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鹿野米   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 日本人の辺見さんが見つかったのは鹿野(ルーイェ)村の和平天主堂の前だった。台中の鹿港(ルーカン)ではなくて、日本人にはまだ馴染み薄い台東の鹿野(ルーイェ)である。
 台東のルーイェ(鹿野)って何処?
 太平洋側の都市では花蓮が有名だが、そこから左に水平線を見ながら客運(バス)に四時間ちょっと乗れば台東である。鉄道では鹿野駅は台東駅の二つ手前になる。場所がまだまだ観光地としては認知遠い台東とはいえ、異邦人である日本人が四日ばかり行方不明になってみると、失踪や誘拐の類の事件扱い寸前まで行って少々騒がせてしまった。
 辺見さんって何者?
 辺見駿一郎は岐阜県高山市に生まれ育って、市の水道局浄水部管理課に勤めていた。過去完了形なのは、二〇〇八年の三月をもって退職しているからである。一身上の都合をよくよく聞いてみると「台湾の台東で釜飯屋をやりたい」とのこと。駿一郎は三男坊の三十一歳の独身、元来言い出したら周囲の助言も揶揄も馬耳東風の質なので、親兄弟は東京の台東区あたりの気持ちで「台湾の台東」へ旅立たせたようである。
 そもそも半年前に当たる昨年の八月、海外研修と称して台北の浄水施設から台南の烏山頭水庫までを視察した辺見さんは、帰国後に体調不良を覚えて友人医師の検診を受けた。
「胸がどうの言っておったな…見てくだせえよ、何もないから」
「こんなん見せられても…周りが煩いから診てもらっただけで…この歳になればよ、このもやもやの原因くらい分かってるって」
「おめえの自己診断には慣れてるって…胸のもやもやは飲み過ぎってか?」
「ああ、食い過ぎってとこかな…一口でもペンタリナを食ってみりゃおめえも分かるって…こりゃ恋の病だ」
 辺見さんはそう言って振り返り上着の内ポケットから財布を取り出した。そしてラミネートした写真を免許証のように突き出した。
「これだ、どうだ、もの凄くいい女だろう。李賢綺、李はその…ブルース・リーなんかのリーで、賢綺は賢くて綺麗…」
「怪しいところで知り合ったんだろ」
 辺見さんは医師の手から写真をひったくって財布へ戻した。上着を掴むと椅子を蹴るように立った。
「陶芸家だよ、女流陶芸家。瀬戸と美濃で修行していて、俺は彼女が焼いた鼠志野の茶碗を持っている」
「ああ、あの白っぽいのか、あれは台湾で買ったのか」
「あのな、台湾に行く前からあっただろうが!有名な陶芸家なんだよ!」
 辺見さんはそう怒鳴ったものの、やっぱり友人である医師には突っ込んで聞いてほしかったのだろうな。
「その…陶芸家『李賢綺』と台湾でやりたいことがあるんだ」
「ああ、聞いてるよ、弁当屋だろ」
「弁当屋じゃない、釜飯屋だ。って誰に聞いた?」
「おめえの母ちゃんにきまってるだろが。うちの駿一郎は台湾の女に引っかかって弁当、釜飯屋をはじめるとかぬかしておるが、台湾あたりでそんな商売がうまくいくはずはないだろと」
 辺見さんは案の定、子供のように憤慨して膝を叩いた。
「まあまあ、聞け。おめえの性分もよく知っている俺だ…俺なりに調べてみた、台湾のその辺の商売事情ってのを。まあ…戦前、日本が治めていた時代に持ち込まれた弁当の文化は残っているようだな」
「弁当じゃなくて釜飯だって」
「分かっている、その奇麗な陶芸家が焼いた陶器の釜に…おめえは飯を盛ってみたいんだろ。違うか?」
 辺見駿一郎は男の可愛さを露呈するのに躊躇しない、それが異性にとっても魅力的なのだろうなと友人は思った。
「実は…先週、横川に行ってきたんだ。そう、信越本線の横川駅まで行ってきたんだ、釜飯を買いに。あれは…あれは凄いな、やっぱり日本の技術は凄いな」
「凄いか…まあ、俺は知ってのとおり、大学はもちろんインターン時代もあっち、関東の方で過ごしてきたから、あそこの釜飯を買って食ったら御多分にもれず持ち帰って、うちの母ちゃんが捨てていなけりゃまだあるんだろうな」
「凄いって言うのは…あのお釜のあの質で大量に焼き上げているってことで」
「待てよ、あんな風な商売をするつもりなのか?あんな風な釜をいっぱい焼かせるつもりなのか、奇麗な陶芸家に」
「できたら釜も、いいや、釜だけじゃなくて、賢綺の他の作品、皿も壺も買ってもらえたら…」
「待てよ、最近まで高山の水道屋だったおめえがだな、何を言うかと思えば…いいか、釜飯を売る駅弁屋はやめろ。当面はだな、日本人が奇麗な陶芸家とはじめた釜飯屋、これで行くんだ!」
 辺見さんは案の定、感極まってタックルするように医師に抱きついた。
「ありがとう、それを聞いて俺も踏ん切りがついた。賢綺は…池上で少女時代を送っているから『全美行』や『正一飯包』に親しんでいて、それで弁当屋で構わないとか言ってくれて…でも元々は池上と台東の間にある鹿野の生まれなんだ。その鹿野には日本人が入植していた跡があって…鳥居も残されていて…俺は鹿野(ルーイェ)の米がいいと思うんだ」
「そうか…ルーイェの米か。行ってきな。おめえの母ちゃんに聞かれたら何と言ったらいいか…」

 李賢綺が鹿野に新たに工房を構えたのは二〇〇九年九月、辺見さんが鹿野で最初の米を収穫したのは、日本が震災で揺らぐ二〇一一年三月のことであった。

                                       了
台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

台北の夜(ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2010/01/30
  • メディア: 文庫



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吉草   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 昭和四年四月七日、京都府警察部の小野利彦(おの・としひこ)巡査長は、父方の遠戚にあたる米と海産物を商う伊根屋の娘、水谷竜子(みずたに・たつこ)と慎ましく挙式を挙げた。もとより竜子の亡父の遺言のままに許婚の契りを交して以来、傍目から見れば夫婦そのままに寝食を共にしていた二人ではあった。
 挙式の十日後の四月十六日のことである。全国的な共産党員の一斉検挙が発令されて、府警巡査長の利彦も飽くほど尋ねている京都帝国大学の構内にいた。散り残った桜の小樹の花弁をぼんやり眺めていると、さらに悠長そうな下駄音を転がして義弟の浩三(こうぞう)がふわりと近寄ってきた。
「兄さん、またナップ(NAP)の追っかけでっか?」
 農学部の二回生になった浩三は随分と胡散臭い髭面になっていた。
「その前にや、目の前の弟は、犬蓼の精とか、実験犬の霊とかと違いますやろな」
 利彦は一尺ほど離れながら義弟の背中の方へまわり込んで苦笑した。
「またそれでっか、兄さんも辛気臭い言うか、京都のお巡りはんらしい言うか…」
「ナップのこつは特高のお偉いさん任せやけどな、わしに化けおった奴、あれはあれっきりやしな」
 浩三は顎鬚の奥で小さく笑いながら義兄の制服の左袖を摘んだ。
「大丈夫やて、称念寺はんでの毎月の厄払い、ほんで姉さんの梅酢、王水のように効いてますんやろ?こうして大事なお巡りはんの制服も見つかったことやし」
「何や、オウスイて?」
「濃塩酸、ほんで濃硝酸、これを三対一で混ぜた王様の水や。人間でも金でも、何でも溶かすんやで」
 利彦は怖ろしい液体が口中から下っていくのを想像して嗚咽をもよおした。義弟はそれを見て子供っぽい哄笑を響かせる。こいつの頭の中には理屈と怨霊、あるいは科学と変異、つまり日常と非日常の垣根ないし分別がないのだろうか?去年の秋の犬蓼騒動を、水谷家の一夜の夢として片づけているのだろうか?確かにそう錯覚させるように、あれから赤まんま(犬蓼)を口に溢れさせた殺人事件は起きていない。そして利彦の畏れ多い制服一式も、長浜の教師が研修とかで入洛した際に届けくれたのだった。
「確かにあれから奇態な殺しは聞かんが…」
 浩三は頷くともなく経済学部の棟がある方を顎でしゃくって言った。
「ナップとか共産党とか、なんや舶来品もどきの思想いうは、京の風土いうか、千年の血水が育んだ草木には…やっぱ嫌われるんとちゃうかな」
「なんや、いっきなり農学部らしいこつ言いよって…あちゃぁ、またあの坊主や」
 利彦はそれこそナップもどきが巡査に遭遇したように仰け反った。校門を隠すように浩三と背丈が居並ぶ大きい頑健一式の男子が立っている。この大木のような少年が二十年先まで水谷家の膂力となってくれるとは、未だ青年になりきれていない京大二回生の浩三には知る由もなかった。
「どないしたん?本官がここにおるてよう分かったな」
 利彦は己の「本官」づかいに些か照れながら紹介した。
「このボンは金光実道(かねみつ・さねみち)、こんなん大きゅうてもな、まだ尋常小学校で来年は浩ちゃんと同じ第一中学を目指しておるんやで」 
「小野巡査長殿、叡山を一周してきました。父が言うには、えーと、一斉検挙が発令されたよって…小野巡査長殿も、えーと、帝国大学の方に…とか言うて」
 浩三はその甲高い声変わりしていない言い回しに思わず後退ってしまった。
「君の御父上はなんでもお見通しやさかいな。こちらの兄さんはな、水谷浩三君、ええか、ここ京都帝国大学の農学部の二回生で、わしの義理の弟にあたるんや」
「金光彫金の金光実道いいます。小野巡査長殿からは、えーと、科学の知識をもって、その…お、怨霊を退治されたと」
 浩三は炊きあげられた飛竜頭の中身を探るように少年の唇に目を細めた。
「金光さんとこに呼ばれたときにな、酒の勢いでな、犬蓼を追い払ったのは浩ちゃんや言うてもったんや。金光彫金いうたら知らんかいな、こん子はぽっちりを作っとはる彫金師の金光弘道さんのお孫さんや。ほんで御父上はわしの剣道部の先輩なんや」
「明日も叡山を一周します。ほんで…えーと、今後とも駅伝の御指南よろしゅうお願いします」
「無理せんとな、雨の冷たい日は休むことも精進やで。先輩がな、わしの剣道よりもわしの駅伝の走りを褒めちぎるさかい、こん子も大人になったら駅伝を走って、京都か大阪の巡査になるよって…なんや?」
 少年は浩三なんぞよりは早そうな両脚をもじもじさせて腹巻から包みを引き出した。
「父が…えーと、駅伝の御指南の御礼とか…こちらのぽっちりの招待券を…」
 巡査長が包みを受け取って開くと今次重宝、なんと金券のような招待券には昨日、大々的に開店された大阪梅田の阪急百貨店の文字があった。

