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幸如(シィンルゥ)   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 トオルは構内に展示されている翡翠の巨岩を一回りした後で改札口へ向かった。台南で見つけたシィンちゃんがここまでやって来る。糸魚川駅の哀愁に彼女への愛おしさは灼光を灯す。彼女は無論ほしいが王座も欲しい。何を言うとるねん。トオルは思わず舌打ちしてしまった。
 金野暢(こんの・とおる)は京都市の隣の向日市に生まれ育った二十五歳の囲碁棋士である。関西棋院所属だが年初に七段位、初夏には碁聖戦の挑戦権を得て、五番勝負まで食い下がって敵わなかったものの、初秋には王座戦の挑戦権を得ていて、次代を担う棋士の一人と目されている。シィンちゃんこと幸如の出会いは、ありがちではあるが台北での日台交友囲碁フェスティバル会場だった。
 張幸如(チャン・シィンルゥ)は台南に生まれ育った二十二歳の女子大生である。タイヤル族で宜蘭出身の父親を持つが、母親が大阪の池田の出身ゆえに不便ない関西弁を話せる。暢との出会いは、その流暢な日本語を期待されての、父方の伯母から要請されての囲碁フェスティバル会場だった。
 暢はビビアン・スーを彷彿とさせるシィンちゃんの愛らしさに真っ正直に魅了された。台南まで彼女を追いかけていって八日間ほど音信不通となるも、棋院の師匠と兄弟子に説得されて棋士廃業を撤回するに至る。むろんのこと、求愛を受け入れたシィンちゃんからの復活への発破があったことは言うまでもない。十月から王座戦に臨んで、先行されながらも二勝二敗の対にまで打ち抜いたとき、隠密に来日していたシィンちゃんから慰労の電話をもらって驚喜する。そして先週のこれまた唐突な電話は、母親が阿倍野に出しているジャージャー麺店を手伝い終わったので、これから暢が指導碁で立ち寄っている糸魚川へ向かう、というもので大いに慌ててしまった。
「そんな驚かんといて、今日と明日は糸魚川、二十三日には新潟でお仕事やったね」
「そう、村上の瀬波温泉で対局やけど…まさか、ここ糸魚川で若布みたいなもんを採るんか?」
「ワ・カ・メ…ワカメって?」
「そやかて、シィンちゃんは台南におるとき、なんや海藻のようなもん研究してること知っておるから」
「あんね、ヒスイ、翡翠、知っとる?」
「知っとるよ、宝石みたいなもんやろ…そうか、ここの海岸で時々、翡翠みたいな石が見つかるんは有名やからな」
「翡翠を見つけてみたいんよ、一緒に」
「見つけてみたい言われてもな…よっしゃ、構わんで、このホテルで今晩、待ち合わせしよか?待って、やっぱ駅まで迎えに行くわ」
 日本海の低気圧が凄まじく垂れこめてきている師走の夕の糸魚川駅である。暢は己のかじかむ指先に息を吐きかけながら、好奇心旺盛な幸如が浜の方の実況から翡翠採集を諦めてくれることを願っていた。
 暢は改札口に到着した幸如の温かい指先を両手で包みながら、彼女が翡翠を見つけてみたい海浜の荒天を呟くように言った。
「ヒスイ?ああ、翡翠ね、翡翠はええわ…トオルに会いたかったんよ」
 抱き寄せた幸如のこの言を聞いて、暢は明後日の王座戦最終局が手元に引き寄せられた実感を持った。

 平成二十八年十二月二十二日の午前、糸魚川市の中心繁華街にて大規模な火災が発生していた。耳目を大いに集めたのは約一四〇棟に及ぼうかという延焼の広がりである。老舗である酒造や割烹、そして金融機関も営業停止となって、緊急の払い戻し措置などが講じられていた。真南にあたる青海川上流の山中から北方を望むと、今は遠くになった中心街から上る黒煙が海風に揺らいでいた。
 幸如は鉱山の事務所があった跡にいた。
「シィンちゃん、頼むで、ほんまに。ほんで、火傷はしとらん?」
 暢は霜でしとど濡れた枯葉を蹴散らすように斜面に足をかけた。かつての橋立金山の坑道も冬枯れの葛葉に覆われて見当もつかない。職業柄とはいえ日頃から正座している膝にはかなり応える。碁石ばかり握っている軟い右手は寒気に蒼ざめている。しかし携帯電話を握っている左手からは、焦燥の名残りのような汗ばみの湯気が立っていた。
「火事が嫌いなんは、阿倍野でも聞いておったで、まぁ、分からんでもない…そやけどな、ここまで逃げんでもええとちゃうか?」
 暢はそう言った後で、シィンルゥの華奢なセーターの肩に触れるのを躊躇している自分に舌打ちした。
「タクシーに乗ったんか?金は持ってるからな、シィンちゃんは。そやけどな、僕とおった方が、逃げるんやったらな、僕と逃げた方がええと思わんかったぁ?」
 幸如は前髪と涙目だけを覗かせた紺マフラーの奥からやっと声を絞り出した。
「爸爸(父さん)…自己逃走了(一人で逃げた)。只有一个人逃走了(一人だけで逃げたの)。分かる?父さんは一人だけで逃げたんよ、生まれた宜蘭の山へ帰るて」
「それは聞いとるけど…」と言いかけて、暢は冷たい右指たちの先を唇においた。「そやかて一人で逃げたら…あかんて。ここはな、シィンちゃんにとって外国、日本やし、糸魚川も昨日初めて来たところやで」
「対不起、ごめん」
 暢は右手を男の子の背を叩くように振りかぶって軽く触れた。そして左手の携帯に点滅している急行の糸魚川発の時刻をちらり見た。
「もう電車に乗ろうや、ここはえらく寒いし」
「一緒に行っても…一緒に行ってもええの?」
「あたりまえや。シィンちゃんを一人になんかせん。まして今朝のこん火事やで…シィンちゃんを一人にしたら…その認知症いうか、病気で亡くなったお父はんに申し訳が立たんわ。ど突かれるわ、ほんま」
 暢はシィンちゃんがもらっていた領収書のタクシー会社へ電話した。
「おおきにな…明日はえらい大事な対局なんやろ?」
「そやからな、一緒にきて言うとるんや。王座になるとこを…もしもし、翠々タクシーさんでっか?」
 約一時間後、大火事で騒然としている駅前の混乱を掻き分ける二人の姿があった。
 それから三日後のローカル新聞の一面、当然ながら糸魚川大火の悲惨さを嫌がおうにでも追跡するものだった。しばらくは悠長な記事作りに気兼ねしたような三面、海豚に追われて柏崎の浜へ打ち上げられた鰯の大群の写真と、村上で迎えた囲碁の王座戦五番勝負の最終局の結果、本因坊が挑戦者の金野七段を退けて王座を防衛したとあった。

                                       了
微分位相幾何学

微分位相幾何学

  • 作者: 田村 一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: ペーパーバック



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マグナス   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 ともあれマグナスは自身にとって最初の戯曲だった。三幕に仕立てあげたのは「サド侯爵夫人」そして「わが友ヒットラー」を読んでいて、この辺りが形式的に正規な感じかなと思っていただけのことである。人工頭脳に追いたてられて離散した人間たちが、最終的な反抗を画して集うといった、見るからに稚拙極まる概形は蓋をして仕舞い込んでおきたかった。しかし、誰か、一人でもいいから、使用した楽曲「ベートーヴェンの十二のコントルダンス」について訊ねてくれないものだろうか。そして元来のマグナスの伝説については不問とされることを願うばかりである。


2057年 六月・十月・十二月

場所
英カークウォールの郊外。「マーガレットの陰部」と呼ばれる歪な柱石が六本林立した巨石文化跡地。廃棄されたタイヤのないカワサキのバイクの残骸が三台。横積みされたサーバーらしきプラスティック直方体が二基。

登場人物
スタンリー・マグナス
フェルディナンド・モラレス
トム・キューザック
ロマン・リンデマン
リリィ
老いた刑事
若い逃亡者

第一幕
(下手寄りのバイクに跨っているトムは、スコッチを飲みながら正面に向いて沈思している。サーバーの上にスコッチ壜がニ本とグラス三個。その脇でサーバーに腰掛けたロマンはトムに背を向けて上手に向いて人参をかじっている)
(若い逃亡者が後方を気にしながら小走ってきて、二人を見つけて何気ない風を装いながら下手最奥の柱石に寄りかかって身を隠す。トムもロマンもまったく無関心)
逃亡者 (一息ついて)いいところだなあ、このへんは。
(老いた刑事が息を揚げながら疲れたようにやってきて、二人を見つけて躊躇するが、落ちつこうとしてもう一台のバイクに座って話しかける)
刑事 (一息ついて)いい午後ですなあ、今日は。旅行ですか?どちらからいらっしゃったのですか?
(ロマンはバイクのタンクを人参でゆっくり指す)
ロマン カワサキに乗って精神病院から来たんだよ。
(老いた刑事は続けて聞こうとして口を噤んでしまう)
トム ああ、どうも俺には分からない…などと言って頭を抱えたところで、おまえがその兎のように食う手を休めて振り返るわけでもない。たとえその耳が俺の声を聞いていたとしても俺に分からぬことは、おまえにも分からないのだから、俺は黙っているべきなのだろう。それにしても、俺には分からないという俺の独り言を、風に聞かせるしか俺達にはもはや何も残されてはいない。何も…そう、何もかも終わろうとしている。マグナスは中国人が造りだした銀碧色の獣と手を握り合う…これですべて終わった。
ロマン いいや、俺はこれから始まると信じているよ。
トム おまえの始まりは聞き飽きた。もっとも、その聞き飽きた始まりも、この期に及んでは、どことなく終わりの凄味を孕んでいて美しい響きだ。
ロマン 信じなければ…人参さえも口にできない南と、廃棄物の捨て場ばかり探している北…この少年まがいの乱痴気な時代を終わらなければ、飢えから解放される新時代は始まらないよ。新時代にはその十二年もののスコッチも、このリリィの菜園の人参も無用になるね。
(トムは打たれたように回転してバイクから降りる)
トム そうだ、あの女ならマグナスを三十ニヶ月ほども堕落させられるだろう。堕落の象徴なる豚とも、人間に譬えられて迷惑な葦とも寝る女なら、最後の獣を駆逐はできずともマグナス本人を翻弄することはできる。
ロマン アシとも寝る女のアシって何?
トム 草の葦、女と寝ることもなかったトランプ博打のパスカルが言っていた水際の草の葦だよ。
ロマン 草の葦か、どうやって寝るんだろう、葦はくすぐりが上手そうだがな。それにしても、やっと反キリストらしい言葉を聞けたよ。
トム そうさ、俺達は血統について実に科学的誠実さを保ってきた。この二十年、俺は伝統の問題を「我らが大陸」で論じつづけ、「我らが大陸」を停滞の泥濘に留まり続けさせてきた。父の父によれば、俺達の忌まわしさの根源はあの大地溝帯の深奥なのだから。
ロマン 俺達の血統ね…そのために生まれ、そのために死んできた、俺達の血統ね。その俺達の血統が、マグナスの新しい友人を呼び覚ましたのだとしたら…どうなっちゃうのかなあ。
トム エアハルトでの仕事は立派だったじゃないか。(後ろからロマンの両腕を取って上げる)祈っている場合ではない!かつて鎌や鋤を取って戦ったように、めくったアスファルトを投げつけて戦うのだ!
(ロマンは振りほどいて落ちた人参を憮然とした顔で拾う)
ロマン ルターも飢えた女子供が国境を越えてくるとは想像しなかっただろうね。(齧ろうとしてトムに投げつける)エアハルトの騒乱も、「我らが大陸」の停滞も、そもそもは羊達の生きる欲望があってこそだろう!
(上手の柱石の後ろから突然にクーラーボックスを背負ったフェルディナンドが現れて、驚いてバイクから腰を上げた老いた刑事を無視してバイクに機敏に跨る)
フェルディナンド やっとるな、諸君。蛆虫だらけの豚仮面にもひとこと言わしてくれ。
ロマン あれえ…枢機卿との醜聞裁判はどうなったんだい?
フェルディナンド お国の牧師と違って、我が国では枢機卿様はエメラルドの翡翠仮面なのだよ。つまり、彼を中傷した者は三日後に彼の試練と言い直さざるをえんわけで、彼は誰も手が届かない緑の園にそっと隠される。ま、こんなところだ。それにしても、この島の変わらぬ牧歌風情はどうだ。ロンドンのテレビでは我らがマグナスの顔ばかりが映し出されている。(トムにむかって)すべての病を煮出す鍋よ、マグナス万歳、と言ってくれ。
トム 相変わらずだな。マグナス万歳。
(フェルディナンドは仕方ないといったふうにクーラーボックスに膝をついて頭を抱えて見せる)
フェルディナンド 買い被りすぎです、僕は父の仕事を引き継いだだけなのに。父は言っていました。コスモスが萎れるのを見て、涙ぐむ少女の涙を涸らしてはいけない、たとえ少女の硬い胸の下を蒼い血が流れようとも。(しばしの沈黙の間隙をぬって老いた刑事が片手を上げて話しかけようとする)いまひとつだ。まったく二枚目の悲壮な顔ほど難しいものはない。
ロマン ああ、スタンリーの真似だったんだね。
トム (酔った足でクーラーを軽く蹴ってから)マグナスはノートしか持ち歩かない。それも台湾の新興のメーカーに特注した信じられないほど軽いものだ。
フェルディナンド おやおや、スコッチかぶれの椰子酒飲みに教えられるとは。さきほどからこの荒野にはイカ墨のような悲鳴が聞こえていたぞ。中国人が作り出した最後の獣と手を握り合うマグナスが分からない、と嘆いていたスコッチ中毒の黒豚は誰だった?
(トムがいきなり立って正面に向いて右手を振り上げると、アルビノーニの弦楽とオルガンの為のアダージョ・ト短調がながれる)
フェルディナンド (ゆっくり仰け反りながら仰向けに倒れて)何十頭かの豚が、俺のポケットのどんぐりをめざしてむかってくる。
ロマン トム、やめるんだ!
フェルディナンド おうっ!痛い!豚が俺の顔をふみつける。
ロマン やめろ、トム、俺まで…
(トムが座ると音楽が止んでフェルディナンドが微笑みながら立ち上がる)
フェルディナンド と、まあ、この程度の力か。飲み過ぎにしても情けない。大丈夫、黒い森の聖者リンデマン。椰子酒飲みの末裔キューザックの力などせいぜいこの程度のもの。何故、彼は飢餓の撲滅こそが正当な悪の温床の未来であることを認めたがらないのか。
(フェルディナンドが左手を優雅に振りはじめるとメンデルスゾーンのスケルツォ・ト短調がながれる。トムが塞ぎ込むようにして倒れる)
ロマン モラレス教授、やめるんだ!
フェルディナンド ほら、見えてきたろう?これがおまえの原点、おまえの母が見えるだろう?
ロマン やめるんだ、教授、やめろ!
フェルディナンド ナイロビのガレージの隅で腹をすかせているこの少女がおまえの母だ。
(音楽が止んで低めの女の笑い声が響く。フェルディナンド、ロマン、トムの順に打たれたように周囲を見まわす。いちゃついた男女の嬌声がだんだんと大きくなる。英国旗ユニオン・ジャック模様の幅広なワンピースを着たリリィを肩車状態にのせて、スカートに頭を入れて顔を隠したスタンリー・マグナスが上手からふらふら登場)
リリィ 愛しのロマン、これを見て。スタンリー・マグナスを生んじゃったわ!さっき彼が畑に現れたの。あなたの好きな人参を抜いていたら、ロマン達とパーティーをするのですが御一緒しませんか、って背後で声がするので振り返ったら、アメリカのコンピューター会社の宣伝みたいに、本物のスタンリー・マグナスがノートを持って笑っているじゃないのよ。そして、見て、これを買ってきてくれたの、この島を出たこともないあたしにこの国の旗を。
(リリィは肩車から下りて老いた刑事に微笑みかけながらスコッチを注ぎはじめる)
スタンリー (乱れた髪を幾分か整えながら)お待たせしました。(ロマンを小さく手招いて握手しながら小声で)彼女は風呂に入っているのですか?野の臭い、小便の香り、しかし花の匂いなど微塵もない。(フェルディナンドを手招いて握手しながら)空港に電話をもらった時は驚きました。豪快な教授らしい、僕のためにわざわざローストを背負ってくるなんて。
フェルディナンド たいしたことはないよ。最初は農夫にポークを運ばせようと思ったんだが、カークウォールでも皆が皆、あちらこちらの飢餓状況を肴に、君の御先祖が残したスコッチに酔いつぶれている始末さ。
スタンリー キューザック大使、どうして握手をしてくれないのですか?
トム しばらくだったね。
(クーラーをあけたフェルディナンドが驚いてへたりこむ)
フェルディナンド これはなんと…痩せてはいたがラムだったのに。
(リリィはフェルディナンドとスタンリーと老いた刑事にグラスをわたすと、フェルディナンドを押しのけてクーラーからノートPCを取り出す。柱の影の逃亡者はずっと茫然自失)
リリィ マグナスの可愛いノートじゃないの。でも食べられないわね。
(スタンリーが小さく身構えるふうにするとベートーヴェンの十二のコントルダンスがながれる)
スタンリー 僕はマグナスです。
(リリィから優雅にノートPCを受け取って踊るようにリリィ、フェルディナンド、ロマン、トムの順に画面を見せる)
フェルディナンド マラガで食った豚の丸焼きだ。
ロマン 伯母さんが作ってくれた…蜂蜜とヘーゼルナッツがたっぷり入ったケーキ。
トム ロンドンではじめて飲んだハイランド・パーク。
リリィ 魚っていえばやっぱり揚げた鰈。あたしってほかに知らないから。
(画面を見せられた刑事がうろたえていると、吹き出してしまった逃亡者と目が合ってしまう。逃亡者は下手へ逃げ出して刑事は追いかける。リリィが楽しそうに手招きながら下手へ向かい、タクトを振るっているようなスタンリーが続き、フェルディナンド、ロマン、トムの順に続いて退場)

