれず、船外機がついた小船に曳航してもらう遡上となった。リィディアの興奮は止まることなく、アガ・ハーン廟や中洲の水鳥を眺めながらも、母とDeath on the Nileの俳優談議に声を張りあげていた。
「失礼ですが、シースケールからいらっしゃったのですか?」
 エマは左隣から「シースケール」の発音を放られて顔を上げた。
「お話ししてもよろしいでしょうか…」そう言って彼女は眼差しの強さを恥ずかしげな俯きに抑えていた。「カイロに住むボライ・ビセミと申します」
「お話しは構いませんが、あたしが住む村をご存知なのは…」そこまで言いかけたエマは気づいた指先をリィディアに向けた。「ああ、彼女の声が大きかったからね、シースケールの学校のことは忘れてとか、シースケールの海よりも生命感に溢れているんじゃないのとか…あの辺にいらしたことがあるの?」
「いいえ、行ったことはありませんが…仕事上、耳にしたことがあるものですから」
「お仕事は?」
 ボライの目は眩しくなくなった大気をしばし泳いでいた。彼女の逡巡とした窺うような話し方が、計らいという以上の優しさにあることを下船のときに知るようになる。エマは彼女が勇を鼓せるように微笑んだ。
「仕事は、原子力エネルギー庁に勤めています」
「なるほど、それならシースケールはご存知なはずね」そう言ってエマは成績上位の児童を見るように目を細めた。「あたし達は声が大きいだけの観光客で…ご免なさい、エジプトの原子力利用のことは何も知らないの。ただ水が必要なことくらいは知っているから…この近くなの?」
「いいえ、二基ある実験炉はカイロの方にあります。伺いたかったのは、そこに住んでいらっしゃって…」
「心配はないかって?」とエマは察して言って肩を竦めた。「ご免なさい、あそこの小学校に赴任して以来、あそこの質問になるとだいたい察しがつくものだから。そうね…」
 ピーター・ユスティノフからMI5までを論じていたリィディアが割り込んできた。
「慣れるしかないわよね?ご免なさい、邪魔しちゃって、あたしはリィディア・ショア、こちらは母のグロリア、声が大きいだけじゃなくて耳も敏いのよ、嫌になっちゃうわ」
 エマはウォーリック時代の同好会Alien donutsで知り合って以来、リィディアの波長を制御して周囲に馴染ませる役を任じていた。
「村で生活しているという現実を、カーライルの窓辺のTVで見ていたら、慣れるしかないという憶測しか浮かばないわよね」
「エマ、怒らないで、リィディアは鳩の不満を撒き散らかしているだけなんだから」とグロリアは濃い口紅の唇を寄せてきた。
「鳩のことなんて言っていないでしょう?あたしだって気にはしているわ、その…エネルギーのことは」
「分かったわ。村に住んでいない人、そして村から十キロ以上は距離をおいている人、そういう方々は停電のときに大いに議論してみて」
 リィディアは法王が辺りを睥睨するように見渡して「鳩のことなんて言っていないのに」と呟きながら、船首で彼女の騒々しさに飽きれているような少年に目を移していった。
「あたしも彼女も数学教師で、あたしも彼女も独身で、あたしも彼女も本場のハマム・マッハシに期待していたの」と言ってエマは可笑しさを堪えながらボライの方へ向いた。「休日はいつもファルーカに揺られて?」
「乗ったのは二度めです。来週から日本のスルガ(敦賀)へ派遣されて行ってしまうものですから…もう一度乗っておこうかなと思って」
「そうなの…そこはやっぱりシースケールみたいなところ?」
「そうですね、写真を見た限りでは、のどかな海辺の原子力発電所ですけれども…」
 ボライは鞄を開けて本人の身分証明書、真新しいパスポート、大学の研究室仲間と撮った写真、トリウム炉の研究ノートまで見せてくれた。一見爽快に見えるこの世界の彼方、どうやら才気溢れるネフェルティティの末裔の前には、大いなる使命と不安が混濁して、灼熱の砂漠のように広がっているのだった。エマは思わず中洲から飛び立った青鷺の羽ばたきを追ってしまった。その飛翔が帆に隠れてしまうと、エマは右隣のグロリアの華奢な肩に手をおいた。
「どう?ファルーカに乗ってみてよかった?」
 グロリアは珍しく考え込んでから頷いた。
「カンブリアに来るときがあったら連絡ちょうだい、カンバーランド・ソーセージにビールをご馳走するから。そうか、飲めないのか…それじゃ、母のスコーンで我慢して」
 リィディアはいつのまにかボライの前に膝まづいていて、揺れを楽しみながら手帳に電話番号を書きこんでいた。

                                       了
バイナル・カスライン 上

バイナル・カスライン 上

  • 作者: ナギーブ・マフフーズ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2006/10/07
  • メディア: 単行本



バイナル・カスライン 下

バイナル・カスライン 下

  • 作者: ナギーブ・マフフーズ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2006/10/07
  • メディア: 単行本



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脱皮に不慣れな椰子蟹の肩こり [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

Für die Bequemlichkeit der Übersetzung werde ich für eine Weile eine Ihrer Wochen ruhen.
城 (新潮文庫)

城 (新潮文庫)

  • 作者: フランツ・カフカ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1971/05/04
  • メディア: 文庫



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一番町の摩魅   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 帰ってきてみれば神田の街はそんなに変わっていなかった。
 どこの都市にでも、迷路の見通しがよくなると、はしゃぎたくなる輩がいる。マフラーを改良したバタバタ音の原付バイクが、三台連れ立って外堀通りを行ったり来たりで、信号にひっかかった後続を見ては高笑い。何が楽しいのか、などと揶揄しては、老けこんだ自分の横顔が想像できてしまう。いつだってその気にさえなれば、鎌倉橋に神田橋を過ぎて、大手町から丸の内、そして右に折れて和田倉くらいまでは、女子学院随一の娘に併走できるはずだ。
 マサこと正顕(まさあき)はベランダから振り返って、摩魅(まみ)の字の娘マミの背を捜した。
「じゃあカレーライスでいいよ。ここんとこ、カレーライスも食っていなかったからな」
 マミはフランス・パンのような膝を抱えながら天井を睨んでいた。蛍光灯を蔽う円形の和紙のシェイドがこころなしか揺れている。とろりとしたカレーの想像が唾液を醸し出したのか、思わず飲み込んで猫の舌ずりほどに小さく喉が鳴った。
「じゃあってなによ。変わってないね、本当に食べたいものを言いなさいよ」
「そうだな、じゃあ焼き餃子なんてのはどうだ」
「ひぇ~信じられん親父、ずっと澳門(マカオ)にいながら餃子を食べたいなんて」
「あのな、あっちには水餃子みたいなものはあっても、焼き餃子はないんだよ」
「だったら、今晩は駄目かもしれないけれど、明日の晩になったら焼いてもらえば?」
 マサは苦みばしったふうに頬を硬直させた。そして娘に促されるように腕時計の時間を確認した。
「焼き餃子だったらビールを飲みたいんだろうし…あたしはくさい口して御苑をうろうろするわけにはいかないから」
「くさい口って?どうせ御苑に集まるのは、根っから獣臭い研究員のお兄ちゃんたちだけだろう?」
「それだけじゃないような気がするんだなぁ。どうも今週は、御苑の周り、内堀通りのあたりが臭って…いい匂いがするんだなぁ」
「いい匂いがするぅ?」
 マミは弾かれたように立って前髪を掻きあげた。
「カレーはさ、つくる時間もったいないからレトルトでいいよね」
「まさか皇族の方々がご一緒されるんじゃないだろうな?」
 娘はスェット・パンツをひきあげてから洗面所の方へ姿を消した。
 マミは十七歳になろうとしていた。髪は男の子のように短く刈りつめているが、女として見られる至福の舞台を足下に感じはじめている。それにしても機敏に応酬される口許は、母親の晶子(あきこ)そのものじゃないか。ここまでよく育ててくれたものだ。原田姓から浮田姓になってくれた晶子の帰りが待ち遠しかった。
 マサはマミが買い物に出た音に呼応して、もったりとリビングから廊下へ出た。気がつくと、娘の部屋の前にいる父親の自分。不思議な気分だった。親身と罪悪の炊き込みご飯、加えて心中に意外なことは、どこか黄金色の悪戯心が加担しているので、パエリャの鍋を前にしたような悠長な興奮があった。本人が中にいるような心持で、半ば照れながらおずおずと入ると、真っ赤な浦和レッズのユニフォームが二着下がっているのが目についた。近づいて見てもサインは判読できなかったが、真下の小さな鏡台に選手の写真立てが並んでいる。安藤梢(あんどう・こずえ)と山田暢久(やまだ・たかひさ)の現役二選手、ということは後に知るところとなったが、場所もわきまえず愕然と腰を落としてしまった。
「この狐みたいな男、兄ちゃんに似ているな…それにこの女の子は…」
 今まさに蹴る瞬間の山田暢久は、今は亡き兄正三郎に酷似していた。この形相はあのときのものだ。幼い自分に詰め寄る近所の悪童たち、その背後に現われた怒髪鬼のような兄ちゃん。そして壁のレッズのロゴマークの脇で、首を傾げて微笑んでいる安藤梢。憧れている人間がえてして鏡像であることは見聞きするところだが、マミが撮影用に化粧して並べば姉妹、安藤梢には申し訳ないが親子でも通用するだろう。
 女性の愛らしさが、どうしてもマサにはイヌ科乃至イヌ亜科の不意討たれ驚愕顔と重なる。さらに義姉の泣き濡れた大粒の瞳の記憶が蘇えってきた。兄が海上に行方不明となってから丸一年の後、本人の意向どおり何も語らず葬儀も執り行わなかったが、三女を後から思えば少々強引に与って、義姉が長女と次女を連れて那須へ帰っていく姿を見送るのは、想像していた以上に切なかった。
 叔父という偶々の関わりが、マミを本当に幸せにできたのかどうか。懼れていた一抹の後悔が、邯鄲の夢のごとく脂汗を滲ませてきて、逃げるように部屋を出てベランダをめざした。
「大きくなったものだ。摩魅、おとこ…ボーイフレンドいるのかな…」
 成長した娘の男あしらい、などと想像したくもないが、清純さをいっぺんに払拭してしまうときは早々にやってくるだろう。こんな内神田のコンクリートの一隅で、母親の電話口上を観察して、一番町の女子学院では付近を闊歩している芸能人を揶揄している十七歳、彼女が男あしらいに手慣れて、宿命を嘲る女になったとしても驚くには値しない。それでもマミは摩魅であることにかわりない。特異な人間を理解している者は、案外に血縁から程よく遠いものだ。そしてその者が晶子のような母親役であれば、他人が懸念する以上に、マミは痛快な十七歳の途上にあるのかもしれない、などとマサは納得するしかなかった。

「マミ、なにやっているの?まだうちにいたんだ…」
 セブンイレブンから出てきたマミを捕まえるように、海松茶のスーツ姿の晶子が声をかけた。
「お父さんがカレーを食べたいんだって、向うを出てから何も食べていないそうで」
 晶子は手にしていた淡平煎餅の紙袋を翳しながら急かせるように歩きだした。
「何がカレーよ、あの人は東京に出てきて以来、そこの淡平の辛い煎餅しかないのよ」
「夜は焼き餃子が食べたいんだって」
「そんなことより、今日は大原に行くんじゃなかったの」
 マミは俯くともなく頷いて母の細い眉をへこませた。
「どうしたの、浦和レッズレディースなのよ、練習がきついのはあたりまえでしょ」
「練習は好きだよ」
 晶子は思っていたとおりの口調が返ってきたので満足しながら立ち止まった。
「練習はすき…それじゃ戻って餃子の皮を買ってこようかな。久しぶりに親子三人で餃子パーティーとしましょうか」
「だから、これから練習で浦和へ行くから…それに、今晩はお母さんにつきあってほしいんだって、お父さんは」
「つきあってほしいってぇ?まったく、どこかにディナーの予約でも入れてから言ってほしいわ」
「山の上ホテルにしようかな、とかぼそぼそ呟いていたよ。どちらにしても、餃子パーティーは明日やってよ」
 麻未は視点定まりなくそう言ってエレベーター・ホールへ駆け込んで行った。
 母を置いてきぼりに最上階を目指して行く昇降ランプ、その敏捷な木登りを見るような勢いに晶子は感慨深い目許になった。ともあれ、子は親に寄る、女の子が母親に寄って母娘並び歩いて女特有の話に耽る、そんな情景を憧れもせずに、晶子は三十まで自分も他人もなるようになるものとして見てきた。そして多忙な三十代に突入してからは、男の疲れ目曇り目と五十歩百歩の毎日だった。そこへマミがやってきた。マミを懐に抱いた日から、赤い流星に対峙するアステカの神官のように、通俗と怠惰と欺瞞から彼女を守護する者になった。そしてマミは女になろうとしている。母親としての歓喜と哀しみが、人並みに交差するから厄介だ。その手ずから逃れていく哀しみは、しがらみから逃げ出した人間臭い者たちの忘れ物にしなければならない、ということは重々承知している。だからといって慣れ親しんだ責任を手離す気は毛頭にない、と自分に言い聞かせて嘲るように晶子は苦笑した。
「ごめん、さっきは嘘ついちゃった」と降りてきたエレベーターの中から、娘は仔犬のような眼を上げて言った。「今晩はね、本当はサッチンと一緒に博物館の先生のお手伝いに行くの。お手伝いと言っても何もできないけれど、その居候さんていうのをできれば見てみたいから。浦和の練習は明日、日曜日、七時前にはうちを出るので、お父さんとどっか行ってくれば?」
 晶子は仕方ないといった母親面で、淡平の紙袋を開けて掴めるだけをマミのトートバッグへ押し入れた。
「了解。サッチンのヤンママは知っているのかしら…まっ、いいか。携帯の電源は入れておくのよ。そうだ、もしかして陛下がお見えになるの?」
「まさか、あたしみたいなタヌキモドキじゃ陛下はお会いにならないでしょ。運のいい本物の居候さんだけ」
 晶子は駐輪場の方へ曲がっていくマミの項の遅れ髪を見送った。何故か戴きものをしたような幸福な心地である。そう思ってほくそ笑んでいると、エレベーターは非情に上昇していくところだった。

 マミにとって最大に従順なるものは、デコ電とかいうスパンコールを着せられたような携帯電話ではなく、イン・ステップで二十本に一本は無回転らしきボールを蹴れる左足でもなく、黄色いフレームに掻き傷をいれたお尻の下のクロス・バイクかもしれない。水際にはどうしてこうも少女と自転車が似合うのだろう。そういった視線を意識してか、マミがペダルを踏み出すまでは、自らを諭すようにメットを被って前髪を整える数秒が必要だった。
 神田橋の交差点を右折して一ツ橋河岸で左に折れて平川門、竹橋筋から北の丸公園前を過ぎる都市のど真中。そこには真冬でも息を呑ませるような掃天下に必携な熱気がある。公園からお堀に沿って、外苑へ抜ける流線形の熱気は日々胎動し続けている。それを奔流のように受けながら、千鳥ヶ淵を経て一番町のコロニーへ達するような快感。明日はサイクリングコースになるので、流線形はさらに煌めいた流れになるだろう。焦がれた五月の熱気は、メット下のマミの黒髪を蒼々と汗ばませた。
 代官町の高速環状線の入口脇あたりから歩道も狭まり、マミの逸る気も悠長な歩みになだめられたときだった。除けてくれた老夫婦の白髪の妻が残念そうに言った。
「来年はさ、もうちょっと、早くね、桜のときに来ようね」
 マミは逸る気をなだめられたどころか、萎えさせられたように自転車を降りた。
「来年はさ…もうここで馬鹿言っていられないかもしれないね」
 これから会う親友のサッチンこと金子早智子が、そう言ったのはふた月前だった。
 二人はここ二年ばかりそうしてきたように、半蔵門交差点から入って千鳥ヶ淵の桜の下を花魁のようにはしゃぎ歩いていた。むろん良家の子女ゆえ道すがらの男に色目を遣っていたわけではないが、勝手に男優やアスリートを入れ替え取替え評しあっていても、頭上の桜に加勢された自分たちの魅力を感じていた。ライトアップまでにはまだ時間がある薄暮だったが、ハリウッドが撮りたがっている金襴緞子の江戸遊興は身近なそこにあった。ボールを追い続けて大判焼のようになった額の健やかさが美しいマミ。そして母親そっくりにトリノの乳白な甘さを振り撒くサッチン。二人は一番町から千鳥ヶ淵を経て、桜吹雪の北の丸へ入内する娘十七春の夢にふさわしかった。早々と宴をはっている大学生のグループなども、時刻が尚早過ぎてか囃し立てもしない。また来年もこうして、二人の膝を三寒にさらしながら桜をちらり見る。来年どころか、桜どころか、ずっとこれからも四季一緒にお堀を巡る悠長を楽しめる、そう思っていたマミに、サッチンの憂いは一瞬の吐息ほどにしか見えなかった。
「やめようと思うんだ、女学。働かなくちゃね。もともと成績も大したことないしさ」
「やめるって…成績大したことあるじゃん。外語大行って、その次にお祖母ちゃんがいるパッパラの大学へ行くって」
「パドヴァ、パドヴァ大学」
「そのパドヴァへ行って、イタリアの歴史を日本へ持って帰ってくるんだ、って言ってたじゃん」
「だからね、パドヴァの前に日本の生活があるわけ。お母さんがモデルの仕事に復帰するんだから、あたしが知らんぷりして、女学でお祈りしていたり、歌ったりしていられないでしょ」
「そんな、これからお母さんたちに会って…これから花見して、これからうちでチキン・パーティーするのに」
 武道館の前では、母晶子とサッチンの母カスターニャが待ち合わせているはずだった。
「大丈夫、しっかり食べるよ、何があってもイタリア人だもの」
「そんなこと言ってんじゃなくて…そういう言い方、やっぱり映画の見過ぎなんだよ、ここんとこ」
「よく分かんないけれど、マミこそしっかり食べなくちゃね。マミは有望なナデシコなんだからさ」
「奨学金とか考えみたら…」
「ごめん、こんな日に余計なこと言っちゃった。はやく浮田社長とイタリア人を見つけようよ」
 あのときは、武道館には程遠い千鳥ヶ淵の交差点手前だった。二人は桜の哀しい妖力に掴まってしまったかのように、困惑した視線で黙ってしまったのを記憶している。今ちょうど自転車を曳いているあたりだった。そのあたりから工芸館前までは、泥沼を行く気分だった。
「待っているかな、サッチン」
 マミはそう呟いてからサドルに跨って、麦色の脛を繰り出した。
 
 男が活動の境界を渋々と限定するように、女が両手に抱えられるだけの慕情を知るときがやってくる。しかしたとえ別れても、音信不通になっても、互いに想い合うことはできる。すべては記憶を抱きしめて、無償に生きることだ。腹を括るということは諦念ではない。腹を括るということは、闘いに臨む人ならば、初陣のために膂力を一点に集中することだ。御苑に住まう狸にできて、人間にできないわけはない。
 マミはあの日に腹を括った。
 その日の女子学院の屋上庭園は、風が冷やかなせいもあって閑散としていた。落ちつかない一年生も、疲れたような教師の姿も庭園には見えない四月。いるのはちょっと個性的な三年生の二人だった。
 サッチンは三年生として通学している現実に苛立っていた。
 どうも人間は真面目な動物のようである。食べて生き繋いでいくこと、経済的な問題の位相は普遍的に見えがちなのだが、人間は望んで持った余裕や猶予を果実の皮のようにさっさと剥き捨てたがる。平たく言えば、人間なのだから遊びを早々に切り上げて、人間なのだから切実な経済活動に埋没する、ということだろうか。たしかに行動することに真摯な狸は、千代田区一丁目一番地でもそれなりに生きていけるが、上げ膳据え膳の恵まれた人間は、危機状況に陥った要因を、情けなくも神楽坂や赤坂の遊興にすり替える。真面目で弱いのか…勉学や政治ばかりが真摯な行動ではないだろうに。とどのつまり、恵まれている餌摂りを言い分けにせず、大いに持ってしまった猶予や余暇を真摯な行動に昇華せるしかない。どちらにしても、人間は真面目臭いという獣臭を負っているのだろうか。
「大学まで行ってもさ、どっちにしたってさ、働かなくちゃならないじゃん。それだったら…イタリアとのイブリド(混血)だしね」
 マミにはサッチンが焦っているように見えた。大人への踏み込みを急に早めて、マミの脇から青白い横顔で離れようとしていている。さらにサッチンが思っているほど、大人は大人びたサッチンを期待していないのでは、という嫌な予感もあった。
「あと一年だよ、一番町のサッチンでいられるのは」
 取りも直さず春が謳われるのは、後にも先にも友情の芽吹きがそこにあるからだろう。マミがサッチンに関わる執拗さは、サッカーのプレッシングで養われたものではない。むろんサッチンはそれを感じてはいた。
 女の友情は、男のそれと違って、同じ釜の飯のような同時快感ではない。素直な同感疎通による同時諦観なのである。そして女の友情が、公転の四季と重力の干満の変貌による同時諦観にあるとき、多くの子供や男たちが実際に救われてきたのだ。
 マミはスカートを捲くりあげて、幾分か赤ら顔で膝こぶをぴしゃぴしゃと叩きだした。
「あたりまえだけれど、マグノリア祭だって今年で最後だしさ。うちなんかお母さんが飛びまわって忙しいから、女学でやるようなクリスマスは最後になるかもしれないし…」
「マミはこの一年も楽しそうだね」
「そんな言い方しなくたっていいじゃない、一緒にいられる最後の一年になるかもしれないんだから」
「ごめん、ママの血なのかな…はやく働きたい」
「だから、あと一年で卒業じゃない、お母さんだってそう言っているでしょ?」
「どうかな、ママはマリア・トゥルーがちょっといい感じに見えて、それでここを選んだわけだから」
「どういうこと?」
 サッチンは整った横顔を逸らして母親を真似てみせた。
「あなた方は、女としていかなる理想を持って生きるか。世俗的幸福だけを求めるのでなく、高尚なる志を活かす真の力を養成しなさい。途中をとばして…一人一人、活かされる道や与えられた器は違うが、他人や社会のために働くようにしなさい」
「ミセス・トゥルーのお言葉」
「ママがくりかえしていたから中学のときに憶えちゃったけれど…あたしたちも他人や社会のために働くだけだよ」
「えっ?働くだけだって…」
 マミはそう呟くと膝を叩いていた手振りを早めていった。サッチンはぴしゃぴしゃ音に威嚇されて恐々と腰をずらす。さらにマミは回転金属音のように「きゅぅーん」と唸って、髪を振り乱してばちばち叩きはじめた。
「何やってんのよ!中学生じゃないんだからさ」とサッチンは止めようと手を翳して怒鳴った。
「そんなことやっているから…ポンポコリンなんて言われるのよ、まったく」
 マミは見切ったように振り上げたまま手をとめた。鼻筋が上向いて負けん気が露骨になり爛々とした眼をサッチンに向ける。そして立とうとしたサッチンの右脚にすがりついて膝小僧を抱えた。
「逃がさないよ。中学生じゃないけれど、高校生でしょ?痛いだろ?何だってぇ?他人や社会のために、働くだけだってぇ?」
 マミはぴしゃぴしゃと平手でサッチンの膝頭を叩いていたが、ついに「働くだけだってぇ」のくだりで拳を握りこんでしまった。
 サッチンは屋上庭園から北館の回廊にまで響き渡るような絶叫をあげた。そのまま椅子から落ちるとあふあふと泣きだした。
「痛た~痛たた…膝がこわれた…歩けなくなったらどうすんのよ~」
「歩けなくなったら…一生面倒みてやるよ」
「マミの方が映画の見過ぎだよ」
 後から思えば気のせいだろうが、テニスボールを打つ音もマグノリアホールの談笑も止んでいた。世界は簡単に沈黙する。互いの気まずさという以上に、知る人も知らない人もこの刹那に括目させたかった。
「おまえら、そこで何やってんだぁ~浮田と…ああ、やっぱり金子か、面談室へ来い、いいな」
 体育教師が口端に微妙な笑みを下げてそう訓じたのは、二人の仲の良さを知っていたからだが、当人たちは立派に激情的で誠実な女になろうとしていた。そしてマミは膝を擦っているサッチンに目を細めながら決心した。このときマミは腹を括ったのである。