 姉の竜子にとっては二年ぶりの阪急電車だった。滅多に洛中を出ない伊根屋の御新造さんにして、京都府警巡査の新妻であればさもありなん。それでも古の都にあっても、いや古の都にあるからこそ、二十代の若妻なれば流行り廃りは春夏秋冬の肌合いのごとく敏にして捷たる。大阪の梅田に阪急が百貨店なる大店舗を建ておった!そこまでなら京女らしく大山崎の方角をチラ見するくらいだったが、夫利彦のごつい手で何やらの招待券を渡されて「昼はその辺で済ませるよって浩ちゃんと行っておいで」ときたからには稚気朦朧となった。旅は乗り物、阪急百貨店へ水谷姉弟をお連れするは当然、阪急電車と相成った。
「ぽっちりか、帯留めがぽっちり言うのを忘れておったわ」
「そやな、あてはお母はんから形見にいうてもろうたのがあるけどな、あんたは本ばかり読んではる京大生やさかい…まだ枚方あたりかいな、眠とうなってきたわ」
 浩三は内心は緊張が高まってきている姉の白々とした顔を見ながら懐を確かめた。招待券をよくよく隈なく読むと、どうやら店舗内でも高級品を扱う一角を当然ながら監視十分にして美術館扱い同様にしている由、金光彫金直々のご招待なれば慇懃に納得するしかなかった。
「姉さんがお母はんから貰ろたそん帯留め、そんぽっちり言う帯留めは、やっぱ花とか虫とかあしらった物なん?」
「あてのは蘭、蘭に黄金虫や。螺鈿いうの知ってるやろ、螺鈿で白蘭に仕上げて、ほんまに純金やないか思うような、ぴっかぴっかの銅の黄金虫が縋りついとるんや」
「そない豪勢なら大阪には付けていけんわな。例えばやで、赤まんま、犬蓼なんぞをあしらったぽっちりがあったら笑うてしまうな」
「阿呆、そんなんあるかいな」
 大旅行気分が苛々と増幅してきた頃に梅田へ到着した。改札を出たら粋な京女の姉を老婆の手を引くように浩三は先導しなければならない。気合十分な下駄でホームを踏んだ瞬間だった。背後の竜子をど突くような怒声があがる。降車する誰もが振り返った。その満場の注目の海原を鰹か鰆が突っ切らんばかりに、凛とした紺のブレザーが丹前や褞袍を小突き分け行こうとしている。ニキビが残るおかっぱ頭の先争いと見て余裕をもって苦笑する男衆。それもつかの間、少女が掲げる右手の注射器を見ては狂乱の後退り。注射針から飛ぶ白濁した飛沫。勝手に誰かが硫酸雨の恐怖を想ってか、誰もが右へ左へ連鎖して逃げ惑う。ホームは逃げたい見たい止まりたいの大混乱となった。がしかし、そこは謹厳なる昭和、阪急の駅員の剛の者は細腕を掴みあげて抑え込む。ほっと安堵の野次馬も気がつけば将棋倒しに大いに関わっている。浩三は避けた誰彼のあおりを喰らって倒れた姉へ駆け寄った。腕を引き起こされた竜子の呆然とした一言は流石と言えた。
「あん子は、あんバッジは同志社や、同志社女学校や」
 大阪はこれだから云々と興奮そのままに姉弟は百貨店へ吸い込まれていった。竜子はやはり着物の左袖の磨れ汚れが気になって品揃えに集中できない。言わずもがな小心にして傷心を拭えぬ浩三は姉について彷徨するだけの京大生。金光彫金の触れること御法度の帯留めを鑑賞しながらも、遠くで聞こえる幼児の声や大阪マダムのそれが敏感に耳骨に架かってしまう。七階の大食堂で何やら洋食めいたものを戴く予定も、盛況ゆえ待ち列に並ぶよう示唆されるとこれ幸いに断念した。兎にも角にも、百貨店の梅田の大阪の人混みから退散しようや。
「姉さん…同志社女学校て言うたな?」
「あんバッジはな。あての友だち、黒谷の光明寺の娘なんやけど、えろうハイカラさんで同志社女学校に行っておったんや。嫌っちゅうほど見せられたわ。ほんでな、あの注射器の液は硫酸なん?」
「どこから硫酸が出てくるんや、江戸川乱歩やあるまいし」

 昭和四年四月二十五日正午前頃に発生した阪急線梅田駅での事件は、○日新聞の「白昼のヒロポン中毒者の醜態か」があれよあれよと確信情報となっていった。少女は尼崎出身で同志社女学校に籍を置き女子寮でも品行方正の鏡のような十九歳。週末の実家帰省の折に評判の百貨店へ立ち寄ろうとした大いに頷ける乙女心。さりとて注射器所持とはいただけない。巷の有象無象なる男どもは、モノノケに口を吸われるよりは女学生に注射されたいなどと狒々笑い。
 奈良橋譲(ならはし・ゆずる)は○日新聞のそんな三面記事を破るように浩三へ押し付けた。本年から農学部助手になった擦れ違う女子が振り返る好男子である。しかしながら漢方の効果を追及している身なれば、長い睫を瞬かせているのは市中街路になくて草木鬱蒼たる山中にあること度々である。よって植物ホルモンについての質問攻めから知り合った伊根屋の倅、水谷浩三を連れて散策することも度々あった。
 浩三は新聞をチラ見してから朝露が残る倒木へ敷いた。
「座ってくんなはれ、ヒロポン中毒の女の上に」
「○日も面白おかしくへ落ちてるわけや。帝国に憂いなしやな」
 奈良橋はそう言って苦笑しながら股引の膝を叩いて座ると、いつものように欧州の動向面に近眼視をすり寄せた。浩三も右に倣えとばかりに股引の膝を叩いて座った。
 京都大学農学部助手と同学部二回生が薄ら寒そうに肩を寄せ合っている倒木は、伊吹山の表登山道の三合目あたりである。眼前には春霞がかかっていて絶景を楽しむには修行僧のように辛抱しなければならない。一昨年の昭和二年には世界山岳気象観測史上一位となる十一・八二mの豪雪が観測された山ゆえに、この年の来月、五月一日には国営の気象庁付属伊吹山測候所が開設されることが公に通知されていた。もっとも二人が目指しているのは山頂ではなく、目的の春女郎花(ハルオミナエシ)、一般には鹿の子草で知られる漢名、吉草が群れる北尾根の方角だった。
 うら若い二回生は早速、手持無沙汰になって、大先輩の助手を牽制するように大判の手帳をリュックから取り出して読み上げはじめた。
「吉草の根を細かく刻んだもの約五グラムに熱湯を注いで五分待ち服用のこと、適量は一日三回の飲用にとどめおき…多くの漢方薬に鎮静薬として配合されていて安全で中毒性はない。日本産の吉草は精油を多く含み品質が良いとされ、ドイツでは薬の他に菓子の香料の原料として好まれ輸出されている」
 奈良橋は苛々と頷きながらばっさりと新聞を畳んだ。
「ドイツでもどこでも菓子の香料どころじゃないわ。おそらく来年には甘松香(かんしょうこう)、つまり吉草なんぞ輸入している欧州の国はなくなるやろな」
 奈良橋は弾くように立って北尾根へ歩み出した。目の前の春霞こそは不況を覆い隠すような現況そのものではないか。彼には軍靴の音高らかなる予感がつきまとっていた。
 北尾根の斜面が白々と見えはじめると、やがて辺りは春女郎花、吉草の冠毛を有した淡紅色の小さな花弁に満たされていた。幕末の植物学者の飯沼慾斎(いいぬま・よくさい)の草木図説(そうもくずせつ)には「カノコソウ一名ハルオミナエシ。伊吹山中多く自生す」という記述が残っている。北海道などでは輸出用に栽培されている薬草なれど、一般の登山者はただ単に春の吉草の群落を愛でて擦過すればよい。世相は婦女子にとって三合目以上の爽快な花畑のように与り知らぬものであるべきだった。
「女子?あれは女子ですわな?」
 浩三はある種の幽玄さをもった花園に人影を見出してしまった。絣の紋平の上は見たことのある紺のブレザーを着たおかっぱ頭の女子。何故か反射的に股引姿の自分を隠すべくうずくまった。
「何や、知っとる女子かぃ」と奈良橋が言い切らんままにその腕を掴み下ろした。
「大きい声出したらあきまへんて。あんブレザーと同じもんを梅田で見たんです。そや、先輩は見えますか、あんブレザーの胸のバッジ?」
「阿呆、あん子が女子か何かも分からんド近眼のわてに胸のバッジて…君も青春やら何やら真っ盛りなんやなぁ」
 浩三は縋るように並んでうずくまらせると、慌て口調の果ての失語症になっている自分を自覚した。奈良橋は駆け出しとはいえ科学者の端くれ故、興奮が治まるのを待つことにする。浩三は大人の観察力に感謝しながら呼吸を整えていった。そしてあの時の同志社女学校のブレザー姿に酷似した子への焦点をそのままに、梅田駅で姉弟が三面記事の事件に臨場した事の次第を話した。
「ほぉ、君も姉さんもえらい災難やったなぁ。ほんで、あん子の上着が同志社女学校のもん言うのか?」
「いや、似てるいうか、バッジがそれやったらそう思うんです」
「何を言うとんのや、このボンは。あん子がそん時の子や思うてんのかいな」
「いや、似てるいうか、おかっぱ頭の雰囲気が」
「まぁええわ。ええか、そん同志社の子がやで、本当に○日新聞が言うヒロポンの娘やったらやな、今頃のこのこ伊吹山などに来とるわけないやろ、あん紋平姿で」
 奈良橋はまた股引の膝を叩いてさも面倒そうに立ち上がった。そして背後のリュックを軽快に回し開いて、気取った観じで革袋から縁なし眼鏡を取り出しかける。女を数知らない少壮の学者はぎこちなくも偶々を装いながら近づいて行った。女子はさほど驚いた風もなく吉草の束を抱いて振り返る。奈良橋は己の素性を明かしてから「揮発油」とか「鎮静作用」とか本職らしく言い回しはじめた。そして彼が「セイヨウカノコソウ」に続いて「癲癇」とかの言葉を口にした途端、狼狽えるようにおかっぱ頭を揺らして尾根を下って行ってしまった。助手の奈良橋先生は脱兎を見送るように呆然としていた。

 浩三等が伊吹山を下りて電車を乗り継いで、大学の作業場まで吉草根の袋を携えて帰った頃には日が暮れていた。車中、奈良橋は生真面目ゆえに女学生に対する自分の言動に不手際があったのではと悶々。浩三はそもそも一女学生が自分たちと同様に吉草根を採集していた異常、それが言い過ぎならば、吉草根に対する執着と「癲癇」「心悸亢進」などの言に対する反応に不気味さを感じていた。
 日も暮れているとはいえ、伊根屋の暖簾を仕舞う丁稚の顔もどこか辛気臭い。浩三は達観したような学徒面を作って襟を正しながら聞いてみる。たとえ番頭の叱りや口止めが強硬でも、明朗で気が利く丁稚は浩三坊ちゃんにはさらりと話してしまう。しかし勝手ながら聞かぬが仏、今宵はつくづく裏口から部屋へ直行すべきだったと悔やむことになった。
「兄さん、大変やったな」
 浩三はこの時刻には珍しく丹前姿でお猪口を傾けていた義兄の前に胡坐をかいた。
「おう、浩ちゃん、今帰りか…あん坊主から聞いたか。まぁ、しゃあないわな。これで四本めや、飲むしかないて」
「付き合うわ。強くなってきたんやで、飲んべの教授や先輩が多いから。姉さん…」
 竜子は言うより早く茶碗と一升瓶を下げ持って廊下に現れていた。
「北前船が運びよったスルメでやりなはれ…わてもさっきまで付き合うておったんやけど…悪酔いしてしもうたんちゃうかな、お先に床に入らしてもらいます」
 水谷家にとって厄介な報せは主、利彦が昼食に帰ってきた正午過ぎにもたらされた。
 利彦が所属する東山警察署の釈(しゃく)署長から直々に呼び出されることは四度目で、三度目まで警察官として当然至極に誇らしい事件解決の功労を労った弁であった。そして三度目が「赤まんま事件」に対するそれである。猟奇的な殺人事件として洛中に広まった醜聞は、小野巡査の決死の追及捜査によって反政府勢力NAPの内部抗争つまりは内輪揉めという顛末に落ち着いた。実際に賊に対峙したのが本人と義弟の浩三ということもあって、劇薬に類する「植物ホルモン」を使用してのNAP内部抗争劇として公表される。利彦は巡査長に昇格するも警帽や制服を紛失したことの公言は家族共々、御法度と相成った。さても四度目の呼び出し、しかし日々の警らの隅々を浚ってもまったく思い当たる節がないまま署長室の扉をノックした。
「君も阪急電車の梅田駅での女学生の一件は知っとるわな。尼崎の子やけど同志社女学校に通っておるさかい、京都の我々も知らぬ存ぜぬ難波のこつは難波にてよろしゅう、とはいかんわな。その女学生が振り回しておった注射器、新聞が勝手にヒロポン中毒に仕立て上げてくれたんはそれはそれとして、大阪府警は注射器の成分を阪大の先生に分析してもろたそうや。何やったと思う?」
「自分には皆目見当がつきかねます」
「そうやろな、なんでもな、甘松香いう漢方薬の一種らしいんやわ。単独でそこそこの量を摂取してもな、麻薬類と違うて興奮するようなこつはまったく心配いらん言うわけや。お菓子の中にも平気で入っとるらしいんやわ。こないな子を引っ立てるわけにはいかんわな。ほんで無事放免されて、また同志社へお通いして青春を謳歌しとくんなはれ、となったところで君に来てもろうたんや」
「生来鈍感な自分には仰ることの先筋が見当つきかねます」
「そうやろな…ええか、大阪府警はな、この子に注射器と甘松香の入手経路を問いただしたんや。なんとな、梅田や尼崎やのうて、高瀬川の三条川端でな、男前の警察官から渡された言いよったんやて。写真で面通ししよか思うたら…東山警察署の小野巡査いう警察官でな、最初は四月七日の夜半で、それから三度ほど金曜日になると川端で待っててくれて渡してくれるんやて」
「四月七日は私事ながら称念寺にて挙式を挙げさせていただいた日であります」
「知っとる。わしと小谷警視正、あと何人かの同僚も、君が三々九度を拝してやな、それこそ夜半遅くまで飲んでおめでたい顔をしとったんはしかと見とる。大阪府警が言うこつはわしも阿呆臭くて笑いそうになったわ。公務執行妨害に加えて立派な官職侮辱罪や。しかしながらやで、大阪府警からの真剣な捜査依頼ということもあってな、女子の戯言やさかい一笑に付してもらえませんやろか、とも言えんわけや。ほんでな…今週と来週の金曜日に川端へ一人二人張らせよう思うとるんや」
 かくして明日より来週末までの十日間、小野巡査長は署長付きというかたちで謹慎扱いの内勤を命じられたのだった。
「そんだけやないで。ええか、これは竜子と浩ちゃん、身内の者にしか言えんこつや。釈署長はな、話の終わりに、声を潜められてやな、わてを手招くようにしはって耳打ちされたんや。明日から署内では耐えがたきを耐えてくれたらええんやけど、朝、うちを伊根屋を出て署へ入る、夕方、署を出てうちへ帰る、こん時間帯は間違いなく特高が見張っとる。しょうもない思うて寄り道とかしたらあかんで、と言わはってな。まぁ、何ちゅうか、署長の有り難いお骨折りや」
 浩三は一部始終を聞いて逃れられない不愉快がにじり寄ってくる予感をもった。それは利彦の公務にあっての遣りきれなさとか憤りへの同調ではない。本日の伊吹山での吉草根の採集と擦過した女学生。白昼の同じような時刻に義兄へ突きつけられた甘松香、吉草入りの注射器を梅田駅で振り回した女学生。誰が、何が、魑魅魍魎が仕組んだにせよ、またも水谷家が脅かされているということだった。
 浩三は姉、竜子が寝入っているかどうか廊下の方を窺ってから、スルメの足を食いちぎり一升瓶を引き寄せて、己が知る、そして己が悲観する吉草について話し始めた。