                                       幕

第二幕
(若い逃亡者が後方を気にしながら走ってきてバイクのシートへ諦めたように跨る。追ってきていた老いた刑事はその様子を見て大袈裟に手錠を取り出す)
逃亡者 (両手を手錠に向けて突き出して)分かった、分かったから、あんたもちょっと俺の話を聞いてくれ。
刑事 (咳き込みながらサーバーへ片足をのせて)聞いて…聞いてやろうじゃないか、この世の終わりが近いそうだから、あの劇団もどきの奴らのたわ言だとな。
逃亡者 そうだ、そのことなんだが、あんたが思うに、奴らは狂っているのか?
刑事 ああ、おそらくな、精神病院から抜け出して、あのマグナスとその取巻き連中を気取っている奴らさ。現実は退屈だ。
(老いた刑事は嘆息を吐きながら若い逃亡者に手錠をかける。若い逃亡者は俯いて上手へ向かうが、老いた刑事が咳き込みながら彼を下手へ引きたてて行き、下手最奥の柱石に寄りかかって寝ているウイスキー壜を握ったままのフェルディナンドに気づくが、二人は顔を見合わせて大袈裟に嘆息を吐きながら退場)
フェルディナンド …パタゴニア工科大学万歳!…カルメンデパタゴネスの陽気な学長様……砂漠の緑化に対しての旺盛な情熱は……ネグロ川の開発のために一睡もされないのは……ご立派な学長様。…あいつが指図するままに動いているだけさ。
(トムがノートPCを携えて上手から走ってきてサーバーの上に飛び乗る)
フェルディナンド 遅かったじゃないか。傷の具合はどう?神々の島を忘れたわけじゃ…。これはこれは…平和賞を総なめのキューザック・ナミビア大使様、いつのまにかおこしで。
トム ロマンはエディンバラの医者に立ち寄っているようだ。思ったより傷は深いらしい。
フェルディナンド 敵もさるもの、ライプチヒの神学講師に刺させるなどとは。
トム 嘆かぬ者に未来はなく、未来なき者に構え備えなし…ロマンは嘆いてはいたのだが。いつも俺の酔っ払いの戯言を聞き、いつも俺とおまえの間に立って諌める…ロマン。酒に溺れることもなく、波止場で客をとれない淫売鰈から淫茎人参を買っている優しいゲルマン。
フェルディナンド ほう…おまえも、もはや溺れることはなくなったと言うわけか、ご立派な黒い舌鮃。
トム 淫売鰈のおかげさ。ひいてはロマンのおかげさ。ナイロビで発生してロンドンにて熟成された世界史に対する怨恨、仕事とは成就するものだ…いまや法皇の専用機が砂漠に墜落する時がきたのだ。
フェルディナンド 何をする気だ…マグナスは、直接対決にはまだ十年以上は必要だと言っていたろう!
トム だから淫売鰈のおかげ…その鰈を我々と、マグナスと出会わせてくれた心優しいロマンのおかげ、だと言っているんだ。たとえば昨日…スタンリーはBBCの出演依頼を蹴って、御先祖様ゆかりのハイランド・パーク十二年ものを朝飯代わりにしている、夏までのこの俺のように。
フェルディナンド 獣が黙っているものか。
トム 教授、いや、学長…我々、反キリストにそもそも女がいないことを、あらためて考えてみるがいい。女にとっては…俺も学長様も雌の蟷螂の美味しい雄でしかないのだよ。
フェルディナンド 何を言っている。スタンリーもロマンも若くて美しくて有名だからにすぎない。豚頭と黒蝗は、マグナスの顔に賭けるしかないのさ。
トム そもそも反キリストなどという言葉が聞いて呆れる!(ノートを叩きつけるべく持ち上げて)白豚達が“我らが大陸”に忌々しい十字架と靴と電気を持ち込まねば、我々はずっと停滞…大いなる太古の時間に暮らし続けてこれたのだ。
フェルディナンド (ノートを指して)それを…「飛べない鴉」を何故おまえが持っているのだ…。
トム 俺にあずけたのさ、それこそ重荷に耐えかねた酔っ払い同然に。モラレスよ…前途有望なる若者が転落することは、劇的にしてありふれた事なのだよ。
(ベートーヴェンの十二のコントルダンスが切れ切れに徐々に大きく聞こえてくる。驚いて恐る恐るあたりを窺うトムからフェルディナンドがノートを奪い取る。縺れ合ううちに二人は曲の途切れ途切れに気づいて顔を見合わせる)
フェルディナンド 確認しようじゃないか。俺を俺本来の姿にしてくれ、おまえをおまえ本来の姿に変えてやるから。
トム よろしい、二十二分間だけだ。
(アルビノーニのアダージョ・ト短調の一章節とメンデルスゾーンのスケルツォ・ト短調の一章節が、それぞれの構えごとにめりはりよく流れた後に、殆ど聞こえていなかったコントルダンスが轟然と高まって急に途切れる。中央の二本の柱石の裏からスタンリーとリリィが現れて舞うように絡み合いながら正面へ。トムとフェルディナンドは丸まって横になっている)
スタンリー ああ…この女め、どこまでも濡れつくし、いつまでも水を孕んでいる。汗に唾液に小便に……乾くことがない海そのものだ。
リリィ あなたのノートがそこに…(丸まって横たわるトムとフェルディナンドを見る)気味が悪いわ。豚みたいな…確かに蝿も近寄らないような豚だわ。そして…何?焼け焦げた虫のような…大きな飛蝗のような虫。(スタンリーに縋りつく)どっちも死んでいるわ。
スタンリー こいつは豚なんかじゃない。それに死んじゃいない。ブエノスアイレスのテノール歌手が、アルトの見込みない新人歌手に生ませた子供で…孤児院ではやくもロルカを読みふけり、世話してもらった牧童の仕事をしながらフランス語をたどってセリーヌを読んでいたのさ。牛肉相場にその存在ありと言われたモラレス氏に見出されて後は、気の赴くままにカトリックの坊主達に賞賛されながら忌まわしい南米の歴史の研究に奔走した。それは多くの慈善家や枢機卿にとって…
リリィ ここを出ましょうよ。酔いがさめてしまうわ。
スタンリー こいつも飛蝗なんかじゃない。本人はマサイ族だと思っているが、タイタ族の清掃員とメルー族の踊り子によるナイロビっ子だ。孤児院で度々、予言めいた幻覚を見るものだから、ロンドンの物好きな精神科医の格好の研究材料にされた後(リリィがノートを開いて驚愕する)…逆に精神科医を狂わせてベストセーラー「我らが大陸」の著者となり…。
リリィ その…女…その女を…殺せ。
(スタンリーは何食わぬふうにノートをとりあげてバイクのシートへ誘う)
スタンリー どうも停留所にある電話ボックスは故障しているようだ。もっとも、この島では…
リリィ 殺す気なの?
スタンリー 殺す理由がない。
リリィ あたしだって…わかっているわ。あなたがマグナスなら、誰もが…この女を殺すべきだと思っているのよ。
スタンリー 誰もが思うとおりになどならないのがマグナスだ。
リリィ あたしだって知っているわ、あなたが砂漠を緑に変えて、人参やじゃが芋をたくさん作っていることを。忙しいあなたが、ここにロマン達と集まるのは…何とかっていう天才機械が、巨石文化の神殿跡でマグナスは世界の王となる、って言ったからでしょ…。
スタンリー もうそんなこともどうでもいいんだ。
(シートから立ってトムとフェルディナンドを狂ったように蹴り上げる。転がりうめく二人を見ながら顔を抑えて崩れる。リリィが抱きつく)
スタンリー あらゆる物と同様に、我々も真正なる神である太陽に焼き尽くされるだろう。…イエスが、どこでどう何度も何度も再生降誕しようとも、我々、反キリストが彼の影に怯え続け、邪悪の刻印に大いに甘んじ続けようとも…灼熱に焼かれるのだ。
リリィ あたしはあなたを…愛している。愛している、イエスが誰であろうと、あなた達が何者であろうと。
スタンリー あいつは機械のくせに中国人に学べと言う。あいつの観念…そんなものは実はない。せいぜい北京原人の本能が形成された程度さ。
リリィ 愛は、波止場の先に延々と広がる海そのものだわ…。あたしを人参畑から連れ出して。あたし達は…ずっと沖の暗い海底で、疣だらけの鰈の夫婦になるのよ。
(スタンリーは爆発したように哄笑しながらよろめいてもう一台のバイクに崩れもろとも倒れる)
スタンリー なんという耽美な誘惑だろう。私がマグナスではなく、配管工か二階建バスの運転手だったら…
(トムが満足げに立ち上がりフェルディナンドの肩をたたく。フェルディナンドは茫然自失の体でシートでコントル・ダンスのメロディをハミングするリリィと倒れたままのスタンリーを見比べる。トムはノートを軽く蹴って侮るように画面を開く)
トム ただちに女を殺せ、か…機械とはいえ「飛べない鴉」さんもたいしたものだ。…何だと…その女は…すでにイエスを受胎している。