 内堀通りが見えてきた。真っ直ぐ行けばそこは厳かな十七歳のコロニーだが、腹を括ったマミは左折して千鳥ヶ淵公園を過ぎて半蔵門を目指していた。
 宿命を背負い直す感覚、それがどうしてこうも快感に似通ったものになってきたのだろう。ちょっと前までは自殺ものだった自分の境遇、それが自分を自分たらしめていて、それが誰かを助ける力、足、爪の原点ではないのか、と視点を一気に部屋から御苑の石室の前へもっていったときの感覚。その先には幸せそうなサッチンの笑顔があった。そして快感はまた勇躍して澳門へ電話させたのだった。
「ありがとう…よく父さんに相談してくれたな」
 ベランダから外堀通りを眺めながら父のマサが呟くように言った。
「それに、父さんと母さんを認めてくれて…ありがとう」
「今更いいよ、ポンポコリンはポンポコリンなんだからさ。あたしはサッチンのために腹を括った、っていうか、サッチンから勇気をもらったんだと思う」
「サッチンから勇気をもらったか…人間から勇気をもらったとは…」
「笑っちゃう?」
「誰も笑えないよ。人間のために覚悟したおまえを笑えるはずがない」
「誰でもそうしてきたんでしょ、お父さんがいつも言っている共生のために。お母さんには内緒で…」
 マサは襟足を摘ままれたように振り返って下腹を軽くたたいた。
「ちょっと腹がへったなぁ。今晩に備えておかなくちゃな」
「ビール飲んじゃったら駄目だよ、終わってからね」
「おまえは、もしかすると、相当なポンポコリンになるかもしれないなぁ。邯鄲の親子、フリとフヘが、おまえを見たら何て言うかな」
「邯鄲の親子?」
「フリの爺さんは一昨年、華山に登って行方不明だが…息子のフヘが言うには、おまえよりも二歳下の十五歳になる息子がいて、こいつが手におえない悪餓鬼らしいんだが…ビデオで見たおまえに会いたがっているとか…」
 マミは陽塊な気を吐き出すようにペダルを踏みこんだ。そして意識的に「ひゃっは~」と奇声をあげてみた。
 重なってきている新緑の濃さは夕暮れに陰を増してきていた。濠の対岸の吹上御所では、今まさに陛下が茜雲に微笑んでいらっしゃるかもしれない。できれば今宵も安穏とした一夜であってほしい。せめて行動する前に煩悶してしまう人間には、春から夏へ捧げられるブルーベリーの香味のような夜、それを想うマミだった。
 思うまもなく特徴ある歩き方のサッチンの後姿が見えてきた。
「腹ごしらえにホット・チリ・クリスピーはどう?」
「煎餅じゃん、しかも胃に悪そうだね~」
「そんなことないって、パスタみたいに大量に食べるもんと違うんだから」
「終わるまで空きっ腹にしとくよ。だって大森さんのご好意で、三時間くらい糞をこちょこちょいじらせてもらうだけだから」
「こちょこちょじゃなくて分析。だいたいさ、サッチンが大森さんの格好よさに乗っけられたから、こうなったわけでしょ」
「そりゃあそうだけどさ…食欲あるねぇ」
「食べていったほうがいいって」
 マミは煎餅に歯を立てて軽快な破砕音を鳴らした。
「糞をいじくるだけなのに張り切っちゃって…」
「その糞いじりをさせてもらうために、サッチンの大森さんに近づくために、したくもない苦労したんじゃなかったっけ」
「そりゃあそうだけどさ…」
「あそこ、半蔵門から入るのに、お母さんの会社まで調べられるし、こっちは誰にも触らせていなかった左脚まで触らせてさ、それでやっと糞いじり」
 サッチンも封を切って煎餅を咥えてみた。
「まっ、それくらいにしてさ…辛っ、何この煎餅」
 マミはトートバッグを後ろにまわしながら、肘でサッチンの脇腹を小突いた。
「こっちに来る長髪、大森さんじゃない?」
 サッチンは煎餅を袋に戻して、胸元を払ってから気だるそうに首を傾げた。
「でもね…国立科学博物館っていっても、ケンちゃん、まだ若いから給料が安そうなんだよね」

 一九九六年から国立科学博物館の特別調査グループは、皇居の吹上御苑の動植物調査を行った。そこでイヌ亜科タヌキ属、つまり狸が確認されたのは二〇〇〇年になってからである。そしてマミとサッチンが女子学院の中学で出会った頃、狸の調査も本格化していって、近在でも驚きをもって「ほう、大都会に、それも畏れ多くも御所のお近くに、狐ではなく狸が、へえ~」と関心を持たれることになった。
 十七歳の女子高生二人が、そのような調査について行ったことは、傍目には遊び半分と受け取られがちである。確かに都心で狸に出会うことは衝撃的ではあるが、どこに何頭生息していて何を食べているのか、というようなことは専門家の地道な調査分析に拠るだけで、女子高生が夢中になるだけの楽しみは窺えない。とてもボールを蹴りたい少女や、踊り歌いたい少女が関わることとは思えない。しかも二人が専従で指示されたのは「ため糞場」で採取された糞の水洗いだった。持ち帰ってからの分別では硬化と匂いに難渋するので、屋外で早々に洗浄分別されて乾燥の場へ持ち込まれる。二人は二度目なので、慎重な作業の中でも悠長な会話を交わしていた。
「あたしさ、ときどき考えるんだ、マミはさ、本当はタヌキなんじゃないか、って」
 特設テントの中で、サッチンは茶漉しを小刻みに振るいながらマスクごしに言った。
「だってさ、触ると猫みたいにぷよぷよして柔らかいのに、普通じゃないよ、その腕力と脚力は」
「まだ根に持っているんだ、膝をつぶされたこと」
 サッチンが糞を摘んだ割り箸を突きつけそうなのでマミは茶漉しを構えた。
「誰だってさ、お皿を割られる手前まで殴られたら根に持つでしょ?まっ、いいけどさ」
「だから一生面倒見るってば」
「よく言うわ、女学で最初で最後のナデシコになるかもしれない人が、イタリアへ帰化したがっている半端女につきあっている暇なんかないでしょう」
「半端おんな?」
 マミが眉を曇らせると同時に、年一床屋の髪を手袋のまま掻き揚げて大森が現われた。
「もうちょっとさ、話し声のトーンを抑えてくれないかな。テレメトリをやっている彼女が気にしちゃっててさ。電波発信機をつけたがっているんだよ」
「えっ、捕まったんですか」と糞茶漉しを落としながらマミは眼を最大にした。「発信機をつけるって、そんなに簡単に捕まっちゃったんですか?テレメトリが一番大変だって言ったのは大森さんでしょ」
「落ち着けよ、つかまえるんじゃなくて、捕捉だ、捕捉。もし捕捉できてコンディションがよければ装着しようかな、と思って待機しているだけだけれど…彼女は生真面目だから君たちの話し声が気になって仕方がないんだよ」
 大森賢治は岩手の花巻出身で、本郷を卒業してから名古屋で学位を得て、現在は脊椎動物研究グループに属する哺乳類の歯型の専門家である。確かにトリノ娘が好みそうなナカタ風な髭つきの将軍顔ではある。実際にサッチンは急に背を伸ばして、茶漉しを振っていた肘を内側へ矯正しはじめた。大森の上司が出版した写真集の出版会に、サッチンは母と共に招かれて青林檎ワンピースで花然と振舞っていたが、陽気で飾らない大森の表情の豊かさと「皇居ってね、凄い所なんだよ、狸がポンポコリーンさ」に参ってしまったのだった。
「彼女って女性の方?」とサッチンは自然な問いかけを怠らなかった。「女性はあたし達だけかと思っていました」
「おお、そうだ、今日から参加してもらっているんだ。山形市から来ていて、そうだ、お母さんがフィレンツェ生まれとか言っていたから、金子さんと同じイタリー・ハーフだな。美人だよ。紹介するから待ってて」
 大森が腰を屈めてゲリラ兵のように右の藪奥へ消えると、二人は示し合わせたようにがっくりと嘆息をもらした。
「美人だよ、なんてよく言うよ」と言ってサッチンは割り箸を足許のバケツに放り入れた。「まったく、あたし達のお手伝いが今回で最後だって思っているんだよ。だから新しいスタッフを入れるなんて…あ~もう~やだやだ、男は汚い、あの手袋のままで髪を掻き揚げてさ」
 マミは拾いあげた茶漉しの網目を透かすように茫然と見ていた。
「どうしたの…大発見しちゃった?分かった、マミの大好きな唇脚類でしょ?だからフリーズしちゃってさ」
 ムカデやゲジゲジを唇脚類というが、サッチンが覗き込んだ茶漉しの中には糞の欠片も何もなかった。
「疲れたの?そっちの方が驚くよ、ポンポコリンの浮田摩魅が疲れたなんて」
「サッチンはさ」と言ってからマミは珍しく次の言葉を取り上げあぐねていた。「この前、屋上庭園でさ、あたしのこの一年が楽しくなりそうだって言ったよね」
「言ったかな、膝をつぶされる前だよね」
「ほら、根に持っている。いいよ、ずっと根に持っていな。結婚式でさ、ミニのウェディングドレスを着るときに黒くなった膝を見てさ、また思い出すよ」
「残念でした、一週間くらい青くなっていたけれど、今じゃつるつる美白の膝っ小僧。手入れが違うからね。手入れの仕方知りたいんだったら教えてやるよ。でもマミは健康が売りだから関係ないか」
 マミは綿布を吸い込むように豪快に笑いかけたが、普段なら月も捜さない都市の夜空に、サッカーボールをふわりと頭にのせた父、マサの笑顔を想った。

 マミがマサと、娘が父親と、最初に御苑の片隅でボールを蹴りはじめたのは、マミが六歳のときだった。回数を重ねるうちに御苑の東側に寄っていって、蓮池濠沿いにある石室の前あたりに落ち着いた。マサが出張で東京にいないときも、石室の壁面を使ってクッション・ボールの扱いに慣れていった。そしてマミが八歳の九月である。残暑にいささか疲れていたマサは、石壁にもたれると神妙な顔になってマミを手招いた。
「楽しいか?」
 マミが細い首筋に玉の汗を浮かべて頷くと、マサはやおら唸るように嗚咽を漏らしはじめた。そして娘の柔らかい腕をとって膝に座らせた。
「どうして、どうしてこんなことが楽しいのか…分かるかい?おまえは、マミは、じつは魔魅なんだよ」
 マミはこっくりと頷いて、抱えていたボールに目を移してしまった。
「もちろん、おまえだけじゃない。お父さんもそうなんだ。佐渡の浮田小次郎の血をひく魔魅、魔魅は化け物らしい当て字で、本当はけもの辺に耑(タン)の猯(まみ)、音読みはやっぱりタンだからタンタンタヌキのタンなんだ…笑っちゃうよなぁ」
 正覚が幼いマミに語ったこと、語らなかったこと、つまりやがては語らなくてはならないこと、それを順を追って綴るとこうなる。
 マミの曽祖父にあたる浮田小次郎そのひとが、明治の佐渡の相川では悪名高い高利貸しだった。もちろん高利貸しは即そのまま猯ではないが、しばし昔語りにお付合いいただくとして…小次郎を悪名にしたのは、弱い者いじめの典型のような貸し方にあった。例えば亭主を亡くしたばかりの若後家、不運続きで盥(たらい)舟を破損させてしまって漁に出遅れていると、通りがかっただけの小次郎が「亡くなったあいつには世話になったからよ」と言って、当座の舟の修理代ほどを借用書なしで置いていった。ところが小額だからと修理に充てて漁に出てみればさっぱり、このままではと嫁入りの反物を質に入れて返済に充てようとした矢先、漁仲間のやはり後家が「小次郎さんから借りて今年で四年になるけれど催促の催の字もないよ」と言って高笑いしたものだから、ついつい一年、二年と懐の隅に追いやってしまった。小額ながら借りて二年が過ぎる頃、小次郎がふらりと現れて「こっちも団三郎狸みたいに木の葉を銭に変えられたら世話はないがね」と言って、丸ごと舟一艘を買えるほどに膨らんだ借用の証文を突きつけた。若後家は高利とはいえ尋常な請求に身動きとれず身を売って返済、遊郭に下ろうとする日、例の漁仲間の後家に会ったので事を伝えると、後家は厭きれたように「そりゃあ放っておいたあんたがいけないわ。あたしもずっと一厘借りていたけれど、二年前のあんたに話した日の夕には返したよ」と言って高笑いして小次郎の店の方へ行ってしまった。この忘れた頃の性悪な催促のときの台詞「こっちも団三郎狸みたいに云々」が広まって、相川の狸高利貸しとか、高利貸しの悪狸とか言われていた。
 因果応報を文頭にもってくると、どうも代々の成れの果てを予測されがちだが、ことのついでにしたり顔で我慢いただきたい。この悪狸の小次郎が逝ってしまうと、息子信吉の一家は悪名から逃れるように、対岸の新潟は弁天橋の近くへ移った。信吉は見よう見真似の高利貸しを続けていたが、母親にあたる小次郎内縁の妻の写真が残っていないことを種に、周囲に勝手に面白く語られて母親を狸扱いされて、帝都の場末新聞に「団三郎の末裔は生きている」との記事にされてしまった。小心者の二代目信吉は、気もふれんばかりとなって名誉毀損の声を上げた。しかしそのような事も暇な御仁のなせる業、と言わせるほど世は激動の時代を迎えていた。そして大戦の後に生まれた信吉の息子、マミの実父にあたる正三郎の代になると、さすがに三代目で猯の陰影は振り払われた、と当家の誰しもが苦笑して昭和が過ぎたのだった。
 昭和天皇が崩御された年の夏の夕暮れだった。正三郎は高利貸しの看板は名ばかりとして、煙草を売りながら慎ましく生活していた。正三郎は妻や娘二人にも普段から質素倹約を説いて、TVに映る土地価格の高騰やジュリアナ騒ぎなどは、東京の一部局所の乱痴気にすぎないと断定していた。そして生まれたばかりの三人目の娘となるマミを抱いて、安穏と夕涼みしていた。
「兄ちゃん、急に来ちゃってすまんけど」
 マミがけたたましく泣きだした。優しい父親の肩口に脂汗まみれの滅多に見ない叔父が立ったのである。正三郎は弟の声と分かってもさすがに構えて仰け反った。
「きのう帰ってきたんだ、中国から」
「びっくりさせんなよ、もう…」と正三郎は興奮冷めぬまま赤ん坊に微笑みながら言い続けた。
「この子はマミ、そう、猯の音と同じだが、ちょっと手を入れた摩に魅力的な女になってほしいから魅をあてて摩魅、いい名前だろう?猯だ、タヌキだ、化け物だ、っていう時代じゃないよ」
「今風だとは思うけれど…片仮名か平仮名にすれば…」
「そういうわけにはいかん、どう見たって魅力的な子なんだから、中国人が見たってな。六月に産まれたばっかりでよ、この歳になって恥ずかしいような気もするが、これだけめんこければ歳なんか構わねえって、なっ、マミちゃん、なんならこの叔父さんとこの娘になるかい?中国に行ってみっかい?」
 叔父にあたるマサこと正顕はうな垂れたまま呟くように言った。
「兄ちゃん、中国で何があったかは、もう知っているだろう…」
 正三郎は幼児から顔を上げて、夕の影に染まりそうな弟を凝視して言った。
「北京じゃ学生が騒いでいるってな。まあ何にしろ、中でビールでも飲みながら聞こうかい、なっ、マミちゃん」
 そもそも次男にあたる叔父のマサは、兄よりも勉学に励んで上京して、駿河台の大学を卒業してからは、新潟から進出していった内神田の小さな商事会社に縁故もあって勤めていた。社名CEMb(セーミ)という数字7のロシア語読みから察せられるように、昭和五十九年に亡くなった創業者は、旧ソビエト連邦に開かれた新潟港の立地利権に便乗した輸入業者だった。その頃は、やがてくるベルリンの壁崩壊から伝播する連邦崩壊など誰も予見しえなかったが、秘書から女社長となった原田晶子は、後釜に座るまでの六年の間に連邦の将来性を大いに憂いて、自らがドイツの化学商社に接しながら東欧圏の生情報を収集し、古参の社員による中国やベトナムの市場リサーチを怠らせなかった。
 この頃には、創業の翌年、昭和四十七年に入社した浮田正顕も、最古参で四十に手が届こうとしていた。三十二歳の原田晶子社長から丸二ヶ月の猶予を背負わされて、北京から天津、秦皇島という港湾を巡って三週間。多大なる将来性は明らかに見てとれたが、マサが戻った北京で、原田社長に言ったことは「どうも酔っぱらいの熊五郎を相手にするようなわけにはいきませんな」だった。
「力任せの熊五郎はもういいですよ。焦らないでフットワークのいいお猿さん、孫悟空を見つけてください」
「孫悟空を見つけるのだったら、この広大な中国で時空を超えて見通しがきく方、つまりお師匠さん、三蔵法師に同行してもらわなければ」
「無理ですよ、お知恵を拝借したいと思っているドイツの商社のGM(ジェネラル・マネージャー)、山東出身の潘さんという方で、中国販路を牛耳っているその潘さんと面識は持ったんだけれど…」
「日本で言えば、とんだタヌキ…それとも、妖しいニンコ(人狐)…」
「いい男よ、誰かと違って腹筋が引き締まっていそうな。ただね、専門が中国語でいう能源、つまりエネルギーで、ドイツから中国へ戻るのにあと五、六年はかかりそうだし、戻った頃はその能源のルパンが、あたし達のような雑貨屋を相手にしてくれるかどうか…」
「待って社長、三蔵法師がそんなやり手の大泥棒と一緒に天竺へ向かうわけにはいかないでしょう?」
「三蔵法師ぃ?あたしが悟空たちを叱り飛ばしている…お師匠さんなの?」
「そう、お師匠さんて言ったら、たいてい美人女優がやるってことに相場がきまっていますよ」
「あたしは駄目よ、何言っているの、今回だってやっと時間が作れたんだから。それに浮田さんを猪八戒みたいに扱ったら、いくらなんでも先輩に対して失礼でしょう」
 こうして王府井の濡れ滑る床のお店で、女社長と叔父マサは茹で落花生を頬張り温いビールを飲み交わした。マサのその後の旅程はいっきに済南まで南下して、やはり港湾である青島と実力者らしい潘の故郷である煙台を中心に巡ることだった。
 ところが困ったときのお狐さまに祭囃子の狸おやじ、と万国における色金綱渡りと好事魔寄せは似たり寄ったりもいいところである。マサは社長を見送った翌日の午後、薄情な経費と汗まみれの熱中症状態で列車に乗り込んでしまった。深夜に石家荘というところで乗り換えるか降りて一泊するつもりが、喉が渇いて目覚めてみれば、朝日がひょこひょこと照らし出すのは黄土高原。夢を見ているのか、と思ったあとで捕縛拉致され移送されているような乾ききった不安。俺だってもういっぱしに四十だ。女房子供のような思い残しはいないけれど、先代と一緒にシベリア鉄道を往復してチェルノブイリをちらっと見た男だ。次で降りて水分補給したら粥でも食って臭い布団でもう三時間ほど寝る、というつもりで降りたところが邯鄲だった。
 マサが中国行きを抜擢された理由のひとつに、彼の歴史好きがあったことは否めない。邯鄲ほどの小都市でもワープロ時に漢字変換されるのは、中国人に限らず東洋人で歴史を学んだ者なら誰もが知る古の地であるからだろう。能や演劇で数多く表現されている邯鄲の枕、そして何よりも邯鄲は秦の始皇帝が誕生した町である。この邯鄲を首府とした戦国時代の国が趙で、秦が人質として預けて置いたのが始皇帝の父にあたる子楚ということになっている。果たして始皇帝の本当の父がそのまま子楚なのか、子楚を後見して利用した後に宰相になった呂不韋なのかはさておいて、始皇帝の政がこの町に生まれて怯え隠れる幼年時代を過ごしたことは間違いないようだ。政の秦による統一が短命に終わると、破壊されつくした邯鄲も前漢時代には何とか復興したが、唐代以降はかつての栄都の面影も失くしてしまった。
 さて、その古の邯鄲に充分に怪しいマサがゆらりと立った。邯鄲は煤煙混じりの朝霞に浮かぶ工業都市だった。蒸気機関車は見あたらないが、石炭と寝不足の吐息はそこここに淀んでいた。子供の頃の新潟駅が彷彿となる。日本人の狡い商社マンが徘徊するに相応しい街だった。胡麻油の濃厚な匂いの方に朝粥の出店があった。揚げ饅頭を粥に放りこんでから湯冷ましを一息に飲み下した。満足気に碗から顔を上げると、掌大の人民服姿に信楽焼そっくりな顔立ちの狸が差し出された。
「ポンポコポーン、とお国では申されますかな?」
 誰が見ても狸ではない一重瞼の狐目のモンゴロイドが立っていた。チンギス・ハンのようにぷっくらしている泥つきのタンク・トップ姿。しかも凄ぶるにこやかなご仁で日本語は流暢そのものだった。
「私はあっちの河の側でこういうものを焼いている溥貉(フヘ)です。お待ちしていました。お疲れでしょうからお昼頃までお休みなってはいかがですか?今日はこのポンポコポーンの窯出し日なので、ちょっと騒がしいかもしれませんが」
「ポンポコポーン?」
 唖然としているマサに、溥貉はスプーンを渡して言った。
「団三郎さんのご一家をお迎えできるとは思ってもいませんでした。ご存知のように父の溥狸(フリ)は日本人ですから、あなたが北京からいらっしゃるのを、まだかまだかと待っていましたよ」
「ご存知じゃないのだが」とマサは些か遮るようにスプーンを突きつけて言った。
「どこでどう情報がこんがらかったか知らないが、ここが今や中国でも指折りの食器生産地だっていうことは知っている。しかし私のところでは食器は扱っていないんだよ。まあ、この毛沢東みたいな狸の置物は…面白いかもしれないが」
「ポンポコポーンは輸出しません。全人代の一部の方々に納めるものです」
「それにしてもだ、さっきはどこのご一家をお迎えするって言った?」
「団三郎さん、お祖父さまの団三郎さんです。驚かないでください、前もってご連絡すればよかったのでしょうが、父が朝になれば間違いなく駅に着かれると言っていたものですから」
「ちょっと待ってくれ、君の父がどうのこうの言われても…君の父は何なんだ?」
「父の溥狸は高松の生まれです。日本の高松です。父の溥狸はお父さまの信吉さんとは、一丁目一番地参りを共に果たした仲じゃないですかぁ」
「ちょっと待って、一丁目一番地って、どこの一丁目一番地の話だい?」
「東京にきまっているじゃありませんか、千代田区一丁目一番地。あなたがまだ参られていなければ、私はあなたとお参りに行きたいと思っています、正顕さん」
 名前をすぽんと呼ばれたあたりからの記憶が朦朧としていて、粥を啜りきったような…乗った車が軽トラックだったような(実は七八年型のボルボ)…廃水が悪鬼の口許のようにぎらぎらした淵をつくっている河を横目に、土管や醤仕込みの大甕が山積みされている横丁の奥で降ろされた。懐かしい煉瓦積みの煙突先には烏がとまっていて、なぜか白煙は河岸に背を向けた窯壁から吹き出している。溥貉が招福短冊ばかりが貼られた玄関で表札を示してくれたので、彼ら親子の立派そうな中国名をやっと目の当たりにできた。
 溥狸は息子よりも小柄だったが、息子そっくりの狡狐眼のまま福々しかった。高松へ里帰りしたときの、金毘羅さんで撮った写真をいきなり見せて「この溥貉が嫁はんをもらって落ち着いてくれたら、あとは溥貉に任せて屋島へ帰るつもりじゃ」とご隠居顔。そして準備しておいた茶芸急須を楚々と振りながら「正三郎さんはお元気だったようで…お元気なはずだ、四十二になって三女に恵まれたくらいだから」と羨ましそうに言った。
 マサは茶碗を右手で受け取って言われたとおりに香りを嗅ぎながら、左手を掲げてあらゆる混沌の絹雲を押さえこむように念じた。咄嗟に危ない境界を意識したのだろう。親子の軋み続けるような笑いがすっと消えたと同時に、どこからともなく聞こえていた烏鳴きや放水音がひたりと止んだ。すると自問し続けてきた三拍子、騙されている、きっと騙されている、やっぱり騙されている、の疑心符が、たまさかのたね、きっと偶さかのたね、やっぱり偶さかの胤、と擦るような囃したてになっていって、正覚は狂い鳴きの虫が蟠った額を思わず左手で押さえた。
 溥狸はマサの茶碗を包み込むように卓に置かせると、溥貉に目配せしてから一喝された子供のように背を丸めて隣部屋の扉へ向いた。取っ手が赤錆びた観音開きの鉄扉である。親子が金属音ひとつたてずに厳かに開いていくと、螺鈿で鳳凰を象った朱漆塗りの箪笥扉のような観音開きが続いていた。溥貉が極めつけの笑顔になって扉に手をかけた瞬間、父親溥狸が土鈴のようにころころ笑って無雑作に開けた。土間だった。焼成した大甕が隅にぽつんとある天井の高い土間だった。
 溥狸は一歩踏み込むやいなや倒れこむように前転した。そして叫んだ。
「聡明君子蹴一球!人就是人的肚子蹴!因此、君子是由于球的人!(君子は球を蹴る!民は民の腹を蹴る!よって君子は民に球を与えられた!)」
 後で父親の叫びを日本語に訳してくれた溥貉がマサを手招いていた。そして待ちきれないように腕をつかんで土間へひきずり入れた。土間が生きもののように拡がって段差を深めた。みごとに罠にはまった猪豚よろしく前のめりになって土下座姿になった。
「マサアキ…よく来たね」
 親子が立っていたあたりには気分だけの微々たる土煙が残っていた。しかし声は疲れ気味な女性のそれであって、明らかに左隅にある等身大の甕から反響を伴って聞こえてきていた。
「うちのポンポコちゃん…本当によく来たね。あたしが誰なのかはお察しのとおり。姿は丹生の朱に染まったけだものの骨、心は二夫にまみえて真定の白貉の妾にして、越後弁天橋は信吉が妻…佐渡へ向かう波間に消えて…」
「お母ちゃんの幽霊が何の用だ」
「おや…さすがに溥狸の見立てどおり、近衛の将にならんとする腹のすわった男ぶり」
 正覚が歌舞伎のような台詞続きに背を向けようとしたときだった。
「丑寅のさくらへ…あ~りぃ~」
 甲高く間延びした掛け声が終わらないうちに微かな射出音がした。中空に白い球が浮いている。思うまもなくマサが何気に構えていた臍上の両手に収まった。柔らかい皮製の球体だった。その手ざわりと厳かな薫香に混乱は頂点に達した。
「いい鞠だろう。雌鹿の白腹をちょっと燻した最上品だよ。中国土産には五色縫いがいいのだろうけれど、受け取る子は丑寅の桜、日の本の鞠使いの極みとなる子だから、あの撫女、清少納言が見たものと同じにしたよ」
「何のことだか…それに小便しちまったよ、お母ちゃん」
「かまわないよ小便なんて…丑寅の桜、あちらの東の方でポンポコちゃんの娘、あたしの孫が生まれただろう?正三郎の三人目の娘だよ」
「あっ?ああ…兄ちゃんのところの先月産まれた娘なら…」
「正三郎は早まってというか、開き直ってというか、水商売風な名前をつけちゃったけれど、摩魅なんて。いいかい、丑寅の東北の元木はサクラ、だから名前は桜と決まっているんだよ」
「そんな…こっちから見たら向こうは東北かもしれないけれど、あっちから見たら…」
「こちらから見て丑寅の東北、あちらから見たら未申の西南だろう。西南の元木はカエデじゃないか、どちらにしても相変わらず思慮の浅い長男坊だね。どちらにしろ、ポンポコちゃん、その子の名前を丑寅の元木の名前に変えて、いいかい正覚、一日でも早くあなたの娘にしなさい」
 マサはふっと口許を弛めて首を振りながら後退さった。そして強い哀しい目になって濡れそぼった股間を押さえた。
「逃げられないよ、ポンポコちゃん。すべては宿命、丑寅の桜が鞠を蹴って名をあげるとき、皇国はいや増す栄えん。ポンポコは近衛の将として只管に丑寅の桜を守らん」
「そういう言い方だと…本当にそこの河へ飛び込んじゃいそうだよ」
 錫の短冊を弾かせ合ったような笑い声がきらきらと甕から拡がった。
「人並みな言い草を覚えたものだね、ポンポコちゃんも。いいかい、正三郎は、来年の暮れには佐渡へ向かって泳ぎ出して戻らなくなるんだよ」
「なんだって?」
「詳しく話そうかね、この春に買ったものがあるだろう?家も佐渡の土地も担保にして手に入れたキタキツネがうろうろしているリゾート地、あれが下がりに下がって、狐の尻尾も残らなくなるんだよ。そして可哀そうだけれど正三郎は…そういえば、おまえもつきあいで、証券会社の変なものを買っているね?言っとくけれど、無くなっちゃうよ、あの証券会社」
 マサは幼児のように鞠を甕へ投げつけた。泣き黙るような唸り。そして小便に浸った手を甕へ向かって翳した。
「お母ちゃん、無茶苦茶なことを言わないでくれよぉ。兄ちゃんが死ぬとか…兄ちゃんが知ったらどんなに悲しむか、娘が生まれたばかりなのに」
 言い終わらぬうちに苛立ったような土煙が両脇にたった。右側の溥貉は幾分か醒めたような笑顔で鞠を拾った。左側の溥狸は半分に折れんばかりに背を丸めて低い声で言った。
「正三郎さんはもう気づいておられる。一昨日、証券会社から帰るときに稲荷に寄られて『わしの宿命、爺さんの因果応報じゃ言っても、いざこうなってみると、正直きついわなぁ』と言っておられたそうな。立派なお兄さんじゃと思う、ポンポコちゃん」
「あなたまでそんな…」
 以上の邯鄲の夢物語を、中国から帰還したポンポコちゃんならぬマサは、立派な兄ちゃんならぬ正三郎に泣く泣く話した。税関で怪しまれた白鞠はなんとか無事に手渡された。マミの喜びは尋常ではなかった。生きた子兎か星の核を与えられたような熱狂ぶりだった。
 ここまで、面白おかしく当然、昔話風に語ってきたマサは、マミがボールを放したので寝てしまったと見てとった。そして自分に言い聞かせるべく、そのボールを取って頭にのせて明確に言った。
「丑寅の東北とか、未申の西南とか、宿命がすでに備わっているのなら、そんなことはどうでもいい。マミは摩魅のままだ。マミが楽しければそれでいい。兄ちゃん、見ていてくれよ。俺も晶子も、この子が人間に与える喜びを、しっかりと見守っていくよ。子供を育ててボール蹴りをさせることなど…人間でさえもやっていることだ」
 マサは過日の哀愁にまた咽び泣きだしていた。そして父が嗚咽する胸元で、マミは覚醒しきった瞳を朧な満月に向けていた。