 浩三は些か不愛想に試験管を差し置いた。実験室で吉草根を煎じた湯から精油成分をできるだけ分離して鎮静成分を抽出したのである。自分が忌まわしくも関心を持ってしまった「植物ホルモン」とこの鎮静成分をどう関連づけるべきなのか。
「こら乱暴にすな。ここんとこずっと苛々しおって」
 奈良橋は教授に指示された講義用の構造式を大書きしながら眉をひそめた。
「今日は金曜日でっしゃろ~もう~赤まんま警官とか、鹿の子草巡査とか、勝手言う阿呆が出てきたら思うとやりきれませんわ」
「あんな、阿呆臭くて話す気にもなれんけどな、今日、三条川端の橋にな、義兄さんそっくりな偽警察官が現れよったらやで、それはそれで一件落着やないか」
「そうでんな、張りこんどる刑事さんたちが兄さんのそっくりぽんを一網打尽。そうなりますやろか」
「まぁ、張りこんどる刑事さんたちが昼間から一杯やっとらんことを願うしかないか。冗談や、大立ち回りも何も起きんて。特高に睨まれては叶わんさかい嫌味はほどほどにせんとあかんが、十中八九、同志社女学校の洒落た火遊びに振りまわされた京都府警、ちゅう落ちやろうな」
「わては…わては兄さんの辛気臭い顔を見飽きたんですわ」
「辛気臭いて、臭い言うな、義兄さんの名誉のためにも。ええか、分かったやろ、そもそも吉草酸の臭いはな、硫化水素や酪酸と同じ足の裏の臭いに近いんや」
 浩三は「足裏の臭い」という言葉にびくりと反応した。あれはじめじめした雨の日、義兄から制服を奪って自分の部屋に上がり込んできた奴、興奮すると義兄正真の顔が青黒く変容していって、何よりも洗われたことのない野良犬の肛門のような臭い。保護されたことがない奔放な臭いは、警察官に対する、取り締まる国家に対する、地下にあるべき野生の怨念の象徴なのか。奴はまた現れるはずだ。
 浩三は鞄から称念寺のお札を取り出して確と頷いた。そして奈良橋が凝視しながら後退する前を唸るようにして出て行った。

 吉田の理学部から三条川端までは、袴を履いていても若者の脱兎足なら三、四十分というところだが、怨霊の類が這い出して来るには日は高い。それならばと百万遍の方へ転じて同志社女学校へ向かった。警察は女子の戯言と一笑に付したいなどと大人紳士ぶった物言いをしているが、元より女学校へ野暮ったく乗り込むなんぞは到底できない相談なのだろう。まして同志社なれば蛮漢には敷居が高い。ここは帰りがけに妹のところへ立ち寄った京大生ふうに、義兄から聞いた梅田駅暴れ女子の仲道信枝(なかみち・のぶえ)をもう一度、拝めるものなら拝んで問いただしてみよう。
 浅葱色の欧風甍を見上げて暫く中庭に待たされた。しばらくして仲道信枝は用務員に先導されて堂々と現れた。
 あのおかっぱ頭に紺のブレザーに例のバッジである。あの時、たとえカエルの解剖中だったとしても、清楚な彼女に注射器や刃物は似合わないと思ってしまった。
「どちら様でしたでしょう」
「京都大学農学部二回生の水谷浩三いいます。自分は仲道さんにお会いするのは二度目です。最初は阪急の梅田駅構内でお会いしたいうか、失礼ながら仲道さんが取り押さえられた様子を見ています」
 百万遍の往来の車夫や女学生の賑わいが抑え込まれたように静まった。項垂れた彼女を見据える自分が何やら情けない。しかし巷はいざ知らず、我が水谷家が迷惑の渦中にあることを腑の中心に置かなければならない。
「そうどすか、あんときおいでやしたんか…○日新聞贔屓の文学部や経済学部の方でしたら面白可笑しく話せますけどな」
 浩三に輝かんばかりの雌犬を押さえ込む覚悟が一気に沸いた。
「自分の義理の兄が、東山警察署の小野利彦巡査長なんですわ」
 信枝はまた項垂れて辺りを怯ませた。そしてこちらの男性を認めよとばかりの微笑をもって顔を上げた。
「そうどすか~なるほど、女子の頭でもなんや分かってきましたわ」
「ええか、大人を揶揄うて、官憲を揶揄うて、痛い目を見るんはそっちやで」
「そうどすか~痛い目見るん言わはっても…今日はわてやなくて、妹が行くこつなってます、三条川端の小橋へは」
「妹?」
 信枝は来客を伝えに来た用務員の老爺に悠々と頷いてから歌うように言った。
「わてもお兄さんにお会いしとう思ってましたんどすけど、妹が『なんやお巡りさんらしい人が番犬らしくあちこちよって、もう仕舞いにしようや』言うてましてな。そや、もうそろそろ御対面とちゃいますか」
「兄はな、あんた等の狂言に振りまわされた警察署から内勤処分を言い渡されておってな、こん真っ昼間から一歩も外出なんぞできんわ」
「そうどすか~なんや妹は巡査長にお会いしとうてな、最初で最後の金曜日になりますよってお手紙したためておりましたわ」
「今のうちにな、手紙や請求書を送られてもな、全部、特高さんやらがお調べなんや」
 信枝はいかにも息を吞んだかのように口許を抑えてから呵々大笑を響かせた。
「お、お手紙いうてもな、ラブレターちゃいますねんで。郵便やなしにな、丁稚さんに直にお願いした言うてましたで、急ぎ東山警察署の小野巡査長へ手渡しでと」
「阿呆か!あんた等の狂言に乗せられてのこのこ川端まで行く兄さんやないわ」
「そうどすか~お手紙を書かはったんが水谷浩三さんでもでっか?」
 浩三は瞬間、憤怒に駆られてブレザーの襟元を鷲掴んでしまった。怯んでいた辺りから見よがしに悲鳴があがる。目の前の女の皮を被ったこいつ等は何をする気なのか。そしてブレザーの襟の女学生らしい芳香を抜って、女は野良犬の陰部のような臭いをもって言い渡した。
「怖いわ~殿方は怖いわ~これやから手紙と一緒にお父はんの形見をお預けしてよかった思うてます」
 浩三は掴んでいた襟元を放して己の手を嗅ぎながら後退った。
「形見?」
「お父はんの形見どす。わてのお父はんが大事にしてはった拳銃どす」
「ケ、拳銃?」
「そうどす。南部十四年式拳銃どす。どうか、お身内同士、殿方らしゅう華々しゅう戦うて、立派にお果てになってくれやし」

                                       了
姑娘 (講談社文庫)

姑娘 (講談社文庫)

  • 作者: 水木 しげる
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/08/12
  • メディア: 文庫