                                       幕

 第三幕
(サーバーを囲んでスタンリー、ロマン、トムがシャンペンを注ぎあっている。真ん中の皿には鰈のから揚げが一匹。上手奥から微かにリリィの呻き声)
ロマン かくして神学は村芝居のごとくひとつに閉じる。
スタンリー そのとおりだよ、自然と共にあるロマン。そもそもこの場所も、あの淫乱にして博愛の女リリィも、この大いなる結末も、すべてはあなたという予言者の導きだったのです。
ロマン 何を言うんだ、アルファにしてオメガのスタンリー・マグナス。そもそもこの島こそが君のご先祖の地にして、例の密造酒を隠した教会の教壇下に、「マーガレットの陰部」にて野に葬られし鎮魂を掘り当てろ、という古文書があったからだ。
スタンリー それでもあなたがロンドンのハイスクールに突然に現れた時、私は今日という至福を予想することなどできなかった。
ロマン 君を見つけたというトムの興奮。そして俺は非常勤講師としてハイデッカーを携えて。
トム 何を考え込んでいるのだ、と聞きたそうな顔だな。
スタンリー キューザック大使、フライド・ソールはお嫌いですか?
(トムは怒ったように鰈のから揚げにかぶりつく)
ロマン 大使の憂鬱は他でもない。来春にでも法皇をナミビアに呼ぼうと思っていた矢先の珍事だ、彼にとっては。
スタンリー 神の代理人と名乗る者は名乗らしておけばいいのです。駱駝のように殺さずに飼い慣らし続けましょう。
(雷鳴の後にリリィの呻き声が急速に高まって出産の絶叫、そして轟くような産声。三人は咄嗟に頭を抱えて硬直する)
フェルディナンド 見よ!我が父よ、大いなる暗黒の父よ!あなたは蘇られた!
(上手より鉛色の手術着を着たフェルディナンドが震えながらよたよたと出てくる)
スタンリー 相変わらず乱暴な比喩しかできない方だ。学長、それはそうと母子共に健在でしょうな?
フェルディナンド マグナス様、これもまた我々の試練なのでしょう。
(ロマンが打たれたように、トムが引きずられるように上手に駆け込む)
フェルディナンド 偉大な方が再来降誕なさるためには、マグナス様の運命に対する波涛のような怒りが必要なのでしょう。リリィ…最初にして最後の奥様は、赤子をご覧になってすぐにお亡くなりになりました。
(沈黙、小さな雷鳴の後にロマンの啜り泣きとトムの放逸したような苦笑が交互に聞こえてくる。三度目の小さな雷鳴の後に、スタンリーが天に拳を突き上げると引き裂くような大雷鳴がおきる)
スタンリー 堕天使サタンは男でも女でもない。マグナスはサタンだ。よってマグナスに妻などあるはずもない。
(スタンリーは女性的な仕種で髪を整えて上手に悠々と歩いていく。すれ違って上手からトムが足下をふらつかせながら出てくる。トムがフェルディナンドを手招いてシャンペンを注ごうとする。ロマンが上手より濡れそぼったような形相でよろよろと出てくる)
フェルディナンド 暗黒の父に…汝の神に…乾杯!
ロマン あれは何だ!答えてみろ!
(上手からスタンリーが俯きながらゆっくりと出てくる)
フェルディナンド 暗黒の父だと言ってるだろう!おまえにはあれがフィッシュ・アンド・チップスに見えるのか!…あれは…あの方は、この蛆虫だらけの豚頭の王にして、この黒い飛蝗の王にして…
スタンリー キューザック大使、何らかの説明をあなたに求めるのは不当なのでしょうか?
トム …我らがマグナスとて最も親しんできた黒い肌は…この出自も怪しい私。そして、多くを並べ立てるよりも早々に吐かれるべき言葉はひとつだけのはずだ。
フェルディナンド 俺はおまえが嫌いだけれども、おまえの野心の骨頂は信じているよ。
トム 誓って言う。俺は反キリスト者として生を受けて以来、白い肌の女どころか、人間の雌と交わったことがない。俺は最初で最後の黒い飛蝗だ。
フェルディナンド そのとおり…おまえはこの島では呑み潰れてしまうしかできない誇り高い飛蝗だ。
(フェルディナンドが食いかけられた鰈の皿を持ってスタンリーの前に立つ)
フェルディナンド ご覧なさい、この鰈を…。腹も肉も白ければ背は黒々としてごわごわと硬い…。スタンリー・マグナスの黒い意識が黒い肌の王子を望んだのです。
(スタンリーは徐々に高まってきたベートーヴェンの十二のコントルダンスにのって舞うように何度も回転する。ロマンが急激に硬直して次の瞬間、スタンリーの胸元をつかむ)
ロマン 黒とか白とかの問題じゃない!…あれは…イエスだ。
フェルディナンド 黒いイエス…それこそ世界が震撼するぞ。馬鹿馬鹿しい、…我々、反キリストなど問題ではないな。
ロマン 「飛べない鴉」をどうして捨てたのだ、銀碧色の獣が創造する新しい時代がそこまできているというのに…。
フェルディナンド あいつは鱈腹、電気を食っていればよい。我々は今までどおりマグナス様に従って…王子を完全なる暗黒の王に奉りあげるのだ。
ロマン (疲れた様子でスタンリーの胸元をはなす)イエスよ…ライプチヒで流した俺の血などではとても満足できないようだな。
(スタンリーは腕を組んで考え込みバイクのシートに座る。ロマンは追いかけるようにしてスタンリーの肩に手をかけて、トムとフェルディナンドに微笑む)
ロマン 恐竜と直に戦えるとは思わなかったよ。
(ロマンは厳しい形相になって上手へ走り込んでいく。爆発したような赤子の泣き声の後にロマンの叫び声がおきる)
フェルディナンド どちらにしても優しいロマンは死んだようだな。
(フェルディナンドは手術着を正してすたすたと上手へ歩いていく。そして慌てふためく声の後に叫び声がおきる)
トム 何ていうことだ。
(トムが上手に向かってスタンリーの前を過ぎようとすると、スタンリーの脚が止める。トムは後ずさりしながらベンチの後ろをかいくぐって上手に向かおうとするが、スタンリーは素早く立ち上がって両手を広げてトムの行手を塞ぐ)
スタンリー 黒い飛蝗さん、マグナスを甘く見るな。
トム 何をしているんだ…ロマンの言ったことが本当なら…
スタンリー あの子が、暗黒の王でも、イエスでも…大した問題ではない。問題は黒い飛蝗さんが嘘をついていることだ。本当のことを言えば命は助けてあげましょう。
トム 何度も言わせるな。俺は女と交わったことがない。
(スタンリーは飽きれた仕種で両手を下ろして上手への道をあける。トムは怯えながらも威を繕って上手に歩いていく。暫しの沈黙の後にトムの絶叫が響き渡る。スタンリーは大きく嘆息を漏らしてシャンペンを注ぎ上手に向かって掲げる)
スタンリー 何者にも触れさせない…大変なお力で。いずれにせよ、君が電気を鱈腹食らう化け物と手を握ったことは、生まれたばかりの君の開いていない目を見て瞬時に分かった。(押し殺した笑いからシャンペンをこぼすような哄笑へひろがる)それにしても、私もどうかしている。君が私の子であろうとなかろうと、化け物と手を組んだのであれば、父も子も…サタンもイエスも…人間の脳髄、そして脳髄の神話を再現する機械、この両者の尊厳を賭けて戦わざるをえないのだ。それなのに肌の黒さに惑わされて…私も生身のくだらない猿でしかないのか。
(さらなる哄笑と共に赤子の泣き声が高まる)
 
                                       幕
タッソオ (岩波文庫 赤 407-5)

タッソオ (岩波文庫 赤 407-5)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2023/06/10
  • メディア: 文庫



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バールベック   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 時々、日本人の中にも砂漠志向の人間が一人二人と散見できる。
 シンと呼ばれている大友伸輔(おおとも・しんすけ)もそんな一人なのだろう。磯子の学者肌の家に生まれて、大学をなんとか卒業してからは桜木町の銀行に六年ばかり悶々と勤めていたが、ホメイニがイランへ戻った頃から体調不良を訴えはじめてそのまま辞職した。続けてエルサレムへ旅立ち父母を悲しませる。気がつけばホメイニが亡くなった翌月にはレバノンのベカー高原にいた。
 ベカー高原のほぼ中央にローマ遺跡で有名なバールベックがある。フェニキアの豊穣の神バールに由来するこの遺跡は案外に客が切れない観光地である。一昨年からシンは遺跡脇にある観光客相手の料理店で働いていた。
「シン、肉をまわしてくれ」
「タイガー、豆のスープの様子を見てくれ」
 大友伸輔は好きだったインド人のプロレスラーの名前を捩って、タイガーとかシンとかと自分を呼ばせていた。
「日本じゃそのレスラーっていうのは人気者なのかい?」
 店長のナファトに英語でそう聞かれてシンは手を止めた。
「大変な悪役なんだけれど、なぜか憎めないんだ」
 シンはそう言うと嬉しそうに人参を掴んだ。学生時代に初めて金銭を得たのが洋食屋でのアルバイトだった。こうしてまた食べ物を提供すれば大方が喜んでくれる。為替と背広から離れてみると益々そう実感できる日々だった。
 店に羊肉がなくなって、ナファトが買出しに行ってしまったとある日の午後。シンは早速に遺跡のチケット売り場へ向かった。売り子のナナに会うためだ。ナナはいつものように何食わぬ表情でチケットを切って「前庭のピンクの石」と言って渡した。ナナが知っている英語はこの「前庭のピンクの石」と「前庭の葡萄の木」、そして「今日は悪い日」と「ありがとう」の四つだけだった。
 シンはチケットを手の中に丸め込みながら左手の階段を上がった。そのまま上がりきって前庭に向かおうとした時だった。ちゃんとした英語が聞こえる。花崗岩の列柱の前で写真を撮っている一団だった。端に収まっていた黒縁眼鏡の老人がじっとシンを見ている。目を逸らして脇を通り過ぎようとしたときだった。
「天気がいいから葡萄の木かい?」
 老人は待ち構えていたかのように言った。シンは驚愕して一瞬、膠着したがそのまま階段を上がりきろうとする。立ち止まる勇気が附着するまでに数秒かかった。上がりきってから落ち着き払った素振りで振り返ると、老人の白髪はトルコ人の団体に紛れてしまっていた。
 シンは足の踏み場もないほど瓦礫が散乱している前庭を小走った。葡萄の木へ向かっていた。葡萄の木は遺跡の経路からかなりはずれた秘密の場所だ。誰もいなかった。木の脇のナナを抱く石に座る。呼吸が乱れていた。肘から汗が滴のように落ちていた。不思議なものである。四年前の屏風ヶ浦の駅で躓いたときの記憶が蘇えった。あの夏の日と同じ分けの分からぬ疲労が襲ってきていた。
「奴らに…奴らに何が分かるってんだ」
 シンは久しぶりに日本語を呟いて立った。経路をはさんで反対側にあるピンクがかった花崗岩へ向かう。ナナは不服そうに待っていた。シンは雨露を避けて割れ目奥に隠してあったビニルシートを広げる。慌てて広げる様に不服そうだったナナも笑い出す。シンは笑っている彼女を倒してその胸に汗まみれの顔を埋めた。
 日も傾いて涼しくなった頃、店へ戻るとナファトが羊肉を一心不乱に捌いていた。
「シンも有名になった。あちらさんがご指名で、羊の挽肉団子のトマトスープだ」
 予約されていた盛況な晩餐にナファトは気を良くしていた。そしてシンが半年前から作りはじめた料理も徐々に有名になっていた。ヒズボラの連中にも好評だった。しかしナファトが指差したさきには「PLYMOUTH」の文字の濃紺のTシャツがあった。
「あのイングリッシュが俺の料理を?」
「ああ、なんでも、大庭園での明後日からのクラシックのコンサートで、ヴァイオリンを弾きに来られた方々だそうだ」
 シンはもはやナファトの言っていることが聞こえなかった。背がいくらか曲がった濃紺のTシャツが振り返るとあの老人だった。思ったよりも眼鏡の奥の眼差しは優しい。そして恥ずかしそうに伏せられた。
 シンは腿肉を重たい出刃で叩きながら日本語で呟きはじめた。
「そうか…あんたらが俺とナナを見ていたっていうのか?見せてやったのさ、アングロサクソンに…俺たちが犬のようにどこでも愛し合えるってことを」
 ナファトが肩をたたくまで日本語は沸々ともれていた。
 夏のコンサートが無事に終ると、バッカス神殿を見上げる観光客も幾分か減った。ナナの「今日は悪い日」が何日か続いたほかには、懸念することもなく料理に励む日々が続いた。
「女がいない日は、静かな所で外国の新聞でも読むことだ」
 ナファトはくせのない英語でそう言ってガーディアンを手渡した。イラン系のアメリカ人だったナファトは、異邦人として生活するシンにとってまさに先生だった。
 シンとナファトが新聞を読む静かな所は、遺跡の一角の博物館の中にあった。シーア派のヒズボラの一室である。上目遣いのホメイニの写真が貼ってあって、武器を持つ若者が笑って迎えてくれるときもあった。
 一人で窓際で風を待っていると、湿り気を持った風がジブラルタルの記事の頁をめくっていった。
「…バールベックの遺跡の入り口にかつての少女はいた。もはや老人の私を憶えているわけもなく…」
 シンはしばらく凝視していたが、風がさらにめくった頁のメイジャー首相と目が合うと舌打ちしてたたんでしまった。

                                       了
ルベーグ積分講義[改訂版] ルベーグ積分と面積0の不思議な図形たち

ルベーグ積分講義[改訂版] ルベーグ積分と面積0の不思議な図形たち

  • 作者: 新井 仁之
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2023/05/22
  • メディア: 単行本



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ナザレ   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 彼女は酒も煙草もやらなかった。だったらそのまま祈りの町ブラガで祈っていればよかったのに、とか言うのは無神論者で実家が曹洞宗の緋山沙里(ひやま・さり)には酷な物言いである。煙草はもちろんワインも飲まないからといって、やっぱりmono amarilloもしくはmacaco amreloそのままのyellow monnkeyを見くびらないでほしい。バルセロナのエスパニョールを後にしてブラガのランクFCに移籍した時、サリ(沙里)のお決まりの挨拶の締め括りはこうだった。
「…好きなものが三つあって、一つはやっぱりクリスチャン・ロナウド、一つは猫、もう一つは鰯の塩焼きです。ブラガはちょっと海から遠いことが残念です」
 海から遠い祈りのブラガのランクFCは、誰の誰への祈りのおかげか知らないうちにリーグ優勝の喜びをサリにもたらしてくれた。JFAアカデミー福島のときのポルトガル遠征で勝利したとき以来の喜びである。嬉々としたまま海を見ようと思ってブラガを出立したのだった。
 正直な感想を言えば十代だったあの時のほうが嬉しかった。相手はたしか近在の高校生と大学生を寄せ集めたようなナザレのチームだった。そんなチームを相手の勝利にはしゃぎながら海浜をバスで過ぎてみると、晴天でも殺伐としている常時、波浪警報が鳴っていそうなナザレだった。そうだ、ナザレだ。ナザレまで足を延ばそう、ご褒美のような休日なのだから。水平線を望むベンチでメモリアルのように固まった爺さん、そして鯱かマッコウクジラに追われる鰯の群れのようなサーファーたち、あれがここポルトにはない。世界遺産の橋で有名なせいか観光客の団体ばかり。時々、日本語まで聞こえてくる。あの恰幅の好い老夫婦は、ポルトにあって「瀬戸大橋の袂のヒレカツ」が旨いとか言いながら窓辺のあたしをちら見している。捕まる前にここホテル・ダ・ボルサを後にしよう。
 サリはボールがペナルティエリアに出る予感には卓越しているが、朝食のスクランブルエッグとポテトの残りの見切りには躊躇する質であった。
「ご一緒していいですか?」
 甲高いものの嫌味のない響きの日本語が落ちてきた。
「えっ、あっ、どーぞ、どーぞ」
 サリはポテトを含んだ口元を抑えながら後ろからのファウルに近い不快を持った。
「このホテルは日本人だらけですね。あそこにいる母と叔父が、さっきから一人旅のあなたを指して、あの人も日本人の方じゃない、とか…」
 長身の男はトーストとカフェだけがのったトレイを滑らすように置いた。二十代後半から三十代に見えるが、断じて純粋な日本人ではない。オーストラリアのマンリィ・ユナイテッドFCからロンドンを経てランクFCにやってきたサリ、彼女にも人を見る目利きは備わってきていた。
「ランクFCの方ですよね。先週の優勝のダイジェスト版を見ていたら、あれ、日本人だ。しかも母の若い時の写真にそっくりだと思って。そう、朝からお腹いっぱいのような顔をしている、あの母の」
 サリはラテンな男性ファンの言い回しには慣れていたが、回りくどい日本語の羅列には腰を引くしかなかった。挨拶代わりに振り返ってみれば確かに似たような奥二重眼。ポテトを飲み下してからカウンターに転じてみた。
「あなたとご家族は日本のどちらからいらっしゃったの?」
「ああ失礼しました。僕はルート・ファン・マーネンと言います。母と叔父は日本に住んでいますが、僕は父の方の国、オランダに住んでいます。ああPSVのユニフォームを持っています。オランダでプレイする気はありませんか?」
「ありません。あなたはオランダでどんなお仕事をなさっているの?」
「日本語で言うと、そうですね…自称、カフカ研究家、ですね」
 そうきたかのスライディング・タックルでもないし、父のクライフ好きのおかげでオランダなんぞでのプレイは考えたこともなかった。
「カフカってあの『海辺のカフカ』のカフカさん?」
「そう、そのカフカさんだけど、カフカさんには海辺は似合わないと思うな。読んだの?」
 見え見えのフェイントに乗っちゃって、もらったと落胆させないでほしかった。
「十代のとき、本屋さんの店頭に並んでいたのを見ただけよ。あたしの愛読書はサラ・パレツキー、英語のため」
 固まっちゃったキーパーじゃ楽々ゴール!スクランブルエッグは諦めて席を立とうと思った。
「ああサラ・パレツキー、僕もVIものは息抜きによく読みます。本当は母と二人だけだったらシカゴとかニューオリンズに行きたかったな。シャナ・デリオンは?」
「VIものよりも好きかな、新作が出たら練習そっちのけで読むわ。叔父さんが一緒だったからポルトになったの?」
「そう、叔父さんはカトリックなんだ。しかも金持ちだから言いなり旅行だな」
 二度と顔を合わせたくない日本語を話すダッチ混じりのカフカ研究家に言った。
「言いなり旅行なんて愚痴ってないで、ご家族で楽しいご旅行を」