「本当に美人をちゃっかり連れてきたよ。絶対、あたしへの中てつけだよね。や~めた、狸の糞いじりなんて」
 サッチンはそう言ってまた割り箸をバケツへ放った。
「まず相手をよ~く見てみなくちゃ。美人はどこにでもいるけれど、サッチンのような女子高生はなかなかいないんだから…」
 マミはそう言いながら闇奥の薮に凝視していった。何やら息をつまらせる気配がやってくるが、それはサッチンのような優しい人間の敵ではない。大森の背後に灰白色のサファリ・ジャケットが見える。小柄で漆黒の髪に藍染めのスカーフを巻いているが、ローマン・ノウズの鷲っ鼻が際立っていて金色の瞳が猛禽を想わせる。マミの微笑みに応えるように口許を弛めたような気がした。
「こちらは金子さんと浮田さん、二人は近くの女子高生、もちろん学校側から許可をもらっているし、あと一時間もしたら帰ってもらわなくちゃね。こちらは加藤さん、NPO法人SNSP、在来種保護支援っていうのかな、そこの代表の方です」
「はじめまして、加藤明利(めいり)です」と金色の眼を伏せたながら低く明瞭な声がてきぱきと置かれた。「明るいに利息の利と書くメイリでアキトシと読まれて、電話の声もこんなふうに低いものですから、よく男性と間違われるんですよ」
「そうなんだよ」と大きく頷きながら大森は明利の字を宙に空書きして納得していた。「だから最初はどんな狸好きなオジサンがくるのかなぁ、と思ってさっき見たらこれでしょ、やっぱりご両親はMERRYのメリーをつけたかったんでしょうか?」
「さあ、どうでしょう。こちらのお二人のような可愛い女子高生ならメリーでも…」
「山形の狸が皇居に来ているんですか?」とサッチンはマミの眼に笑いかけながら割り込んだ。「それは冗談ですけど、発信機をつけるんだったら山形のおっとりしたポンポコリンの方がいいんじゃありません?なにしろここのは早いですよぉ。皇居一周を十六分で走り抜けて、利き足は左、そして無回転ボールも蹴れるんですよ」
 メイリは微塵も戸惑っていない冷眼で首を傾げた。
「いきなりさ、そんな冗談を言っても分からないだろう…」と大森は慣れない女の応酬で調停奴になってしまった。「あのね、こちらの黙々と作業をしている浮田さん、彼女は女子学院では凄いスポーツウーマンなんです。今日はこんなことやってもらっているけれど、え~と、浦和レッズだっけ?そこのレディースか、そのレディースの指定強化選手なんですよ」
「補足します。捕まえる捕捉じゃなくて付け足す補足」サッチンはじわじわと興奮していった。「おそらく女子学院だけに限らなくていいと思います。これだけのワンダー・セブンティーンはなかなかいないから、マミは一番町で一番のアスリートです。千代田女学園にも、麹町学園にも、こんなポンポコリンはいませんよ」
「やめなよ、千代田は四番町だし、麹町は三丁目じゃない」と言ってマミは膝をかつんとぶつけた。
「痛たぁ~これだもんね、この人間離れした凶暴さ」と言いながら思い立ったようにサッチンは手袋を大森へ向かって突き出した。「大森センセェーい、手袋引っぱってぇ?脱がして、膝をさすれないでしょ。そして見てほしいの、このまえゲンコで殴られたから膝が割れていないかどうか」
「たしか先月見せてもらったよ。きれいな膝で何ともなかったじゃない」
「いいから、痛みが残っているから、ニッペ(西部)先生のところへ連れて行ってください。だってセンサーカメラのニッペ先生が、骨密度測定だっけ?その骨密度測定のスペシャリストだから次に来たときに診てもらえば、って言ったの大森センセェでしょう?」
「いや、あれは象や水生哺乳類の話で…人間を診るなんて簡単にできないよ」
「あっ、そう、連れて行ってくれなければ、大森センセェの秘密を話しちゃうよ。人類研究部だっけぇ?そこの美人研究員の机に唇脚類を仕込んだこと、ばらしちゃうよ、いいですかぁ?」
「あれはジョークじゃないか…分かったよ。もう作業に厭きたんじゃないのぉ?」
「あたしだって一生懸命やっていますよぉ。なのにぃ、マミばっかり黙々と作業しているなんて言ってさ」

 サッチンと大森は、賑やかに言い交わしながら左奥の薮へ消えていった。恋情が思わせぶりだったり偶発だったりしても、男と女の言動が舞台の筋書きのようにリズムを持ってしまうから不思議である。それもこれも擦れ違う些細な憎悪をうっちゃるための人間の工夫なのかもしれない。思っていたよりも人間は共存を旨とした優しい哺乳類なのかもしれない、と今更ながらマミは実感していた。
「おもしろい女の子ね…」そう言ってメイリは手袋を外して口許を拭った。「でも、あなたにくっついているだけよ」
 マミは手先を硬直させて肩を縮こまらせた。
「裸同然の雌猿ね」と言いながらメイリは耳にかかる髪を摘まんだ。「これはという男に目をつければ、糞でも何でも、手を汚すこともいとわない女。十七歳だってぇ?あの子のママは有名なモデルだったらしいね。でも、あの子は何の取得もない透かし彫りの娘。学業にも厭きて、ご立派な女子高生の暮らしから逃げてみたって、所詮はいい歳して疲れた肢体を晒しているママの真似事でもするしかないね…」
 マミはメイリを一瞥もせずに気だるそうな息を吐いた。
「それとも、うちのママを可愛がってくれたオラフォ(金細工師)に架けあってみようか?大東京にお住まいのお嬢さまの人型はいかがでしょう、ってね」
 マミはメイリの小さめなガルモント・ブーツの微動を見ながら手袋を外していった。
「浮田摩魅、我慢強いのは知っているけれど、日本人好みの辛抱はもう通用しないよ。諦めたほうがいいよ。どだい無理な話さ、あんた達のように何でも食べちゃう奴らが、さっきは馬鹿の一つ覚えで唇脚類がどうの言っていたけれど、その唇脚類からティッシュ、レジ袋そして風船まで食べるんだから…お~きもちわるい。いくら繁殖できるからって、そうまでして都心の薮に住まなくたっていいじゃないのぉ?」
「都心の薮、って言った?」マミは両手の匂いを嗅ぎながら上目遣いになった。「御所のお近く、って言いなおしな」
 一瞬の葉擦れも聞き取れそうな静寂の後で、メイリは嚇々たる歯を煌かせながらさらりと笑った。
「どう転んだって汚らしい狸だろうが、違うかい?どこだってよかったのさ、優しい老人がいて、追いたてたりされなきゃ、そうだろう?それを調子にのってさ、今や『ため糞場』が三十ヶ所だっていうんだからね。しかも本末転倒っていうのか、笑っちゃうのは、あなたが人並みに糞を拾って水洗いしているんだからね。もっとも、人並みに生きるんだったら、糞洗いでも何でも、あの子につきあうしかないだろうけど」
「そこはちょっと違うね」と言ってマミは作業台からすとんと立った。そして濡れた眼を伏せながら背を丸めてメイリの前に立った。
「やっぱりいい匂いがする。それに無駄に大きくなくて、小さくて可愛い。動物性の食事だから、ニャンコの糞の方が臭いって大森さんが言っていたけれど、飼い猫、イエニャンコだったら後処理が完全だし外に出ないから…あなた、いい匂いがする」
「ありがとう、それに、あなた泣いているの?」
「思い出しちゃったの、新聞欄を最初に見たときのことを。えっとね…『陛下は住まいの御所近くにある、ため糞場を、たびたび訪れられて、自ら糞を採取。これを水洗いされて、未消化物の分析作業を行われたという』というところ、これを読んだところに、サッチンが大森さんとの出会いを語ってくれたので、糞洗いをやらせてもらえたら、仲間の、みんなの気持ちが分かって、人間の優しさが分かって、きっと最高だと思ったの」
 メイリの両耳が音を立てたかのように背後へ逆立った。
「だからさ、糞洗いのところなんだけれど、サッチンにつきあって始めたんじゃなくて、逆なんだよ、あたしがサッチンの恋に便乗させてもらったのかな」
「やっぱり狸だね」
「ここは東京、江戸前風に猯って呼んでくれない?どうしたの、可愛い顔が凄い顔になっているよ」
「よけいなお世話だよ。まったく、あんた達のようなプライドの欠片もない百足喰いと話していると、事の本筋をはぐらかされて…勢いを削がれかねないよ。まあ~ね、狸だから仕方ないかしら」
 メイリは上唇を舐めあげて心なしか両耳は落ち着き下がった。
「さて、あの二人が戻る前に話しをつけておこうね。言っておくけれど、逃げるんだったら今のうちだよ。勝負をかっちりつける気なら十一時、東御苑の蓮池濠沿いにある石室、その前で待っているよ、いいかい?」
 マミは不意を討たれたように反り返って呟いた。
「石室の前…あそこでいいなら…」

五月二十日 二十三時零分十一秒 山の上ホテル 別館 会議室・山
 約束がそもそも十一時だったので、些かも動じていない黄沢青(フォン・シャンチン)だった。平気で遅れてくる今時の日本人でも、中国人は黙って待つ。日本人も膨張アジアにあっては、一分たりとも違えないような厳格一点張りでは、小姑のように煩がられるばかりだと鷹揚になりだしたのか、それとも…中国人ゆえに愚弄しているのか。いずれにせよ相手は与党創政会の竹中喜久夫衆議院議員、二世議員で遊び人の阿呆とはいえ、今回の札幌と函館への出店計画ではキーマンにあたる。何時間でも何年でも待つ気で緑茶を啜っていた。
「你好!対不起、我遅到了(こんにちは!遅れて申し訳ない)」
 騒々しくドアが開いて、痩せぎすで美貌の議員が颯爽と手を握ってきた。
「いえいえ、私も今しがた到着したばかりです。それに日本語は、この四年間猛烈に勉強しましたから大丈夫です。むしろ、竹中先生が中国語を話されるとは思いませんでした」
「いや~挨拶くらいは、いくら阿呆な二世議員でも話せますわ。実を言いますと、てっきり今回の件で、仲介兼通訳で、誰かその…事務次官クラスがついてくるのかな、と思っていたのですが…そうそう、年末に金子次官は残念なことをしましたなぁ、何も薬を使わなくてもよかったのに」
「薬?ああメディスンの薬ですか。それが金子次官と何か?」
「お惚けになっちゃこまりますなぁ。痩せても枯れても三回は当選している身ですから、関わる件に望んでは、それなりに構えてきておりまして、黄さんの周辺も洗いざらい調査させてもらっていますよ」
「これは手厳しい」と言いながら黄は茶をすすめながら微笑んだ。「お手柔らかにお願いしたいところですが、先生はビールの方がよろしいかな」
「例えばですな…」竹中は諳んじていたように何も見ずに話し続けた。「お父さまのお名前は黄沢奇、戦後、人民解放軍から茶山新村へ戻ると、母親と共に師範大学の学生や教師を相手に餅菓子や西瓜を売りながら農業に勤しんでいた。そこへ改革開放政策、貯金を注ぎ込んで、好新村酒家を開業された。素晴らしい話だ。そして折もよく、茶山新村が面する五山路の周辺に化成品工場や縫製工場が立ちはじめ、公司の社員住宅や理工大学、研究所の職員が日夜来店して、好新村酒家は大繁盛。そして深圸で働いていた息子の沢青、つまりあなたが戻ってきて、五年後には実質上の経営を任された。さらに、あなたは好新村酒家を日本でも展開したい。そこで最初に接触したのは、奥さんがイタリア人のモデルで、香港で仕事をしたこともある関係から浮かび上がった金子次官…」
「分かりました。こちらで得ていた情報とは大違いで、失礼ながら、竹中先生は悪魔のように頭がいい方だと了解しました。そしてそういう方にはぴったりの日本語…えーと、願ったり、適ったり、願ったり適ったりですね」
「こちらも以下同文。なにぶん忙しない世相で、うちの秘書が言うにはですな、次官の自殺疑惑を探っている記者が煩くてしかたないと…」
「何のことやら…ビールよりもお酒の方がよろしかったら…」
「この時間ですからね、酒はもうたっぷりいただいていますよ。中国でも同じだと思いますが、やはり仲間の手の内は知っておきませんとね。同じ穴の狢(ムジナ)、あるいは、同じ穴の狸、という言葉はご存知ですかな?」
「知ってはいますが…中国ではムジナと狸は違うのです。その…竹中先生はムジナ、タヌキ、どちらなのですか?」
 竹中は反り返って高笑いしてから、痩せた腹をぴたぴた叩きながら顔を近づけた。
「こう見えても実はタヌキなのです。その永田町のタヌキに、同じ穴の狸にですな、直接に事の真相を聞かしていただいて…実はですな、生真面目で融通が利かない金子次官をどう処分するか、という懸念をこのタヌキもずっと持っていたのです。同じ穴のついでに、毒を食らわば皿まで、黄さんの仕事の手際を伺ってから、ビールで乾杯。そして北海道での儲け話を伺ってから、お酒にしましょう」
 黄はすらりと斜に構えて、煮詰めて泡吹くように笑いだした。
「分りました、竹中先生、あなたは立派な狸ですねぇ。しかし、私もなにを隠そう海狸鼠、ヌートリアという大鼠を知っていますか?そう、実は私も大鼠なのです。貪欲で好色な大鼠です」
 黄はそれこそ鼠のように辺りに目配せしながら顔を近づけてきた。
「いいですか、私がやったことは誰でもやっていることです。名前は申しあげられませんが、私のボスが関係している日本の薬品メーカー、そこが中国に工場を作ろうとしたとき、金子次官にぎゅっと、そう、ぎゅっと締めつけられて、うまくいかなくなる、日本のメーカーも大変、そういったところまで追い込まれました。そこで、酒家の私に、ちょっと紹興酒に漢方薬を入れて、しばらく静かにさせなさい、となったわけです。簡単でした、よくお酒を飲まれる方でしたから」
「その漢方薬、札幌にいらっしゃる折のお土産に所望したいですなぁ、なにぶん狸には敵が多いものですから」
「先生へのお土産でしたら健康をお約束するものでなければ…危ないものは秘書の方にお預けしておきますから」
 竹中は腕の金時計をちらり見てから、がっくんと仰け反って顔を両手で覆った。
「私の言うことを、この阿呆な二世議員の言うことを聞かない奴はこうなる。イタリーの嫁さん、そして高校生の娘…」
「そうです、あんなに綺麗な奥さんと高校生のお嬢さんがいて、そんな幸せがそうそう続くわけはありません…というのは大鼠の、ひがみ、でしょうか?」
「それは立派な、ひ・が・み、ですな」
 二人の瓦礫を掻きまわすような笑いが部屋中に鳴り響いた。金属音を伴ったような野蛮な笑いが渦巻いた。そしてインターホーンが鳴る。竹中は夜叉のような笑顔のまま受話器を取って「了解、了解」と繰り返した。
「黄さん、我がパートナー黄さん、五分だけ待っていてくれる?あんたは大鼠、私は狸、そして我々はパートナー。ちょい、待ってて」
 竹中喜久夫衆議院議員はそう言ってにこやかに部屋を出ていった。そして永遠に戻らなかった。