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チャネルキャット   Vladimir Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 その頃のレイ・フランシスコ・アライサは、ヌードリング(Noodling)のシスコと呼ばれていた。ヌードリングとは手掴みで魚を獲ることである。ネイティブ・アメリカンによる独特な漁法だと説く先生方もいらっしゃるが、ともあれ古今東西、大河から側溝まで、水流の恩恵を拝してきた者が、記憶する産卵期や増渇水期に行ってきた手掴みである。ヌードリングという言葉は、「noodle」を語源としているのだが、この単語の意味は中西部ミシシッピー河沿いにあっては二つあり、どちらの意味も猥雑で気が利いている。ひとつには、小麦粉を練って紐状に切ったり伸ばしたりしたものをスープに入れた中華食の王道、これが口中にある感覚が、チャネルキャットに触れた感触と似ていることらしい。もうひとつは、道具を使わない始原的な行為を皮肉ってか「blockhead」とか「stupid」と同意である。
 北アメリカの手掴み漁の歴史としては、ヌードリングの起源は一応アメリカ開拓時代にまで遡るものの、多くの州では今もって禁止されている。単純で果敢な漁であるがゆえに、危険な行為だと断定されている。詳細はヌードリングを懐かしむレイによって説明されるが、認可されている州は、マッディウォーター(泥水)でチャネルキャットなどが十分に生育できる、ミズーリ周辺中西部から南部に集中している。ともかくシスコこと少年時代のレイ・フランシスコは、セントフランシス川及びその周辺のクリークで、チャネルキャットをヌードリングして小遣い稼ぎをしていたようである。
 ヌードリングが手掴みだということは分かったが、手掴みされるチャネルキャットって何かって?鯰(なまず)のことである。鯰の直訳は「cat fish」なのだが、レイ・フランシスコは川底や水路を意味する「channel」の響きを愛していた。後年、ニューメキシコ州の公認調査員になって多忙を極めると「俺のチャネルはこうでなくちゃ」などと呟くことになる。そして同じように見える鯰でも味の違いがあるらしい。通称フラットヘッドとかブルーとかいわれる種のキャットフィッシュよりも、チャネルの方が野性味があって葫やパセリと相性がいいらしい。
「だったら、そのままチャネルキャットを獲ってりゃよかったじゃない、そのセントフランシス川で」と言いながら奈美子は白石を二間に開いておいた。
「わけがあるんだ、川から離れて、ファーミントンを出ていったのには」と応じながらレイは黒石で後頭を掻いた。
「そこはね、危険な場所なんだ。ヌードリングも時として危険なんだ。つまり、楽しくて夢中になっちゃって、そして…何よりも、その場所は目と耳に優しくて、僕には危険なんだ、ちょうど今の時間のように」
 奈美子は、そんなことを言いながら苦渋に歪むレイの眉間を見て微笑んだ。彼がどれほど長考しようと、AFH(American Female Honinbo アメリカ女流本因坊)の彼女に一糸を報いるのは至難であった。
「オーク(樫)の幹を刻んだときの香り…あそこの川沿いの樹木は奇跡だ。三種類のオーク、ホワイト、レッド、そしてブラック、これらが大統領や法王のように際立っていて、寄り添うように桜や胡桃、そしてヒッコリーやゴム、それらが一目で分かる葉を揺らしている。樹木だけじゃない、土地そのものが奇跡なんだ。親父が口癖のように、ファーミントンの赤土はすこぶる肥沃で、牧草にすると、たしか一エーカーあたり二、三トンの干し草を生み出していると…あそこは奇跡だ」
「その豊穣な奇跡の地を離れて、赤茶けた西の果てニューメキシコにやってきたわけは?」
 レイは槍を突きつけられたように奈美子の視線を窺った。彼女の眼差しはすでに盤上を離れていて、グラスの緑茶に浮かべられた卵大の氷にあった。
「大丈夫よ、石だけを見て、よく考えて打ってね。アマチュアを相手に、さっさと大石をとって戦意を喪失させて喜んでいる人もいるけれど…相手が負けても、もちろん勝っても、楽しかったと思える時間を作りだす、それがプロフェッショナル…どうして、楽園でそのままヌードリングのプロフェッショナルにならなかったの?」
「何度も言うけれど、危険なんだよ」
 奈美子は緑茶を含んで、碁笥から数少ない蛤らしき白石を摘まみあげた。
「危険ね…よく言うわ、アルバカーキのマック事件を掘り起こして、エスプレッソ・メーカーに狙われていたあなたが」
「狙われていたは大袈裟だが、あれは…僕が執拗だった、まるでスナッピング(Snapping turtle)のように」
「スナッピング?」
 レイはまるで投了したかのように苦笑いしながら立った。どこかしら舞うような仕種でグラスに同等の卵大の氷を入れて、冷蔵庫から「おーいお茶」を取り出すと勢いよく注いだ。
「母が指を失っているんだ、左手の第四指、指輪ごとね」
 奈美子はキャンディのような白石を盤上に落とした。
「母の指輪を飲みこんだ奴、まだ生きているだろうか…母が指を失ったのは、二度めのヌードリングだった。カンザスシティを殆ど出たこともなかった母、今から思うとかなり地味だった母、そんな母がだよ、男に交じってヌードリングをしたいと言いだしたんだ」
 レイは氷を前歯にあてながら大きく飲み込むと、小さく唸って二間開きの白石の内に突き当たった。
「僕はそれをヒステリックとは言わないが、母は解放させたかったんじゃないかと思うんだ、行き詰っていた自分を。何に行き詰っていたか…やっぱり父ジョージとの結婚生活っていうやつかな。もちろん、父は母を、母は父を愛していたと思う」
「そうでしょうね」
「結婚そのものが最初の開放だったはず…あの地味な母が、両親の反対を押し退けて、南のファーミントンで気儘な生活をしていた父と暮らすようになる…信じられない、あの母がいくら顔見知りの同級生とはいえ」
「そのおかげで、あなたが今ここにあるわけでしょ」
 奈美子はそう言って微笑みながら無視するように白石を伸ばした。
「確かに…最初の開放、結婚生活はネスト(巣)だ、誰にとっても。チャネルキャットなら堤防に沿った穴や窪み、流れにある倒木や岩のすき間…そこで産卵が済むと、親は卵や幼魚を保護するために、ネストに近づく外敵を威嚇する。そのネストに、強引に指を入れて、キャットが指に咬みついたところを引きずり出す」
「それがヌードリング…どちらにしても指は咬まれるわけね?」
 レイは黒石を摘まんで放るように離して、側頭部を抱えるようにして反り返った。
「母は二度めのヌードリング、川に入るのも二度めだったんだ。だからネストがどこにあるのか、どの穴に指を入れるのか、もちろん親父、ジョージの言うままだった。そして、子供の僕が思いもよらないジョージがいて…親父もまた行き詰っていたのかもしれない」
「お父さんも行き詰っていた…どうしても難しい変化を考えがちだけれど、単純に打ってみることね」
 レイは両手で顔を覆ってうな垂れるままに首を振った。
「指を失うなんて…幼児の指ならともかく、炊事と洗濯に費やされた母の指、しかも指輪ごと…キャットじゃない、亀だ、おそらくスナッピングだ。あそこ…あの堤防の亀裂、あそこに、親父はスナッピングがいることを知っていたんだ」

                                        了
エミリーに薔薇を (中公文庫 フ 17-1)

エミリーに薔薇を (中公文庫 フ 17-1)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2022/04/20
  • メディア: 文庫



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トリノアシ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 俺がラジャ・アンパットのあたりに潜っていると言ったら、バリで知り合ったかつてのサーファー仲間は、決まって気の毒そうに「足か背中でも痛めたのか?」と聞いてきた。格好つけて「サーフィンじゃ食えないだろう」と言えば、漁で生きている地元の人々は頷くが、太郎や花子が俺の歳を憶えていれば気まずそうに横を向くしかない。正直に「大学へ戻って棘皮動物を研究しはじめた」と言えないのは、女好きの祖父の血を引いた「ボードを抱えた生殖器」と言われて悦に入っていた俺の矜持と懺悔だろうか。気取ったようなことは言わないことにしよう。要はどこにでも漂っていたサーファーもどきの俺も、渚でシオマネキのように捕まえてくれた女房に頭が上がらないだけだ。彼女が和歌山のスーパーで重たい洗剤を運んだり、レジに立ちっぱなしで頑張ってくれているおかげで、俺は今日も「水底の百合」を探せているわけだ。
「ウミユリって呼び名は日本人らしいな。戦死しちまった連中もヒトデの餌になったって言えば立つ瀬がないだろうが、ウミユリのなんだ、肥やしになったって言えば少しは聞こえがいいって言うのか…大して変わらないか」
 俺が南アジアのどこかの国の外交官になることを勝手に吹聴していた祖父ヒデヲ。祖父自身が太平洋戦争にあっては、インドネシアのスラウェシを中心に転戦してきて終戦を迎えたので、ボードを抱えてバリやスマトラに行くようになった十八歳の俺は、随分と武勇も滑稽も破廉恥もない交ぜになった従軍話を聞かされた。挙句は「アノア」という偶蹄目について調査探索させられたこともある。そんな俺がそっと帰国して白浜の近くにある研究所で、ヒトデやウニの仲間である棘皮動物ウミユリ綱のウミユリの研究をし始めた。そして入院した祖父の従軍話から破廉恥も笑いも海綿が乾くように無くなった一昨年の暮れ、俺は和歌山の陸の現実から逃避すべく採集と研究にかこつけながら、竜宮城のようなインドネシアの多島海へ旅立った。
 確かに多島海の海底に魅せられることは、死と隣り合わせの竜宮城に陥落する危険な日常ではある。番所崎の瀬戸臨海実験所の同僚からのメールは、クラゲの発生と処分にも似た人事異動や予算改定のあれやこれやばかり。俺を放っておいてくれとは言わないが、俺に聞いてほしいだけの浪花節は勘弁してほしい。とは言うものの、ワイサイ郊外の夕景に目を細めている独り情けない俺も、スーパーから帰ってきたばかりの女房の夕餉の支度の慌ただしさなどを想うこともある。そして女房の疲れたたれ目が仔梅(シーメイ)の三白眼に変わるとき、メールボックスを閉じる先からパソコンをシャットダウンするのだった。
 今宵は仔梅の思惑に捕まってシャットダウンどころではなかった。その流暢な日本語のメールに見え隠れしているもの、それは彼女の長い髪の色香などからは明らかに隔しているものだった。
「ブライアン・オシスという五十四歳の英国籍の男性です。日本語に堪能なのは『トリノアシ』について話すと、日本人の学生のように理解して笑ったことからも推察できます。単刀直入に申しますと、ブライアンは私の母国、台湾へ入国したいらしいのです。事の発端は美術商として活動していたミャンマーで、クーデターに成功した現在の軍事政権から長年の搾取を理由に指名手配されいることです。私の家族が官公庁と接触し交渉して台湾の受け入れ先として認められたものの、約一年の待機猶予期間が台湾以外の国で必要なのだそうです。ご存知のように日本はルポルタージュ記者が昨年、銃殺されたこともあってミャンマーからの外国人の来日には当分の間は過敏になっています。そこで…」
 そこで俺に怪しいことこの上ない英国人のおっさんをかくまってくれって?かくまってくれなどという日本語はどこにも見当たらないが、おっさんはすでにマカッサルからソロ港まで来ているとは、台南の金満客家のお嬢さまで日常的に強引な仔梅らしい。それにしても、瀬戸臨海実験所で甲殻類の記載分類学に熱中しているお嬢さま仔梅が、添付された写真の左義眼で藪睨みゆえに正直なところ醜い白人と、どのような関わりがあって俺に彼の隠遁を依頼してきたのか。今夜は神父から戴いた純度アルコールの世話にならねばとても寝つけないだろう。

 波浪注意報と火山噴火のニュースだけが繰り返されている地上の午後。海中のウミユリはプランクトンを捕えるために美しい触腕を踊るように揺籃させる。それを想いながら百合の花には程遠い「トリノアシ」の写真を見るようブライアンへ渡した。
「仔梅のメールにあった指名手配の理由だけど、長年の搾取ってどんなことをしたの?」
 ブライアンは闇夜に遭遇することが憚れる顔を上げて皴っぽく微笑んだ。
「確かにですね、茶葉の仲買業者から始まって仏教美術を扱って、確かに長年に渡ってミャンマーやインドでは商売してきました。搾取?盗みですか?法律から外れた商売をしてきたつもりはありません。本当の手配理由は、おそらくですね、殺人容疑でしょう」
 俺は狼狽えようとする視線を押さえ込んで鼻で笑って見せた。
「おそらくですね、クサカリショウジロウさん、キタムラジョウジさん、ヤマダユウジさん、この三人の殺人容疑でしょう」
「名前からすると日本人だよね。旅行者?本当に…その三人を殺したの?」
 ブライアンはやれやれと首を傾げて幾らか乾いた唇を指し示した。
「確かにですね、話している日本語は三人から教えてもらいました。漢字や平仮名もですね」そう言って俺に誤コピー紙を要求して裏に書きはじめた。「確かにですね、お世話になった三人ですね。草刈象二郎さん、北村譲治さん、ジョウジのジョウは難しいですね、山田雄次さん。私にフレンドリィだった三人ですね、殺すはずありません」
 ブライアンに日本語を教えたフレンドリィな三人について時系列的にまとめみた。三人の日本人はとても旅行者とは言えない。終戦後、祖国へ帰還できなかった、あるいは帰還しなかった、祖父と同世代の帝国軍人である。ブライアンは最初にマニプルという町の茶葉の品質査定場で部落の長的な山田雄次と出会い、山田の紹介で同じ残留兵の北村譲治と知り合っている。北村こそ正にフレンドリィだったらしく「シロワニ」という仇名をブライアンにつけている。そして草刈象二郎こそ乱暴な表現を借りればボスだったようである。草刈は相当な上級将校だった過去を持ち、ミャンマーの四部族、華僑やインド系商人、はたまた進駐した英国将校とも関わっていたらしい。ブライアンが度々の政変にも関わらず最近までミャンマーを脱出せずにやってこれたのは「草刈象二郎さんのおかげです」とのことだった。今もって草刈の存命安否は確認できていないが、山田は九年ほど前に病死されたこと、北村は四年前に軍事政権に拉致されてすぐに解放された後に変死されたこと、これらは公にも個人的にも確認されていた。二カ月前、ブライアンに山田と北村、そして草刈の殺害容疑が発令されるだろうという情報がもたらされた。
「それにしてもミャンマーを出国したのといい、仔梅からメールをもらった時にはマカッサルに到着していた。とても日本人にはできないトリック・プレーだ」
 俺は寝起きのような随分と悠長な、それこそ浦島太郎のような無責任な言い方だった。
「確かにですね、仔梅さんを信じてここまで来れました。あなたが仔梅さんの友だち、私は幸運でした」