 ポルトからナザレまではバスに乗って約三時間、がっくりと頷いた方はイベリア半島を楽しめないだろう。サリにしても時計ばかり見ている主審のような日本人気質は打っちゃれない。車窓は思いのほかオーストラリアのキンバリー海岸沿いに似ていた。赤茶けた不毛とまでは言わないにしても、テラコッタ・スレート葺の軒下に垣間見えるのは老人ばかり。しかし裏庭に上がっている白煙を見ると、バーベキューとワインよりは鰯の塩焼きとビールを連想して「日本人向きなのかもね」と呟いて微笑むしかなかった。
 未知への勇躍と不安を醸し続けてきた大西洋を望むナザレ。四世紀に聖職者がイスラエルのナザレから聖母像を持ち込んだことにちなむポルトガルのナザレ。たどり着いた聖母像も波頭の麗しさに嬉々としていたことだろう。やっとナザレに着いた。ケーブルカーなんて後まわしにして、須磨にあがるような鰯の塩焼きとできればスーパードライ、それが叶わぬのならライト・コークで手を打とう。まずは香草もスパイスも嘲るような岩塩焼きの狼煙を見つけることだ。狼煙が見つかった。やや大振りだが眼の赤くない立派な鰯だった。来た、見た、勝った。暇そうな太鼓腹の親父が鰯六匹に二個丸ごとレモンを深皿に載せてくれたものの、ビールどころかライト・コークも見当たらず氷たっぷりのグラッパを強制してきた。岩塩焼きに伴するなら安アルコールでも妥協するしかなかった。
「案外とさっぱりで…岩塩のせいかな。グラッパなんかは滓焼酎だからやめとけなんて言ってたけど…そうだね、カフカさんには海辺は似合わないよね。日本人の独り言だから気にしないで…鰈みたいなやつも美味しそうだったからグラッパをもう一杯いくか」
 微風の晴天下にあって、サリはむさぼり飲んでいるグラッパを称賛する羽目に陥った。砂塵も舞わず野良犬もまとわりつかない。どんな部屋でもいい、ホテルどこか空いていないかな。ランクFCのフォワードって言っても、ここはもうリスボンが近いナザレだから無理か。ブラガとかリスボンとか、女だらけのフッチョボルなんか忘れよう。グラッパと太陽が手伝ってか、異邦人サリは無防備にベンチから立って振り返った。
「やあ、やっぱりカフカには海辺は似合わない」
 ダッチ混じりのルートが往年の湘南俳優のような話し方で立っていた。
「そうか…ここも有名な観光地だもんね。カフカに似合う所ってどんなところ?」
 陳腐に繰り返すが、グラッパと太陽が手伝ってサリの切り替えも早かった。
「そうだなぁ、いつもカフカが似合うと思っているのはプラハ、こういう晴れた日は羽曳野かな」
「ハビキノォ?大阪の羽曳野?そうきたか…お母さんと叔父さんは?」
 ルートは「上から見たいんだって」と言って遠方のケーブルへ顎をしゃくった。
「羽曳野か…グラッパをもう一杯飲もうと思っていたんだけど、あんたもどう?」
 ルートが渋い顔のまま頷いてベンチへ座ったことがいささか腹立たしかった。鰈なんかあいつには贅沢だ。塩っ辛い鰯じゃなければ「羽曳野のカフカ」は始まらない。グラッパを面倒そうに注ぐ親父さんの太鼓腹を蹴とばしてやりたかった。
「羽曳野に行ったことがあるの?」
「母の実家が羽曳野のワイナリーなんだ」
「それはそれは御免なさいね、グラッパなんか相手させちゃって。でも鰯の微妙に残る生臭さを抑え込む感じが案外いいよ。案外って分かるよね」
 明らかに今朝の馴れ馴れしいルートではなかった。グラッパを含んで氷を嚙み砕いた横顔は哲学者か。地の果てナザレに辿り着いた巡礼者か。体の具合が悪いのか。そういうことか、海辺へ来るはずじゃなかったカフカなのだ。
「びっくりしちゃった。あたしね、羽曳野の青山病院で生まれてね、そう、峰塚中学校でサッカー始めたんだ。あの辺は古墳ばっかりでね、囲んでいる池の周りをよく走ってたんだ。あたしのこと調べたのかと思っちゃった」
 さすがに悩めるルートも笑みを浮かべた。かわされた。グラッパと太陽が阿呆に拍車をかけていると思うと、鰯の腸の苦みが随分と味わい深かった。
「具合…悪いの?余計なお世話だったらごめんなさいね」
「さすがは日本人。カオイロ?顔色をよく見ているんだね」
「だったらグラッパなんか飲ませるんじゃなかった。こっちはさ、爽快な気分だったんだからさ」
「僕も観光バスに乗り込むまでは爽快だったよ。叔父さんがいっぱいの薬を飲んで寝てから…母さんが言ったんだ」
 咄嗟に鳥のような影が過ぎった。人が肉親から離れて真顔になるときは肉親に原因がある。サリは父の病室を出た後の母の顔の落差に愕然としたものだった。
「叔父さんも聞こえていたのかもしれない。叔父さんはね、あの叔父さんは、ポルトガルへ死にに来たんだ。Leukemie 白血病って言うのか、その…駄目みたい」
 日本を出るまでのサリは置かれたような沈黙を嫌ったが、ここまで脚力だけで芝生の上に立ってきたフォワードはそれを静観できた。焦らない。ルートの方から沈黙を破ってくるだろう。焦れない。死に直面しているルートの叔父、連想に父の寝顔が去来してくるのは自然なことだ。古墳の堀周りを走るサリに自転車の父が並走し始める。頬を伝いはじめた涙が誰のためのものであろうと、ルートが語りかけてくるまでオフサイド・ラインを見極めるのだ。
 ヨハン・クライフさん、ナザレの午後にありながら羽曳野の夕景が重なってくるこの世界で、瘦せた日本人のフォワードを走れるだけ走らせてください。

                                       了

あい―永遠に在り (時代小説文庫)

あい―永遠に在り (時代小説文庫)

  • 作者: 高田 郁
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2015/02/14
  • メディア: 文庫



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銀蘭   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 名立たる武将を魅了したと云われる日本刀、大般若長光は昭和二十六年、工芸品扱いの刀剣としては初めて国宝第一号に指定された。帝国博物館(現東京国立博物館)蔵にまで至る所持の来歴としては、室町幕府十三代将軍・足利義輝から織田信長、徳川家康、そして松平家代々を経て、大正時代に山下亀三郎、伊東巳代治までに下るとある。ともあれ戦争を生き抜いた巷の昭和人にしても、由緒ある大般若長光を博物館の一般公開時に凝視できたのだった。
 昭和二十六年といえば、水谷浩三(みずたに・こうぞう)が京都大学農学部の教授に就任した年でもある。水谷家は京は木屋町通りに面した大黒町にあって、かつては伊根から京へ出て来て大いに繁盛した海産物屋だったが、跡取りの府警巡査だった婿の利彦が、昭和九年に共産党員(と言われている)に刺されて殉職してからは、商いの利権を伊根の親類に譲渡する格好となっていた。それでも浩三と未亡人となった姉竜子(たつこ)は、祖父が残してくれた不動産収入と大学からの俸給で人並みの生活はできていた。
 高度成長兆しの槌音を遠くに聞いているような中秋の京、有閑な町家の日曜日の昼下がりに水谷家は何やらそれらしく姦しかった。
「妖刀ぉ?妖刀いうたら普通は村正、村正のこついうんやろぉ?」
 浩三は薄ら笑いながらそう言って、濡れた満杯の薬缶をストーブの上へ置いた。
「熱っ!先生、長光て言うてますやろ。熱っ!まあ確かに妖刀では村正が有名ですわな」
 縁戚にあたる(亡き母と関係して放免された番頭の妹の子)理学部の助手となった森中(もり・あたる)は、弾ける熱々の飛沫を避けながらそう言った。
「妖刀でも水筒でもええけど、なんやその関数何とか、関数解析ぃ?その関数解析をやってはる数学者がな、九条の女が妖刀で進駐軍に斬りつけたなんて…そんな阿呆な話に夢中になって」
「熱っ!この薬缶いれ過ぎですわ。ほんで、阿呆な話でもそりゃ逆ですわ。進駐軍、いや在日米軍の軍医が、大層な日本刀集めらしくて、飾っておった大般若長光いうので、九条の看護婦見習いの女子に斬りつけたんです」
 浩三は闇夜で呼び止められたように背中を硬直させた。
「ほんまかいな。それやったら阿呆な話どころか、立派な事件やなぁ」
 中は薬缶の濡れを拭かなければと、布巾でもありそうな台所の方へ振り返った。待っていたように竜子が睨んでいる。布巾を口にしようとした瞬間、紺染めの手拭いが放られてきた。
「入れ過ぎや思うたらな、さっさと取りにきて拭くなり、薬缶をこっちへ持ってきいや」
「拭くだけでええ思います」と土下座するように中は布巾へ手を伸ばして「竜子さんかて錦の買い物ついでに聞いとるでしょ」
 竜子は待ってましたと言わんばかりに二、三歩踏み出した。
「聞いとる、聞いとる。一命はとりとめはったけど、見つかるのが遅かったら大変やったで」
「ええ、なんでも、正気に返ったいうか我に返った軍医が、血だらけの手のまま交番に行きよったらしいですわ」
「そうやてなぁ、ちゃんと拭きいな、その進駐軍やない、米軍の医者の名前ぇと、なんやったかな、黒船っぽい名前やったな」
「黒船?ああ、そうそう、たしかハリス、ハリスとか言うてました」
 浩三は中から手拭いを取りあげて、薬缶の蓋の周りを拭く仕草をしながら言った。
「黒船やったら、普通はペリーやろうけど…とどのつまりはやで、進駐軍の助平軍医のハリス君がな、看護婦に手を出そう思うたらやな、京都中に聞こえるような大声を上げられてもうて」
「違うわ、先生、ちゃうちゃう。そんな浄瑠璃めいた話と違います」
 竜子は弟の背後へどすんと膝をついて、さも情けなさそうに耳元へ囁くように言った。
「進駐軍さんわな、わてら生き残りが思っておる以上に紳士やで。そんなこっちゃから、痩せ猫が蹴られたように負けてしもうたんや」
 浩三は苦笑しながら後ろの姉へ手拭いを放りながら言った。
「それやったらな、なんやその看護婦見習いの方から、軍医に向かってやで『ドクター・プリーズ』とか言うてやで、その…」
「それや。京大の先生かてな、若い見習いの看護婦から前立腺のあたりをこしょこしょされたらでっせ」
 中は竜子が男二人を大らかに蔑視しながら腕を組む様を見ていた。
「前立腺てこんあたりかな」
 浩三が股間に手をやって振り仰ぐと、竜子は見るともなく頷きながら台所へ行ってしまった。
「まあ前立腺でもタマタマでも何でもええけんどな」
「ええですか、たとえ日本人のような助平な猿やなくて、竜子さんが言わはる紳士だとしてもでっせ、娘に色目使われたいうからて…」 
 浩三はここに至ってメークインと男爵を見比べるように、竜子と中を交互に見ながら大きく頷いた。
「あれかいな、単に不細工な東洋人の女が嫌やったとちゃうか?」
「先生、そん女を女とも思わん言い方が、先生を独身街道から外さんのですわ」
「なにを偉そうに…」
「ええですか、その軍医のえーとハリス、ハリスの奥さんは、なんと日系二世のハワイ人で、ハリスは愛妻から日本語を習ってきて日本へ医療指導に来ているわけですわ」
「それ早く言わんかい。分かった、あれやろ、アメリカ人いうてもピューリタンやから、看護婦がからかい半分で言うたことをな、そのまま真に受けてもうた真面目で頭の固い軍医さんなんやろ」
「そんでも、先生、こん大きな日本刀を抜いて、大般若長光を抜いて、娘の背中を袈裟懸けに斬ってやで、小さい白い花をですな、生けまっか?」
「生けるぅ?生け花のこつかい?」