五月二十日 二十三時二十八分三十二秒 日比谷公園 花水木林
 法学部の平太(へいた)、そして医学部の鈴二(れいじ)は、暗がりで耐えているような花水木の樹に寄りそって、理学部の治朗(じろう)が着ている夜光感のある黄色い雨合羽を外灯下に認めた。
「あとは将軍と大佐か…いつものことながら、どうも後輩諸君は遅れてくるということを恐れていないようだ」
 平太が漆黒になれぬ夜空を仰いで嘆いた後に、鈴二は笑いながら言った。
「少なくとも遅れて現れるということは、女に注目されたり女を怒らせるには有効な手段だ」
 治朗はさすがに暑苦しく思ったのか、黄色い雨合羽を脱ぎかけたが、公会堂の方から自分を見ている銀髪の女と目が合った。すると逆にファスナーを上げきって窮屈そうに着直した。女は外灯に青白く照り返るニットのトレーニングウェアを着ている。日比谷公園なら深夜のジョギングも大いにありえた。
「いいね、ユヴェントスのウーブンだ。洒落ているね、若くないくせに」
 治朗はちょっと感心したように言って舌打ちした。
「目を逸らせよ、小母さんと遊んでいる余裕はないんだ。それに、今晩はどうも…メリィさんらしくない…」
 平太がそう言って訝りながら腕時計に眼を近づけると、治朗はその脂肪のついた猪の首を軽く押さえて気の毒そうに言った。
「メリィさん?メイリだかメリィだか…彼女の気まぐれは今にはじまったことじゃないだろう。それよりも、ああいうのを着た女と、たまには未来の官僚も運動してみたら?」
「俺たちの甘さ、マザコンをひけらかしてどうする」
「またそれか、甘ったれで、マザコン野郎で、果たしてどこが悪いのやら…Bellissimo uccello della notte(夜の鳥は美しい)」
 銀髪の女は意味が分かってか分からないでか、あるいは補足できたように嬉々として目を丸くする。治朗は両腕を広げてさらにイタリア語の賛辞を彼女に送っていた。
 鈴二はポテト片で銀髪の女を指しながら言った。
「あの小母さんはどう見てもタヌキじゃない、賭けてもいいよ」
 平太が軽く憤慨しながら目を逸らすと、反対側の暗がりに後輩の二人が現れた。
「将軍と大佐がおでましだ。一応、申し訳なさそうな顔はしている」
 平太が渋い顔をつくろうとしたとき、治朗の黄色い雨合羽の背中があえて視界を遮った。そして治朗は公園中に響き渡る大声をはりあげた。
「そこの二人!将軍、妹に手を出したかったら梅おにぎりだ、俺の梅おにぎりを買ってこい!大佐、大佐は苛々していらっしゃる閣下のためにメロンパンだ!」
 鈴二は治朗を抱き寄せるように花水木の下に座らせて笑い続けた。
「やってくれるね。これでもコーエンの証明を一晩中追いかけた頭なんだから、もうこれ以上笑わせないでくれ。それに話したいことがある」
「この麗しい青春のさなかにまだ連続体濃度をやっているのか。あれはアレフ2だ。昨日、梅おにぎりを買ったとき、レジの彼女がそっと教えてくれたのさ」
 平太は崩れ落ちるように座って治朗の肩を軽くたたいた。
「発狂集合論のことはさておき…その梅おにぎりの彼女って言うのは、この前、鈴二が言っていた上智の女のことかい?」
「そう、この俺のために梅おにぎりをこうして股間に挟んで一分、いわゆる人肌ってやつにしてからひっぱりだしてくれる女さ。閣下にさしあげようか?」
 平太は口端を歪めると、頭突きの真似をして頬を摺り寄せてきた。
「いらないよ、人肌は俺たちには暑苦しい。そして、いくらお前が美男でも、抜け駆けは俺とお前と鈴二、我ら本郷の頭脳三銃士にはないと信じている」
「有難う。俺もいつもお前と鈴二のことを考えている。この前も、家庭教師先の女学の子が、わざとらしい短いスカートをはいているのを見ていたら…ディラックの量子力学を枕にしているお前の顔が浮かんだ次第だ」
 鈴二はコーラを飲下してから舌打ちしてポテト片を何本か摘んだ。
「名誉は宿命として約束されているが…時には女もほしい。そして人生は短い。よってこの中から一番短いポテトをひいた順に、女学の噂の彼女を口説くっていうのはどうだ?」
「噂の彼女、浮田摩魅ちゃんか…」と言ってから平太は首をひねった。
「確かに可愛いがポンポコリンだっていう噂もあるしね」
「ポンポコリンだからこそ口説けって言われているとしたら?」
 平太と治朗は突かれた昆虫ように鈴二を仰ぎ見た。
「そういうことなら」と治朗は上体を起こして苦笑してみせた。「だいたいだな、お前はその手の中のポテトを三十分以上も見ていたのに、それをひいて順番を決めろと言う。本当に順番が必要なのか?」
 鈴二はポテトの束を平太の腹へ押しつけるように置いた。
「いいか、あの時間に煩いメリィさんは言った、四十五分かっきりに待ち合わせよう、日比谷の花水木林のところで、と。そして、四十五分とっくに過ぎた」
 治朗は悪寒がしたように合羽の袖を抱えて立ち上がり、萎縮した唸りをあげながら前方を指差した。さきほど来の銀髪の女が、白ばかりの花水木の枝下から母親のように微笑んでいる。もはや鈴二と平太には、治朗が指す方向に何かを見てとることは無理だった。
 女は後退る三人を呼び止めるように捧げ手を突き出して言った。
「土鳩っていうのは、夜になると本当に見えないようだねぇ」
 平太と鈴二は治朗に縋るようにして立った。
「君ぃ、黄色いレインコートの素敵な君ぃ、君は幾らか見えるようだから種類が違うのかなぁ?それとも狸や狐に襲われないために、年を追って少しは見えるようになったのか…まっ、いいか、どちらにしても出会いは別れの始まり。どこで一戦交えようか?言っとくけれど、梅おにぎりとメロンパンを買いにいった後輩の二人、もう戻らないよ」
 治朗は合羽を鈴二に渡して、平太を挽き回すように後背へ下がらせた。
「あなた達がいけないのよぉ?あなた達の糞に悩まされている人が多いのに、あなた達の糞を悪用する化け猫もいて、いいようにその猫に使われちゃってさ。東大生も何もあったもんじゃないでしょう。それに、女学の浮田摩魅をどうしようってぇ?やめときな。摩魅は唯一、オンリーワンっていうのかな…これからプロ選手になって、これから君の好きなイタリアへ留学して…そして、これから人並みの恋…これからInizio del viaggio della famiglia reale!(王族の旅のはじまり!)」
 治朗はごくりと喉を鳴らしてから、目を逸らさずに北の祝田門の方を指した。

 五月二十日 二十三時四十九分十四秒 皇居東御苑 石室前
 マミは石室の口脇にずっと長い時間座り込んでいた。慣れ親しんでいたその場所が、たった十分ほどで悲劇の現場になってしまったのである。こういうことがこれからも起きるのであろうか。きっと起きるだろう、マミが大事なものを守ろうとすれば。ボールを蹴り入れる神聖さから堀へ落下する惨状までは、わずか一歩なのだ。
そこは確かに神聖な場所だった。久しぶりに帰ってきたお父さんからボールを渡されたあの日、天空は関東の冬らしく殺伐と強風を巻き上げてどこまでも青かった。肌身離さず持っていた鞠をそっとお母さんに渡して、ボールを言われたとおりに石室の口に向かって蹴った。
「ころころころ、マミのボールはころころころ、きっと入るよ、ころころころ…」
 風が押したようには見えなかった。お母さんが入るように念じたからだろうか、途中で転がりをやめそうになったが、入口の段差手前で急に息を吹き返してころんと入ってしまった。それ以来、ここは特別な場所になった。ナデシコ・ジャパンを目指す少女の神聖な穴になった。閉じられた夜の御苑へ出入りする方法は、陛下、皇族の方々、警備の方々に申し訳ないので控えさえていただくが、夏などは夜な夜なプレース・キック百本を欠かさなかった。
 そのような場所で、メイリはマミにプレース・キックの勝負を挑んできたのである。五本ずつ蹴って、負けたら皇居を出ていかなければならないという条件を、マミは躊躇することなく呑んだ。
 マミは最初の一本を外した。メイリは全部外れて、最後はボールもろとも滑る脚のまま堀へ落下していった。不思議にというか、さすがに着水音は微々たるもので、ボールはすぐに浮き上がってきたが、メイリは浮かんでこなかった。後に彼女たちが比翼の術、飛び下り騙しを使うことを知って、マミは小さく舌打ちした。
「あの猫又、戸塚の踊場、横浜から来たって言ってたけれど…」
 マミにも人間に愛されるための彼女たちの姿態や仕種が少し分かったような気がした。しかし長らく気になっていたのは、なぜ挑んできた勝負がプレース・キックだったのか、ということだった。
 互いに思いが交差する、それが宿命である。そもそも「狸」の漢字は、中国で用いられた山猫や狢を一絡げに扱った中型獣からきている。そして金細工の工匠が、金を延ばすのに狸の毛皮を重宝したことから転じていって、純金の精霊にまで扱われる場と時があった。さらに永遠の光輝より再生の象徴として扱われる。しかしその反面、錬金に処される転変が死の象徴として忌まれることもあった。この純金の錬出と細工に関わった成り行きは、場所や時代によって山猫や家猫のそれと寸分違わなかった。もっとも家猫ならば日常から大事に扱われいるが、中世の場所によっては、金の再生、匠の成果を願って狸や猫の皮は工房に奉られた。
 マミの想像はやっと輪郭を辿れる満月に重なった。メイリの母も、おそらくフィレンツェの工房で大事にされたのであろう。娘のメイリが金とどのように関わっていたのか、機会があれば聞きたい。そしてくどいようだが、一族の誇りを賭けたこの度のような勝負で、マミが得意とするプレース・キックで挑んできたのは、黄金の精霊としての猫らしい意地なのか。
 後にお酒を飲めるようになった霊長類のサッチンが、ドイツの女子リーグに参戦すべく渡航することになった下戸のマミの肩をたたいてこう言った。
「思うにドイツの女は狸、ドイツに狸がいなかったらアライグマ、そして、あたしのようなイタリアの女は猫、猫なんじゃないかな。あれぇ?その顔は、なんか妙に納得している、っていう顔だね…」

 方法はともあれ桔梗門をいつものとおり越えて、和田倉の噴水公園の方を見れば犬の深夜散歩も見あたらない。肉体のそれではない精神的な疲労をひきずっていたので、マミは生まれてはじめて自転車を置いてきたことを悔やんだ。そして怪我をしているわけでもないので、人並みではない家族のお迎えは期待できなかった。それでも事の成り行きは知りたい。この度の騒動では、事前に澳門の父へ密に相談をもちかけていたので、いくらポンポコリンの娘とはいえ、人並みなせっかちな確認として携帯をプッシュした。
「…おかけになった電話番号は現在使われておりません」
「ふざけないで、疲れちゃったんだから…どうだったの、そっちは」
「すぐに終わったよ。録音したデータをあちらこちらへ送ったから、サッチンのパパをあんなふうにしちゃった中国人、あいつが捕まるのは時間の問題だろう。それから北海道の議員さんには気の毒だったが…まっ、いいか」
「へえ~、そうなんだ、やったね。議員さんって、あんな痩せた人に、お腹ぽっこりのお父さんがよく化けられたね」
「二枚目議員さんだったから楽だったよ」
「よく言うよ、本家たぬき親父が。そこに…お母さんいるんでしょ、寝ているよね」
「いるよ、そして寝ていない。お父さんの背中にはりついて、ぽっこりお腹をつまんでいるよ」
「なにを言ってんの、娘はまだ十七歳だよ。子供をからかうなっつうの」
「いや~、お母さんと一緒にね、随分と大人になったなぁ、と感心して、おまえの背中を見ているんだ」
 マミが振り返ると、ゆらゆらとママチャリ自転車が近づいてくるところだった。
 父正顕は、携帯を胸ポケットに収めるところだった。確かに背後から母晶子の右腕がまわってお腹をつまんでいる。街灯に照らされて蒼白に見える晶子は、随分と疲れたように笑っている。そして大きく振った毛織の左袖は毛糸が解れ乱れていて、親指と中指には包丁使いでもしくじったように絆創膏が巻かれていた。
「何をやっているのよ、こんな時間に、って普通はあたしが言われる台詞でしょ」
 マサは膝を叩きながら娘の憤慨に微笑んでいた。そしておもむろに晶子の解れ毛羽立った袖を取って自分の首に巻きつけた。
「なにしろ、お母さんは久々に五人を相手にしちゃって、このとおり。鳩は夜目がきかない、見えないはずだと油断していたらこうさ。そりゃあ鳩だって真剣だ、とくに街中の土鳩が、おコンさまに襲われるなんざ、一生に一度あるかないかだろうなぁ」
「おコンさまぁ?」
「そうだよ。あれぇ、おまえの顔見たら安心しちゃったのか、寝ちゃったよ」
 晶子はしっかり両腕を汗ばんだ亭主の首にまきつけて目を閉じていた。
「ちょっと待って。おコンさまって?」
「おコンさまは、ムジナもタヌキも、そして猯も崇め奉るニンコ(人狐)さま、お狐さまだよ」
「ちょっと待ってよ。お母さんがお狐さまってどういうこと?」
「どういうこともなにも」と言いかけながらマサはペダルを踏みはじめた。「父親が猯で、母親が狐、産まれた娘が猯だったら…娘は父親に似ているってことさ」
「わけ分かんないよぉ。人間みたいに都合のいいことばっかり言ってさぁ」
「いずれにせよ、お母さんはこの世界では神様だ」
「だったら…あたしも狐のほうがよかった」
「我がまま言っていないで走れ。いくらおまえでも、少しくらいは寝ないと、練習に差し障るだろう」
「ああ~狐のほうがよかった」

                                       了
狼王ロボ シートン動物記 (シートン動物記) (集英社文庫)

狼王ロボ シートン動物記 (シートン動物記) (集英社文庫)

  • 作者: アーネスト・T・シートン
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2008/06/26
  • メディア: 文庫



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茶箋丸   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 永禄十二年の白秋も穏やかな昼下がりのことである。
 信長は多気城に上がって真福院がうもれている杉平の方を見ていた。
 淡い霧が灰塊の雨雲をよんで、錆びはじめた桜葉を濡らそうとしていた。
 信長の心中が穏やかであろうはずはなかった。誰彼を失ったことは今にはじまったことではない。茶箋丸を北畠にいれたことを恥辱と見せかけることは一度でよい。しかし、この狂乱せんばかりの後味は何だ。あそこが竜蔵庵口とか…あのあたりが魔虫谷とか…なにも見えない。何故、こうも城攻めは早くから苛立たせるのか。こうなることが分かっていたように、すでに稲葉山にあって面白くなかった。
 信長は八月二十日に岐阜を出立してから二十三日には、事前に通じさせておいた木造城に入り軍議を開いた。これに対して伊勢の南を長らく安堵させていた北畠具教は、本拠である霧山城とも呼ばれる多気城から大河内城に移って決戦に備えていた。信長は二十六日には木造城を出て大河内城へ向けて進軍した。この頃、もう一方の阿坂城では大宮入道が降ることを頑として拒んでいたので、木下藤吉郎に攻め重ねさせてやっと落としている。藤吉郎はこのときに初めての深傷を負ってはいたが合流すべく急いでいた。翌二十七日、信長は大河内城の北東にある桂瀬山に陣を置いた。織田の軍勢は五万、篭城する北畠の軍勢はおおよそ八千。信長は予ねての思案どおり軍勢を四方に分けて、大河内城の周りを二重三重に柵で取り囲んだ。一気呵成の攻めに上がってからは、竜蔵庵口と魔虫谷にて北畠の奮戦に遭い織田は有力な武将を失った。そして阿鼻ばかりの二月が過ぎる。
 信長は焦り苛立つさまを隠さなかった。不測の態の最悪策をもって城中に使者を遣わした。すなわち北畠具教が多気城を去り隠居するのであるならば、信長の三男の茶箋丸を養子に据えて家名及び領地は安泰を約す、という譲歩した和議を申し入れたのである。北畠具教はこれを受け入れた。
「湯浴み整いましてございます」
 信長があからさまに怯えている女の声に振り返ると、雪木立のような寝巻からうなじを覗かせている具教の側室がいた。
 藤吉郎のいらぬ話では、伊勢神宮の宮司の娘で齢は二十八歳、小猿の藤吉郎を凌ぐ浅井へ嫁いだ妹お市にも似た背丈の柳姿であった。
 信長は寂々広がるままの西日を横目に湯殿へ向かった。裸になって僅かの冷気を清々しく感じいると、城攻めの難儀を伏せ従えようとしている自らを女の指使いに忘れようとした。
「三多気の桜を見せてやると言ったのか、北畠は」
 女は聞いていなかったか、聞いていても口に出すことを思案しているのか、湯気の下から見上げるだけだった。信長は構わずに女を横に抱いて痩せた乳房をまさぐった。
「確かに、あの山門からここ多気の国司の館まで桜の樹ばかりじゃ。桜、桜…」
 信長が乳房に飽きたときに女が囁いた
「ニ万の株があると…」
 女の囁きは天井からの滴りにまぎれた。
 信長は女の左手首を軽く捻りあげた。一条の擦り痣が見て取れた。
「わしなら素性がよくて大木になるのがはやい杉を植える」
「桜が…花がお嫌いな…」
「清洲にあったのは梅、紅梅だけだ」
 信長は吐きすてるようにそう言って女の肩を剥き出した。左肩に薄っすらと傷痕があった。
「これもまた桜好きな北畠の好みか」
「ここに来たばかりの頃、下の庭におりましたら…」
「北畠が噛みおったか」
「鷹が…」
「鷹と…北畠が、連歌や茶に通じている北畠が鷹をとな」
「木造が献上して…家臣の者へくだされたとか…」
 信長は傷痕に唇をつけ両の乳房を痛がるべく鷲づかんだ。女の背がびくびくと踊るようにうねりだした。
「鷹に目をつけられた女とな」
「山椒魚を…」
「山椒魚がいかがしたのだ」
「庭の池の…山椒魚を手にのせたとき…」
「あの池には山椒魚がいるのか。篭城の折のさかなとなったか、北畠らしい」
 信長は一抹の不快をもって女を仰向けに転がした。
「おおよそ三千の戸に四十ばかりの寺、そして八千の兵に山椒魚、それが我が茶箋丸のものか…山椒魚は何匹いるのだ」
「分かりませぬが…」
 信長は女の乳房の汗ばみに山椒魚のぬめりを見た。続いて赤子だった茶箋丸の虚ろな福々しさが明滅した。そして押し殺したように笑いはじめた。
「愚かな、八千の兵に五万の兵がかかるのだぞ。山椒魚に鷹、茄子のへたのような日の本に虎を狩っている大国、それが実の世だ」
 湯殿から出てすぐに信長は藤吉郎から長島の一向宗門徒の動きについて聞いた。
 湯浴みの後とはいえ心中に口元を綻ばせるような心地よさがひろがる。藤吉郎の言い方もあろうが、河川敷に小魚のように潜んでいる一向宗門徒を網にかける様は、思うだに爽快である。この感覚だ。河川がうねうねと続く…背後の葦原とて我と奴らが戦の場で…それが叩いても叩いても湧いてくる蝿のような奴らでも叩き続けよう。そして頃合をはかって蝿を生み出す肥溜めに油をまき焼き尽くすのだ。
 信長は池の流れ込みで茶箋丸の姿を見つけた。子供らしい声をあげて女房たちを追いかけている。一抹の不快が滴ろうとするとき、信長は振り返って藤吉郎に言った。
「猿、城攻めはおぬしと長秀に任せる。戦を地の上の道理と解せぬ輩に関わっておる暇はない」
 信長は山椒魚を摘まんでいる茶箋丸に目を細めてさらに言った。
「城ごとに別の茶箋丸を入れればよいのだ」
 翌朝、信長は早々に霧山を下った。

                                       了
敗者の条件 (中公文庫)

敗者の条件 (中公文庫)

  • 作者: 会田 雄次
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2007/02
  • メディア: 文庫



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麻痺   Vladimir Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 すばらしい夜に乾杯しよう。
 グロズヌイの市街戦へ投入される寸前に撤退の断が下されなかったら、俺はきっとあの婆さんに今度こそ間違いなく喉の動脈を斬られていて、こうして輝かしい西暦二〇〇〇年の春、麗しいここクラスノダールで頭の悪い女たちを相手に酒盛りはできなかったに違いない。
 頭が良かったらグロズヌイなんぞへは行かなかっただろうって?そりゃそうだ、違いない。軍の命令だからといって、魔法を使うシャイフとかいう爺さんたちの町を攻めるなんて…たしかに頭が悪い。
 俺の名前?ロシア人だからイワンでいいだろう。だからといってこのイワンはそんなに頭が悪いわけじゃない。ただ運がなかっただけだ。そして今晩は早くも顎が痺れてきている。
 そもそも俺は器械体操が得意だった。鞍馬の腕前は少佐の腰を揉むときに今でも役にたっている。しかし、朗読の声が大きいから俳優になったら、と言ったのは母さんじゃないか。父さんは父さんで、自分がモスクワ・オリンピックの選手に選抜されなかったものだから、俺の筋肉ばかり鍛えようとして…。妹の言葉が俺を決めてしまった、殴られ役の肉体派の俳優という俺を。そして台詞読みの練習にマヤコフスキーの立派な詩を怒鳴り散らしながら、あちらこちらの撮影所を熊ダンスのようにまわったり、ベルリンのソヴィエト兵役にまで応募したりしたものさ。
 本当に運がなかった、南へ行くまでの俺には。
 父さん、ショローホフ先生、人々はイスラームだったのだ。あんた達は彼らを山賊だとか、呪術使いだとか言っていた。母さんや妹にしても、南の女という女がすべて入浴しないようなことを言っていた。驚くな、俺は、このイワンは、去年の夏、グロズヌイの手前の村、そこにある滝で女神に出会った。
 俺がボリスの豚野郎から初めて聞いた時、彼女は我々の小隊ではすでに噂になっていた。ボリスの豚野郎は脚を撃たれてしまったが、あのときは目を輝かして脈絡なく娘のことを話してくれた。そして聞いているだけだったら男を廃業している。夜だ。伍長が一緒だった。滝って言ったって洗面器で受けとめられるくらい小さいのだ。伍長は背が高くてあんなに美男なのに、チェチェンまで来ても恵まれている。服を隠されたときの女の泣き声を想像してみろよ。昼間は滝のずっと下流のところで南瓜か何かを洗っている。何を洗っていたにしろ、白樺のように色あせた頭巾のしたに覗いた顔は、噂どおり、息を呑むほど美しかった。
 挑みかかってきそうな眼というものは傲慢だ。怯えや慈しみは与えられた美しさと若さの後ろに身を潜めていればよい、とまで言わせる傲慢そのものだ。
 そして予感があった。女神の白い背中…俺たちは彼女の目の前から去るだろう、と予感していた。
 このイワンは卑屈な女ばかり見てきた。たとえば母さん、母さんは叔母さん夫婦が車を買った晩に大声で泣き出した。妹は車を持っていれば勃起しない爺さんでも構わない。男の前で卑屈じゃない女がいるのかって?あそこはロシアじゃない。あそこは洗面器ほどの滝に屈みこむと膝と胸を吹き飛ばされるチェチェンなのだ。そして彼女は卑屈じゃなかった。むしろ彼女は幸福そうだった。妖精や女神っていうものは、もっと個人的なもので、森の奥や早朝を好むものとばかり思っていたのだが…。
 はっははは…イスラームでは生きている人を崇拝することは禁止されているらしい。しかしチェチェンのイスラームでは、シャイフという爺さん達が昔のレーニン像のように崇められているのだ。改宗したのかって?俺は宇宙時代のロシア人だぞ。しかし女神がいるチェチェンのことは何も知らなかった。ショローホフ先生も教えてくれなかった、チェチェンがどこにあるのかさえも。教えてもらったのは、ぶら下がること、持ち上げること、そして攻めることの三つ、あとはネヴァ川よ、大いに氾濫せよ。 
 おかげで年末はたっぷりと偉大な俺の国について勉強した。
 ここの首筋の傷を見てくれ。そしてここのページのこのあたりだ。
 えーと、強制移住が終わってチェチェン人がチェチェンに戻れたのは、1957年のこと…母さんが生まれた年だ。そんなことはどうでもいい。ここだ…かつて自宅だった場所へ帰ってみると、そこには見知らぬロシア人たちが住んでいた。今もチェチェンの人口のニ割を占めるロシア人の多くはこの末裔らしい。だから俺はあの村の婆さんをロシア人だと思って背負ったのだ。そして胡桃を割るような刃物をぐっと突き立ててくれて、こんな首にされてしまった。ボリスの豚野郎が傍らで見ていてくれなかったら…。
 えーと、ここを読んだときは笑ってしまった。…連邦が崩壊した1991年、チェチェンは独立を宣言して、翌年の新しいロシア連邦を結成する条約への調印を拒否した、とね。ロシア人っていうのはどこまでも芸術家向きな連中らしい。冬の夜にウオッカを啜りながら辛さを繰り返して聞かせるために、南の砂漠へ、東のツンドラへ、巡礼の旅のように流離ってきた。これからも流離い続けるだろう。
 そして彼女を思い出すと、俺の笑顔も消えて芸術家の額になる。俺にも運が、ロシア人としての運が向いてきたらしい。
 夏がくれば寝込んでいる父さんも亡くなるだろう。横領の疑いの心労じゃなくてウオッカの飲みすぎだ。
 腹黒鯉の妹も襤褸雑巾のように死ぬだろう。
 母さん、母さんは大丈夫、俺が一緒にグロズヌイへ連れていくから。改宗しなくても大丈夫、受け入れてくれる、あの婆さんなら、きっと。