 仔梅との出会いは、瀬戸鉛山地区にある実験所に新しく赴任された所長の歓迎式のときだった。棘皮類ならともかく甲殻類の研究者と言葉を交わす機会は今でも滅多にない。日本人離れした美しい女性がいると思った。外来客家人の人類学的な骨格風貌には詳しくないが、彼女には台湾原住民の十代女性に見るような凛々しさがあった。
「見てください、父が祖父から受け継いだ梅花石です」
 挨拶もそこそこに仔梅は翻るようにして携帯の写真を見せてくれた。梅花石はウミユリの化石を含んだ古生代後期の石灰質輝緑凝灰岩である。そして台南を源とした海洋民族の商いと女神である媽祖の関わりを話してくれた。
「あなたが研究しているウミユリ、いいえ、茎のような支持体?支持体が岩に着いているので植物のように見えますけど…あたしもあなたが言ったトリノアシという言い方が好きです。幼体は自由に泳ぎ回っていますし、ときどきは岩を離れて漂っています。トリノアシは鳥のように自由なのです」
 俺は仔梅から円月島へ渡るのを誘われたとき少年のように狼狽した。真水を飲み下して自分が妻帯していることを朗々と告げた。仔梅は了解しているかのように微笑んでビールを取りに行った。何故か彼女の蜜蠟のような二の腕と脹脛が、夕陽を受けた椰子蟹のそれを連想させた。
「仔梅さんが研究しているのはBeetleカブトムシですか?」この質問がすべての始まりだった。「あの…かたい殻でできている生物ですか?」
「似たようなものだがカブトムシじゃない。Crab蟹の仲間だよ。軍人だった先生方もそこまでは教えてくれなかったの?だいたい『シロワニ』とか『トリノアシ』とか分かっていながら…カブトムシって何言ってんの?」
 ブライアンはそれこそ白鰐が天井に浮かぶ足を狙わんとする藪睨みで見上げた。
「確かにですね、甲殻類という日本語をメールで見ました。それはですね、仔梅さんのメールに書いてあった日本語ですね」
「だったらどうしてカブトムシですか、なんて聞くんだよ?」
 ブライアンは混ぜ返したような問いに答える術もなく誤コピー紙を要求してきた。
「確かにですね、草刈象二郎さんのところで最初に出会いました。これはですね、ミャンマーの甲虫ですね、五本のツノがあって、ここの二本のツノがRabbit Ears兎の耳みたいですね、この甲虫に出会ったのですね」
 俺は正直なところ狂人と一緒に生活するのは一週間がいいところだな、などと考えはじめて神父からの頂き物が入った棚を一瞥した。
「私はですね、このミャンマーの甲虫のことを仔梅さんに伝えました。仔梅さんはですね、えーと…ビルマニクス…ゴホンヅノカブトだと教えてくれました」
「なるほど、それで仔梅が陸上のカブトムシ研究者になったわけだね」
「確かにですね、仔梅さんの部屋にもですね、日本の甲虫がいるとメールに書いてありました」
 俺は彼女と黒光りする虫のことなど話題にしたことがなかった。
「あなたは仔梅さんの友だちですね、どうして、あなたのところにはカブトムシはいないのですか?」
「見てのとおり蠅や蚊はいるけど、仔梅やシロワニのように甲虫なんか飼っていないよ」
 ブライアンはボールペンを放って椅子ごと後退った。
「あなたは仔梅さんの友だち…ヒトデやウミユリを研究している『トリノアシ』ですね…私はシロワニはですね、あなたをトリノアシを信じていいのですか?」
 俺は仔梅の艶やかな二の腕に触れようとする甲虫、そして老いた白人の乾いた指先を想っていたのかもしれない。応じるように椅子ごと後退ってモニターのメールボックスを開いた。そして仔梅がもし甲虫を飼っていて、キーボードの上を滑り抗う彼に微笑みながら返信してきたら、明日の満潮、俺の竜宮城にシロワニをご招待しようと思っていた。

                                       了
お嬢さん (角川文庫)

お嬢さん (角川文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: 文庫



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恋藻ペンタリナ   梁 烏 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 夏こそは死ぬのに相応しいと何となく確信している男、こういった男が巷にはそこそこいるのでは、などと漠として思ってしまう朱夏の昼下がり。炎暑に放り置かれたような終戦、その重荷を背負った昭和という時代に生まれたからであろうか。そうとばかりも言い切れまい。冬に戦を仕掛けて、夏に敗残を晒すのは、ここ最近の日本人の勝手だと諸外国に揶揄されて然りだ。いい加減を覚悟で言えることは、夏という灼熱のときは、生の転換としての性の放散に大いに作用しているということだ。


 二〇〇七年八月

場所
 烏山頭水庫のダム堤体に沿った犬走りと呼ばれる監査用路

登場人物
 室田…五十代前半の高山市の水道局浄水部建設課主任
 辺見…三十代後半の高山市の水道局浄水部管理課係長
 賢綺…李賢綺、女流陶芸家
 幸如…張幸如、台南大学の女子学生

(台湾、台南市官田区にある烏山頭水庫という岩を敷き詰めたロックフィル方式のダム湖を客席側に見立てて、幾らか干上がっている観のロック材を積んだ石垣状の遮水壁が高さ約百センチで上手側から下手側へ続き、監査用路の犬走りはその上に走っているが、遮水壁の水からの高さ、そしてそもそも設けるか否か、などは特定するものではない)
(上手から犬走り上を辺見がつかつかと、その後を室田がふらふらとやってくる。辺見は一旦、下手まで行って納得したように正面に戻り、湖面にあたる左右前景にカメラを構えて写しまくる。追いついた室田は、不貞腐れたように辺見の背後に座り落ちる)
室田 暑くてたまらん…これでも麗しの島に来ておるわけだ。
辺見 麗しいじゃないんやさか。あのあたりなんかは瀬戸内の島々のようやさ。
室田 瀬戸内ぃ?あんばいようを仰いますなぁ、飛騨の高山のお人が。
(辺見は下手側の方、犬走り上の先の方に何かを認めカメラを構えシャッターを切ってから、注意を惹くように右腕を大きく振りはじめる)
室田 大丈夫かぁ?昨夜の台北の酒が残っておるんじゃないかぁ?
辺見 あれは…女の子ですわなぁ。
室田 女ぁ?何でも女に見えるんやろうよ、裸のな。
辺見 裸やねえやけど、いい脚をしとるんやてよ。
室田 脚だ、女だと…ちゃっちゃっと結婚しろよ。
辺見 短パンから出ておる脚が白くて、瀬戸内の島々によぉ映えて見えますでなも。
室田 瀬戸の花嫁とか言うなよ。
辺見 危ないですわなぁ。干上がっておるとはいえ、犬走りから下りて行っていいのかな?
室田 犬走りぃ?犬走りって?
辺見 ええ、この今おる道路のことやす。ダムの堤に沿った通路を通常、犬走りと大学の先生から
室田 (面倒そうに立って)女の子って若い女の子か?
辺見 ええ、可愛い顔しておって…憶えとるんやてか、ブラック・ビスケットのビビアン・スーみたいな娘やす。
室田 ビビアン?ブラック・ビスケットのビビアン・スーか…君もテレビっ子やったわけか、今どきの台湾美人やったら、林志玲(リン・チィリン)だな。
辺見 バブル世代のわりには、最近の女の子にも詳しいすね。
室田 ほんなことよりも、黙って見とらんで、危ないから声をかけてこいよ。目の前で自殺とかされては敵わんさからな。
辺見 あんなに可愛いかったら自殺なんかしないすよ。
室田 どんなに美人でもだな、女は恋に生きて(目を凝らして)…ダムの水を飲んはやとしておるのか?
辺見 あんなに可愛いかったら…ダムの水は飲まないやろ。
(上手から白い日傘をさした賢綺が小走りでやって来て、二人を撥ね退けるようにして下手の方を睨んでから二人の方へ振り返る)
賢綺 日本人?日本人は水が怖いの?見てないで行きなさいよ。
室田 そう、日本人だけど、日本人で、日本人だから(辺見の左肩を突くように押して)君ぃ早く行けよ。
(辺見は急な展開をのみ込めないものの些か嬉しそうに下手へ消える)
賢綺 走的快!(早く行って)有的虽然两个人的人(男が二人もいながら)…八田先生のダムで…事故があってはいけません。
室田 そう、八田先生のダムで…そう、事故があってはいけません。そう、私は日本人で、そう、ム・ロ・タと申します。
賢綺 私はリーです。リー・シェンチィ(李賢綺)です。観光ですか?
室田 そう、観光、いや、その、私たちは高山市の水道局に勤めていまして…
賢綺 高山市ぃ?岐阜県の、美濃に近いタカヤマかしら?
室田 そう、岐阜県の高山市でして…そこの水道局の、そう、言わば研修視察の一環として…
賢綺 そのへんは難しい日本語ですね。
室田 そう、水道の仕事をしているものですから、八田先生のダムを…そう、日本人として、大先輩の残された仕事を見にきたわけでして…分かりますか?
賢綺 水道の仕事ぉ?それでダムを見にきたのですか?(自分の両頬を軽く指で払って)私の顔、私の顔に何かついていますか?
室田 そう、いや、何もついていませんが…とても綺麗な…そう、とても綺麗です。
賢綺 ああ、きれいですか?私の日本語、きれい…そうかな?
室田 日本語もきれいですが…そう、それだけきれいな日本語を話されるのは、日本にいらっしゃったことがあるのですか?
賢綺 ええ、八九年から九五年まで六年間、瀬戸と美濃にいました。
室田 (指を大袈裟に鳴らして)ということは焼き物、ということは日本で陶芸をなさっていらっしゃったのですね?
賢綺 ええ、なさっていらしゃいました。
室田 そうですか、陶芸家でいらっしゃって…そう、美濃焼きだったら織部ですよね、青の織部は
賢綺 ああ、私は鼠志野が好きで、今でも志野釉をかけて焼いたものが多いです。
室田 そう、志野もいいですよね、いや、志野が一番いいかな…
(賢綺は室田の眼差しに辟易して下手の方に向いてしまう。そして堤から犬走りへ上がって来る二人を見ながら首を傾げる)
賢綺 子犬のように見えるわ…
室田 そう、あの子は子犬のように可愛いですね…しかし、あなたは、リーさんは綺麗です。
賢綺 そうじゃなくて、手を引いて上がってくる二人が、まるでじゃれ合っている子犬のように見えるわ。
室田 そう、うちの辺見はもう若くないが、辺見と若い彼女がこちらへ向かって走ってくれば…
賢綺 走ってくれば?
室田 走ってくれば、これぞ、その…犬走り。
賢綺 イヌバシリ?
室田 そう、犬走りとは、通常、こういうダムの堤に沿った通路のことを申しまして…
賢綺 (幸如の荷物を代わりに持ってくる辺見を見ながら)何を持ってきたのかしら?あれは…シィンウェイチン(显微镜)、マイクロスコープ(Microscope)のような…
(下手から顕微鏡とクーラーバッグを持った辺見が笑顔をもって現れ、その後に続いて短パン姿で右腿を掻きながら考えごとをしているように幸如が現れる)
辺見 藻や、藻を探しておる学生さんやったんやて。
室田 もや、もやもやでは分からないだろう、辺見君。きちんとした日本語で話しなさい。
辺見・賢綺 きちんとした日本語ぉ?
室田 だから、もやもやじゃなくて、モを探している学生さん、というふうに…モって?
辺見 ウォーターウィードですよ。
室田 そう、いきなり英語を交えるからますます伝わらない日本語、困ったものだ。
辺見 気取ったことを言ってないで、この顕微鏡できれいな緑色の藻を見てくだせえよ。
室田 (気乗りしないふうに顕微鏡に眼を近づけて)まったく、見てくだせえよなんて(覗いたまま顕微鏡を抱え込んで)…何やろか、これは?
賢綺 (幸如の方にさらりと掌を向けて)何でしょうか、これは。换句话说,他说「这是什么」
幸如 大丈夫です。日本語は分かります。
賢綺 (辺見に軽く微笑みながら)それはそれは…それで二人の様子がじゃれ合っている子犬のように見えたのね。失礼しました。私はリー・シェンチィです。
辺見 私は日本の高山市から参りました、高山市水道局に勤務しております、浄水部管理課の係長のヘ・ン・ミ、ヘンミと申します。
賢綺 私は近くの美濃にいたことがあります。
辺見 女性でリーさん…ああ、こちらで顕微鏡を覗いているのは、同浄水部の建設課の主任のムロタです。
室田 自分が係長だからって…(顕微鏡から眼を離して)どこにでもあるリョクソウ(緑藻)、緑の藻だな、海苔のような緑藻で、このようなもんを見ていたら、海苔で巻いた干瓢巻きが食いたくなってきましたんやて。
辺見・賢綺 カンピョウまきぃ?
幸如 海苔巻きなんぞにはできません。わてが発見したボルボックスに属する新種で、ペンタリナいいますねん。
室田・辺見 (顔を見合わせて)てえもねえ関西弁だな。
賢綺 (室田と辺見を押しのけるようにして近づき)日本の関西の方にいらしたことがあるの?
幸如 (考えごとを続けている顔のまま)わてはチャン・シィンルゥ(張幸如)いいます。もちろん台湾人で、正確には、父は宜蘭出身でタイヤル族、そして母は京都の亀岡の出身で…亀岡はたしかに関西で…
賢綺 ああ、タイヤル族、それでビビアン・スーのように可愛かったのね。
室田・辺見 (また顔を見合わせて)ビビアン・スーを知っておるということは、見た目よりも…
賢綺 (室田と辺見の雑音を払うように)この人たちもあたしもジィザツ(自殺)と思っちゃったのよ。
幸如 (驚愕して賢綺の右手を取って引き寄せる)至于你说(あなたの言うとおり)…わてはこの発見でJesusになるかもしれない…
賢綺 (幸如の手を振り払って)そのJesusじゃなくて日本語のジ・サ・ツのこと、Zìshā(自杀)のことよ。
幸如 自杀?自杀はジサツ…なんでや、なんでわてが自殺するん?
賢綺 (下手へ憂鬱そうに離れて)勘違いしたのよ。ここで女の子が一人だもの…我去日本,很痛苦一直在这里…
室田 (咄嗟に幸如の手を握って)リーさんは台湾語で何と言っていたのやろか?
幸如 (室田の手を振り払って)日本へ行くまでのあたしは…いつもここで悩んでいた。
室田 (賢綺の肩に触れるほど近づいて)何を悩んでいたのですか?
賢綺 (振り返ってじっと室田を見つめる)恋の悩みじゃないから、気にしないで…(可笑しくなって顔を逸らして)日本的这种像鸡…
幸如 (大袈裟に賢綺の方へ翻って)可怕(ひどい)!鶏みたいな日本人やなんて…
辺見 (唖然としている室田を後ろへ引き倒すようにして前へ出て)いくら台湾の美人にしつこい日本人やからといって、鶏みてえな日本人、というのは酷い言い方やて。いや、いかにも美人に弱そうな日本人だからといって、もうちょっと言い方があるでしょう。
幸如 (室田を押し退けて顕微鏡を掴んできて覗き込みながら)そうや、あんまりやわ。こんな辛気くさいオッサンやて、わてが発見したこのペンタリナで、若い日本人みたいにビンビンになれまっせ。
辺見 (室田と幸如を怪訝そうに見ながら賢綺の方へ向いて)あなたは陶芸家のリーさんですね?私は高山の自宅で、あなたの鼠志野の茶碗と水差しを愛用しています。台湾から美濃へ来ている女性の陶芸家ということで、志野のよくある白さに、どこか日本人にはない優しい暖かみがあると思っていました…そのあなたが、彼を鶏みたいな日本人だなんて、いくら室田さんが背が低くて痘痕面で、高卒でおそらく主任止まりで、七年前に離婚して女っ気がない中年野郎だとしても、鶏みてえな日本人というのは
室田 (辺見の後ろに縋るようにして)はやいい、はや聞きたくない。これ以上聞くと、そこへ飛び込んで死にたくなるんやて。
辺見 (室田の手を払うようにして)大丈夫や、室田さんの「死にたくなる」は飲んだ時の口癖やろから。そういやぁ、いや、ところで、リーさんが日本へ行くまで、ここで悩んでいらしゃったというのは…
賢綺 (振り返るが、怒ったように逸らして前へ出て)ここで悩んでいらしゃったというのは?
辺見 陶芸家のお父さんを台南に残して、自分一人が日本へ旅立つ…
賢綺 (苦笑しながら両手をまじまじと見つめて)インタビューの記事を読んだのね。水道局…水道の仕事でしたね、水道の仕事には勿体ない記憶力ですね。
辺見 憎まれ口という日本語がありますが、あなたには似合わない。今日もここへ来たのは、創作に行き詰っているからですか?
(賢綺は拳を振り上げて辺見に殴りかかるが、辺見は悠々と受け止めて賢綺を抱き寄せる)
賢綺 (嗚咽をしながら)行き詰るぅ?リー・シェンチィにそんな日本語はいらない…アイデアはいっぱい、いっぱいよ…
辺見 環境を変えてみるといい。心が安らげて、初心に帰れるような所
賢綺 初心に帰れるぅ?
辺見 Where you go home to basics, there is the home of your heart.(あなたが初心に帰れる所、そこはあなたの心の故郷です)
賢綺 There…そこは、日本だと言いたいの?
辺見 (上手の方を窺って)ここはちょっと暑い、犬走りは僕たちには似合わない。あのSLが日陰をつくるところまで行って、二人だけで話しませんか?
賢綺 这是一个好主意(いい考えだわ)。
(辺見と賢綺は寄り添いながら上手へ。室田と幸如はあ然と見送るが、やがて互いに顔を見合わせる)
幸如 (膝を叩いてから顕微鏡を覗き、すぐに顔を上げてクーラーバッグを叩き)これや、あの人な、あそこで採ったこれを舐めておったんや。
室田 (疲れたように横たわって)それは…何に効くモだって?
幸如 モやない、ペンタリナや。見てみい、五角形のかたちして…(顕微鏡とクーラーバッグを取って立ち上がり)ほんま鶏みたいな日本人やな。
(幸如はまた湖面へ向かうべく颯爽と下手へ。室田は幸如の後を見ていたが、やがて辺見と賢綺がいる上手の方を見やり、次にしばらく正面の湖上を放心したように見ていたが、よろよろと立って幸如のいる下手へ向かう)
室田 ヘイ、お姉ちゃん、ギブミー・ペンタリナ!