 かつて山城国といわれた京の府内で日本刀といえば、それは三条小鍛冶宗近が鍛えた刀を指したとのこと。実際に三条通りを東山の方へ行くと、宗近が刀を打つ時に使った井戸が知恩院や仏光寺にあったとされ、鍛冶神社、粟田神社、注意すれば合槌稲荷の祠まで目にすることができる。その神社仏閣の群れから離れた賑やかな三条大橋のたもと、夏場の疲れが出たのか気分すぐれぬ浩三が佇んでいる。憂鬱な顔を若い衆に見せるのは嫌な質なので農業実習は助手に任せたものの、憂鬱なままでもどこか断れぬ人物と待ち合わせていた。
 中から軍医の殺傷事件を聞かされた翌日、浩三に農学部の先輩である高梨晃一郎(こういちろう)から帳場へ電話が入った。高梨は古くからの漬物屋の旦那にして、在学中から猟奇性と退廃美に凝った芝居を書いていて、陰湿極まるなどと評される一方、近松の生まれ変わりか、などと太秦の映画界からも期待されていた脚本家であった。
「えらい久しぶりやな」
 時と場所を約して会うのは数えて十七年ぶりとはいえ高梨は随分と老け込んでいた。
「先輩、ご足労頂かなくとも、宅に呼んでいただきはったら参りましたのに」
「なにを仰いますねん、京大の水谷教授にわてんとこのあばら家は似合いまへん」
 浩三の記憶は冷ややかなカルピスに直結して両手を打合せさせた。
「そや、あのカルピス屋、先輩にご馳走になった、あの静かなカルピス屋でもよろしかったんでっせ」
「なにを言うてんねん、あん店は道楽息子の借金の肩とかで戦前になくなっとるし、カルピスなんぞ珍しゅうもなくなってもうて、そこらの牛乳の代わりに出回っとるわ。ほんでも立ち話はなんやさかい、カフェでも入ろうか」
 高梨は真上の日を睨みながら暇そうな喫茶店へ浩三を誘った。暇そうなのも頷けるような革張りソファは、浩三に総長の応接室を連想させた。脚本家の先輩は倒れるようにソファに落ちると、指を二本立てて注文しながら太秦での仕事ぶりを粛々と話し始めた。
「…という有様よって、まあ、時代劇は仕舞いやろな。とは言うてもなぁ、漬物と同じで簡単には幕を引けんしなぁ」
 高梨は浩三の学者らしい眠気に囚われそうな顔に苦笑すると、それではとばかりに藍染の巾着から黒ずむ小骨のような物を取り出した。
「こん打ち物、何か分かる?そやな、いきなり見せてもうても叶わんわな、これはな、戦前の太秦で大河内先生から拝領した表目貫や」
 浩三は生まれて初めて大刀の柄の目貫という装飾金具を手にさせてもらった。銀色の花弁と肉厚の葉の造形は、鑑賞者に野にある美しさを連想させる間もなく暗鬱な重みを強いる。脚本家の高梨が舞台美術に関わって刀剣にも詳しいことは推察できる。しかし昨日の今日で何故、またも日本刀、またも人斬り包丁なのだ。
「これは…蘭の花どすか?」
「そや、華や芝居に疎いちゅうても、京大農学部の水谷教授やな。若いもんは水仙でっか、とか平気で言いおる。これはもちろん芝居用の偽物やけどな、刀の目貫いうたら後藤光正の大小の目貫が有名で、表目貫いうたらこの蘭や」
 高梨も軽く頭を搔きながら「徳を備えながら世に出ない人」の喩に至る、諸国を遍歴する孔子が山中幽谷の蘭に見入った故事を語りきった。
「…と、まあ、こん話はここまででや、水谷教授にお聞きしたいんわな、こん銀蘭のこつや。北山でも嵐山でもよう見かける銀蘭や。金蘭ちゅうのもあるんやろ」
「あります。金蘭も銀蘭も、昨今の北山や嵐山では珍しゅうなりましたな」
 浩三が力なく目貫を返す仕草を見て、高梨は演出にはまったような笑みを浮かべた。
「どないしたんや。会うたときから風邪でもひいたような顔しておったからな」
「風邪ではおまへんがな、夏の疲れが尾を引いとるような、それも理学部の助手になった森君から聞いた話、これが寒気のもとかもしれまへん」
 今にして思えばと、農学部の怪奇趣味の教授と噂されることもある浩三は、十年越しに襲来する不快について回顧せざるをえない。季節外れの悍ましい寒気の次には、それこそ脚本通りのように高梨のような風情と遭遇するのだった。
「認めたらええんと違う?認められんか。なるほどな、やがてはジェット機やら月ロケットが日がな飛ぶとアメリカさんが吹聴しよる、そんな世の中やしな。ましてや、あんさんは京大の教授さまよって、京都らしい魑魅魍魎の百鬼夜行なんぞは一笑に伏さんとあかんわな」
「憶えています」浩三らしくなく先手を打った。
「よう覚えとります。斎藤さんを襲った犬蓼、あれが始まりおしたな。そんで利彦兄さんを襲った吉草、共産党員の特高に対する逆恨み、とはいかにも時節柄の新聞の見出しどした。嫁になったばかりの姉さんは食が通らずやせ細り、わても長期の腹痛で台湾の蛮人療法に世話になる始末どした」
 洛中にあっての変態騒ぎも二度あっての三度目ゆえに、浩三も戦争を経て嫌がおうにでも開き直っていた。
「今度は中、森中君が持ってきたんは、ばっさり袈裟懸けの背中に挿さされた白い花。おかげでうちの姉さんも祭りのような騒ぎでしたわ」
 高梨は年甲斐もなく涙目になって目貫を巾着に放り込み、これまた年甲斐もなく破顔しながらカフェを啜って大いに咽る始末だった。
「おお咽てしもうた。あんさん、いや、君は煙草は?元々吸わんかったかいな。わては終戦から肺の調子が悪くて、ドクターストップちゅうやつや」
 浩三もぜいぜい顔の先輩が落ち着くまで待てる歳になっていた。
「お察しのとおり、わても銀蘭が、本物の銀蘭やで、この目で見たんや、ストリッパーのリツコのあそこに挿ささってるんをな」
「ストリップを見に行かはったん?」
「大部屋女優も食うていかなあかんわな。不細工なんは仕方ないよって、乳が婆ちゃん乳になる前よったらやで」
「先輩、そん女を女とも思わん言い方は置いといて、誰がどんな凶器でリツコはんを痛めはったんどすか」
 高梨は巾着を摘みあげてテーブルへ放った。そのまま両手で口をふさいで涙目を赤らめる。戦時下にあっても悠長だった高梨は優しい遊び人のままだった。
「日本刀でぐっさりや。というても撮影用の大般若長光の偽作でな、刃なんかあらへん、そうは言うても先は尖っとる、そん長光でな、倒れたリツコの足を掴んで陰部をめった刺しや。最後の一刺しが逸れて肋骨の下に入ってもうた」
 高梨が先週に目の当たりにした惨状を辿るとこうなる。大部屋俳優も裏方の手配もこなしてきた小谷という中年男、彼が戦前からリツコと男女仲だったのは知られているところだった。二人が別れた発端は案の定、小谷の許へ女が通うようになったからである。同志社で英文を教授している英国人女性オードリーは日本語会話に堪能で、日本文化のうちでも戦前からの太秦撮影所に興味津々だった。ハワイの血筋もあって奄美沖縄の美人顔ゆえ高梨もお相伴に与ろうとしたが無視される。勝手にしろと見て見ぬふりをしていたら、小谷がいつのまにか有志というか好き者を集めて、リツコ他食っていくのがやっとの女優を集めて撮影所の裏一画でストリップを企画しているらしい。頃合いを見計らって闇夜に集ってみれば、助平は高梨と守衛の親父と主催の小谷の三人だけで、踊りだしたのは化粧っけもないリツコ一人。半刻も過ぎた頃、酒も入っていない高梨と守衛が欠伸しそうになったとき、フィルムではむろん舞台でもお目に罹れぬ惨憺たる夜が開示されたのだった。

 京都御所の西側に京都府警やら検察庁が居並び、御所と官公庁に挟まれるかたちで烏丸通り沿いに護王神社がある。地元では蛤御門前のいのしし神社とも呼ばれて親しまれている。境内の霊猪像の許で会合すれば安心至極、と豪快に笑って場所を決めたのは、怪奇趣味の浩三ではなく、ましてや関数解析の中でもなく、殉職して警部となった水谷利彦巡査の自称右腕、金光実道(かねみつ・さねみち)巡査であった。
「正午が十一時に戻ったぁ?」
 理系とはいえ数学アレルギーの教授は、まともに聞く耳持たずのはずが、思わず振り仰いでしまった。
「ええ、あれはラマナタンが術を使いおったんですわ」
 霊猪像に寄りかかっていた数学科助手は、度のきつい眼鏡を外して傷を確かめるように日に翳した。
「言うとる意味が分からん。正午になる前、十一時五十八分いうたな、それが十一時に戻った言うんわ、長針がぐるりと左回転してな」
「違ぃますって、短針が左回転、正確には三十度マイナスX軸側に傾いて、長針はぴったり十二のところいうかY軸0のところに重なったんですわ。あれはインド人がよう使ういう魔術でんな」
 浩三は烏丸通りの方を訝しげに窺いながらでぶ猫が満腹のような嘆息をもらした。
「魔術か忍術か知らんがな、そん高名なインド人数学者の講演いうは、十時から始まって十二時正午に終わってな、丸々二時間やったいうことやろ」
「ちゃうちゃう、違ぃますって、丸々三時間話されたんどすわ。わての大学入学祝にもろたこの時計も、助手仲間の雨宮の辛気臭い時計も、講演が終わったときは十三時、午後の一時を指しておったんです!ええですか、ラマナタンは腕時計をしていなくて、背後の黒板の真上の最新の電気時計を、数式をチョークで書く時、話している時も三十分おきくらいに見上げておったんです!」
「ほう、自分が見ていた時計の針を強引に動かしてやな、二時間のところ三時間に渡って話しました、言うんやな。そやったらやで、そんインド人の講演をご拝聴にお集りどした皆さんは大騒ぎやったろな」
 中はそれこそ猫が吐き戻すようにごっくりと唾を飲み下して縦しわを眉間に立てた。
「ラマヌジャンの予想とか…数論のかなり専門的な内容で、他の先生方は感動していたのか、分からなくて居眠りしていたのか、騒ぎにもならんで拍手お開きになって…終わって教授たちの後をついて行くとき、思い切って雨宮に聞いてみたんどす、真上の時計のこと」
 浩三は非番の縦縞シャツ姿の金光巡査を見つけて腰を浮かせた。
「あんさんの目の錯覚や言うとったやろ」
「雨宮の奴、半べそみたいな情けない顔で『おおきにぃ、森君も見たんやな、わいだけかと思うた、怖かったわ~』言うて…」
 金光巡査はいかにも戦時を生き抜いた証か、千切れ欠けた右耳を指すように敬礼した。
「お久しぶりですな。水谷警部の七回忌は戦時中よって水酒どしたが…」
「まあ、その時節柄いうか…今年の来月の十三回忌はとことん飲みましょ、兄さんもそれを望まれとるでしょうから」
 金光は直情で義理堅いことを体現するように暫く目頭を抑えて俯いていた。
「そや、教授、言わはった同志社のオードリーいう英文教授」打たれたように巡査は顔を上げた。
「そん方は去年の夏まではいはったようでんな、あちらで言う新学期、九月からケンブリッジで学びなおしたいとかで」
 撮影所の件を詳しく知らぬ中は、応じるように俯いた浩三の横顔を凝視した。
「そうか、オードリーを騙った女がいるのか。高梨先輩と拘置所で厄介になっとる小谷いう男を騙した女、間違いなく言えるこつは外国人いうこつか」
 金光は日陰の方へ手招きながらシャツ下の腹巻から手帳を引っ張り出した。
「今日は暇やさかい、太秦界隈をぶぅらぶぅらしてでんな、日替わりの守衛の三人やら出入りしとる仕出し屋とか菓子屋に聞いてみたんどす。赤毛のえらい目立つ、お人形はんみたいな女だった、言うてましたわ」
「事件のあとは現れていない、さっぱりとでっか?」
「さっぱりとみたいどす」
 中は幼児が足し算をするように指折りを翳しながら二人に分け入った。
「先生、大部屋女優を小谷いう大部屋俳優がめった刺しにして、わてもよう見たことないあそこに銀蘭を挿しおった言うんは聞きました」
「見たことないって、君はまだ童貞か?」
「違います!伏見の女給あたりはよう見せてくれへんのですわ。ちゃうちゃう、そんこつやなくて、そん赤毛のオードリー言うんは何なんですの?」
 浩三は高梨から聞いた撮影所に出入りしていた女について話した。
「それやったら、丁髷好きいうか侍好きいうか、敗戦国ニッポンに同情して肩入れしたい白人女性、そない言うんはあきまへんか」
「だとしてみぃ、何故、去年の夏には日本を去ったケンブリッジの女史を騙るんや」
 金光はわざと手帳の頁を鳴らしながら軽く咳払いした。
「太秦をぶぅらぶぅらした後で、例の事件を起こしたハリス、そして仲間の医師が集まっとる京大病院までぶぅらぶぅらと」
「ハリスはまだ京にのうのうおるんですか?」と憤慨する中がいた。
「おるわけないやろ、精神鑑定を受けるとかの理由でさっさと横須賀へ移送や。若い看護婦をばっさり斬っておいてやで」
 浩三は自分よりも若い警察官と大学助手が敗戦国らしい虚脱の影を持つのを見ていた。
「それはそれとしてやな、これは日本の事件、京都の事件、しかも学生だった自分と姉竜子が遭遇してきた、一連の面妖な現象いうか狂気の沙汰、それに連なっとるいう妙な直観があるんや」
 金光は吐息を陽に焼けた頬にためてぐいぐいと頷いた。亡き水谷利彦と新妻の竜子が居並ぶさまが、十代の実道が理想とする家族風景だった。
「金光はん、もうひと骨折りしてもらえまっか。そのハリスにオードリーいう外人女が、いや、オードリーはどうでもよろしいわ、外人女がハリスに接近していたのを誰か見聞きしてないか」
「そうおっしゃると思って京大病院までぶぅらぶぅらしてみたんですわ」
「さっすがや~」と何やら嬉しそうな中。
「勝手に褒めんといてくれ。わてかて頭の整理がつかんさかい、こうして教授に護国神社まで来てもろうたわけや。教授、おりましたで、ハリスに接近していた外人女が」
 浩三の脳裏を亡き先輩の斉藤が口いっぱいの犬蓼を吐き散らしながら過ぎていった。
「オードリーではなく、えーと、ナンジャやなくてナジャ?そう、ナジャいう女は、ファイザー、これはアメリカの軍付きの薬剤物資の会社らしいのですがご存知でっか?」
「たしか一昨年だったかな、テラマイシンという抗生物質を開発している製薬会社や。そのナンジャモンジャはそこの何なん?」
「ナジャどす。ナジャは占領時から来ている、えーと、医療顧問とかで、日本語が話せて京都がえろう好きいうか…京大病院の人が言うにはインド人みたいでんな」
「インド人!」と目玉を剥いているのは中。
「だからインド人いうたらインド人やろし、太秦に現れたオードリーいうは白人でっしゃろ?」
 浩三は翳ってきた霊猪像に向いて目を細めて呟くように言った。
「まあ同じコーカソイドだから色の白だ茶色だは何とかなるな…そんナジャいうのは、ちゃんと日本におるんかい?」
「おります。衣笠山にあるサナトリウム?聖マリア修道女会サナトリウム、ここの裏に同僚三人と住んどります」