                                       了
カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/09/07
  • メディア: 文庫



カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09
  • メディア: 文庫



カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/02/08
  • メディア: 文庫



カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/07/12
  • メディア: 文庫



カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ドストエフスキー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/07/12
  • メディア: 文庫



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私のトゥアカナ   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 予言というものは、期待を抱かせるような明澄さを伴っていなければ予言ではない。そして予言が下される時は、夏の晴れた朝でなければならない。コンビナートを予感させるような変電所の鉄塔は、今日がちゃんとあることを捩じ込むように立っていて、寝不足の頭には心強い。むしろ手前、連島(つらじま)の蓮田の厳かに白い花弁は、できすぎている一輪のように思えてしまう。それも母、良枝の予言を辿ってきた高揚の一端なのだ、と一彰は押さえこむように息を継いだ。
「母さん、ピーカは、なんとか時を突くことができたのかもしれないな。それにしても、ジョージの奴、トゥアカナを待たせるつもりか…」
 迎えるように蓮田の上の掃天に日輪が弾けていた。昨日までの口にすることも憚れるような狂態が、蓮の葉の露に合わせて踊っているようだった。
 夏の夜の夢は素直に夢一夜として片付けられるが、夏の白昼夢も疲労を根拠に一笑にふせないものだろうか。もっとも、それができれば良枝と一彰の親子も、警察も狂人も巫女も苦労はしない。すべては、一彰が屋(おく)良枝の息子である、ということに収束してくる。良枝は奄美でユタと呼ばれる巫女の一人だった。そして多くのまともな人間が、人の良さからなのか、ユタの予言とその顛末に関わりすぎている。人が人である限り、人は予言に関わってしまうのだ。恐るべき共感の甘い水。まともな人間が半信半疑で関わる好奇な眼差しは、どこか川面が淀むあたりの艶々とした布袋葵を想い出させる。そして陽射しを独り占めせんばかりの緑葉の向こうには、水郷巡りの舟を見送ったばかりの母のなで肩があった。
 船着場で微笑む仲居姿の母は、女子高生と見紛うほど童顔だった。
「みんな、あん子は蛙さんや言うちょった。あんたは蛙さん。急いで泳いではつまらん。そぅやね、仕事も水に関係したもんがよかちゃろう」
 母は袂を濡らすことを気にせず、一彰の背中を拭きながらそう言った。布袋葵を蹴りながら、小さな一彰も妙に納得していた。上水であれ下水であれ、なんとなく生活用水と関わりそうな気がした。実際に船着場で幼児が遊ぶのを見守るようになった高校二年の夏、柳川市水道局を訪ねて課題レポートを作成した。こうして誰もが一彰の卒業後には、鳴り物入りの水道局員が誕生するものと思っていた。
 夏の花をつけた布袋葵は、手頃であれば観賞用に持ち去られることもある。世界は流れに任せているのだから急変は致し方ない。そして蛙の子が蛙の子としてそれなりの居場所に収まる、とばかり限らないから嫌でも退屈はしない。人の子も馴染んだ水路を出るまでは、世界観を決定してはいけないということだろうか。
「お母しゃんは、先生についてリンツへ行くけん、あんたもついてきんしゃい。そう、ヴァイオリンの野村先生。リンツは地図やとウィーンの左の方ね。水道の勉強?急いではつまらん。リンツでゆっくりドイツ語を勉強してから、理科系の大学で水道のことを学んだらよか」
 野村仁作は、母良枝が女子高生時に、東京の原宿で知り合ったヴァイオリニストだった。どういうものか、このときにユタの血潮は何ら泡立たず、十一年後に、野村が「くら花」の客として来ることは予知できなかったようである。その後度々、公演先からお菓子を送ってくれたり、忘れた頃に単独で、そして快復の見込みがなくなった奥方を連れて、遥々柳川まで訪れてくれたこともあった。そして一彰が渋い顔でレポートを書いていた頃、野村はリンツの交響楽団のコンサートマスターとして招聘された。奥方は三年前に他界されている。母の判断はいつものように早かった。奄美のユタの血をひく良枝は、船着場に迎えの舟が着くことを確信していたかのように、悠々として泰然と渡欧に臨んでいった。さらに矢のごとき光陰の後に、一彰はまたもあっさりと言い渡された。
「お母しゃんは、お父しゃんについて日本へ戻るけん、あんたはどがんすっとか?どこっち…今度は倉敷。やっぱり水の町ばい。まあ、あんたは就職にせんね研究にせんね、ゆっくり考えない。そいにしても九州の言葉は抜けなかね~」
 一彰と良枝が野村姓になって六年後、義父となったヴァイオリニストは、恩師の要請で倉敷の楽団の音楽監督を引き受けた。急がない一彰は、やっと工科大学の二年生になったところだったので、単身残って同窓生ニネッタのアパートへ転がりこんだ。小まめな一彰が時折、息抜きのように鏡の自分を眺めているのを見たニネッタは、彼に「ピーカPica」というあだ名をつけた。カササギ(鵲)の学名Pica picaによるが、少々頭でっかちながら勤勉な彼をニネッタは愛しはじめていた。半年後、ニネッタのお腹が見る見るうちに膨らんできて、翌年の秋には(母良枝が言うには)海の女神なる馮祖もかくあるやの美しい女の子が生まれた。
 一彰は異国で娘の父親になった。人の親になればなるで、もう一人分の水代を手当てしなければならない異邦の日々。学業を中断して就職口を求めるに、やはり水道施設をうろついていると、オクト・ワグネルというドイツ商社が、変な日本人の若者によるドイツ語の下水膜分離の論文を見つけて面接を設けてくれた。翌月には単身でウィーンへ赴任する運びとなり、日本へ「オクト・ワグネルの水理事業部で、排水処理を担当しております野村一彰と申します」と電話する身になっていた。
 商社マン一彰は、東奔西走するのも板についてきた三十路前の七月、水理事業部の日本支社がある堺に出張することになった。昼食前に母へ電話した。良枝は夕刻の連島をウォーキング中とかだったが、九州弁ではない言葉遣いで待ち受けていたように言い放ってくれた。
「大阪までくるんじゃったら倉敷へ顔を出せぃよ。ここは水を商売にする者は絶対に来なけりゃならん土地じゃ。それにあんたが来ることはもう決まっとった。あんたはここに来て人助けをやることになっとる」
「相変わらずだな」さすがに一彰も厭きれかえってしまった。「父さんと何かあったのかい?そんな口調だと、日本語を覚えようとしている娘には会わせられないな」
「お母さんにやらなんやら、会わのうてもかまわんよ。たぶんあんたが来る頃は、お父さんのツアーに同行しとる」
「それはそれは…それで、いきなり人助けって何なんだよ?」
「ここに来りゃぁ分かることじゃ。あんたが単なる下水屋で終わるか、ヨーロッパどころか、世界をかけめぐる水の救世主になれるか。ここに来りゃぁ分かることじゃ」
「母さん、電話をしたのは俺の方だけれど、そういう巫女さんのご神託そのもの式の言い方は、会ったときだけにしてくれないかな」
 三秒ほどの沈黙があった。なぜか一彰には、流れてきた艶々の布袋葵が、淀みの汚れた油溜まりに遭遇してしまった想いが滴った。
「あちらにゃぁ水島のコンビナートがある。その先は瀬戸内海で、四国をまわってやっと大海原に出れる。有明の海からも遠い~と思っとったが、ここからはもちぃと遠い。その遠い遠い大海原の彼方から倉敷へやってくるロマンチストがおる。あんたもつまらん男で終わりとうなかったらここへ来なさい。はあ…こねいなこたあ言わんよ」
「行かなかったら、どうなるっていうんだよ?」
「あんたはここに来る。あんたはここに来て人助けをやることになっとる」
 二日間の休暇を倉敷行きにあててみると、両親はやはり演奏ツアーに出ていて、宿泊としてミズリン(水島臨海鉄道)沿線のホテルを紹介された。迎えるように一両ワンマン電車が、市駅からコンビナートの三菱自工前まで運行している。午後のミズリンは登山電車のような気軽さがあって落ちつけた。
 そもそも倉敷という町は、人をして気分整然とさせてやがて和ませる。誰しもが歴史ある町に惹かれるのは、事実としての人の営み苦楽の残り香に共感するからだろう。そこへ甘やかさない流水の実線、そして冷徹な無機質さが否応なく置かれる。これら近代の活力が古色と唱和していて、風景の構図に無理がないことは言うまでもない。例えれば酒井抱一の夏秋草図屏風。気分整然とする逞しい日本美とは、鋼を思わせる侘び銀を背景に、何食わぬふうに揺れる夏草なのであろう。そして町はなまこ壁から鋼の舳先まで、琳派の水流が治めている。追いかけ流れるように花がなければならないが、藤房の頃は過ぎていたようでる。しかし夏の朝は、天啓のような蓮の花に極まるだろう。
 一彰は乗客の若い女性のシャツの白さに、唸るように嘆息を漏らしてしまった。地元の芸大生の四人組ということで、欧州帰りで少々疲れ気味な一彰を、酔夢に誘うように微笑ませた。そして観光客らしい航空会社のバッグが重なるようにお揃いの五人。スペードが左に転がったようなモンキーテイル(銀羊歯)のマーク、どうやらニュージーランドからのご一行と察せられた。これまた重なるように揃った黒目がちで野太い面立ち、いかにも頑健そうなポリネシアンである。居並ぶ真ん中で、女子大生のちらちら視を受けている紺のダブル・スーツの隆々とした青年。よほど手に入れたジーンズに満足しているのか、裾から腰までの縫製を舐めるように見つめて頷いている。しかし一彰からすれば擬視すべくは、彼の両脇に寄り添っている些か幽玄な白髪の老爺たちである。奇抜に照り返す白い拘束衣のような服を着て、夫々が鼻をほじったり、指を甲へ反り曲げたり、黄色い歯で聞こえない歯軋りタップを見せたり、聞こえない口笛を一生懸命に吹いていたりしていた。
「キ・イァ・オッラ」濃いコーヒーを差し出すように青年が話しかけてきた。「こんにちは、マオリ語でキアオッラは、こんにちは、です。お仕事でいらしたのですか?」
 一彰は適当に頷くしかなかった。日本を出てから随分と商売っ気ある会話好きな男になったつもりでいたが、白髪豊かな行者の四人兄弟のような方々に一斉に注目されてはかなわない。青年の真摯な眼差しと前歯の輝白は、女子大生たちの喋りを止ませている。彼は彼女たちを一瞥もせずにジーンズを紙袋に戻して話し続けた。
「私はマンガと申します。マンガは日本語でいう小川とか分かれた流れです。クライストチャーチから来ました。ここ倉敷の姉妹都市です。毎年来ていますから、日本語もこれくらいは話せるようになりました」
 一彰は身をのり出して流暢さを褒めようとすると、電車が減速していって栄という駅の停車がアナウンスされた。女子大生たちが席を立って降車するのを見送って目を戻すと、マンガはまた袋からジーンズを取り出していて鼻に押しあてていた。
「ワヒィネ・テェア(白い女性)…ジンバブエ・コットンの匂いがします。桃太郎の匂いがします」
 一彰がマンガの慇懃な身嗜みから、繊維の輸入業者なのか尋ねようとすると、遮るように言ってきた。
「私の旅を聞いてもらえますか?この桃太郎を穿いた女性が、彼の永遠のネネなのです。私は見つけなければならないのです、テ・アリキヌイ(偉大な首長)の名にかけて、艦隊の勇者のチルドレンとして」
 マンガはそのままうな垂れるようにジーンズを撫でながら深く息を吐いた。
「とても大変な旅です。海を越えてくることは、情熱には簡単なことです。しかし見てもらえなければ、情熱にも大変な旅になります。どうしてあなたたちは、もっと見てくれなかったのですか?話しかけてくれなかったのですか?あなたたちが私たちの方を見てくれていたら…」
 一彰は頷きながら上着を抱えて彼らから離れた。白昼から宗教的な怨嗟を想ってしまっては仕方ない。そしてマンガが老人たちをひきずりながら常盤駅で降りていくのを静観するしかなかった。マオリの青年は別れの言葉を言いかけたが、鳴らない口笛爺さんに強引に肩をひかれるようにして降りていった。
 一介の商社マンならではの市中擦れ違いの後味が、都合よく甘露に収まるはずはなかった。
 水島駅で降りてホテルのチェック・インを済ませると、急かせられるように水玉ブリッジラインを西へ蓮田をめざした。ネクタイは弛めて額に汗して西へ向かうがに股は慣れたものである。あたりを振り仰いで見ると、多島海へ漕ぎ出したように丘陵群に囲まれている。やがて左の方に禿げた小山が見えてきた。
 水島は国運に一喜一憂した三菱の地である。一彰が地下工場のあった亀島山を見上げると、公園の姿を戴いていても隠せない古傷は明瞭だった。さすがに母の血が過去の悲鳴を聞きつけたのか、しばし佇んで斜面の奥に暗がりの工員たちを見ようとする。何も見えなかった。掘削音と思しき響きも即座に嘲笑う自分が、そんなものは頭の隅から離れない膜分離装置のモーター音だろうと言う。このまま母の猿回しにつきあわされては敵わん。蓮田の前に立ったら御破算を快哉すべく母さんへ電話しよう。一彰はそう決心して足早に歩きだした。
 掃天の下、陽光を恥らうこともなく受容して繁茂した蓮田の前に立った。
「参りましたよ、仰るとおりに連島の蓮田を眺めるところへ。マーラーの九番?哀愁の響き?聞こえないよ、そんなもの。そっちの演奏曲目?母さんも随分とα波を受け取る脳になられたことで。朝じゃないから蓮の花は見つからないけれど、哀愁どころか、キラキラした大人の町じゃないか。ここで俺ごときに何ができるのやら…」
 母良枝は忙しそうに言った。
「うだうだと言うていね~で、花があろうとなかろうと、あんたを頼って人は来るから待っておりんせい。そんで待っていりゃぁ、ジョージ・マンガが姿を現すじゃろう」
 一彰は生涯のうちで数えるほどの愕然に不意うたれた。膠着したままの携帯からは、音合わせしているヴァイオリンが笑うように鳴っている。憂鬱なマーラーの交響曲は音楽監督の勝手だが、うら若い女性の失意の倉敷女一人旅ならまだしも、マンガご一行のジーンズ抱えての漫遊には似合わない。地団駄踏むように蓮田沿い歩道の縁石に座りこんでしまった。
「分かったよ、母さんの言うとおりにするから。教えて、そのマンガのこと、そのマンガにさっき電車で乗り合わせたけれど…あいつら何なんだ?」
「今、え~つらと言ったようだね?複数形で聞いたよね、ジョージのこと」
「ジョージ?そのジョージの他に四人、やっぱりぎょろり眼で、春雨みたいな頭で土嚢袋を被ったような爺さんたち」
「あんたにだけ見えたのじゃろう。さすがは我が息子だわ。すばらしい。うちにさえジョージ一人しか見えなかったっちゅうのに。もしもし、聞いとるん?しっかりせ~、あんたはうちがムチャカナの浜で産んだ水の伝説なんじゃから」
 一彰は汗か何か分からない人肌をつたう痛いような水を感じていた。
「ジョージは、あんたに言わせりゃあジョージたちは、ひ・ね・も・あ、ヒネモアを必死になって探しとるのよ。日本人の女性で、名前がえーと、ちぃと待って、書きとめたんじゃけど、そうそう、まずネネ、アキ、モン、ヒサ、頭をとって並び替えると、彼らの伝説に出てくる美女の名前ヒネモア、となるらしいね」
「ちょっと強引な感じもするけれど…」
「最初に目をつけられたじゃけど、お父さんのところのヴァイオリンとチェロのカルテットの女の子たちじゃったのよ。ジョージも手を尽くして調べてきたみたいじゃったけれど、亜紀さんっちゅうチェリストだけが名前が一致していて、あた~ヴァイオリンの久本さんでヒサはまあええとして、はぁ一人のヴァイオリンの根来さんでネネ、モンの方はチェロの門脇さんに合わせたようで…聞いておるかい?」
 一彰は唸るように頷きながらネクタイを解いてはずすと、犬が笛の波長を感ずるように遠くの信号下に停まったタクシーに刮目した。
「ともかく芸術家っちゅうもんは敏感じゃけん、早速、小野亜紀さんと門脇さんが気持わるいと大騒ぎしはじめて参ったよ。お父さんはこうゆぅこたぁ苦手じゃけん、うちが事態の収拾に乗りで~たら、なんとジーパンのサイズが合わんからアウト、間違いをあっさり認めたのね。ほんで改めてヒネモア探しに市内へ行くとゆ~ので、ちぃと可哀そうになっちゃってね」
「つまり…未だにマンガは、あるいはマンガ御一行は、そのヒネモアを見つけるに至っていないわけだ」
 一彰はタクシーから降りた頑健な色黒の青年、そして彼を取り巻く綿屑のような揺らぎを認めた。
「よい機会だから助けてやってくれないかな。勇気をもって時間に遊んでみなさい。時を突いてごらん」
「時を…突くって言った?」
「あんたの言いたいこたぁ分かるんじゃ。お母さんのゆ~ことにつきあってくるだけでもで~れいじゃったのに、なんで、マオリ族の嫁探し予言につきあわなくちゃならんのか、っちゅうところじゃろうね」 
「マオリ族の嫁探し予言か…分かった、一旦切るよ。母さんの優しさは知っているから、ここまでの流れは仕方ないと思うよ。俺も仕方ないから流れに、ちょこっとぼんくらり、乗ってみるよ。流れにつきあってみて、柳川のカササギも…時を突いてみるよ。父さんによろしく、こういうことが苦手なのは普通だから、って言っておいて」

 伝説によればヒネモアとは、ニュージーランド北島のロトルア湖の東岸に住んでいた部族の酋長の娘である。巫女のような存在だったらしく、男性との自由な恋愛は禁じられていて、立場上から許婚は部族合議に委ねられていたようである。ところがトゥタネカイ、湖上のモコイア島に住む身分が低いトゥタネカイという青年が一目惚れしてしまう。またヒネモアも男前で武術に巧みなトゥタネカイに惹かれる。身分を越えた相思相愛を不穏に思った父である酋長は、足となる舟を全部隠してしまう。しかしトゥタネカイが吹く笛の哀切の調べに我慢しきれなくなったヒネモアは、腰に瓢箪浮き輪をつけて島へ泳ぎ着いてハッピーエンド、ということで悲恋には終わっていないようだった。
 円通寺山を見上げる川沿い橋手前に、瀬戸内の匂いがする静かな展示室があった。玉島歴史民俗海洋資料館である。暑苦しいスーツ姿の男二人が、倉敷丸の模型を見ながら神妙な面持ちで話しこんでいた。
 ジョージ・マンガは密やかに訥々と話しきったあとで、少々充血した潤み眼のまま呟くように言った。
「このヒネモアという情熱的な女性が、マオリ族の女性のシンボル、象徴、そう象徴と言ってもいいのです」
 一彰は絵に描いたような伝説を聞きながら、マオリの巫女と奄美のそれが変に重なり当惑するしかなかった。
「それにしてもだよ、そのヒネモアが、桃太郎のジーンズを穿いていたわけじゃないだろう」
「ジーンズを穿いている女性はネネです」と言ってジョージはまたジーンズを出そうとしてバッグに手を入れた。「ネネの彼が伝えるところでは、小柄な日本女性のようで、桃太郎の特製の小さなジーンズが似合うと…」
「ネネの彼?ああ、ネネの相手か」一彰は二階から降りてきた老夫婦を見てジョージを肘で突いた。「分かった、分かった。こんなところで出さなくていいよ、ネネが小さくてジーンズが似合うのは分かったから」
「あなたに私の使命を知ってほしいのです。倉敷の人たちを困らせているわけではありません」
「だからといって仕事中のナースを追いかけるのはまずいだろう」と言いながら一彰は紐結び掲示の方へ目を転じた。「まったく聞いていて眩暈がしたよ。警察を呼ばれなくてよかったなぁ。もうその病院で九件めだったら、相手が君をどんな目で見るか、だいたい見当がついてくるだろう」
 老夫婦は案外に海外からの見学者も来ていることに感心して満足そうに出て行った。
「水島中央病院だっけ?そこに勤めるナースの名前まで調べているような周到さがありながら…周到さっていうのは、つまり他人を煩わせない堅実さというか、堅実さは誠実なことで…ともかく、いきなりマオリの花嫁候補だと言われたら誰だって驚くだろう。ましてジーンズを合わせてみてくれとか言ったら、警備員が跳んで来るにきまっている」
 ジョージは感傷的な長い睫毛をちらちらと瞬かせて、半ば苦笑しながら帆に息を吹きかけた。
「そうですね、驚きますよね。私も分かっていました。ヒネモアとトゥタネカイのように、うまくいくとは思っていませんでした。そうですね、イングリッシュが突然、島にやってきて、マオリの女を差し出せ、と言っているのと変わりありません。相手に対しての尊敬がなければ、すべての行いはイングリッシュの誘拐と同じです。しかし相手に対しての尊敬があれば、思いは伝わる、そうではないのですか?」
「それはそうだ、まったくそのとおりだ」一彰は左手薬指の指輪を見つめながら言った。「マオリでもヤポンでも…オーストリーでも思いを伝えることはできる」
「私はあなたと出会えて幸せです」と言ってジョージは心なしか耳を赤らめた。「あなたとあなたのお母さんに感謝します。今回で最後にしようと思って来ましたから、私もとても一生懸命でした。四人の思いさえ伝わればそれでいいと思っていました。そうでしょう、四人とも一九一七年生まれなのですから。普通の人ならば、見えない霊と結ばれることは、やはり怖がるでしょう」
 一彰は偏頭痛を持ったように小さくよろめいて、外で話すべくジョージの確かな肩を鷲掴んで促がした。左に本覚寺の甍を見ながら川沿いに歩いて行くと、右に幼児の戯れ声が聞こえてきて公園の噴水らしきものが見える。ジョージはほっとしたようにバッグから小振りな水筒を取り出した。
「さっき電車で見えていた四人の老人なんだけれど、今の俺に見えていないのはどうしてなんだろう?」
「おそらくですね」ジョージはベンチに座ると倉敷バーガーの袋を取り出した。「彼らの霊に繫がっている私の気持が弱まったことと、怒らないでくださいね、彼らがあなたに期待しなくなったのでしょう。ごめんなさい。どうぞ、トマトとレタスが美味しいバーガーです。食べたことはありますか?」
「いや、倉敷に来てまだ何も食べていないんだ」と言って一彰は受け取った白焼きパンズに目を細めた。「一九一七年生まれなら、生きていれば九十歳以上か…壮大な話しすぎて、あの母さんの息子の俺でも、ちょっと太刀打ちできないよ。霊感とかいうのかな…俺は母さんみたいに元々強くないんだ。普通の人間なんだよ」
「お仕事はサラリーマンですか?」
「そう、一応、暇そうに見えるけれど商社マンでね。排水用の浸漬型膜分離装置、というのを売りまわるしか能がないんだ。オーストリーに妻と六歳になる娘がいて、べったり現実側に身を置いていながら…もしかして母さんのユタの血を、ほんのちょっと受け継いでいるのかな、なんて思うときは大抵、営業成績が芳しくない、駄目なときなんだ。それは分かっている」
 ジョージはバンズの中の薄切り蓮根をつまみ出して日に翳した。
「あなたと出会えてよかった。あなたは正直な人だ。仕事に疲れたら、お母さん、お父さんのことを思うのは普通でしょう。普通のことは幸せ、幸せな浜辺は普通の浜辺、その幸せな浜辺に、ずっと自分だけがいることを恥ずかしく思っているあなた。あなたはタンガタ・マイア、マオリ語でいう勇敢な男です。あなたはお母さんの子供、お母さんの血を受け継ぐ勇敢な男です。勇敢な男は、この穴があいたポテト・チップです」
「それはポテトじゃなくて蓮根、え~とね、ロータス・ルーツかな」
「ともかく、土の中の野菜ですよね」そう言ってジョージは蓮根を咥えて続けた。「この野菜はずっと土の中にあったのに、今日は太陽の下にあります。そして私の口に入って、私の体になります。勇敢な野菜はなんでもできます、不可能なことはありません。私も勇敢な野菜、レンコン?レンコンです。レンコンは途中でやめません、決めたことは最後までやります」
「な~んだ、諦めたわけじゃないんだ。まいったね」
 ジョージは飲みこんでいない舌の上の蓮根を見せながら頷いた。一彰は仰け反って吹き出した口許を押さえた。男二人が苦しそうに大笑を堪えて動きまわる。一彰はひいひいと泣くような笑いのまま噴水へ駆けていった。ジョージは低重音の笑いのまま水筒の水を飲み下した。
「さあて、いくら時間に遊んでみろって言ったって、子供みたいに笑っている場合じゃないだろう」
「あとは近くの玉島第一病院のナース四人、最後はくらしき作陽大学の音楽学科の女性四人です。心配しないでください、紳士的にやりますから。そのために慣れないスーツを着て頑張ってきたわけです。大丈夫です、日本では珍しいマオリですが。南から来た変な人の儀式だと思ってください」
 一彰は水洗いしたハンカチを絞り上げて大きく頷いた。
「分かった、つきあうよ。倉敷に来ても、相変わらずの鍵っ子で、母さんも誰もいないことだし」
「ありがとう、あなたをトゥアカナと呼ばせてください。トゥアカナは兄貴のことです」
「兄貴か…いいさ、美人のナースやら女子学生やらに会えるわけだから…そうか、この太平洋を越えたロマチックな話、どうも傾向として君の好みがだいぶ見え隠れしているような気がするなぁ」
「私は終わるまで真剣ですよ」と言ってジョージは水筒とビニル袋をバッグに押し込んだ。「マオリの霊が伝えてきた花嫁に相応しい日本女性がいた、それを確認できればいいのです。私がマオリの霊を使って日本女性を口説こうとしているわけではありません」
「ごめん、ちょっと冗談で言ってみただけだよ。伝説にしても男と女は…」
 一彰はのっそりと顔を上げると、蚊をたたくように左の耳を押さえた。
「しかしだね、あくまでその四人の老人から伝えられた女性の名前だけが頼りなんだろうけれど、その…誰それの相手がネネとか、彼の相手はアキとか、ちゃんと組み合わせがあるわけだから、それを教えてくれよ」
「誰が誰の相手なのかは私だけが知っています」と言うなりジョージはバッグを抱えて重たげな息を吐いた。「しかし、言うことはできません」
「多忙な商社マンがつきあうって言ってるんだよ」
「彼らには名前がないのです。彼らは一九一七年に生まれて…同じ一九一七年に亡くなっています」
「ということは…」一彰は彼らの夭逝を知ってあっさり消沈してしまった。「名前をつけてもらう間もなく、産まれてすぐに亡くなったのか…」
「彼らの伝えるところでは、そのとき世界中で流行していたスペイン風邪が原因だそうです」と言ってジョージはそっと肘で一彰を突いた。「あなたが彼らを再び見ることができれば説明しやすいですね。彼らはいつもこの辺にいます。例えばネネの相手は右腕のところ、アキの相手は右肩のところ、モンの相手は左肩のところ、ヒサの相手は左腕のところ、いつも一緒です」
「そうか、彼らに姿かたちがあったら、四人がかりで俺をそこの川に放り込みたいところだろうな」
 ジョージは仰け反ってベンチを軋ませながら男らしく笑った。
「マオリは乱暴なことはしません、守るために戦うときもありますが。マオリは『ひねもすのたりのたりかな』なのです。私の一番好きな日本語です」
「俳句だったな、たしか。一日中のんびり、なるほどね、一日中のんびりできたら幸せだなぁ」
「そうですね、幸せになりたいですね。幸せは『ひねもあ』と『ひねもすのたりのたり』ですね」
「やっぱりそうきたか」一彰は上着を抱え直してベンチから腰をあげた。「ジョージはなかなかしたたかそうだからな、君のヒネモアについては一向に話してくれないね」
「行きましょう」そう言ってジョージは立つなり深々とお辞儀した。「よろしくお願いします。明日の今ごろは雲の上にいるでしょうから、今日だけが残されている時間です。私のヒネモアのことは、使命が済んだらお話しします」