                                       幕
嫉妬

嫉妬

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2004/05/11
  • メディア: 単行本



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ロリアン   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 またも茫洋と海が広がっていた。倫代(みちよ)の目の前にはいつも水平線がある。意識するしないに関わらず海原がある。船着き場にせよ、磯の潮だまりにせよ、忍び寄る眠気のようなもので、眠りが来たかと思う間もなく、沈みゆく深々とした眠りそのものなる海原が漠として広がっているのである。酒やワインのように味わいの違いを無理に風土に求めてみても無駄だ。三河湾にせよ大西洋にせよ、倫代の海は、倫代を裏切ることなく思い通りの海としてそこにあった。
 ロリアンというフランスの港町についに来てしまった。
 フランス北西部モルビアン県の都市ロリアン、かつてはフランス海軍の基地だったが、今ではアメリカ人と日本人を手長海老で誘う漁港である。雨に煙る乾ドックの彼方はお洒落な倉庫街、手前のUボート・ブンカーと言われていたUボートの防空施設跡は、観光計画に繰りこまれてヨットの保管などに使われている。牛が潮風に弄られながら草を食んでいる海浜、勝手に想像していた牧歌的なブルターニュとは違っていた。
 母の母、倫代にとって祖母にあたる女性がフランス人であったということは、篠島では「魔女の棲家」と噂されているペンションの女将である母が幾度となく語っていた。出涸らしの紅茶のような色の一枚の写真、呉のどこかの床の間で母らしき幼児を抱いている女性は日本人ではない、と言ってしまえば皆が皆で納得しただろう。祖母はその写真を撮った翌年に亡くなっている。母は祖父の呉の実家に引き取られて育てられ、フランス人の生母「シルビ」の記憶は一枚の写真と祖父の思い出語りに尽きてしまった。
 母が祖父から聞いた思い出語りを、倫代が散逸した戯曲の頁を並べなおすように集成した伝聞内容はこうなる。一九四四年、帝国海軍の伊号第二九潜水艦は、ドイツが占領中のフランスのロリアン港を訪れて一ヶ月ほど滞在した。その伊二九潜水艦に十九才の祖父は技術士官として乗り組んでいる。少壮の技術士官としての祖父の記憶は鮮烈で、写真と共にあった覚書には、ドイツから供与されたマウザー二〇ミリ四連装機銃二基、クルップ三七ミリ単装機関砲一門、他にジェット機などの技術資料など、と克明に記述されていた。しかしながら伊号第二九潜水艦は、戦闘によるものか事故によるものか不明のまま、帰途シンガポールから日本本土へ向かう途中で沈没している。祖父は甚だ運命的にシンガポールにて下船していて日本へ帰国することができた。ロリアン滞在時に話を戻すと、うら若き技術士官は、当時のUボート・ブンカーの食堂施設に出入りしていた乳酪製品卸業の娘だというシルビィ・ド・ギョメと知り合った。「シルビ」ことシルビィは十六才だった。出会い即別れもつかの間の終戦、一九四六年にはアメリカ経由でシルビィは呉に現れている。現れているなどと粗雑な表現に至るのは、この決定的に感動的なこの時の状況を、母本人が成長してから父である祖父に執拗に聞いても、そして呉の親戚や近所に詳細を聞いても、淡々と曖昧な記憶を辿るばかりであったからだ。食べるのに生活することに精一杯の終戦直後にあって、かつての軍港に現れた亜麻色の髪の女は、米軍の連れ合いぐらいにしか見えなかったのか。それにしても祖父が語り残した祖母の印象は稀薄である。あまりの驚愕に麻痺したまま墓へ持っていきたかったのだろうか、などと倫代はそれこそ茫然と推測するしかなかった。

「この番地のあたり、事務官の人が言うにはね、サウス・ブルターニュ空港の敷地内なんだって」
「空港?昔は住宅地だったってことかしら」
「あたしも聞いた。なんでもね、昔からの野っ原の丘で、潜水艦基地の物質を補うためにナチスがばたばたと作ったんだって。ジプシーか何かじゃなかったの…冗談よ、いい方に考えましょうよ、母さんの灰色がかった瞳のためにさ」
「その東京のフランス大使館の事務官って人はまだ若いんだろ」
「ソルボンヌを出ていて日本語はぺらぺら、ロリアンから一八〇キロほどのナントの生まれ、ナントの勅令のナント、あの辺一帯は詳しいようなこと言ってたけど」
「何とかだか知らないけど、一八〇キロも離れているってことはさ、ここ篠島から伊豆の下田くらいまで離れているってことで、しかもフランス人やイタリア人ときたら当てになるもんかい」
「またそんな父さんからの受け売りみたいなこと、その目つきではっきり言うから魔女だなんて言われんのよ」
「父さんが、あなたのお爺ちゃんが言っていたのよ、日本人以外で信用できる船乗りはドイツ人だけだって」
「わかった、爺ちゃんの伊号潜水艦がお邪魔したっていうUボートの隠れ家もちゃんと見てくるから」