 衣笠山を有名にした故事では、宇多天皇が真夏に雪景色を見たいとの仰せ、それではと山麓の木々に絹の白旗をかけて雪山に見立てたのが筆頭にあがる。これには大王の権力を嘲笑うような陰話があって、もとより山麓は高貴な筋が埋葬されてきた地で、白絹をかけて埋葬された亡骸が、たまたま雪を頂いたような絹の笠のように見えただけとか。それも戦後の賑やかな今日この頃では、山麓の市道183号線は舗装される観光道路としての期待に与っていた。
「サナトリウムいうは結核患者の療養所ですさかい、その裏ともなれば隠れるにはもってこいでんな」
 中は今にも降りだしそうな曇天を恨めしそうに見上げた。
「本当にインド人を見送りに行かなくてよかったんかい?時計の針を動かす魔術いうんを授けてもらえば、安月給の助手なんぞやっとらんでも羽振りがよかったん違う?」
 浩三は研修林を歩きまわる際のリュックサックを背負いなおしながら言った。
「ラマナタン先生は立派な数学者や言うんは分かっとります。魔術をお使いになるのは、何て言ったらよろしゅうか…あん先生のおそらく体質いいましょうか、きっと」
 妙に専門的に過ぎるかと思えば若者らしく俗っぽい森中、浩三はそんな彼の痩身を今更ながら上から下へ辿り見した。
「体質?なるほど体質か、体質、体質、便利な言葉やな」
 仁和寺の御室桜の段々を右に窺うようにして、あえて藪に分け入れば腐植土の匂いは最近の雨風そのままを連想させた。にわか雨が連なる京都といえど、商いもあって秋の台風続きは恨めしい。盆地の驟雨は金蘭でも銀蘭でも育むが、天神様の怒り心頭めいた雷雨は北山への散策を阻むこと然りである。
「蘭がなんとか残っておったな」
 浩三は先日の土砂崩れに抗ったような跡に白い花を見つけた。小型ショベルで手際よく根土ごと掘り取ってしばし見入る。植物園で怪容を見せる竜舌蘭はいかにも人を取り込みそうな雰囲気があるが、山野のあちらこちらで散見できる銀蘭は、確かに失意の孔子を慰めるに相応しい。
「先生、これから会うナジャいう製薬会社の博士、そん人が、蘭やら吉草やら犬蓼やらの植物ホルモンを操れるとしたら…サンプルにしても蘭を持っていくのは…」
「持っていくのは?さだめし大般若長光を差し出すようなもんやないかて?」
「いや、危ないのは日本刀、キッス、ほんで注射針でありますよって…」
「もう一息や、関数解析の森はん、よう考えなはれ」
「えーと、先生から聞いた犬蓼、吉草、そしてそん銀蘭、これらの植物ホルモンが直接に害を及ぼしたんとは違う、ということは?」
 浩三は持っていた銀蘭を捨てて苦々しく土まみれの指先を舐めた。
「その辺にしとくか。見てみい、サナトリウムへの正面攻撃は避けて正解やったな」
 台風の大雨による土砂崩れが、戦前のコンクリート造りの三階建ての一階板塀へ押し寄せていた。患者たちは大丈夫だったのだろうか。と思う間もなく、土砂崩れの惨状を見下すように堅固な石垣積みが現れた。
 絵に描かれたようなバロック様式の小さい城が見えた。ウォルトディズニーを知る昨今の日本人にとって何やら城風の造り。近づけば赤煉瓦積みにしても樫板張りにしても、ここ一年ばかりの造作に見えるので現実感がない。浩三は入口のようなもの(それがあればの話だが)を探している自分の生温い汗を意識していた。
「窓が開いてますわ」
 中は小窓に架かる白いレースのカーテンに息をのんだ。
「先生、ここは正攻法でいきまっか?」
 浩三は濡れ犬が身震いするように頷いた。
「お邪魔しまーす。京都大学の者ですが、こちらはファイザー薬品のナジャ博士のお宅とお聞きして伺った次第でありまーす」
 二度三度と若者の声が裏返るほどに繰り返したが、邸内のカーテン奥からは物音ひとつしない。留守にしては開窓へ導くようなカーテンは不用心過ぎる。中は逆に意気消沈したように窓辺へ近寄った。
「映画で見たようなきれいな部屋どすわ」
 浩三は若者の大胆さに舌打ちしながら渋々と窓辺へ寄った。
「写真がある。あっちの色の幾らか黒いのがナジャ博士でっしゃろか」
 中が指差す先には汗をひかせる不穏な予感があった。総長の応接室を青りんごの壁紙とペイズリー柄の布カバーでソファを包んだらこうなる。紫檀のように見える食器戸棚の上に写真立てが四つあった。
 左端の総天然色の写真、確かにインド人らしき風貌の女性。向かってその右横のやはり総天然色の写真、黒髪だが眼は蒼金剛石のように青い。この目を引く二つの写真の後方に白黒写真、やや黄ばんでいるが看護婦姿の若い日本人女性。その斜め後方にはかなり黄ばんでいるが、戦前の巡査服をまとった若い日本人男性の姿があった。
 浩三は眼を射られたように後退して、真昼のサナトリウムの屋根の照り返しを振り仰いだ。写真というものは、特に白黒の黄ばんだそれは、時として言葉など寄せつけぬほど説得力がある。勇を鼓して過去の悲壮と対峙しなければならない。
「知っている人どすか?」と中は我慢できずに聞いてきた。
「奥の二つ、白黒の二つはな。看護婦は伊吹山からやってきた注射針の女。もう一枚は、分からないか、あれは…利彦兄さんだよ。結婚する前の小野利彦巡査や」

 その日は悲観的な日本人が常用する意味としての霹靂のごとくやってきた。実際に雲一つない晴天だった。後に映画館で観た西部劇で「死ぬには絶好の日だ」という台詞を耳にして以来、水谷浩三教授は晴天を見上げて卑屈な苦笑を漏らすようになった。
「電話やて!金光はんからやて!帳場さん煩いよって、早よう!」
 姉の竜子が階段下からきゃんきゃんと怒鳴る。遂にきたか。思いのほか落ち着いている自分は噓だ。浩三は膝を叩いて立ち上がり背伸びをひとつ、段を確かめるように下りて竜子を一瞥もせずに過ぎた。
「出ました。双ヶ岡の方へ下ってます…信じられません」
「そうか、わてかてこの目で見んこつには信じられん」
「幽霊やおまへん。二本脚で歩いて行きました、自分の前をあの巡査服姿で…自分を見るでもなく、巡査服の自分を」
「そうか、気をしっかり持ってな、昼間やさかいに。見失わんと頼むで」
 金光が唸るように了解して受話器を置くと、沈痛な金属音が帳場に広がるように延々と耳に残った。
「金光はん何やて?」
 恐れていたことが判で押したように声となって背後にある。竜子の笑みに己の面相が定かでない。姉の明朗な鈍さが救いだった。
「そやな~なんや双ヶ岡の近くでな、北山から下りてきた猪の肉を貰うたと。巡査はええ商売やな」
「なんやそれ。ほんで晩は猪の肉で一杯やりましょか言う電話かいな。ほんま帳場さんに叱られるで」
 浩三は子供のように舌を出して薄ら笑い、左手首の義兄の形見時計をちらり見た。
「それがな、双ヶ岡の下あたりで三輪トラックが転びよって、そっちへ向かうんで、えーとな…」
 竜子は良くも悪くも弟を知り尽くすさすがの姉様だった。
「なんや、なんでおでこに汗をかいとるのや」
 浩三はやはり駄目な弟だと己を皮肉りながら黄ばんだ歯を見せるしかなかった。
「あんなぁ、そやそや、一緒におった部下に持たせたから、正午ごろになったらな、署に取りに来てくれへんかて、そん鹿肉を」
「猪やろ」
「そや猪や。そや、イノさんやから錦で九条葱もぎょうさん買うといてくれとか」
 竜子は針仕事を終えたばかりのように眉間を摘まんで項垂れた。正午は半刻ばかり先だった。
 いかにも早う行ってくれと言わんばかりの弟。暑くもない白昼の母屋への渡り廊下、青白い学者面に玉のような汗を浮かべている、わてがお腹を痛めた実子のように愛しんできた浩三。傍目にはありがちな姉弟のお晩菜語りも、なんや尋常やない風向きらしいさかい仕方ないわな。
 竜子は帯を叩いて顔を上げた。
「仕方ないわな。女は女の仕事をさせてもらいまっか。ほんでな、出掛ける前にな、渡したい物があるよって、書斎で待っといてくれやす」
 浩三が二階の本塞がりの書斎へ戻って間もなく、急いてるのが逆転したように音を立てて姉は階段を上がってきた。襖をきいきいとひいた竜子は長い木箱を捧げ持っている。正座して行儀よく渡そうにも林立の本塞がり。呆れたように姉は放るように弟へ渡した。
「漬物屋の高梨はんが持ってきはった、国宝級とは言わんまでも、本物の大般若長光やそうや」
「本物の日本刀?」
「芝居書きの高梨はんのこつやから本物いうてもな…そんでも、ここは京都や。大学教授やてピストルよりは懐刀やろ」
「そやな…相手は植物ホルモンの何某いうておったけど、とどのつまりは化け物やしな」
「そや、ほんでな、何遍でも言うたる、ここは京都。わての同級生が黒谷の光明寺の娘やさかい、悪霊魍魎の討伐退散の念仏をきっちり入れてもろたわ。あとは中学の途中で投げ出した剣道部のあんたの腕や」
 木箱の紐をほどく浩三の手は震えていた。
 竜子は震える華奢な弟の手首を包むように押さえる。亡夫利彦の腕時計が微熱を発しているように感じられた。
「わての旦さん、利彦さんも一緒やさかい、お気張りやす」

                                       了
男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

男に生まれて 江戸鰹節商い始末 (朝日文庫 あ 27-2)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: 文庫



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蒸留所   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私はタクシーの運転手にスペイサイドの蒸留所を告げた。五月の空は晴れあがり気温は上がっていた。林檎の白々とした花弁がこの日とばかりに歌っている。なるべく自転車ほどの速さで悠々と行ってほしいと思った。それにしてもスカーフを被った伏し目がちな少女が見あたらない。そうだ、林檎の花弁から「りんごの木」という介護業者のロゴを連想している大阪人がここにいる。遥々、トム・スティルチェスを訪ねてきたことはそっちのけだ。そして中年という河岸に両足をどっぷりと浸けてしまった今日この頃、目の前のスコットランドの健在さは、嫌がおうにでも無謀な二十代の自分を炙り出してくれる。十分に若かったトムと出会ったのはグラスゴー。私が在日韓国人だと言っても信用してくれなかったオードリーと出会ったのはロンドン。無謀に載せた虚勢とプール学院出の姉仕込みの英語が私の全てだった。
「君が言っている日本の中の韓国人っていうのは、スコットランドの中のノルマン人とかピクト人とかとは違うのかい?」
 トムはあの頃と変わりなく容赦ない語り口だろうか。そう回顧するまもなく、容赦云々を相も変わらず唱えているのはおまえだけだ、と聞こえてきそうだ。
「ノルマン人?そこまで遡らなくても、もっと近代になってから、大陸から英国に移住した人たちがいるだろう」
 ゴールウェイ出身のトムは実際に思いついたのか、大きく頷いて薄まったスコッチのグラスを当ててきた。私はしっかりと記憶している、彼が「ユダヤ人」という言葉を吞み込んでくれたのではないかと。あのバーには被虐的に「ユダヤ人」と言ってほしかった私がいたようだ。
 こんな私たちをグラスゴーで出会わせてくれたのは、若さ、スコッチウイスキー、そしてセルティックだった。
 若い私はなりふり構わず中村俊輔を追っていた。それもセルティックのユニフォームを着て左足を振りぬくナカムラを見たかった。ファン心理というものが鏡像を踏まえているのは仕方ない。私は独り、壁の一点へ向けてボールを蹴るのが大好きで、一重瞼の朝鮮顔を前髪ばっさりで隠していて、独り、祖父のいる鰺ヶ沢を訪ねた夏休みの思い出に浸っている少年だった。日韓共催のワールドカップに背を向けて宿命を受け入れたナカムラ・シュンスケ。鏡の中にいつしか勝手にシュンスケを見ていた。濡れそぼった前髪を払いボールを置いてゴールの隅を射る眼差し、あれを温もっているイタリアの芝上ではなく、鰺ヶ沢のようなスコットランドのそれで見ること。なんとも地上の直観と杞憂は人間の思い通りになるものだ。感動のためのロマンの神は浪花節の恵比寿さまと一晩語らってくれたのだろうか。
 若いトムは二〇〇五年からゴードン・デイヴィッド・ストラカンを追っていた。ストラカンはダンディーFC、アバディーンFC、マンチェスター・ユナイテッド、リーズ・ユナイテッド、コヴェントリー・シティでプレーした右サイドの技巧派プレーメーカーだったらしい。らしいというのは、トムにしても選手としてのストラカンの最初の記憶は、リーズ・ユナイテッドを優勝に導いたときの新聞写真でしかないからだ。彼が二〇〇五‐二〇〇六シーズンよりセルティックFCの監督に就任したことがトムに至福をもたらしたのだった。
「あの年は素晴らしかった」
「そうさ、リーグ戦の優勝とUEFAチャンピオンズリーグの出場権の獲得…シュンスケはやってくれたね」
「翌年はさらに素晴らしかった。レンジャーズに圧倒的な差をつけて首位を独走してのリーグ連覇!そしてチャンピオンズリーグのグループリーグ、しびれたね」
「そうだね、マンチェスター・ユナイテッドやベンフィカにホームで勝って、チャンピオンズリーグのベスト十六…特にマンUを相手のシュンスケのフリーキック!」
「レノンの鬼のような顔とマロニーの坊ちゃん顔が実に対照的でね」
「トム、どうしてシュンスケの、ナカムラの名前が出てこないんだ!」
「君をからかっているのさ」

たとえば
僕がグラスゴーの街に精通していること
トーキョーのこともよく知らないのに
とても詳しいということ
写真でしか見たことがない女の黒子
誰もが知る上唇の右端
項の生え際に血の固まりのような一つ
左の乳房
垂直に落ちず膨らもうとする鞍点

たとえば
僕が酒場で友達になりたい彼らのこと
ハートソン
悪夢のように白い象
潅木を芝をクレソンを散らし舞わせよ
マローニー
礫を投げつける悪童
野苺を蛇梨をクレソンを彼女の籠に隠せ
ウォレス
蚯蚓とクレソンを束ねる王子
スコットランドは永久に健在なり

たとえば
君は世界の奥深さを目の当たりにする
地の果ての港町から
長靴の土踏まずを経由して
神の足はやって来た
静謐なまま万能の予感をもって
アスファルトから洋上へ
洋上から石畳へ
羊骨の散らばる贄台を越えて
クレソンが繁茂する沼を越えて
神の足はやって来た

 私はトムの言うとおりにスペイ川に架かるゴシックな橋のたもとでタクシーを降りた。トムは中世の橋の番人のように待っていてくれた。彼の少女のようだった頬と唇と顎は、挿絵にぴったりな疲れたロビンフッドの人相にはまっていた。お互いに発声する間もなく悟った、自分たちが風景に否応なく映える歳になったことを。あれからどうした、などと言うものなら聞こえないふりをしよう。私が言うことは決まっていた。
「いい川だね」
「そうだろう、これがスペイ川さ」
 私たちは野を越え樫の林を越えて蒸留所を目指した。若かりし頃の饒舌さはどこへ行った。これでいい、二人を黙らせているのは分別などというものではないのだから。それは眼と指先が感じてしまった北風や樫肌の堅さだろうか。しかし疲労は微塵も感じない。何やら互いに微笑み合うような顔をあげると、老いた白鳥のようなイースターエルキーハウスが忽然と見えてきた。
 私が蒸留所にトムを訪ねた日は、つい一週間ほど前に完成して間もない新しい蒸留所への神秘と期待に澱んでいた。目の前にした新しい蒸留所のスロープは、私にH・G・ウェルズの荒涼たる未来を想わせた。
「ウェルズを?そうか、あの屋根の形が火星人が乗ったポッドに似ているって?」
「タイムマシンだよ。人間が地に住まわしてもらう最終的な理想形が見えるようだ」
「あべのハ・ル・カ・スだっけ?そう、あべのハルカスが人間の目指す住まいじゃなかったのかい」
「よく言うよ、君はロンドンやグラスゴーから遠ざかりたいばかりに来たんだろう、スペイサイドに」
 私が想った荒涼たる未来とは、垂直志向に辟易としてしまった人間が、高度な知性を育みながら地の精霊に捧げる未来である。鰺ヶ沢の祖父の血が、スコットランドの土と水と樫を、幼い少女のように掻き抱こうとしていた。イースターエルキーハウスの隣のビジターセンターは、正真のスコッチウイスキーが大地の恵みであることを啓示するパノラマ・ステーションである。私はセルティック・パークを見渡したときの感慨に再び襲われていた。
「外観にばかり圧倒されていないで、中のポッドスチルの林を見てくれ」
「火星人が乗ったポッドもぶっ飛ぶことを期待しているよ」
「技術だよ、技術。君のナカムラや僕のストラカンが培ってきたもの、神に捧げるべく練磨してきた技術、人間の尊厳そのものといえる技術、その技術があるんだ」