 夕映えが食堂から見る池に橙雲をひいて、幻想を慈しむように美しかった。学生ホールに充満していた煩雑な輪唱のような会話音も途切れがちな時刻。一彰はジョージの英語書きの手帳を見ながら冷めたコーヒーを啜った。
「ナースの仕事は大変だからね、機会があれば、条件のよいところへ移るのは日常茶飯事らしいよ。それにしても、たった一人だけヒットしたヒサ、松田久江が婦長、ヘッドだったのには驚いたなあ。しかも、こういうことを言ってくる人に慣れているのか、平然と『五年に一度くらいは、病院のどこそこに留まっていらっしゃる霊に会いに参りました、という方がいらっしゃいますのよ』と言っていたもんね」
「あの人は本当にヒサなのかもしれません」とジョージは額を柑橘の皮のように照らして言った。「ヒサはワァエア、母のようなところがありますから、ヘッドのように結婚している人なのかもしれません」
「人妻でも構わないって言うのか」と一彰は手帳を放るように返して疲弊した眉間で言った。「それなら、左肩だったか左腕だったかに、そのへんのところも含めて実際に聞いてみてくれよ」
「トゥアカナがそう言うなら」と言ってジョージはシャツの左袖に目を細めて集中した。「彼が今でも私に期待していてくれているなら…ハエレ・マイ(こっちへきてくれ)…ヒサは…ああ、ヒサは窓を見上げて泣いて…」
 一彰は咄嗟に両手を突き出して前傾に揺れていたジョージを支えた。
「分かった、無理するな、まだ終わっちゃいないんだから。これからお嬢さんが二人来るんだから、勝手に飛んで行かないでくれよ」
「ありがとうございます。あのブルーの窓は…ステンドグラスでしょうか。ステンドグラスを見上げて泣いていました。あのヘッド・ナースは、そんな感じの方には見えませんでしたが、明るく元気な人ほど分かりませんから…」
「たしかに、人には言えない泣き言の一つ二つあってもおかしくはないね」そう言ってから一彰はテーブルを軽く小突いた。「しかしね、そこまで分かっているのなら、その左腕さんは、正真正銘のヒサはこの人だ、と言ってくれないものなのかい?」
 ジョージはぎらりと真摯な眼差しを上げてゆっくりと左腕を後ろにまわした。
「私は彼らと会話しているわけではありません。彼らが伝えてくるものを、可能な限り私自身の眼と耳と肌で受けとめてあげるのです。大丈夫、冷静です。下水のメカニックを売っているトゥアカナには難しいのですね」
「そんなとこかもしれないね」
「詳しく説明しましょう。いいですか、今は私もあの人がヒサなのか問いかける気持で左腕の彼に意識を集中しました。すると飲みすぎて気を失うときのように、このテーブルが手前に巻くように…そう、スシ・ロールみたいに巻かれて、目を閉じると、ストライプで切られたブルーのガラスが見えてきて、鼻がちーんと…ああ、つーんですか、そう、つーんときて哀しいと思ったらあなたが目の前にいました」
 一彰はそれこそ患者を落ち着かせるように、席を立ってジョージの傍らへまわろうとした。気がつくと、いつのまにか女の子が立っていた。大柄なジョージの背後で、髪の長い薄桃シャツ濃桃フリルパンツの子が覗くように会釈した。おずおず粛々の形容に値する奥二重の涼しい面立ちである。霊の伝言に夢中になっていて気がつかなかっただけだが、一彰はその儚いふうな出現の仕方に期待に似た感情を持った。
「あのう、ハープ専修の松本寧々(ねね)は私なのですが…」
「お忙しいところご足労いただきまして」そう言って一彰は深々と折れながら椅子をすすめた。「学生課の方でお聞きになられたかもしれませんが、単刀直入に申しあげますと、こちらのクライストチャーチからいらしてるジョージ・マンガさんが、百年近く前に亡くなられた方々による倉敷との交流神話、つまり、い~話だなぁ、っていう心温まるよい話を完結させるべく、お名前がネネという方を探して来られたわけです」
 案の定、寧々は抽象絵画を鑑賞しているような瞳で頷いた。
「え~と、コーヒーか何か冷たいものでも…分かりました、ジョージ、アイス・レモンティ持ってきて。ハープってあの必ず美女がぱらぱらっと弾いているハープですよね。ごめんなさい、いきなりですから驚かれたでしょうけれど、怪しくもありませんし、下心も何もありません。さらっと聞いていただくと、一九一七年に当時、世界的に流行していたスペイン風邪で産後すぐに亡くなったマオリ族、彼もそうですが、その亡くなったマオリ族四人の方にも、かたちだけでも優しい日本女性の気持と娶わせよう、つまり寧々さんだったら『私がネネです。遠い国の過去からの情熱を一時だけでも受けとめてあげましょう』と言っていただけたら、このクライストチャーチと倉敷の交流プロジェクトは貫徹されるのです。彼もまだ若いのにマオリの文化大使としてもう一週間近く滞在して頑張ってきましたが、明日には帰国の途についてしまうのです。どうか彼がアイス・ティを持って戻ってきますので…」
 ジョージはロング・グラスの首をぎこちなく支え持ってきたのだが、視界に黒いジャージートップの骨っぽい肩が割り込んだ。髪を結い上げて見下すような猫眼の女の子。苛立ちを隠しもせずに、チェックのパンツ脚を交差させてかっきりと腕を組んだ。
「あたしが打楽器専修の小松原亜紀、これでも忙しいんですけれど」
 一彰は太鼓叩きらしい威勢に少々たじろぎながらも、椅子を引き寄せてすすめた。
「お忙しいところ申し訳ありません。学生課の方でお聞きになられたかも…」
「あそこ、ちょっと離れたあそこから様子を見させてもらっていました」と言ってから亜紀は寧々をちらりと見て椅子の端に腰をおいた。「だいたい内容は分かりました。マオリとか、まあポリネシアの音楽は敬愛していますから、彼、ジョージさんが明日帰られるのだったら、あなたが何やら言っていた『情熱を一時だけでも受けとめてあげましょう』と言ってあげて済むのだったら、あたしは構いません。伝説とか神話とか、古い言い伝えはインスピレーションのもとですからね」
 ジョージは大いに感服したようで、例の潤み眼でグラスを丁重に亜紀の前に置いた。
「しかし!」亜紀はぎゅんと声を放ってレモンティをぐっぴりと飲んで反り返った。「言うておくけれど、田舎の娘だと思って馬鹿にしたら、ただではおかね~よ。書類にサインすることとか、住所や電話番号を聞きだそうとしたり、親の仕事や会社を聞きだそうとしたり、会話の一部始終を録音したりしとったら、すぐに警察を呼ぶよ。岡山の女は、けっこうしっかりしとるのよ。情にあちぃ分だけ、裏切られたら、鬼退治までやらんと気がすまね~けれど、大事にしてくれるんじゃったら、マオリでも宇宙人でも、惚れ合ったら添い遂げてみせるよ、ということを憶えておいてください」
 亜紀は言いきってから、寧々のレモンティを持ってくるようジョージに目配せして微笑んだ。ロマンティックな展開では、女性の胆略と短絡が必要なのである。寧々は亜紀に説得されて暫し同席することを快諾してくれた。ジョージは初めて恥ずかしそうに小さなジーンズを取り出して話しはじめた。
 ジョージの誠実そうな話し方もあってか、女性二人も陽射しを追うように和らいでいった。
「よくもさ、そんなロマンチックなこと考えたよね」と言って亜紀は悪戯っぽく寧々に寄りかかった。「松本さんはさ、ハープ専修だからやっぱり教会みたいなところで『あなたの情熱を受けとめてあげましょう』なんて言ってみたいでしょう」
「あたしは…うちが良寛さまのお寺の檀家だから…」
「そうか、うちも実家は、れっきとした備前の宝鏡寺だからなぁ」と言って亜紀はレモンティを飲みきってから苦笑してみせた。「だいたいさ、アキとかネネならまだいいけれど、ヒサとかモンとか、ち~と今どき無理じゃろう、っていう感じ。教会よりもやっぱりお寺が似合うお婆ちゃんの名前だよね」
「あっ、いた、うちの近所にもう亡くなったけれど、糸偏に文で紋、お紋さん、って呼ばれていたお婆ちゃんがいた」
 お嬢さま寧々の記憶が引っ張り出してきたお紋婆さんの姿を想ってか、亜紀は吹き出してしまった。二人は女子笑いの無邪鬼につかまったように笑い転げる。ジョージも旅の終点が見えてきていたのか、安堵したように笑みを湛えて、カップとグラスを持って席を立とうとした。
「そうか、教会か」そう言うなり一彰はジョージの右袖を殴るように掴んだ。「さっき、水色のステンドグラスを見て泣いている、って言ったよね。やはりヒサは教会にいるんじゃないのか?つまり、彼女たちが言うようにお婆ちゃんの名前だったら、明治生まれとかの女性の名前だったら、残念ながらずっと前に亡くなっていて、教会の墓地に埋葬されている可能性はある」
「そうよ、そうよ」亜紀は突くようにしてジョージを座らせた。「一九一七年?そう言ったでしょ、その頃だったらモンでもヒサでも、そうネネやアキだっていそうだよ。その頃のネネさんだったら、あたしたちみたいに栄養たっぷりじゃないから、きっと腰も小さくてそのジーンズも合いそう」
「そうか」一彰は契約をまとめ上げた直後のように拳を強く握りこんだ。「百年越しのロマンスなんだよ。肉体があろうがなかろうが、同時代で想い合う出発点があるから、どんなに歪曲されようが無視されようが、想いをそっくり先の時代の水にのせることができるんだよ。ごめん、俺は水道屋なんだ」
「水道屋さん?」亜紀は不思議そうに頷いてからジョージを見据えた。「まあ、あたしも恋愛はいっぺんがえ~じゃろう、と思います」
「あたしも…恋愛は同時代で、しかも遠距離だったら熱く燃えあがると思おるで…」と呟きながら寧々は俯いた。
「もう時間は遅いけれど電話してみるね」と言って亜紀は携帯で検索し始めた。「松本さんは水島の教会を捜して電話してみてくれるかな」
「何て言ったらいいの?」
「何て言うのか?だから、クライストチャーチの人が信者の方の行方を尋ねていて、今日しか時間がのうて、TV局も後を追いかけておるからとかなんとか…」
 ジョージは彼女たちが、夕闇迫る池を背景に優雅に無邪気に舞っている極楽鳥ように見えた。トゥアカナなる野村も携帯を取り出して怒鳴るように話しだした。
 とまれ宗教の別などを超えて、肉体のない切ない想いを今日という現実において関連づけようとする彼女たちとトゥアカナ、百年近く前に夭折した四人が、この国の精神性を信じて自分に旅をさせたのは、迷信や徒労や狂気という言葉をけっして口にしない彼や彼女と出会わせるためではなかったのか。ジョージはまた潤み眼になって、カップとグラスを持って配膳窓口へ向かって走った。

 二十四時に近くなった頃、水島カトリック教会でジョージと一彰は、仄々とした奇跡を確認した。ねねという女性信者が、大正七年(一九一八)生まれで昭和四十二年に亡くなっていた。文(もん)という女性信者は、大正八年(一九一九)生まれで昭和四十七年に亡くなっていた。水島へ向かう前に兆しは下されていて、水色のステンドグラスが実際にある駅近くのカトリック倉敷教会で、ヒサという女性信者が大正七年(一九一八)生まれで、終戦の昭和二十年(一九四五)八月に亡くなっていること、あきという女性信者が大正九年(一九二十)に産まれて、洗礼を受けた翌月に亡くなっていることを確認した。
 倉敷が初めて教会台帳に記載されたのは明治末期のことであるが、そもそも布教は港湾の玉島から始まって、カトリック倉敷教会の前身は昭和五年、倉敷紡績の女子工員のために現在の地に献堂された。水島カトリック教会は昭和三十九年、倉敷教会から独立し聖堂と司祭館を建てたようである。
 一彰はカトリックの教会とは無縁だと思っていた。しかし倉敷教会のステンドグラスを仰いだとき、リンツの家族の許へ戻ったら教会へ足を運んでみようと思った。
 父親になったカササギにも、マザコンと言われようが、母の導きは相変わらずあるのだった。多忙な中にあっても、忘れがちな母の導きを、教会で思い出せればよいのである。母から受け継ぐ己の血がどのようなものであれ、水の豊かな倉敷における精神の高揚を示唆したのは、やはり母だった。
 ジョージはタクシーから降りる間際になってからさらりと言った。
「トゥアカナ、もう今日になってしまいましたが、帰るのを延期しますので、またどこかでお会いしましょう」
「そうだな、もう朝になってしまった」
「明日の朝…あの蓮がいっぱいあるところ、トゥアカナと私が出会った、あの蓮の花が咲いているところで会ってください。蓮の花を見たいのです」
「それも左か右の腕が言っているのかな…明日の朝はともかく、今日の午後、昼飯でも食べようか?」
「今日の午後、昼食ですか…トゥアカナ、申し訳ないのですが、昼食は先約があります。ヒネモアとの約束です。昨日出会ったティンパニー奏者のヒネモアが、饂飩と団子の美味しい店へ連れていってくれるそうです」
 一彰は思わずジョージの分厚い胸を突き押してうなだれた。
「分った、もう寝よう。何かあったら、教えた携帯の番号へ電話してくれ。こんな時間だけれど、おやすみ、ジョージ」
「おやすみはポマレ、おはようはモレナです。モレナ、私のトゥアカナ」

                                       了
ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/07/09
  • メディア: 文庫



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亜空間のフリオ   Jan Lei Sue [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 退屈するということが信じられない歳になってみると、紀元ニ千年という年になった今でも、僕の回顧は何物かに触れても、なにごとかの音を聞いても、目新しそうな事物を見ても、いつも二十ニ年前のうだるような熱さのあの日々へ辿りついてしまう。特に今日の午後に襲ってきた記憶は極めつけと言えるだろう。
 そもそもこの厚ぼったい皮だけを残して乾燥しきろうとしている僕というトマトが、断水の苦情の電話ばかり受けているような役人になれたのは、あのフランスの栄光が投げ捨てていったプールのおかげなのだ。
 何を言っているのだ?しっかりしなくちゃいけない、近いうちには三十七歳になるのだから。
 僕はフリオ・オレンベ。ここヤウンデに生まれたフルベ族の子で、少しばかり教育をうけることができて、市役所の水道課に勤務している。家族は父が去年、二千年を迎える前に亡くなったが、まだまだ元気な母と、八年前に亡くなっている兄ジャンの嫁アン、そして十二歳になった遺娘アマンダ、つまり僕以外は女ばかりだ。
 今、僕は胡瓜の切片を浮かべたタスカーを飲んでいる。そして今日の午後に襲ってきた二十二年前の記憶を、今夜という今夜はこちらから手繰り寄せようとしている。すでにはっきりとしていない意識が、狂った象によって亜空間へ持ち去られる前になんとかしなければならない。
 日本人の農業技術者タナカ、いやナカタ…もう名前は忘れてしまった。近眼で青白い顔をしていて、よりによって運悪く僕の国へ来てしまった失望感、その悲哀が露骨に撫で肩に漂っている男だった。童顔だが僕よりもちょっと年上かな…米の作り方を教えに来たって言うから…名前はライスにしておこう。先週、その日本人ライスが僕を電話で呼びつけた。
「前の住人の後始末は終っているって聞いてきたのだ。ところが、この便所を見てくれ。残滓が溜まっていて、どう見ても掃除はしていないし…これはどう見ても前の住人が使った電気代の請求書じゃないか…そこで、あなたに来てもらったのは、水道代…いや、水道がどうなっているか知りたかったのだ」
 日本人の話し方はかつてビアフラから来たミシェルにそっくりだ。ミシェルは夢中になると教科書を丸めて棒にして卓を叩いて、フランス語からイボ語へすり代わっていることを忘れて話していたものだ。
 ところで僕はこれでも日本人の世話をするのは六人目だったので、ライスが持ってきた前住者の水道代の請求書に電気代のそれを重ねてゆっくり柔和に言った。
「大丈夫です。電気、水道は前の住人の支払いの残りが必ずあります。途中で仲介業者…やっぱりシャルルか、シャルルを拾って行きますから、私とシャルルと水道局と電気局をまわって精算しましょう」
 ライスは見よがしに舌打した後で言った。
「早くすっきりしてもらわないと…水道も保証金が必要だと聞いたのだが…」
 僕も日本へ行ったら支払いに追われそうだ。
「必要ですね…日本では信じられないと仰ってもここは…そうですね、よく調べていらっしゃったみたいで、一週間に一度ぐらいは断水がありますので、あの水槽から汲み上げるポンプが必用でしょうね」
 ライスは日本語らしい「サイアクだ」を連発した。僕は再三、お国のような水道水が豊富な国と僕の国が違うことを説明して、華奢なライスの肩を軽くたたいて外へ出た。
 シャルルは自分の出戻りの妹を僕へ押しつけようと躍起になっているので、水道局と電気局をまわった後で、僕は英語をあまりよく聞き取れないシャルルに向かってフランス語で言った。
「料理と掃除ができるメイドを紹介してくれと言うので、役人であるこのフリオからすれば、あんたの妹しかいないと言ったのだ」
 シャルルは大変に感激していたが、シャルルの阿婆擦れ妹のことだから二ヶ月もすれば何かしら問題を起して、ライスの宅どころかまたこの界隈にもいられなくなるだろう。 
「私は運転ができないので…ワイフに食料品が売られている市場や店を教えてほしい」
 そうだ、機嫌を直したライスがそう言って手をひいてきた小柄なドイツ人女性を見た時、僕の脳裏の襞が揺籃したのだ。
 ライスの妻は横柄そのものだったが…いや、横柄な態度ゆえに彼女はシモーヌに酷似していたのだ。
 そうだ、人間は白だとか黒だとかではない。人間の美しさになくてはならない横柄さや威厳…それは人間の生活に関わる実力の一部でしかないだろう。しかし美は瞬間のものであるから、生活に関わり続けることなどできないことは誰でも知っている。シモーヌは太ってしまっただろうか。母親が太っていたから、きっと太ってしまっただろう。そもそもシモーヌは生きているのだろうか。軍人になるためにビアフラへ戻ってしまったミシェル、彼を追ってシモーヌも行ってしまった。シモーヌの母親は83年の軍政の後から沈黙している。いずれにせよ、僕の中のシモーヌは、敵意の眼差しで美しいままだ。敵意…横柄さや威厳よりも明確なものだ。
「玉葱はチャード湖の近くで栽培していまして、オニオン・スープには最適です」
 僕は市場で玉葱の横に西部で作られているじゃが芋を見つけて、続けてジャーマン・ポテトに言及しようとした。
「トマトが日本のトマトに似ているって聞いていたけれど、本当ね」
 ライスの妻はトマトを手にとってライスよりも綺麗な英語を発音した。そして僕が次に指差したキャベツを無視して、白菜を見つけて日本語で「ハクサイ、ハクサイ」と繰りかえして喜んでいた。
「日本の方は胡瓜がお好きだとか聞きましたけれども…」
「あれは里芋…タロっていうのかしら…」
「そうそう、日本の方はあの芋もお好きとかで…」
「あたしはもともとドイツ人なのよ、見れば分かると思うけれど。それよりもあの芋の隣にあるのはキャッサバじゃない?」
「よくご存知で…ここではマニヨックと呼んでいます」
「水に晒して青酸成分を抜かないと…大変よね、何でも食べなくちゃならないんだから」
 僕は信仰もあって殆ど肉を口にしないのだが、この時に肉食人種が露骨に見せた軽蔑は軽快に耳元へ響いた。
 ヤウンデの市場やスーパーマーケットで売られている魚介類は、冷凍ものがほとんどである。魚食人種の日本人からすれば新鮮とは言えないらしい。それでもギニア湾の海老だけは種類も多く、彼等にまずまずの評価をしてもらっていたので、ライスのためをと思ってドイツ人の夫人に薦めたのだが、彼女は乾いたような平目の切身を見つけて買ってしまった。
「彼は平目のソテーにクリームソースをかけたものが大好物なのよ」
 僕は平目の料理のことはよく知らないが、ヤウンデではリンベやクリビの漁港に行かなければ新鮮な平目などは入手できないと聞いていた。
「パンはフランスから輸入した小麦で作られているって聞いたけれど、お店があるところ…バストスっていうのは、この辺じゃないんでしょう?」
 そうだ、僕はバストスの地区がすぐ近くだと言ってから…米、ライスの仕事である米に言及してしまったのだった。するとライスの妻は怒りだした。
「この国の米ですって?彼自身が自分の国の米でさえ食べないのに、こんな国の米をどうして食べるの?」
 僕は周囲を振り向かせた彼女の剣幕に立ち止まって動けなくなった。しかし僕は水道局でライスが言ったことを縋るように伝えた。
「米の質はともかく…潟で米を作っているようだから、その潟の整備を進めるために来たんだ、と仰ってました」
 ああ、そうだ、すると彼女は美しい目に憎悪の緑色の炎を浮かべて、僕を羊の頭突きのように突き飛ばした。
「彼が好きでやっていると思う?彼がブレーメンで学んだのはグリムの辞典のことなのよ。それなのに、赴任先はモラトワ、どこか知っている?スリランカよ。スリランカを知っている?そして今度はカメルーンですって…彼はもともとエリートじゃないのよ。彼は日本人、イワテの農民の子なの。そして彼は日本人なのに、トウダイを卒業していないのよ」
 僕は枯れたバナナの葉のように揺れながら倒れた。長い時間座り込んでいたように記憶している。ライスの妻は周囲の黒い僕の同胞達を見まわしてから、明らかに自己嫌悪に陥って逃げるように走り去っていった。
 気がつくと、こうしてタスカーを椰子酒のように少しずつ飲みながら、僕の苦笑はじわじわと記憶の彼方の亜空間を手繰り寄せようとしていた。
 