 連合軍の度々の空爆を受けてもUボート・ブンカーは破壊されなかった。ノルマンディー上陸作戦以降、アメリカ軍はロリアンを包囲したが、ドイツ軍は降伏しなかったようである。ロリアンは終戦までドイツ軍に占領されたままだった。
 Uボート・ブンカーの跡地に掲示されている構造の説明を、リヨンで学んでいるという名古屋っ子の斗亜ちゃん(山崎斗亜)は感心しながら訳してくれた。斗亜ちゃんは建築を専攻しているとかで無理もない。爆弾の衝撃を逃がすべく屋根を傾斜させたドームブンカーの構造には感心しきりで、彼氏がドイツ人だと聞いてはフランス人に睨まれないようそっと祈る。そして解体費用が郡の収入を上回るゆえに中止となったあたりで、ちょうどと言うか、やっとと言うか、調査を依頼していた市役所の係員から斗亜ちゃんの携帯電話に連絡が入ってきた。
 斗亜ちゃんはリヨンで日頃身についてしまった大きい手振りでメモしながら、名古屋のおばさんでも張り上げないような嘆き声で対応してくれていた。
 倫代は「メルシー」の後で俯きながら電話を切った斗亜ちゃんの汗額にハンカチをあてがった。
「シルビィ・ド・ギョメという女性、倫代さんのお祖母さんですけど…」
「大丈夫、はっきり言ってちょうだい。そんな人はいなかったんでしょ」
 斗亜ちゃんの困惑の眉間は、どうも内容の悲劇性というよりは摩訶不思議にあった。
「いらっしゃったようですけど、なんていうのか…でぇらやばいな、わけがわからん」
 倫代は栄町あたりの十代が呟くしぐさに破顔してしまった。
「でぇらやばいって、駄目よ、そんな日本語をフランス人に教えちゃ。聞いたとおりに訳して教えてちょうだい」
「そのままですね、そのままで、ロリアンの戸籍台帳に今日までの残っているシルビィ・ド・ギョメという方はお一人だけで、その方は一八九一年十一月三日生まれで、いいですか、一九三九年七月二十二日に亡くなっています」
 倫代の笑みは梗塞して余裕の眼差しは足下へ泳ぎだした。
「何それ、一八九一年?一八九一年に生まれて、いつ亡くなったって?」
「だから二度聞き直したんですけど、亡くなったのは一九三九年だから…」
 倫代は脇へ嘔吐するかのようにバッグを開けてがさがさと写真を引きずりだした。
「って言うことはだよ、この写真、うちの母を抱いて母親らしい顔をしている人、あたしの祖母っていう人はシルビィ・ド・ギョメじゃないってことで…でもさ、この裏の本人のだっていうサインは?」
「読みにくいですけど、シルビィ・ド・ギョメ、と読めないことはないですね」
 倫代は対岸沿いに曳航されてゆく大型ヨットに目を細めながら舌打ちした。
「でぇらやばいわね、夫であった爺ちゃんがそう言っていたんだから、そのままシルビィであってほしいけど…安易なロマンスを勝手に想像していたあたしと母さんが、そもそも阿呆なのかもしれない。こんなフランスくんだりまで来ちゃってさ。ロリアンじゃなくて呉のお墓参りからやり直そうかな」
 遥か洋上にたなびいていた雲はひとつ残らず視界から消えていた。そして色白の女二人を嘲るような日輪は真上にある。倫代は初めて海に裏切られたように感じていた。

                                       了
ヒルベルト――現代数学の巨峰 (岩波現代文庫)

ヒルベルト――現代数学の巨峰 (岩波現代文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/17
  • メディア: 文庫



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蟻とコゥロギ   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 僕はオリバー・コゥロギ。ブエノスアイレスの海軍大佐ツトム・コゥロギの長男として生まれた。今の僕も御多分にもれず海軍に属していて、大尉の階級にある二十八歳のそれなりの持て男だ。コゥロギという姓は、父方の日本人姓で「興梠」と書いて日本でも珍しいらしいが、隣国ブラジルの都市部では役人や軍人、つまり偉そうにしている奴らのうちに見え隠れしている。アルヘンティーノでは、おそらく父が最も有名なコゥロギ族だろう。その父もどうやら大佐のまま、秋には退役するようだ。母が言っているように、そのまま母方の発祥の地ドレスデンへ行って、若いナッティと暮らすのだろうか。なんとも…この僕にしてあの父だ。生意気かもしれないが、父が苦笑いしながら言ったように、男と女はおもしろい。そもそも母が暇に任せて、祖母の系統などに関心を持たなければ、同行した父が母の遠縁にあたるナッティに出会うことはなかっただろう。あれは三年前のことだった。父はめったに取れない休暇の旅行で、フランクフルトまで出迎えた僕と同じ歳のナッティに恋をしてしまったのだ。確かにナッティは、父にとっては新鮮だったのだろう。アルヘンティーノにとっては珍しいプラチナヘアーに、彼女が堆肥でキャベツを作っていること、そして彼女が素手でつまみあげた大きなミミズ…父のものといい勝負だった。
「オリバー、あなたがナッティを好きになったなら分かるわ。いや、あなたでも許さないわ、あんな雀斑だらけのキャベツ女」
 僕は母の愚痴にはつきあったが、心底からは同情していなかった。母は母でライアンの支店長との密会が見つかっていないと思っている。誰でも知っていることだが、ライアンはニューヨークに本社を置く派手な興行主もどきの食肉会社だ。母と懇ろになっている今の支店長ドナルド・リャンは、エンパナーダ(牛肉入りのお焼)用のアンガス牛の開拓で有名になった。そして彼の弟フランクが、海軍情報局のリャン大佐、僕の上官ときたのが運の尽きだったのかもしれない。
 フランク・リャン大佐は四十歳そこそこの中華系だが、安穏とした軍部での評価はかなりのものがあったようだ。特に時代錯誤ばりの盗聴をやり玉に挙げられていた情報収集。そしてバスク語までを含めた三十カ国語をこなす語学力。しかし海軍を遠目に見る世間一般からは奇人変人の類いに見られることがあった。フォークランド周辺の現況について、父と僕が珍しく意見交換していたときである。
「友人だし、お前の上官だから、あまり話の種にしたくないんだが、ついでに聞いてくれ。ずっと我慢していたんだろうな、あれは。夢中になって話しているから時間の経つのも忘れていたんだろうな、あっちを。フランキーの隣りにいた保安局長が慌てて、こんなふうに仰け反りながら小声で指摘したんだよ。何がって、彼が小便を漏らしていることをね。するとだ、彼は眉毛ひとつ動かさず、片手を払うようにあげて、しっかり英海軍の船舶について喋り続けていたんだ。あれには驚いたよ」
 父の酒につきあいながら笑っていた僕だったが、二週間ほどしてから小便大佐(若かりし父は入隊してリャン大佐と同室だったので、早くからフランク・リャンの失禁を見分しているらしい)直々に呼ばれて特命を突きつけられた。まさかコゥロギの息子の自分が、父から戯言のように聞かされていた小便大佐の直属になるとは思いもしなかった。黴臭い下水道のような庁舎地下の最深で、何系何人とはとても推測し難いリャン大佐が待っていた。
「なるほど、コゥロギの子はコゥロギの子らしい。随分とやんちゃ坊主だと聞いていたが、そうか、もう二十八歳になったのか。逃げ出すにしても、つまり除隊してマラドーナの真似をするにしても、笑い者になる歳だな」
 僕は今になって確信している、笑い者になろうが小便大佐の前から逃げ出すべきだったのだと。
「ウマワカ渓谷の方へ行ったことがあるかい。ないだろうな。フフイ州はティルカラ村にだね、今回の特別な任務のために特殊な訓練施設を設けてもらった。明日からそこへ行ってもらう。今宵はツトムとロミー、両親との時間を大事にしなさい」

 颯爽と軍用ヘリコプターで正午ごろには渓谷を眼下にするはずだったのだが、プルママルカ村の七色の丘の観光客救難に横取りされて、列車を乗り継いでマイクロバスにごとごと運ばれ着いたのは翌々日の早朝だった。暗闇の山麓ときては景観も何もあったもんじゃないから腹を括った。仲間もいる。ジル・ティツィアーノという巨乳で近眼のヒキガエルのような女と、パブロ・カサーレスという車椅子に乗った半病人のような色白男。この二人とティルカラ村の袋小路の訓練施設に向かった。そこそこ広範なドーム前で警備兵に敬礼される。選ばれし者ぶって敬礼して中へ入って照明が照らし出したのはプロペラ機やキャタピラーが外された装甲車がずらり。どうやら近隣国から買い取ったか拝借したかといったものばかりだが、格納庫であれ村の博物館であれ飛行機好きな僕は目を見張る。エンブラエルの複座型のスーパーツカノを前にして僕は軽薄に言ってしまった。
「いいねぇ、これが任務の報酬なら喜んで特命とやらを承りましょう」
 にこやかに出迎えいただいた厚化粧のマリア・ヴァカ中佐は、僕の軽口も車椅子の車輪の汚れを気にしているパブロも無視して、汗まみれのジルの手を取ってひらひらと指を三本立てた。
「ようこそ、選ばれし皆さん。コゥロギ大佐のご子息である大尉、プリンストンも欲しがった頭脳のカサーレス、そして、あたしが家系血筋を追いに追って見つけたジル、いきなりだけれど、ジル、あなたの訓練教官はあたし。皆さん、まずは喉を潤しなさいな。ああ、大尉、そのブラジル製の飛行機、あなたがその気なら夢じゃなくてよ」
 僕は怪しい炭酸飲料のグラスを受け取って子供のようにそっぽを向いた。
「あなた方期待の三人に発せられる特命。それは祖国アルゼンチンの国名を冠する有名な三つのもの、いいかしら、アルゼンチン・タンゴ、アルゼンチン・デフォルト、そしてアルゼンチン蟻」
「当時のデフォルトについて分析しなおして…」とパブロが僕よりも露骨にそっぽを向いて吐き捨てるように言った。「ここへ来る前に聞きましたが、当時のデフォルトについて分析しなおして、それからどうするのです。まさか、祖国の経済をデフォルト遥か以前のカルナバル当時にまで建て直せとか?」
「特命よ。そんなありふれて大それたようなことじゃないわ」
「大それた特命じゃないのですか」
「あなたたちが手を下すのよ。やがて美しく花開いたジルのタンゴが、地中海の男たちを虜にする。すると、天才数学者パブロ・カサーレスは、地中海の不労諸国にデフォルトの種を花のそれのように蒔くわけね」
 するとだな、磨き上げられたスーパーツカノを横に見て、僕に与えられる特命は、なんだって蟻なんだよ!

「どうしてコゥロギ大佐の長男である大尉の自分が蟻と向き合うのか、といった遣り切れない顔をしているよ」
 そう言って下手なリノリウム貼りの小部屋に現れたのは、案の定フランク・リャン、小便大佐だった。
「天才数学者だっていうパブロが言ってました」と僕にも意地があるところで睨みつけた。「ここへ来る前からアルゼンチン・デフォルトについて分析することを聞いてきたと。子供じみたことを伺いますが、事前の扱いが違うのは…彼がパブロ・カサーレスだからですか?」
 小便大佐は日本人の父が戸惑ったような、肖像画の毛沢東があきれ果てたような、何とも見えぬ読めぬモンゴロイドらしい表情で座った。
「考えられることは二つ。一つは担当教官として招聘したMITのライゼンボリ教授がおしゃべりなのでパブロに漏らしてしまったということ。もう一つは、今回の特命が海軍情報局の作戦の一環にあるということを認識していない、無理もないがね、彼程度の三流数学者なら。一流だったら、それこそMITあたりに招聘されていて、海軍のこんな服を着て不貞腐れていない」
「つまり、彼が言っていたようなデフォルトの分析じゃないということですか?」
「さあね、デフォルトにしてもタンゴにしても、期待していたようなお気楽な使命じゃないってことは言えるね。そう、言えることはひとつ、一人一人がアルヘンティーノとして対外的に誇れる武器となってもらう」
 僕は軽い眩暈を感じながら椅子のへりを握って持ちこたえた。
「アルゼンチン蟻、コードネームをツトムから教えてもらった日本語の蟻酸のギ、アルファベットのGIとしよう。さて、GIとは、というところから行こうか。ざっと簡単に言えば、アリ科カタアリ亜科アルゼンチンアリ属に分類されるらしい。有名というか、悪名高いのは侵略的外来種のワースト100に早くから選定されているからで、諸外国では堂々とアルゼチンの名を冠して特定外来生物にも指定されている。そもそも雑食性の非常に攻撃的な種で、他の蟻と違う特性はね、一つのコロニーに多数の女王アリが存在するということ、よって駆除や根絶が容易ではなく、生態系を破壊するため世界的に問題視されている、それがGIだ」
 僕は今でも子供のように恨めしく思っている、ブエノスアイレスの郊外でGIの模式標本を採集して勝手にアルゼンチンアリ属などと分類したドイツの昆虫学者を。
「体つきこそ小さいが攻撃性が強くて繁殖力も旺盛なので、侵入した地域における土着のアリを根絶やしにしてしまう。例えばだね、カリフォルニアでは土着のアリを捕食していたトカゲの一種の個体数が著しく減少してしまった」
「なるほど」とは露にも思わず僕は頷いた。「また子供じみたことを伺いますが、そのGIをですね、例えばフォークランド島に持ち込んだにしてもですよ、あそこの土着のアリを食べてきたトカゲがちょっと困るだけですよね?」
 小便大佐は窓辺に向いて彼方を見る毛沢東のように嘆息を吐いた。
「それこそ子供じみたことばかり言っていないで、いいかい、ざっと簡単に言えばだね、GIはエアコンや通信ケーブル、そして電気機器などに侵入して誤作動や故障を引き起こすことが確認されているんだよ。これだよ、これこれ」
 僕だって正気の沙汰とは思えない予感は沸々と持ち始めていた。
「ということで、昼休憩をいれた後、十三時から人間生活に及ぼす生物兵器としてのGIについて具体的に説明しよう」
 小便大佐はまたも彼方を見る毛沢東のような顔のまま背後のキャビネットを小突いた。
「この中には入ってるプロジェクターをセットしておいてくれたまえ」
 僕は茫然と明るい窓辺を横目で見やった。そこには本当に子供だった頃にTVで感動していたウマワカ渓谷の陽光があった。
「ここの窓はブラインドを下ろせるのですか?」
「やっと気が利いたことを言ってくれたね。装甲車に被せているシートでも張っておいてくれ」