                                       了
中村俊輔式 サッカー観戦術 (ワニブックスPLUS新書)

中村俊輔式 サッカー観戦術 (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者: 中村 俊輔
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2019/02/19
  • メディア: 新書



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呑川   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 今風に言えばアラ六〇、つまり還暦前の僕は、イオンシネマ京都の大スクリーンに愕然と目を見張っていた。シン・ゴジラが羽田沖から上陸する。そしてあの吞川を遡っていたのだ。
 十九歳のあの頃、僕は偽学生ならぬ偽予備校生として、呑川沿いの布団部屋のような三畳間に住んでいた。
 呑川という川は目黒あたりに始まって、池上を巻くようにして蒲田駅を掠めて羽田の方へ流れている。正確に言えば流れているらしい。逆流することが度々で淀みっぱなしなので、どっちへ流れているのか一見しては分からない。そして泥水だか汚水だかの色は底が見えないほどに黒々としていた。
 僕は日に一度は腹に何かを入れなければならないと知っていたので、夕方になると呑川に架かる橋のたもとの駄菓子屋へ向かった。おばさんは珍しく川辺りの金網にしがみつくようにして何かを見ていた。僕はいつものようにナビスコのクラッカー一箱とカップラーメン一個を掴んだ。
「おばさん、すいません…なに見てんの?」
 おばさんは訝しげな顔のままレジスターを打ちはじめながら言った。
「魚をとっているんだけどね、あんな汚いところの魚を…」
 僕は田舎で川遊びばかりしていたから、どこであれ何であれ漁労の瞬間は見逃せない。小銭を支払うと追突するように金網へしがみついた。
 橋の下の真新しいコンクリート土手の水際に、それこそ溝鼠色の作業着を着た五十がらみの男二人が水面を睨んでいた。デブとチビの二人は、首筋と耳周りがどす赤く額の日焼け方が青黒くなっていて、いかにも日雇い労務者ふうだった。二人が見守っていた水面は時々、音をたてて泡立っている。一瞬、シーズー犬くらいの大きさの魚影が僕にも見えた。丸々としている。鯉だろうか。よくよく見ると鱗模様らしくない赤茶けた斑紋が見える。鯰の一種だろうか。呑川には池上の方の立派な邸宅から逃げ出した鯉がいるとか、西蒲田七丁目あたりのクラブの水槽で飼われていた南米産の魚が捨てられているとか、後に僕がメッキ工場で働いていた二十三歳頃によくそんな話を聞いた。
「いまに死んじまうがら」
 デブが労わるような目つきでそう言った。
「すかす、でっけえな」
 チビの目つきは異常に爛々としていた。
 しばらくすると、大魚はぱくぱくと拳が入りそうな口をあけて水面に浮かんできた。この川なら無理もない。定年間近い鮨屋の常連客に「私がね、子供の頃には、それでも泳げたりしたんだよ」と聞いたのは、やはり後に僕が駄目セールスマンで飲み屋に出没ばかりしていた三十三歳頃だった。
「あんなの食べる気なのかしらねえ」
 駄菓子屋のおばさんが薄ら笑いながらそう言ったとき、ついに大魚は飛沫音をたてて足掻くように沈んだ。失望の声の後で、おばさんも含めた嘲笑が広がった。しかし大魚はゆっくりと白い腹を浮かべてきて二人を喜ばせた。
「よす、捕っぞお」
 チビは身を屈めて浅黒い両手を伸ばした。
「まだ生きているがもしんねえ」
 デブはそう制しながら憐れむような目つきは変わらなかった。
 大魚の腹が蒲田の白昼に晒された時だった。
「おまえら何考えてんだぁ!」
 雷鳴のような甲高い声が橋の上から突き刺さった。
 洗いざらしの薄水色の作業着に茶縞のチェック模様のハンチングを被った男、徳さんが欄干にもたれていた。捲り上げた袖の下に猿のような剛毛を見せて、太い眉の下に南方の豪快そのままにぐりぐり眼があった。
「そんなの食ったら死ぬぞぉ!何でも食うもんじゃねえ!」
 それが徳さんだった。
 蒲田駅西口から東邦医大付属病院あたりにかけて、知る人ぞ知る徳さんこと徳永良美(とくなが・よしみ)だった。ビル現場の電気工事を専業にしていて、自分に似ている(本人が多分にそう意識していた)長嶋茂雄の大のファン。夏は生ビールを大ジョッキで駆けつけ四杯は一気に飲み下す。鹿児島の徳之島の出身で、煮魚と軍歌と特攻隊の悲哀話が大好きな男。そして猫とロシア人と女房連れで飲みにきている野郎が大嫌いな男。ポパイのような頬っぺたで、徳さんは僕の前に現れたのだった。
 徳さんの一喝でチビは硬直してへたり座った。デブは頭を掻いて橋の下の陰へ隠れてしまった。
 その後、僕は焼き鳥屋で隣り合わせに飲んでいて、正式に面識をもって可愛がってもらった。そして互いに気心が知れてくると、徳さんの一喝は僕の上にも何度か落ちるところとなった。
「この野郎、ネクタイなんかしやがって!ちょっとばかり稼げるようになったからってな、いい気になって飲んでんじゃねえぞぉ」
 この言葉とともに三十八歳の僕は徳さんに小突かれた。あの晩が徳さんを見た最後だった。そんな話はまた機会があればしよう。
 いずれにせよ、出会いは衝撃的な遭遇だった。唖然としている十九歳の僕の横を、皮肉な薄ら笑いを浮かべた徳さんが颯爽と歩き去っていった。
 僕はその後姿にきちんとした野蛮を見ていた。僕のふやけた額の裏で、憶えたばかりの行列の公式がばらばらになっていって、英単語が洗っていない頭のフケのように呑川へ落ちていった。
 あの頃の蒲田では、僕の知るかぎりの金銭という金銭は目まぐるしく化けた。それも酒か女か食い物にである。真昼とか青春とか、極端に言えば豊かさが似合わない町だった。夜半とか墨冬とか、みっともない酔っぱらいが似合う町だった。
 あの時、徳さんも早い時間から酔っぱらっていたのかもしれない。いや、飲んでいようがいまいが、そんな背景の蒲田でさえもどうでもよい。酔っぱらっていなくとも、徳さんは二階の窓から小便をしたり、ごみと塵を遠投の真似事で呑川へ投げ捨てたりしていた。僕は見ていないが、本人がそんなことを可笑しそうに語ってくれたのだ。
 そういえば大魚はどうなったのだろう。おそらく腐敗して微生物の餌になり、呑川の栄養から羽田の東京湾の、太平洋の栄養になったのだろう。そして徳さんは未だに蒲田で飲み歩き、吞川にじゃぼじゃぼと小便をしている、いや、していなければならない。二〇一六年、新しいゴジラが徳さんに拝謁すべく吞川を上っていった。
                                       了
高等学校の微分・積分 (ちくま学芸文庫)

高等学校の微分・積分 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: 文庫



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オブシディ   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私にはオブシディ・ルル・ド・ギョメというダンサーが、パリの日々の天候のように気になる存在である。
 今年のシーズンの幕開けこそは待たれていた。長年オペラ座の舞台を見続けているファンに、新世紀バレエを充分に堪能させるものとなった。二十五年前、オペラ座のダンサーと批評家にほとんど受け入れられることのなかったヌレエフ版の「白鳥の湖」で、オブシディ、ヌレエフバレエを再生したもうひとりの立役者オーギュスト・ジロー、この二人が二十五年の時を経て、このバレエの本質を再度指し示すかのごとく舞台に立っていた。舞台は二十五年前の初演時に比べて、斬新さをはるかに凌駕して野生的な印象を与えた。オブシディの父親で美術担当のシャルル・ド・ギョメが語るには、自分の故郷エクス・アン・プロヴァンスと、早くに亡くなった妻の故郷セネガルのサンルイを何度も咀嚼して舞台に再現した、とのことであった。
 このようにファンとオペラ座とフランスにとって、順風満帆なステップで蒼天王道を行く観のオブシディであったので、私はダカールの殆ど忘れかけていた友人ソニンケから、シャルルとオブシディの父娘を見た、という連絡を受けた時は殆ど信じられなかった。確かに一週間ほど前からオブシディは体調を崩して代役を立てるようになっていたが、あれほど自らの万全さと裏方への過ぎる気配りをできるダンサーもざらにはいない…オブシディの身に何がおきたというのだろう。しかも父娘二人が密かに向かっていた所は、首都から内陸に向かって車で八時間も行ったジャワラという村だった。早すぎるほどに早い情報には理由があって、ほかでもないそのジャワラ村はソニンケの故郷なのである。いずれにせよ、私は荷造りしてオデオン駅に向かい、翌々日からソニンケの大家族に囲まれて1週間を過ごすことになった。
 村の家々は剥き出しのコンクリート造りが多かったが、塀は日乾し煉瓦で作られたものもまだあった。約束した場所までは、村を出て久しいソニンケもあてにならない素朴な迷路そのものである。刈り込んだ芝の英国式の迷路と違って、肩や肘に大地を感じながら辿り着く迷路の先では、子供たちの好奇な眼差しの中央に美しい人オブシディがいた。
「ここはイスラームの学校です。子供たちはイスラームとセネガル国立の二つの学校に通っています。村の親達はイスラームですから、イスラームの学校に行かせたい。 国としてはフランス語を中心とした学校に通わせたい。結局、両方の学校に通っているわけです。私がバレエを始めた頃のように、普通の学校が終わってから、もう一つの学校に通っているわけね」
 初舞台の頃、まだあどけない表情を隠せない頃のルルは、黒曜石の英語でオブシディアンと呼ばれた。「そうね…『サマータイム』を生涯に一度演じられれば、それで満足かな」と言っていた。そんな野心の欠片もあまり見えないような彼女に、偶々食事を同席していたボビンレース編みの大家が、レース地タイツを提案したことにより、彼女の脚は黒鳥でも白鳥でもないものになった。そしてルルはオブシディになった。
「彼女はママジャーレという子で、私が勝手に村一番の美人と決めたの。写真を撮る?って言ってみて、慌てて着替えてきてくれるから」
 オブシディが賞賛するママジャーレの足には刺青があった。刺青と言っても妖しさを見ることはできない。彼女のあどけない目元の若さが、足の踵からふちに沿って流れる羊歯模様を落書きのように見せていた。
 村には1件だけレストランらしき食事所があった。しかしソニンケが言うように、村人は家で食事を済ましてしまうので、私たち以外に誰が食べに来るのか疑問だった。
「父はやっと糊口凌ぎの舞台美術から開放されたのよ」
 端正なシャルルはその店で白い粒状を啜っていた。ミルというミルク粥である。村人が日常に食する粥は粟と稗ばかりだった。レストランでは屑米のミルク粥が、舞台美術をやめたばかり、という老人を和ませていた。
 親子が泊まっていた家は鍛冶屋だった。シャルルは自分と同じ年齢の男が鎚を振いやすいように手伝っている。合間には娘オブシディが村に来た記念にと、教わりながら村人たちがつけているのと同じブレスレットを完成させようとしていた。
「父には母の次に鍛冶屋が夢だったらしいわ」
 ソニンケの兄達は山羊を料理してくれた。鉈で割られた頭がオペラ座のプリマドンナを見上げている。オブシディが立てた片膝は思わず触れたくなるほど美しい。呟くように話しながら骨に歯を立てている様は絶対の美獣だった。
「私にもし才能があるのだとしたら、黒くて強くて女性的なるものを抑制して、白くて弱くて男性的なるものを愛しむ、そういう才能だと思います」
 父親のシャルルは上を仰いで十字を切った。もとより寡黙だった舞台美術家が、やっと望んでいた鍛冶屋になったら微笑むしかない。
 シャルル・ド・ギョメの少年時代は、戦時中のレジスタンスに明け暮れたといっても過言ではない。戦後は理論物理で学位を取得して、核エネルギーの開発研究に着手した。そしてひとつの実験の成果を得た後に失踪する。アフリカだった。サンルイで愛する人を見出し、彼女を伴ってプロヴァンスへ戻り教師となるが、程なくして…またフランスから逃げるように荒野へ逃亡した。そして娘が生まれたことを海岸で知った。
 シャルルにとってすべてを娘に捧げるべき人生が始まった。やがて肌色がカラードの娘が、バレエを習いたいと言いだした。才能がある…オーギュスト・ジローのこの言葉に打ち震えた日があった。娘が愛しているバレエに自分も関わりたい。そしてバレエなら白鳥を踊らせたい。たとえまともな白鳥を踊れなくとも、父が、シャルルが美術と効果で新しい白鳥に仕立て上げてやる。シャルルは砂漠をモティーフとした斬新な舞台美術で、遅ればせながらデビューを果たした。当の娘はオペラ座で踊れるなどと想像もしていなかったらしい。たとえ跳躍力があろうとも白鳥は白い人が踊るものでしょう。父は首を振った。
「おまえなら、オブシディなら、今までのバレエの慣習や常識をひっくり返せる」
 白いレース編みのタイツが事態を変えた。正確には、レース編みタイツのオブシディを立てた白鳥の脚色、その売り込みに奔走したシャルルと仲間にフランスが応えたのである。ある評論家は「レース編みのタイツなど無くともすでにシヴァ神だ」と言った。そして「今後、我々は白鳥を見るとき、オペラ座のオブシディに感謝しなければ」とも。
 山羊を味わった後で、ソニンケの他愛もない問いに彼女は笑いながら答えた。
「私は引退したら…そうね…父が鍛冶屋になるように、北のおばさんの所に行ってボビンレースを習うわ」
 私はオブシディが舞い踊るオペラ座を誇りに思っている。

                                       了
プロレタリア文学はものすごい (平凡社新書)

プロレタリア文学はものすごい (平凡社新書)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2000/10/01
  • メディア: 新書