 僕は泳げなかった。
 兄のジャンが高校を卒業するまで泳いでいたらしいことは、ジャンよりも二才歳上で、流れ職人のようなフランス人を婿にいれて、一家総出でパンを焼きつづけているフローラが証言してくれた。もっとも今となっては、プロパンガスの爆発事故で黒焦げになって死んでしまったジャンが、あの貯水池のようなプールに脚を浸している姿を想像するのは難しかった。
 ジャンは一度だって泳げることを自慢したことはなかった。玉葱とじゃが芋のスープの夕食の時に、僕が泳げないことを嘆いてめそめそしている様を見て、父が言うよりはやく「水の中なんかにはいっているんじゃない」とたしなめた。それを聞いて母と姉は軽蔑とも哀感ともつかぬ目で僕を見ていた。
 姉のグレタは泳ぐ必要はなかった。姉の時代、クラスの半数以上の女子は泳ぐことなど考えたこともないのだった。ところがシモーヌ…あの元気なシモーヌには、姉の時代もなにもあったものじゃなかった。
 プールは彼女が黄色い声をあげて、飛沫を管理人のヌジャンカの顔にあびせる午後を待っていた。そう、プールはシモーヌのものだった。
「ちょっと、見てみなさいよ。性懲りもなく、あの痩せっぽち」
 シモーヌと彼女のとりまき連中の声は、晴天の下の僕にはつきものだった。その中のひとりのアンがジャンの嫁さん、つまり義理の姉になろうとは…。
「フリオ!そっちは陽が強い!また熱をだすぞ。こっちだ、こっちだ。ニュートンの再来、フリオ様の席はこちらだ」
 つぶれかけた椅子に片足をのせて、いつも煙草を噛んでいて恥ずかしげもなく脇へ唾を吐くヌジャンカが手招いていた。
 殆とんどの人は、煙草を噛んで唾を吐き続けるヌジャンカを軽蔑していた。僕もヌジャンカのほかに煙草を噛んでいる人間を見たことがなかった。
 しかし、ヌジャンカが孤独とは思えなかった。ヌジャンカの昼には僕達とイプアの親父たち、つまり警官たちがいつも群がっていたし、ヌジャンカの夜にはミラの兄貴たち、つまり戦争ごっこ好きの仲間と、リンベやクリビから来ている行商人たちがいつも群がっていた。周りが周りなので、ヌジャンカが言っていたことを誰もまともには聞こうとしなかった。結婚は二度したことがあると言っていたが、子供が二人いたのはいいにしても、父親も母親もそれぞれ二人いた、の言からしてあまり信用できなかった。
「どうだ、調子は?わしは朝からずっとここにいる。女の子達とだな、この股座のものを見せるとか、見せないとか…シモーヌの家の犬がわしに似ているとか…飽き飽きしておったところだ」
 空間の隅から隅まで計測して計算し疲れたような顔、そんな顔を僕はシモーヌの方を意識しながら言った。
「円錐ってわかる?こんなふうな形…その円錐を二時間みっちりだ。僕が馬鹿なのか、父さんが馬鹿なのか…わからなくなるよ」
「ピラミッドか?聞いたことがある」
「あの形は四角錐って言うんだ。本当にピラミッドって知っている?ブカルの爺さんの爺さんなんかは、大昔にそっちの方から来たらしいよ」
 老人の目も僕を無視するでもなくシモーヌを追っていた。
 シモーヌはフランス人の大人の女ならホテルの窓辺で誰でもそうするように、プールの縁で顎をそびやかしながらアン達に手を振っていた。小さな子の頭が、彼女の長い脛にぶつかった。苛立って振りかえったシモーヌが目を合わせてしまったのは、なんとこの僕だった。あれほど世界が美しいと思った瞬間は二度とない。僕は慌ててそらして、ヌジャンカを咎めるふうに彼の黒々とした腕を小突いてミシェルを探した。
「そうか…ピラミッドっていうのは、神のお怒りにふれて崩れ落ちた山だ」
 ヌジャンカがそう言って手を打ったおかげで、一際目立つミシェルが本からぴくりと目をあげた。
 たとえいつもの侮蔑だろうと、シモーヌの視線が僕の頬に刺さって痺れていた直後だった。歓喜が共鳴するように、ミシェルが読んでいた本を掲げて微笑んでくれた。それが貸してあげたドイルの「失われた世界」であることを見てとると、体育教師マオから長距離走の才能を賞賛されたときのように幸福だった。
 僕はミシェルの許へ駆け寄った。そして自分の言葉が充分に芝居じみていることを知っていた。
「この空の下でそれを読んでいるなんて…やっぱり君だなあ」
 ミシェルは疲れたふうに精悍な眉間を押さえながら本の半ばほどを示した。悪魔を飲み下したようなダイアン・レインの写真だった。僕はやられた、とよろめく仕種で座れるところを探す。隣で居眠りをしていた小柄なジーンが、不服そうに椅子を譲ってくれた。ミシェルは弾くように写真を抜いて、幾分か済まなさそうに本を返しながら言った。
「気にしないでくれ、読んでいないわけじゃない。途中から変な想像が邪魔しちゃってね。その…この探検隊に同行しているポーター達なのだけれど、どうしても自分の爺さん達を想像させて…自分たちに繋がってしまう」
「でもそこはアフリカじゃないから…」
「ああ、南アメリカ、ベネズエラあたりだろうけれど…だからポーターはインディオっていうのか、よく分からないが」
 僕は彼の左手から本を受け取って、彼の右手のダイアン・レインを覗いて頷いた。 
「この辺じゃ、これを一日で読みこなすことができるのはフリオだけだ。本当にニュートンの再来だ」
 ミシェルは写真を鼻に軽くあてながら続けて言った。
「フリオは大学まで学ぶべきだと思うよ」
 ミシェルはいわゆる大人っぽい子だった。すでに世界をひとつひとつ批判しはじめていた。彼がフットボール選手か偉大な政治家になる姿、それを誰もが悠々と想像していた。そして彼のフットボールの技術、あるいは皆を統率する存在感、そういう賞賛を僕が口端にのせようとしたときだった。
 錆び臭い水の飛沫がぶつかってきた。
「ミシェル、難しいことばっかり話していないで、オマン・ビィクに誘われたときのために練習しておいたら?」
 シモーヌの声はいつになく甲高かった。
 僕はプールにおけるシモーヌの魂胆は分かっていた。シモーヌはミシェルがいればこそ、芋を洗っているような錆び臭いプールに来ているのだ。あの人参のような色の水着は、ミシェルに見てほしくて濡れているのだ。そして水をかけて少々悪びれたふうの鼻先…この時ばかりは美しさを助長するだけに上を突いていた。
 ミシェルとシモーヌの会話は音楽だった。
「オマン・ビィクがなんだって?」
「練習しなさいよ、そんな痩せっぽちと難しいことを話していないで」
「練習って…ここでどうやってサッカーの練習をするんだ?」
「中へ入って泳げばいいじゃない、筋力を鍛えるために」
「筋力?おまえたちと一緒に泳いで?」
「またいやらしいことまで考えているんでしょう?」
「黙れ!男好きなシモーヌ、胸なし女のくせに」
 ミシェルの最後の言葉は、プール中の皆の視線をシモーヌへ集めた。僕のふたつの眼もシモーヌの河馬のような色の鎖骨へ注がれた。股間は正直に熱くなっていった。シモーヌのミシェルへ向けられた、敵意の形象をもっていた唇が、何かを焦がれる笑みに変容した瞬間。それは記憶に値した。そして記憶に留まるほど、その日は劇的だった。微笑んだままのシモーヌの眼差しが、彼女の鎖骨の下の隆起を探していた僕に向けられた。
「フリオは計算だけしてりゃいいのよ…」

 僕は気がつくと計算することをやめていた。ハイスクールまでの学業をなんとか修めてから、父の伝手で公務員になるまでの三年間はドゥアラのホテルの清掃夫をやっていた。そして務めておよそ一年経った頃だった。
 フロントに新しい受付としてシモーヌが立つことになった。同僚だったイプアが走ってきて教えてくれたが、僕は秘めたままの高鳴りに困惑して無関心を装っていた。なんでもシモーヌはハイスクールを中退すると、フランス資本の観光会社からその美貌を見とめられたらしい。それから後は彼女をもてあそんだ上司がホテルに頼みこんだとか、彼女自ら言葉や事務処理を磨いてホテル側に認められたのだとか…僕はどうでもよかった、再会したときにシモーヌが僕を無視するさまを想像するほかには。
 再会はホテルから五分も歩いた僕たちの宿舎の近くの食堂だった。
「きれい…『森の叫び』に『金の心の少女ベラ』…きっと子供達が喜ぶでしょう」
 シモーヌは白地に水色の縦縞のワンピースを着ていて店内を明るくしていた。そして二冊の絵本を金髪の中年女性から受け取って微笑んでいた。イプアの疲労しきった顔の向うに彼女の優しい顔を見てしまった。彼女を見ても美しいとは思っていない、そういう自分が随分と鈍くなったと思うしかなかった。彼女は明らかに美しさの絶頂にあったし、鼻先から指先まで探しても敵意は微塵もなかった。だから僕は彼女が僕を見とめるまで目を逸らさないでいた。
「フリオじゃない?さっきからずっと見ていたんだけれど…フリオよね?」
 シモーヌは親しかった友人に遭遇したように懐かしんでいた。
「ミシェルが時々あなたのことを思い出して話すの…ミシェルは元気よ、来月にはサッカーのコーチをやめてビアフラへ帰らないと、叔父さんから強く請われているから」
 僕は彼女が気づいていないイプアの荒んだ笑みの唇を見ていた。
「遊びに来てよ。そうだ、食事に来てよ。いつもはミシェルの姉さんの子供を預かっているから…そうね、金曜日の夜がいいわ」
 シモーヌはドゥアラの郊外のアパートの住所を二度復唱してくれた。僕はイプアが投げるようによこした手帳に書きとめるふりをした。アパートの名前「サブスペース」だけがこうして今でも記憶に残っている。二人は平穏な「サブスペース」にどれだけいたのだろうか。そしてミシェルを追ってビアフラへ向かったシモーヌ…あのとき彼女は子連れではなかった。
「金曜日の夜にお祝いしようよ。あたし達にもやっと子供がうまれるの、二ヶ月だって医者が言っていたわ」
 僕は「おめでとう」と言ってから、乾いたクスクスをライスのように口へ掻きこんだ。
 
                                       了
南十字星 (中公文庫 C 6)

南十字星 (中公文庫 C 6)

  • 作者: ジュール・ヴェルヌ
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1973/10/10
  • メディア: 文庫



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蓮舟   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 三等航海士という仕事は、僕にとっては快感の他のなにものでもなかった。僕は船長の判断に従って、海の道をきちんと辿っていさえすればよかった。船はどんな船でも素直なものだ。おそらく人を乗せるあらゆる物のうちで最も寡黙で従順である。時化を無事に越えてもくすりとも笑わない。そんな無愛想な水の上の男だけの箱舟は、陸の女たちのように僕を惑わすこともなく、縦文字であれ横文字であれ、言葉というものが並べられている陸の生活から、いつも僕を飄々と抉り剥がして波間へ放逐してくれた。そして僕は船を使命のために操りながら、僕の何十世代も浮遊してきた遺伝子が、宿命の船に身を任せてきたことを知った。
 陸を忘れさせる雄渾な時間があった。奔放な海原は、うねり、巻き、散り、尖っては崩れて、アデン湾へ流れ出で、マラッカ海峡へ流れ入っていた。延々と広がる星々も、水平線で畳むように拉致されて永遠に流れ続けている。壮大な時間は足許にあった。そして港が見えてくる。海の道を辿っていながら、僕には不意打ちのように、突然に見えてくるのだった。
 港、そこは目的であり、使命であり、安らぎである。尋常な人間なら誰もが何かしらを期待している。しかし、港が見えてくると愕然としてしまう者もいる。罪を負って漂うしかない人間…僕と操舵手の二人がそうだと言っているわけじゃない。まともな乗組員は意気揚々と船を降りていた。どこの港でも僕と操舵手の二人が、逡巡として最後に降りていた。繰舵手はいつも日本丸の模型の小さな帆に息をふきかけながら、悶々と降りるのを渋っていた。降りる二日前の夜、暑苦しい甲板で操舵手から話しかけられた。
「たしか生まれは福井の方だってぇ?」
「南条っていう山の中の町ですよ」
「南条か…何が有名なんだぁ?」
「何もないですよ…蓮の花とか、最近では」
 操舵手は興味なさそうに小さく笑った。
「似たようなもんか…俺の生まれも飯南という山間の町だ」
「何が有名なんですか?」
「そうだな…松阪に近いんで松阪牛かな。蓮の花よりましだろう」
 操舵手はそう言ってから情けないふうに苦笑した。そして乳香の欠片が包まった蝋紙を広げて見せてくれた。
「土産に持っていくかい?焚かなくても、燃やさなくてもいいんだよ。匂いなんかどうでもいいんだ…見ているだけで、こんな鼻糞みてぇなもんだけど」
 僕は懐かしくなるので断わった。
「そうだよな…俺みてぇに、いつもの補給と報告のために下りるのとはわけが違う」
「お世話になりました」
 操舵手は首を振って手を払い落とすと、闇の海原に眼を細めて言った。
「聞いたところじゃ、船を下りちまうと…野菜の摂りすぎ、あとは女子供の顔が見飽きてくるらしい。するってえと、俺は船を下りたら…どうなるんだろうな?元々、船長からは胡瓜食いで蟋蟀みてぇな奴だって言われているし、女子供どころか、親兄弟もいなくなっちまったからなぁ」
 七月、誰もが港湾にあって外洋を想像しようとする真夏の週末、僕は操舵手に声をかけることもなく船を降りた。足許の黒ずんだ波が、岸壁に小声をたてながら縋るように見えた。

 神戸の事務所にはミンナの手紙が待っていた。
 ヘルメスの小型タイプで打たれたジブチからの手紙、そのどこかしら蓖麻子油の匂いがする便箋を、京都を過ぎたあたりで斜め読んだ。僕はミンナが丁寧に綴ったはずのフランス語を真剣に読めなかった。どこでこうなってしまったのだろう。読解しやすい単純にミンナの気持ちが伝わってくる文体、それが仕方なくひいたお御籤の中吉のように味気なかった。そういうものではないことが分かっていても、ミンナに想いを馳せていないことは否定できなかった。俗にいう人でなしになっている。降りて一日も経たないうちに、僕は情けない駄目な男になろうとしていた。トンネルの闇に反射する顔は、睡眠不足のような茫然とした日本人だが、手には子供の落書きのような便箋を持っている。大津の停車がなぜか優しく思えた。そして煌々と広がった琵琶湖は漆盆の照りのようで、惑乱しているはずの僕を妙に落ち着かせていった。
「しかし、これでいいはずがない…」
 僕はその言葉を口にしてみて、やっと自分の感覚が分かったような気がした。
 船を降りてみて分かった感覚、それは揺れていなければならない、漂っていて然るべき、流されることが生きること、一点に定まることは終わることだという感覚である。降りたからとて終わるわけにはいかない。湖際に張りついたような堅田の町並みが過ぎていった。僕はアフリカにあった現実感に触れようと、素直な犬のように鼻を便箋のインクへ近づける。囁きや小さな諍いの先にあったジブチの日々を、傷つけてくれた数々の言葉を被虐的に掻き出そうと、女と砂と灼熱の匂いを求めて隅々まで嗅いだ。
 僕の中のミンナは話しかけてくれなかった。いや、それが何語であれ、言葉の記憶は水のように僕を潤していながら、波のように手から漏れていってしまうのだった。人の想いが楽々と言葉に取って代わられること、それは海流や潮の干満を読むことの比ではない。そしてマキノあたりで便箋が破けた。揺れが手伝って斜めに裂けて半分になった。落雷のようにやってきたトンネルの中の蛍光下、僕は呆けたようにゆっくり細かくちぎっていった。

 南条の小学校の校庭に立った。
 この歳になって、砂場と鉄棒の間を困惑のまま行ったり来たりしているのは、僕のような何かから下りた人間くらいかもしれない。雨後に青葉の匂いを充満させた風は、僕を見据えたように時折、砂場の隅でわだかまるように思えた。そこから一匹の虻に鉄棒の方へ追われる。鉄棒は意気盛んな蛇のように艶やかだった。その黒光りの裏からひょいと母が出てくるような気がする、と言ったら笑われるだろうか。僕は苦笑を浮かべながら鉄棒を握った。明らかに操舵室の扉とは違う朴訥な幾分かの温もり。掌に移った懐かしい匂いに途惑いながら校庭を出ようとすると、雨ざらしの掲示板の赤々と立派な花弁のポスターが目についた。
「…早朝にしか咲かないという神秘の花、蓮華。この花をバックに美しい乙女を撮影してみませんか。どなたでも参加OKです。とき―7月××日(日)午前7時から ところ―花はす公園…」
 今にも咲き誇りが宙に霧散しそうな写真だった。その年の「花はす祭」のポスターは厳粛ともいえる朝靄を背景にしていた。この稜線と季節が明確な町には、また池の蓮の刹那を愛でる夏がきているのだった。
 校庭を出たあとはどうしたものかと思案していると、背後で蝉の鳴き始めにかき消されそうな「おーい」という女の声がした。
 栄養士の白衣のままで瑶子(ようこ)が手を振っていた。僕の妻だ。つめて束ねた髪を気にしながら元「ミス花はす」が小走りに寄ってくる。僕は最初の帰航のように動揺している。期待していたわけではないが、僕にもこういう瞬間が現前たるものとしてあったという驚きだった。そして、それはどうにもし難い瞬間だった。気のせいか、瑶子の眼の煌めきは増していた。船を下りた僕の眼が疲れていたのだろうか。ひとつ言えることは、去年まではお互いに目を合わせるのに随分と手間取っていたのだが、このときは羽虫が粘着紙に収まるように見つめあえた、という終息感があった。
 僕は鉄錆臭い掌を誇るように嗅ぎながら俯いた。そして兄の忘れ形見、毅(つよし)のことを矢継ぎ早に聞いてみる。船長が眉尻を掻きながら「何はともあれ子供の様子を聞くしかないさ」と言っていたのを思いだす。そして子供の成長は一言二言で言いつくせなくなっていた。「歩けるようになった」とか「話せるようになった」とかの言だけが、海流の藻屑となって耳に残っているのだった。手の上の貝殻片と珊瑚屑を選り分けている女…最近の断片を並べているうちに、瑶子は焦れたように戻らなくてはならないと言った。家の鍵をあずけられて白い手がふれた。僕は生唾を呑んだ。確かに温もりが残っているかどうか鍵を辿っていた。
 別れて横断歩道を渡ろうとすると、校庭から瑶子が手を叩き合わせながら声をはりあげた。
「兆さんのところで飲んでてよぅ。あたしも後から行くよぅ」

 船乗りは陸では女に触れているか、飲んでいるかしかない代物だ、などと自嘲する船乗りはもはや希少だろう。
 記憶にないような顔にまでへらへらと挨拶しながら、自分の家に物珍しそうにたどり着いた。瑶子がくれた鍵をなんとか合わせて、脱力のまま鞄を上り框へ放って、下駄箱の上のスパイク靴をしばらく眺めていた。僕にどうしてくれと言うのだ。これから改めて毅と同居する、そんな現実が暗礁の啓発のように小さく苛立たせる。飲むしかないと思った。
 幼い頃からの兄貴分、兆次さんの焼鳥屋には「準備中」の札が下がっていた。
「やっぱり兄弟だなぁ、兄貴が入ってきたかと思ったよ」
「兄貴は来ないだろう、一滴も飲まない立派な教師だったから」
 兆次さんは記憶を手繰るような上目遣いをちらりと見せてくれた。
「ぼくは、こうして準備中なのに待ちきれずに来ている酔っ払い」
「だいたいよ、おまえは子供の頃から陸酔いみたいな目つきをしていたな」
「兆さんだって…髪を長くしてヒッピーになりたがっていたよ」
「そのヒッピーもご覧のように禿げあがってしまってな、一人娘を嫁に出すまでは、鶏皮三枚、手羽先三十、砂肝五十と毎日格闘さぁ」
 座布団が積重なった座敷席の奥で、日に焼けた麦茶色の子が英語の教科書から顔を上げた。
「おお…千捺(ちな)ちゃん…大きくなったなぁ」 
 僕は南風と埃をはらんだような縮れ気味のおかっぱ頭をしばらく見ていた。
 普通高校に通うまでに成長した千捺は、父親の兆さんと二人暮らしだった。肌の色こそ男子と見紛う幼女だったが、長い首筋と縁どったような鋭利な眼差しは随分と艶やかになっている。開店以来、僕が知る限り千捺を見ない日はなかった。そしてレジスターの翳には、相変らず古いカメラと反り曲がったナショナル・ジェオグラフィック一冊がある。そのキリマンジャロを特集した号を何度めくったことか。僕はビールに渇きを癒されて、転がるように饒舌になっていった。
「千捺のお父さんはね、よく大阪城ホールとかまで行ってさ、ドゥービー・ブラザースとかを撮っていたんだよ」
「ドゥービー?」
「そう、ロックをやっていた外人のグループ、ドゥービー・ブラザース」
「それって何の兄弟ぃ?」
「何の兄弟って…ああ、意味か、ドゥービーの意味は日本語にすれば…酔っ払いかなぁ」
 僕は年甲斐もなく戸惑った。大人だった兆さんが、声を潜めて「ドゥービーっていうのは麻薬をやっていてご機嫌なことさ」と少年一同に言った記憶、それが迂闊にも携帯していた刃物のようにきらめいた。
「この船乗りのおじちゃんのことを言うんだわ」
 兆さんは串を打ちながらそう言った。
「酔っ払い兄弟か…お父ちゃんとおじちゃんのこと?」
「おいおい、随分と言ってくれるようになっちゃって」
「だってさ、二人で酔っ払うとさ、あのキリマンジャロの話ばっかりしてて…おじちゃん、アフリカ、好きだよねぇ」
 僕は船乗りが不意打ちに弱いことは知っている。普段からすべてが見えていると自負しているからだ。風や波や雨、そして鴎の不可思議な曳航さえ得心している、などと錯覚している者もいる。だから不意打ち、陸にあって一気に波濤を越える女の思惑に驚愕させられることはよくある。こうして僕は陸に慣れていくのだろうか。
「そうだ、アフリカならおじちゃんにお任せだな。友達も多いぞぉ、モンバサ、アレキサンドリア、ジブチ…」 
「おじちゃん、毅のお父ちゃんって本当に行っているからすごいよねぇ」
「仕事だよ…何もできないから海へ出るしかなかったんだ」
「モンバサぁ?それとかジブチぃ?それってアフリカの東側でしょ?その辺から、船からでもいいけど、本当にキリマンジャロって見えるのぉ?」
「そうか、誰かがそう言ったんだな」
「やっぱり見えないんだぁ。もぅ、うちのお父ちゃんたら嘘ばっかり言ってて…」
 千捺は女房のような口調で立つと、レジスターの翳を掻きまわすようにして大判の冊子を取り出した。はじめて見る上質紙の地図本だった。娘をちらと窺った兆さんの横顔には笑みがある。僕は飲みかけの黒龍の一升瓶とコップを持ってカウンターを立った。
 千捺は地図本を手前の卓袱台にのせて頁をめくった。僕の前に約六千万分の一のアフリカが横たわる。大陸を偉そうに俯瞰していると、歪だが甘いと思わせる黄色い林檎のように思えた。そして僕は訳の分からぬ照れ隠しに、黒龍の淡麗さが仇になるような下卑た飲み方をしたくなった。
「このへんに…これだ、奴隷を集めたゴレ島っていう島があって…ダカールって有名な町らしいけど…行ってみたいなぁ」
 千捺は大陸の西海岸、セネガルの辺りを擦りながら目を細めた。そして倒れこむようにして撮影する格好をしてみせた。
「お尻か?おじちゃんのお尻を撮ってどうする?」
「どうするもこうするも、アフリカの女の人のお尻、あの尖ったようなお尻を撮るの」
 僕は待ち伏せていたような彼女の語りに噎せ返りそうだった。奴隷を集めて商った海岸…そこはキリマンジャロを背にして、大人びた彼女が模索しようとしている暗鬱部でもあった。僕は動揺を隠すように紅海の方へ目を移す。乾燥した漢方薬のようなジブチが三角形のまま憮然としていた。
「お尻か…蓮は撮らんの?はす祭の撮影会は?」
「花はすのモデルを撮ってどうするのぅ?あんなの助平なおっさんの集まりでしょ?」
 兆さんの破裂したような笑いに救われた。僕は納得したと言わんばかりに頷いて皿を受取った。そして脂を焼き落とした鶏皮を口に運んで、黒龍を貪るように咽喉へ落とした。
 