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ロマンポルノ・ボーイズ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 先輩と美江の披露宴は、若い僕には些かつらいものがあった。
 飲めば飲むほどに、先輩の漁師らしい日焼けした笑顔は、季節を迎えた飼い犬の白昼の健康な狂喜を連想させた。
 僕が大安吉日の日曜日の宴に出席するために、土曜日の新潟税関との対抗試合を済ませた後、やっと臭い剣道着を脱ぎ捨てて、夜行に乗って京都で乗り継ぎ、浜坂に着いた時は式当日の花曇りの朝だった。強行軍は体力商売の税関職員なので、鈍牛のようにものともしないが、対抗試合に備えた小田原での週末合宿が、僕の欲求を一週間以上前から抑圧して、厭世な脱力感へと転化させていた。その厭世な脱力感とかを携えながら、新潟の連中を相手に竹刀をふりまわして、体を痛めつければ浄化される、と思ったのが身の程知らずだった。僕の欲求とは女たちであり、僕の欲求とは自然であり、僕の欲求とは日常だったのだ。
 小田原での週末合宿が決定した日の夕刻にまでさかのぼる。中華街の北門で待ち合わせていた啓子の姿が見えた時、後ろから甲高い声をかけられた。後輩の山田が追いついた痩せ犬のように息せき切っている。彼が付き合っている「笑いながらする女」というのは、日活の王林「水島美奈子」にそっくりで馬車道の証券会社に勤めている。その女に買ってもらったという檸檬色のネクタイが乱雑に首から下がっていた。
「お急ぎのところ、一分だけ先輩思いの後輩にお時間をください。そちらの美保純そっくりの啓子さん、啓子さん以上と言ったら申し訳ないが、先輩が今一番会いたい女が来週やってきますよ。いいですか、伊勢崎町の日活へ舞台挨拶に来るんですよ。誰がって…ひ・と・み」
 僕の脳の助平襞が一瞬にして捕らえたのは、片足を取られて痛みにうずくまっている日活の二十世紀「小林ひとみ」である。俯いていた彼女が、山田の言で粘膜のような逆光とともに濡れた眼で振り返る。あの眼とあの乳房が舞台挨拶にくるのだ。人通りにあって正直に勃起してしまった。
「もちろん自分は行ってきますけれども、来週の土曜日、先輩は小田原の虎の穴を抜け出られます?」
 僕は十分に意味不明なまま低く唸った。小柄な山田を脇へ寄せるように押して、淫蕩な焦げついた十字架を背負い直す。刹那の酒を浴びて陰嚢の演歌を呟くしかなかった。
 ホテルですませた時は零時半だった。啓子は背を向けて臍の掃除をしながら僕という男を感心させてくれた。
「一番上の兄の嫁さんがね、山でさ、兄に何かあると、寝ていても本気じゃないのが分かるって、よくそう言っていたわ。何かって…茸とか山菜を採りに行くでしょう。その時に何かいいことがあると本気じゃないって言うのよ。いいことって…その嫁さんが確認したことは、ひとつは千本しめじか松茸が生えている所を見つけた時。ふたつめは温泉の女風呂を覗ける所があって、そこから覗いた時に若い女の子が入っていた時。そしてみっつめは、現場をおさえたわけじゃないらしいんだけれど、隣りの出戻りの娘と一緒に山から下りてくる時…だって」
 僕はなるほどといった顔をして寝返りをうった。
 路上の野良猫を蹴散らすようにして、ボーイズが集う寮へ帰ってみると、向かいの山田の部屋から日活の長十郎「谷ナオミ」の呻き声がした。いつものように鍵をかけて、縄の縛り目に瞠目しているのかどうか。ともかく二日酔いの助平頭を石榴のように横たえようとした時、呻き声を全開させた黴臭い空気と供に山田が入ってきた。
「先輩、お帰りなさい。これから奥様が生卵を割るところですけど、一緒に見ませんか?臭くありませんよ、香りの人形を買っちゃいました、一昨日。そうなんだよなあ、あいつもこういう匂いがして笑わなきゃ…」
 僕は咄嗟に日活のラ・フランス「鹿沼えり」の写真集を投げつけそうになったが、先輩からの招待状を投げつけることによって山田を追い出した。

 先輩と美江は何度も何度も互いの頬にキスをしていた。
 美江は教頭ながらも美術教師も兼ねていた僕の父によれば、浜坂はじまって以来という画才のはずだった。そんな少女時代の凛とした孤独の不幸を棄てて、瓢箪を商ってきた母親と同じく収まった幸福になろうとしていた。
 同級生の美江は、幼い頃から強気に口を窄めて顔を逸らすと、残念ながら胸の揺れない日活のあかつき「東てるみ」だった。僕が「将来は佐々木小次郎のような剣術家になりたい」などと書いていた頃、彼女は「ピカソの青の時代が私にも間違いなくやってくると確信できれば、私は画家になるだろう」などと書いていたものだ。僕も今から回顧すれば変な少年だったが、振り袖の影で咽ている彼女も随分と変な少女だった。
 あれは飛魚が嫌になるほど市場をうめつくした頃だった。
 僕は自分が長身で女の子たちの噂に上っているのを知っていた。あれは、あの頃のあれは、金柑のように表皮の甘味がじれったい。しかし手頃な酸味はとても忘れられるものではない。そして僕は頑固で偏屈で気取っていたわけだ。今でも武蔵のような昼夜を問わない求道な生活に胸糞を悪くする。僕は陰に隠れて声を漏らさないような努力をしない。晴天白日のもとに防波堤の突端で自家製の長木刀を振った。卑らしい教頭の息子は上半身をさらけだす。防波堤を望めるあらゆる場所から小便臭い少女たちが見ている。
「騒ぐんやったら向こう行け!」
 僕は海に向かって怒鳴って、小次郎以上に努力してしまったのかもしれない。女の子たちから母は勇姿を伝えられて、夕食時に何やら嬉しそうに取り留めもない罵声を置いたものだ。そして剣道以上に、海以上に、この世には素晴らしいものがあることを教えてくれたのは、やはり偏屈だが人間の本質を見ぬいていた父であった。
「美江がおまえを書きたいそうや」
 おそらく彼女は、練習に疲弊した浜坂一の優美な肉体を所望しているに違いない。
父が唇の端に笑みを浮かべながら言って三日も過ぎると、僕は汗まみれの濃紺の剣道着姿のまま山の手の豪壮な家を目指していた。予感を押え込みながら、さも朗々と玄関を開けると、美江自信が向かえ出るでもなく、いつもは瓢箪畑でしか見かけぬ祖母が、娼館の主のように喜んで僕の手を強引に引いていった。美江は油絵の具と日本海が拮抗している香りの中で、恥じらいの睫をベランダに向けていた。
「そこに立って…そこにもたれて…」
 キャンバスから目を離さず震えるように呟く美江は、男物らしい大きすぎるトレーナーにそれこそ生瓢箪のような肌肉を包んでいた。小一時間も立っていてやればいいだろう。後は暑がって上を脱ぎ捨てて、陰毛に似た数本を生え揃えた乳首を見せてやろう。僕はその一年ほど前に、姫路でラ・フランス「鹿沼えり」に酷似した叔母から喜びを教えられていた。
 さても…美江はどうする…彼女が真の芸術家なら僕のすべてを見たくなるだろう。
 美江は襖の影で苦悩の果てに熱そうな溜息を吐いた。
 そして彼女の目は痛たがらず、青の時代の獄門を垣間見ようとしていた。
 それにしても袴というものは、屹立を面白味もなく隠し、焦らすように纏わりつくので笑ってしまった。
 二人の噂が少しずつ聞こえるようになった頃、美江はデッサンの後の床話で、この時の僕の苦笑の意味を執拗に問い詰めていたのだった。

 先輩と美江は浜坂の阿呆議員の祝辞に白けていた。
 あの奥さん、そういえば日活の紅玉「田中真理」に似ているな。媒酌人の住職の奥さんの遣り手らしい美しさのことである。子供を産んでいないので、僕のような若僧でも住職を蹴りたくなるほど若々しい。僕は錫色に照り返すうなじを見ながら呟いた。
「公僕にも慰めるポルノあり。よって公僕にも確たるロマンあり」
僕は先輩と美江に酌をしにまわった後で、特別に用意してもらった「あごの竹輪」に満悦な住職へ近づいた。
「そればっかり言われるわ、こうやって夫婦揃って人前に出るとな。歎異抄を紐解いて五十年、この「あご」に手を合わせること、裏山から滴りくる水に手を合わせること、あれの喜ぶ顔を見ること、この三つがわしのような坊さんにようできることや」
 あの時の小柄な住職の眼光は、日活ロマン・ポルノの最後を飾った「竹中直人」のように隆々としていた。
 日本人の性は飛魚のようではないかと思っている。魚でありながら魚であることを一瞬忘れて、水の恵みから飛翔して永遠を見ようとする。すると日本人に限らないわけか、危うさと心地よさの攪拌は、はてさて。
 翌年の晩春、新横浜駅で税関ボーイズの予備軍になる後輩を待っていると、紺のスーツ姿で大きな鞄をさげた住職の奥さんを見つけてしまった。友人に歌舞伎座へ招待されて上京したとのだった。二日後、寮でボーイズが烏賊の匂いに包まれながら「早乙女愛」の釣鐘に目を丸くしていると、僕あてに酔った声で女性から電話がかかってきて大騒ぎとなった。奥さんが中華街で「北京家鴨」を食べたいと言ってきたのだった。
「浜坂の子って鈍い子ばっかりなんだから…」
 北京家鴨よりも添えられた白髪葱が美味かった。朱の長襦袢が僕のために取り出される夜。思っていたよりも我が侭な奥さん。揺籃の後にやってきた海鳴りは、口惜しいけれども日本海のものだった。それを奥さんに囁くように伝えたが、長襦袢の朱を汗ばんだ額に翳して眠っていた。
 奥さんの肌の脂身もすっかり忘れた晩秋、さしもの日活ロマン・ポルノも幕を下ろしてしまった。
日活らしい棲息の終焉の内容に肩を落とさず、竹中直人の熱演に転戦する勇気を見ていたのは僕だけだろうか。
 そしていつもの休日、相変わらず僕と山田、ポルノ・ボーイズの残り滓は、伊勢崎町の雑踏を歩いていた。後ろを来る後輩のボーイズは、妊娠させてしまった黄金町の彼女の言に困惑しきっていた。
 僕はその日の白昼にあって北欧ポルノを斜め見して大欠伸をもらして、夕方から独りで候孝賢の「風櫃の少年」を見て愕然としていたのだった。

                                       了
いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

いいたかないけど数学者なのだ (生活人新書)

  • 作者: 飯高 茂
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/04/07
  • メディア: 新書



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鹿野米   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 日本人の辺見さんが見つかったのは鹿野(ルーイェ)村の和平天主堂の前だった。台中の鹿港(ルーカン)ではなくて、日本人にはまだ馴染み薄い台東の鹿野(ルーイェ)である。
 台東のルーイェ(鹿野)って何処?
 太平洋側の都市では花蓮が有名だが、そこから左に水平線を見ながら客運(バス)に四時間ちょっと乗れば台東である。鉄道では鹿野駅は台東駅の二つ手前になる。場所がまだまだ観光地としては認知遠い台東とはいえ、異邦人である日本人が四日ばかり行方不明になってみると、失踪や誘拐の類の事件扱い寸前まで行って少々騒がせてしまった。
 辺見さんって何者?
 辺見駿一郎は岐阜県高山市に生まれ育って、市の水道局浄水部管理課に勤めていた。過去完了形なのは、二〇〇八年の三月をもって退職しているからである。一身上の都合をよくよく聞いてみると「台湾の台東で釜飯屋をやりたい」とのこと。駿一郎は三男坊の三十一歳の独身、元来言い出したら周囲の助言も揶揄も馬耳東風の質なので、親兄弟は東京の台東区あたりの気持ちで「台湾の台東」へ旅立たせたようである。
 そもそも半年前に当たる昨年の八月、海外研修と称して台北の浄水施設から台南の烏山頭水庫までを視察した辺見さんは、帰国後に体調不良を覚えて友人医師の検診を受けた。
「胸がどうの言っておったな…見てくだせえよ、何もないから」
「こんなん見せられても…周りが煩いから診てもらっただけで…この歳になればよ、このもやもやの原因くらい分かってるって」
「おめえの自己診断には慣れてるって…胸のもやもやは飲み過ぎってか?」
「ああ、食い過ぎってとこかな…一口でもペンタリナを食ってみりゃおめえも分かるって…こりゃ恋の病だ」
 辺見さんはそう言って振り返り上着の内ポケットから財布を取り出した。そしてラミネートした写真を免許証のように突き出した。
「これだ、どうだ、もの凄くいい女だろう。李賢綺、李はその…ブルース・リーなんかのリーで、賢綺は賢くて綺麗…」
「怪しいところで知り合ったんだろ」
 辺見さんは医師の手から写真をひったくって財布へ戻した。上着を掴むと椅子を蹴るように立った。
「陶芸家だよ、女流陶芸家。瀬戸と美濃で修行していて、俺は彼女が焼いた鼠志野の茶碗を持っている」
「ああ、あの白っぽいのか、あれは台湾で買ったのか」
「あのな、台湾に行く前からあっただろうが!有名な陶芸家なんだよ!」
 辺見さんはそう怒鳴ったものの、やっぱり友人である医師には突っ込んで聞いてほしかったのだろうな。
「その…陶芸家『李賢綺』と台湾でやりたいことがあるんだ」
「ああ、聞いてるよ、弁当屋だろ」
「弁当屋じゃない、釜飯屋だ。って誰に聞いた?」
「おめえの母ちゃんにきまってるだろが。うちの駿一郎は台湾の女に引っかかって弁当、釜飯屋をはじめるとかぬかしておるが、台湾あたりでそんな商売がうまくいくはずはないだろと」
 辺見さんは案の定、子供のように憤慨して膝を叩いた。
「まあまあ、聞け。おめえの性分もよく知っている俺だ…俺なりに調べてみた、台湾のその辺の商売事情ってのを。まあ…戦前、日本が治めていた時代に持ち込まれた弁当の文化は残っているようだな」
「弁当じゃなくて釜飯だって」
「分かっている、その奇麗な陶芸家が焼いた陶器の釜に…おめえは飯を盛ってみたいんだろ。違うか?」
 辺見駿一郎は男の可愛さを露呈するのに躊躇しない、それが異性にとっても魅力的なのだろうなと友人は思った。
「実は…先週、横川に行ってきたんだ。そう、信越本線の横川駅まで行ってきたんだ、釜飯を買いに。あれは…あれは凄いな、やっぱり日本の技術は凄いな」
「凄いか…まあ、俺は知ってのとおり、大学はもちろんインターン時代もあっち、関東の方で過ごしてきたから、あそこの釜飯を買って食ったら御多分にもれず持ち帰って、うちの母ちゃんが捨てていなけりゃまだあるんだろうな」
「凄いって言うのは…あのお釜のあの質で大量に焼き上げているってことで」
「待てよ、あんな風な商売をするつもりなのか?あんな風な釜をいっぱい焼かせるつもりなのか、奇麗な陶芸家に」
「できたら釜も、いいや、釜だけじゃなくて、賢綺の他の作品、皿も壺も買ってもらえたら…」
「待てよ、最近まで高山の水道屋だったおめえがだな、何を言うかと思えば…いいか、釜飯を売る駅弁屋はやめろ。当面はだな、日本人が奇麗な陶芸家とはじめた釜飯屋、これで行くんだ!」
 辺見さんは案の定、感極まってタックルするように医師に抱きついた。
「ありがとう、それを聞いて俺も踏ん切りがついた。賢綺は…池上で少女時代を送っているから『全美行』や『正一飯包』に親しんでいて、それで弁当屋で構わないとか言ってくれて…でも元々は池上と台東の間にある鹿野の生まれなんだ。その鹿野には日本人が入植していた跡があって…鳥居も残されていて…俺は鹿野(ルーイェ)の米がいいと思うんだ」
「そうか…ルーイェの米か。行ってきな。おめえの母ちゃんに聞かれたら何と言ったらいいか…」

 李賢綺が鹿野に新たに工房を構えたのは二〇〇九年九月、辺見さんが鹿野で最初の米を収穫したのは、日本が震災で揺らぐ二〇一一年三月のことであった。

                                       了
台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2010/01/30
  • メディア: 文庫



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