 僕は「花はす祭」の撮影会に顔を出すことを兆さん親子に約束した。一升瓶の減り具合と腕時計を見比べていると、息を荒立てながら瑶子と毅が入ってきた。地図を今さら見疲れたような僕の目には、口紅をさし直した瑶子は妻という以上に官能的だった。毅はそこそこ成長していた。波止場裏で小便をして襟を正すように、兆さんに毅の好きな葱間と軟骨を注文した。
「なるほど、似てきたなぁ。足が速くて、勉強もできるか…ぼくに似てきたな」
 おもて面は毅にむかって長距離走について聞いていたが、目尻は幾分かおずおずとした瑶子の睫毛から離れられなかった。
 支払いを済ませたときは九時近くになっていた。僕らしくもなくお釣りを受け取らなかったので、兆さんは帰りの足許を気遣ってくれた。それこそドゥービーの僕は、両脇の妻子に支えられてご帰宅することになった。小雨がひたひたと路地を濡らしはじめると、チンパンジーが興奮したような笑みが転がった。息子の早朝練習につき合わなくてすみそうだ。実際に夜半には安堵するほどの大雨になった。
「しけ?」
「嵐の時だよ」
「嵐の時ってよく出会うの?」
「時化を避けて行くわけだが、避けて通れない時化もある。実際によくあることさ」
 僕は瑶子の幾分か汗ばんだ背中から離れて風呂場へ向かった。
 水は贅沢で脅かすように冷たかった。それでも飲める水を惜し気もなく低く唸りながらかぶる。水に臭いがなかった。あの船の飲用タンクと比べてどうする…今度は誰が塩素を入れるのだろうか…消毒は三等航海士の仕事だ。そういえば入れすぎて皆の顰蹙をかったこともあった。洗濯や風呂の水は海水からボイラーで作っていた…あそこでは僕もミンナも、誰も彼もが、飲める水と飲めない水を炎天と日陰のように使い分けていた。愛しい水だった。水を慈しみながら、やがて目の前のすべてを慈しむようになる。それは僕には困難だった。だから船を下りたのだ。そして薄暗い風呂場、周りを確かめるほど驚いている。豪雨の深夜、僕は冷水をかぶって灼熱を想っていた。
「バスタオル…ここに置くね」
 瑶子は隙間風のようにそう言った。濡れて強張っている体を予感していたのだろうか。いや、瑶子の体が喜んで気遣ってくれたのだ。つい今しがた、瑶子の肢体は快喜のこの肌の下に確実にあった。そして瑶子と毅を抱えた生活が始まる。五感を満たすであろう南条での田舎暮らし…日を求めつづけ、大らかに腐葉土に養われる人々との出会いと別れに準じる。それでも菓子のようなピンクの洗面器でかぶった三杯の水は、僕の足下に甲板がないことを、嘲笑の滴りをもって顕示しているように思えた。
 バスタオルに包まれると、金木犀に似た濃い香りに囲われた。瑶子のいつもの匂いではない。それは断じて瞬夏の蓮のそれではない。僕は己の腋の下をしばらく嗅いでいた。
 
 僕の陸の生活がはじまった。僕はつまらない男なので、侭に蓄えるくらいのことはしていた。しかし海賊ではなかったにしても、陸で何もしなければ腐れ海豚に仕立てあげられてしまう。そこで目につくままに、裏庭のような畑を耕して大根の種を蒔いてみた。夜ともなれば妻子との会話を手繰った。さらに温泉場の従業員としては最古参だった瑶子の兄に、関係筋の勤めを探してもらうことにした。一定時間だけ働ける仕事であれば贅沢を言うつもりはなかった。
 瑶子が学校帰りに寄って頼んだ翌晩、義兄は珍しく酔ってボイラーの仕事をもってきてくれた。
「長距離走は俺も得意だった」
「ほう…もしかして瑶子も得意だったのか?」
「あいつに話しかけるな、指を切るから。あいつは不器用の見本だ」
「ぼくも船乗りのわりには、不器用だ、不器用だって言われたよ」
「その…ぼく、ぼくって言う言い方…それやめたほうがいいぞぉ」
 僕はビール壜を持って頷いた。しかし僕は「ぼく」をやめるつもりはない。客を相手にするわけではなく、今度は船よりも見掛けは控えめなボイラーを相手にするのだ。
「瑶子、電器屋に『タイタニック』がきていたぞ。こいつに船の映像を見せてやって、その…センチメンタルってやつにしてやろうじゃねぇか?」
「いいねぇ、タイタニック…ただね、夜のブリッジが明るいような映画だったら御免こうむるよ」
「何だぁ?何が明るいと御免こうむるってぇ?」
「夜、ブリッジが明るいと絶対に外は見えないんだが、映画ではブリッジがとても明るい」
「へっ、相変わらず理屈っぽいな…ま、いいから、瑶子、借りてきてくれ」
 瑶子は舌打ちをしながら茄子の浅漬けの皿を置いた。白い指先が暗がりの斑光のようにあちらこちらに浮かび残る。何故か節くれはじめた指先が愛しかった。そして妻は小走りに出掛けていった。僕はビデオテープを貸し出している電器屋が遠いのかどうかも知らなかった。
「タイタニックはともかくとして…こんな田舎の噂は…笑い飛ばしちまえばいい」
「田舎の噂?」
「ああ…酔っ払いついでに聞いてくれるかぁ?」
「喜んで聞くよ、田舎の噂でも何でも」
 僕は紺光りする茄子の欠片を、自分でも不思議なほど素早く咥えた。
「ぼくって言っているやつの噂かい?」
「…ま、正確には、そのぼくの女房の噂だろうなぁ…」
 僕はまだ酔っていなかったが、どこか純朴そうな噂とやらを想像して微笑んだ。
「一年前、去年の花はすの頃だな…瑶子のやつが酔っ払って…兆次のところにな、泊まってしまったんだ」
「ほう…そういう噂か」
「噂じゃなくて…泊まったのは本当みたいだ、瑶子本人からも聞いたんで」
 僕は茄子の浅漬けの皿を義兄の方へ押した。
「小さな町の噂だからな…あとはいい加減だ、何だかんだと」
「何だかんだと…どういうこと?」
「瑶子がそれから…兆次のところに入り浸っていたとか…例えば、娘が修学旅行でいないときに…この辺も最近は沖縄あたりまで行くようになってなぁ」
 僕は一気に千捺が立つ浜辺を想像してしまった。地図に食入っていた千捺…彼女は這い上がってくる濁った波に両足を浸している。そしてまた一気に張りきった二本の脛だけになった。
「ほう…その、娘が修学旅行でいないときの何だかんだも、瑶子本人から聞いたわけかい?」
 義兄は首を振ってビール壜へ手を伸ばした。僕は注ごうとする義兄の手を押さえて、ビール壜を自分の手に確保して慰むように言った。
「噂ってものは…いい加減なものさ、世界中どこに行ったって」
 義兄は舐めるようにコップへ口を近づけながら言った。
「俺が憶えているうえじゃ…兆次は、子供の頃から瑶子が好きだったような気がする」
「聞いたことあるよ、兆さんから…なにしろ、初代の『ミス花はす』だからな」
「子供の頃…おまえが母ちゃんと南条へ来る前から、俺と瑶子は兆次と遊んでいた」
「いい思い出なんだろうな、羨ましい」
 義兄は薄っすらと涙ぐみながら頷いて反るように呷った。
「…この家だってよ、おまえが海に出ているうちに、兆次が親父から譲り受けた土地を瑶子にって…」
「そうらしいな。それも聞いているよ。そして…俺はこうして帰ってきている」
 僕が義兄のために「俺」と言ってみたところで何も変わらなかった。

 僕は頬杖をついてしまった義兄をおいて家を出た。瑶子を迎えに行ってくる、とか言って出たのだろう。そして自ずと兆さんの店へ足が向かっていった。
 兆さんの店は賑やかそうだった。暖簾に手をかけた海豚の愛敬の僕は、中からこちらへ向かってくる嬌声に思わず後退りした。千捺が愛想笑いをひきずりながら出てきて、挨拶しながら濡れそぼった布巾を盛り塩の脇で絞った。
「ビール壜をぼっとんぼっとん倒しちゃってさ…」
「いっぱいのようだなぁ?」
「婦人会のおばちゃんたち、蓮根料理の会合のあと…で、寄っていくの?」
「いいや、ちょっと出てきただけ…ブラザーによろしく、明日の晩にくるよ」
 僕はドゥービーらしく千捺の肩に軽くふれてから、腐乱した海豚の鰭のような敬礼をしてみせた。そして千捺は中から呼ばれて慌しく戻っていった。
 僕は納得したように家へ戻ることにした。そして焼鳥屋の赤提灯が見えなくなったあたりだった。人の気配を感じたので打っ棄るように振り返ると、濃紺のビニル袋を抱えた瑶子が立っていた。
 瑶子は幾分か息をきらしていた。街灯の下ではじめて見る表情は、寂しがって塞いでいたミンナの娘チャチャに似ていた。瑶子は恥らうように袋を差し出した。
 僕はその場で袋を開けてビデオテープを取り出した。
「あんたがこれを見ちゃったら…また船に乗りたくなったりして…」
「乗ったら…怒るかい?」
「怒らないよ。兄ちゃん、何か言っていたぁ?」
 僕はケースの若いディカブリオの刺すような眼と対峙した。
「兄ちゃんから聞いたでしょう?兄ちゃんは黙っていられない性質だから…」
「乗ってもいいのかい?」
「好きにしていいよ」
 僕はケースの美男美女から目を逸らして小さく吹き出した。
「だったら、何とかして近いうちに甲板を確保しなきゃな」
「甲板を確保ぅ?」
「蓮の葉っぱだよ。毅に言っちゃったのさ、あれを川に浮かべて、父ちゃんが乗ってみせるってな」
 僕は闇に向かってそう言ってから、モンバサで覚えた手つきで瑶子の腰を引き寄せた。瑶子は小娘のように笑って縋りついてきた。ビデオテープが瑶子の疲れた肩甲骨で痛そうに鳴る。僕は彼方にミンナとチャチャが見つめる黒々と荒れた海を見ていた。

                                       了
サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉

サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉

  • 出版社/メーカー: インスクリプト
  • 発売日: 2014/06/25
  • メディア: 単行本



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喫潮   Mye Wagner [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

 Entwurf
「未来の艦長から求婚されたわ」
 一人娘のリーネがぽつりとそう言った。
 ディートマーは口に入れかけた馬鈴薯をとめて目のやり場に躊躇した。妻は狼狽える夫を見て可笑しそうに横を向いた。ディートマーは今更ながら父親であることを了解して苦笑してみせる。そして馬鈴薯を頬張ってから愛おしそうに娘を見据えた。
 キールの港から離れた郊外で、代々続いてきた農家のひとつクンマー家の夕食だった。くる日もくる日も馬鈴薯とキャベツ、そして家族のことだけを考えてきたようなディートマー。しかしキールの波止場の鎚音は神経質な豚舎にも響いてきていた。夏ともなれば寡黙な妻と娘を港に連れていっていた彼も、四十代もやっと半ばになった一昨年から世間の騒音に耳を傾けるようにならざるをえなかった。そして昨年1938年、ナチスに入党した。
 ディートマーは耕運機をはじめとして機械に詳しかったので、四ヶ月と八日の教育実習を経てUボートの機関長に抜擢された。そして二度目の出航の時だった。愛艦にベルリンからベルント・フォン・ワイツゼッカー中尉がやってきた。中尉は晴れないキールを大海の狩場の入り口のように憧れ、Uボートをフランス人が書いた空想小説の鋼鉄魚になぞらえていた。明朗で水平線に目を細める美男の都会っ子だった。ワイツゼッカー中尉は処女航海から戻ると、鈍重ながら頼りがいある機関長のクンマーを慕っている自分に気がついていた。帰港してからは連夜のように夕食に通って来ていた。
「今は戦時下だぞ」
 ディートマーはそう言うしかなかった。
「ずーっと戦争だわ」
 痩せたリーネがそう言って微笑むと頬がひどく窪んだ。
「そういえば昨日も今日も来ないな」
「ベルリンへ帰っているのよ」
 ディートマーは頷きながら馬のように咀嚼した。
「叔父さまが亡くなったらしいの」
「叔父?」
「有名なメッサーシュミット乗りらしいわ、たしか…109G」
 リーネは機械好きな父の視界に入ろうとする。
「随分と詳しくなったものだ」
「たしか…ミカエル、ミカエル・フォン・ワイツゼッカーよ」
「知らないね、飛行機乗りは」
 リーネは樫の古卓の端にある古い亀裂に爪をたてた。
「彼のことを好きなんでしょう?」
 ディートマーは皿から目を離さずに右手を掲げた。
「好きだからいつも夕食に呼ぶのでしょう?」
「静かに」
「このまま出撃できなければベルリンへ帰っちゃうわ」
「静かに!」
 空襲警報だった。ディートマーは妻に電灯を消すように促して窓辺に立った。
「ボートがだめかもしれない」
 機械音が闇夜に侵食しようとしていた。それは圧倒的に厳かだった。それを受け入れるしかないのだろうか。十分もしないうちにクンマー家は港の方向に炎天を見るのだった。
 
 小振りな鰊の横にザワークラウトの固まりを置いてから、ベルントは稚気を発揮して手をたたく真似をしてみせた。ディートマーは呆れたふうもなく、しばらく食い入るようにその若い横顔を見ていた。
「我々の艦は運がいい、折も折、ドックの最奥に入っていたとは」
 ベルントは仮設卓を軽く叩いて波止場の先を見た。もはや喫水を気にする必要もなくなった。浮かべられるのはラインの丸木舟くらいなものだろう。煙幕のような霧に波頭は見えない。潮が固まってしまったのか、ドイツ海軍を嘲笑うために。
 ディートマーも焼夷弾で焼け焦げた岸壁の先を見た。船影も鴎も何も見えない。塗りこめたような霧だった。終わっているのだろうか。もしくは終わろうとしているのだろうか。霧の幕をひこうとしている思惑は、瓦礫と残骸を片付けて疲れ果てている誰にも見え隠れしていた。
「ベルリンへ帰れ」
 ベルントは鰊の小骨を探すふりをしながら頷いた。
「総統閣下をお守り申しあげろ、と」
 ディートマーは腕を伸ばしてザワークラウトを掬った。
「リーネを、娘をベルリンへ連れていってくれ」
 二人は殆ど同時に皿から顔を上げた。
「リーネはもう話したのか…」
「ああ、連れていってくれ」
「ベルリンの方がもっと危険になっていくだろうな」
「だったらモタラへでもいい、ともかく安全なところへ逃げてくれ」
「モタラ?」
 ディートマーは声を一旦低めてから自嘲するように首を振った。
「スウェーデンの山中だ、中尉殿。そこには…共産主義者でずっと追われている弟がいる」
 ベルントは悲劇的な波頭に左手を翳して言った。
「海の向こうなんて…それなら友達の故郷のヴィルヘルムスハーフェンの方がいい」
 ディートマーは老練さをかなぐり捨てた。
「ベルント、考えてもみろ、港には敵が押し寄せてくるのだ。そしてナチスも何もかも終る。しかしリーネとおまえは終るわけにはいかないのだ」
 ベルントは周囲を窺いながらもゆっくりと頷いた。
「リーネを連れていってくれ、リーネを」
 ディートマーは唱えるように言って腕時計を凝視していた。

                                       了
蟹の横歩き ―ヴィルヘルム・グストロフ号事件

蟹の横歩き ―ヴィルヘルム・グストロフ号事件

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/03/26
  • メディア: 単行本



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13歳   氏家 秀 [小説 戯曲 三島由紀夫 Balzac Kafka]

「綺麗な子だね。東京の子?」
 姉の環(たまき)が箸を休めて聞いた。
「福健省の建陽っていうところらしい」
 弟の亮二(りょうじ)は海老の尻尾を見ながら答えた。弟は無関心なときにはきちんと顔を上げて応じる。姉は皿を下げていった痩せ細った背中をしばらく見ていた。
「中国人っていえば、最近は四日市にもいるよ」
「だろうね」
 二人の故郷は四日市である。父親はコンビナートに勤めながら特撮に夢中になり出奔してしまい、母親がコンビナートの食堂で働きながら女手一つで二人の子供を育てた。環は市内の郵便局で働いている。二歳下の弟、亮二は音信不通になりがちなので、都内の居場所が変わる度に姉が遊びがてら様子を見に上京していた。
「彼女はできた?」
「いない」
「そのへんの女の子に捕まっちゃうのかな。あんたもあたしに似て、器用そうに見えて不器用だからね」
「昇さんはいい人じゃないか」
「いい人で、子供をつくることしか考えてないんだわ」
 環はそう言って微動する携帯電話を取り上げて耳をあてた。
「そうそう、佃島っていうしぶい所なんだわ。市ヶ谷までは…都営新宿線?」
 環は姉らしい小言を並べたてて一万円札を置いて、最寄の駅の方向を確認してから慌ただしく天麩羅屋を出ていった。
 亮二が二つの海老の尻尾をじっと見ていると、本名は賢玉と書くポーリーが水を注ぎ足しに近寄ってきた。
「あの人、彼女さんですか?」
「姉だよ、姉」
 ポーリーは同じアパートの住人で、亮二の下の一階に住んでいた。天麩羅屋の主人が旅行先の台北で親しくなった日本贔屓の男、電脳街の親玉らしい彼の遠い親戚がポーリーだった。台北で一家を成したこのコンピューターおじさんの一族の原郷は、対岸にあたる福建省の奥にある建陽というところだった。ポーリーは幼い頃から頭脳明晰で、十三歳のときにいとも容易く台北に渡って学んでいたが、十八歳になった昨年、懇願して一年の約束で来日することができた。そして同じアパートの上下、電器店のパソコン指導員の亮二と台北電脳街の養女は、月に二度ほどは天麩羅屋で従業員と客で接し、日曜日は互いの上下の部屋を行き来して昼食と夕食を共にしていた。
 亮二の姉が突然やって来て帰った日の夜、五月の連休の最後の夜だった。
「わたし、十三歳のとき、豚買いの人に犯された…」
 ポーリーは自分の肩の傷痕をなぞりながらそう言った。
「このまえ聞いたよ」
 亮二はポーリーと寝る度に聞いていた。
「俺は、俺の十三歳といえば…オナニーを知った頃だなあ」
「オナイー?」
「オナニーだ、オナニー」
 亮二はポーリーのいくらか汗ばんだ胸から離れてボールペンを取った。手ごろな紙としては漫画本しかない。裏表紙を折り返して余白に「自」と書きつける。そして「慰」の字が書けなくてボールペンを投げた。
「漢字って大変だよなぁ」
「カンジ?漢字ね、漢字」
「そもそもポーリーはさ、漢字の国から日本へ来たんだよなぁ。頭いいよなぁ、ポーリーは。それに、強くて…豚買いにも負けちゃいないもんなぁ」
 亮二は耳朶に笑みの微風を感じた。そして寝返って正面から見るポーリーの笑顔に幾らか戸惑った。
「中国人って偉いよなぁ」
 気がついていたのか、いなかったのか、喋りも書くのも面倒がりながらも、ずっと漢字に拘ってきた日本。亮二は仕事柄ということもあって時折、漢字という象形文字が持つ情報量について漠然としてしまうのであった。その煩雑さに秘められた意味と意味が張り合わされた途方もない伽藍。日本人は意味の重層から逃れるかのように、表音文字である平仮名と組み合わせて何とか使ってきた。
 ポーリーは亮二の肋に指をすべらせて言った。
「中国人はね、えっと…自殺、自殺しない」
 亮二は飲み込んだジサツを口蓋にもどした。
「自殺ぅ?中国人は…自殺しない?」
「しない」
「中国人は自殺する人が少ないってこと?」
「中国人は自殺しません」
 亮二はポーリーの指に自分の指をからめて黙った。亮二の目は聞きたがっている。そしてポーリーが機先を窺う前に話を弾ませた。
「そうか、中国人にはストレスがないわけだ」
「ストレス?」
「あるわけないよなぁ。広大な大地で、どこまで行っても中国、中国…昨日まで主席だった人も、明日になれば罪人」
「誰のこと?」
 亮二は文革で失脚した劉少奇の名前を思い出そうと指を離した。
「わたし、サーティーンだった。でも中国人は自殺しない。だから、豚買いの人を切った」
「切った?」
「豚買いの人のここ」
 ポーリーは宙に浮いていた指を亮二の首にふわりとあてた。
 亮二の喉仏が小さくひくついた。
「死んじゃったの?」
 ポーリーは微笑みながら上体をゆらりと立てた。左手を股間にあてがい右手で下着を探しはじめる。亮二は追いかけるように上体を立てた。
「爸々(パーパ)、台湾へ行くこと決めた」
「豚買いの人は死んじゃったの?」
「サーティーン、十三(シィーサン)、十…三…歳、十三歳ね。わたし、十三歳ね」
 亮二は肩を落として座り直した。そして弾みに放屁してしまった。ポーリーは驚きもせずにブラジャーで口許を押さえて吹き出した。
「豚買いの人は死んだのか…くさい?」
 ポーリーは半ば笑いながら続けた。
「くさい、ちょっと臭い…数学…数学やっていてよかった、台北に行けたから。わたし、十三歳だったから、何もほかになかった」

                                       了
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