 僕は背後にアンデスを意識しながらアトランティックに浮かぶ船舶をずっと見て育ってきた。
 世界は三角巾のような天蓋、南半球のブエノスアイレスから北半球のマラガとニューヨークを結ぶアメーバ状の三角巾を想っていた。壮大で美しくてやりたい放題の青い海原が無知な僕の前に煌びやかにある。それもつかの間、こうやって書いていても、僕がスペイン語を話すという宿命ゆえか、幼い頃から背後の赤茶けた山塊や丘陵を意識していた実感がある。ニューヨークの次にマラガが迎えてくれて、港湾のロマンティックを嘲笑うコンキスタドールの赤茶けた大地の噴煙を見たような気がした。真正面に広がっていた豊かさは虚妄なのか、と思うことによって自分に大人の苦みが分かったような気が擦過した。その背後のアンデスが、父親に倣った二十八歳の僕の目の前に確かにある。苦味はすでに僕のものになっている。ウマワカの渓谷を望んで甘味さえ感じている。アンデスを越えて旋回しアルゼンチンの大地を眼下に置くこと、それが僕に残された特命なのだ。
 僕は渓谷にかかる夕陽に目を細めながらレポートを丸めて胸ポケットに押し込んだ。
「大尉、メランコリーって感じね。もうとっくに脱走したのかと思ったら」と言って紫色のレオタード姿のジルが背後からポケットへ手を伸ばした。「なにこれ?難しそう。ヒートポンプとガソリンポンプに対するGIの経路…交通信号と進入灯に関するGIの…頑張ってるじゃない」
 僕は立ち上がってジルの汗ばんだ手からレポートを奪い取って赤い唇を見下した。
「パブロが言ってたわよ、あいつは毎日、蟻のまる焦げをカップいっぱい作ってるって」
「おまえが瘦せたのには驚いてるよ。脱走しなくてよかったな」
 ジルは鎖骨の下の汗染みに指をのせて目尻をぐにゃりと下げた。
「あと半年はいたいの、コゥロギ大尉好みの女になるために」
「半年って…あのヴァカの小母さんがそんなに待ってくれるのかな」
 ジルはいくらか酸い匂いのする指を僕の首にわらわらと絡めてきた。
「彼女は糖尿病で、今のあたしの食べっぷりと脚力に惚れ惚れしているわ。もう特命も何もあったもんじゃない。あの婆さんはあたしだけが生き甲斐なのよ」
「パブロのことはどうするんだ。数学者はこの手のサーヴィスに参っているんだろう」
 ジルは一瞬息を吞んで目を見張り、それこそ夕陽の茜色が映える狂喜の哄笑を鳴り響かせた。
「ああ可笑しい。あたしだって女よ、まともで残酷なチーカChicaなのよ。コゥロギ大尉が望むなら、パブロの口に焼け焦げたカップいっぱいの蟻を押し込んでやるわ」
 僕は負けじと笑いながら彼女の肩を抱いて、奥で鈍く光っているスーパーツカノを指して囁くように言った。
「おまえもパブロも随分と素直なんだな。いいか、欲しいのはおまえと、あれを飛ばす燃料だと言ったら、おまえはヴァカの小母さんを説得できるかい?」

                                       了
奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)

奪われた家/天国の扉 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2018/06/08
  • メディア: 文庫



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フォーキオンの噂   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 十三歳のアレクサンダーがいた。十三歳の少年というものは、生き急がなければならない往時にあっても、やはり十三歳の少年であったのではないかと想い、彼らの生意気な喋り合いの戯曲に乗り出してみる。往時の最高の学び舎にあった王子と取り巻きたちに翳をさすのは、いつの時代も父王とその取り巻き連中である。そして彼らの父たちの怒りと憂いについて問えば、答える学び舎の師が優れていればいるほど、師に爽快な村娘のような嘲りを期待することはできない。すなわち、すでに優れた息子の野心を育むのは、いつも不機嫌な男にしか見えない父に他ならない。


 紀元前三四一年 初春

場所
 マケドニアの首都ペラの郊外高台 花盛りのミエザ学園

登場人物
 アルケ…アレクサンダー 十三歳
 貴族…プトレマイオス 十三歳
 アンフィ…ネアルコス 十五歳
 算術…ハルパロス 十一歳
 先生…アリストテレス 四十三歳

(中央に一脚分の間隔を空けて二脚の豪華に見える肘掛け椅子があって、上手側にアリストテレス、下手側にアレクサンダーが会話の途中の黙考に陥っている。アレクサンダーの右脇から離れて点々とストール型の椅子が三脚置かれている。上手からプトレマイオスを先頭にネアルコス、飲み物のコップを持ったハルパロスの順に登場してくる)
貴族 おお、アルケはやっぱりここにおられた。
アンフィ 声が大きい、こっちだ。
(ネアルコスはプトレマイオスの口元を抑えるようにして引っ張り、三人は控えめにアリストテレスとアレクサンダーの背後を回って、アレクサンダーの右隣からハルパロス、ネアルコス、プトレマイオスの順に腰掛ける。ハルパロスは恭しくコップをアレクサンダーに差し出す)
先生 なぜアルケと呼ばせているのですか?
アルケ ヘラークレースの幼名から、と言ったら笑われますか。
先生 なるほど…(ハルパロスがアリストテレスに飲み物は?という仕草をしたので首を振りながら)彼を、ハルパロスを何と呼んでおられるのかな?
アルケ マカタスの子ハルパロス、ハルパロスを呼ぶには算術の他に何がありましょう。
算術 (照れ笑いをしながら)私は幾何と呼んでいただきたいと申し上げたのですが。
貴族 アカデメイアからは遠い遠いここ、ペラにいる限り算術のままだろうね。
先生 いつも元気なプトレマイオスのことは何と?
アルケ (一気に飲み干して)ラゴスの子にして、気がつけば我がヘタイロイ(側近騎兵隊将校)として大声を張り上げるプトレマイオス、彼はとりあえず貴族と呼んでいます。
貴族 先生、我が王はペリントスとビュザンティオンをご所望です。
アルケ そして(ネアルコスをちらりと見て)アンドロティモスの子で、アンフィポリスに住んでいるネアルコスはアンフィと呼んでいます。
貴族 先生、エレトリアの蛇を追い出したフォーキオン将軍にお会いになられたことはありますか?
アルケ (右手を制するようにあげてから頬杖をつく)彼らが来る前に言われたポリティアについて…
(また言いかけようとするプトレマイオスの口元をネアルコスが難なく優雅に抑えこむ)
先生 そうでしたな、兄と弟の関係に原型をもつ共同がポリティアと言いました。
アルケ それは家族が共同に至る分かれ目であって、元々の家族の終わりになるので…
貴族 (大きく頷いて指を鳴らして)兄弟は他人の始まり!
先生 先走りしてはいけません。元々は家族だということを、父を同じくしているという事実から考え直さなければなりません。
(アレクサンダーは頷きながら振り返る。そしてプトレマイオスを見つめながらコップをハルパロスに渡す)
アルケ 算術、おまえもまた政治については苦い薬湯のように感じているのか。
算術 薬湯というよりも…葡萄酒と申しましょうか、男にとっての喜びであり、過ぎれば悪癖ともなる。
貴族 (ネアルコスの右こぶしを撫でながら)なんとも美しい、男にとっての悪癖とは。
アルケ そうだな、ほとんどの悪癖とは喜びに捕まることだろう。
貴族 (ネアルコスの右こぶしを扱くようにしながら)自慰そのものですな。
(ネアルコスが爆発したように笑い出して、プトレマイオスは両手でネアルコスの右腕を扱き、それを見てハルパロスは卑屈に笑い、アレクサンダーは微笑む)
先生 なんとも、諸君はお若い。(日の傾きを気にしながらゆらりと立ってから嘆息をもらす)いいですかな、私は政治学が倫理学の延長線上にあることを延々と説き続けよう、明日も、明後日も、アリストテレスに命がある限り。
(アレクサンダーはアリストテレスの帰りを先導するように、ハルパロスに顎を振って示唆する。ゆっくりとした下手への二人の退場をプトレマイオスが凝視し続け、それを見ながらアレクサンダーは己のほくそ笑みを右手で隠そうとする)
貴族 (立って日の方に左手を翳しながら)なんとも諸君はお若い。いいですかな、私は政治が倫理の延長線上にあることを延々と説き続けよう、明日も、明後日も、アリストテレスに命がある限り。
(またネアルコスは爆笑するが、アレクサンダーの様子を見て真顔になってプトレマイオスを引き下ろす)
アルケ 貴族が気になるのは…どうしてもフォーキオンなのか。
貴族 (ぎくりと振り仰ぎ)我が王の目の上のたん瘤ではありませんか?
(ネアルコスは大きく頷くが、アレクサンダーは反り返って下手の方を遠望する。間もなく戻ってきて入りかけたハルパロスに向かって、指を立てて呷る仕草で瓶物を持ってくるように示唆する)
アルケ 我が王とは…わが父のことを言うのだろうな。
アンフィ 貴族 言うまでもありません、マケドニアのフィリッポスさま!
アルケ (制するように右手を掲げて)父と息子の関係に、国家のあり方としての王制を関連づけるアリストテレスは、兄弟の関係にポリティアというものを関連づけてもいる。(舌打ちをして項垂れる)王政とポリティアとでは水と酒だ。
(ハルパロスが走って持ってきた瓶をアレクサンダーはしっかり受け取ってらっぱ飲みして、大きく息を吐いて瓶の中の液体を見つめる)
アルケ 父は何故、アリストテレスを呼んだのか。
アンフィ 誰もが認める随一の先生だからでしょう。
算術 戦術と戦略、それら以外のもの全てを教授できるのはアリストテレスだけなのでしょう。
(アレクサンダーはしばし目を閉じて黙考してから、唐突にプトレマイオスに向かって瓶を突きつける)
貴族 (走り寄って膝まづいて瓶を受け取り、素早く一飲みして)アリストテレス、あの先生からはデモステネスやヒュペレイデスらの情報を得ることができます。
アルケ アリストテレスからギリシャの情報を得ると…あの先生がだな、デモステネスやヒュペレイデスの馬術や剣さばきを語ってくれると思うか。
貴族 (瓶を持って逡巡とうろついてから意を決したように)大王が哲学や倫理学に興味を持って精通しようとしている、すなわち、大王が戦術と戦略ばかりに長けようとしているのではない、というところを見せるためでは?
アルケ 大王とは我が父のことか。
貴族 (瓶を投げるようにネアルコスに渡して)アルケ、あなたの他に大王がおられましょうや?
アルケ 大王か…私が軽口を求めないことは知っているな。
アンフィ (瓶をハルパロスに押しつけて)お許しください。ご存知のように、貴族は一般的な物の見方や考え方にいちいち反発したいのです。
アルケ それがプトレマイオスだ。アンフィ、今日は飲んでも構わないぞ。先生が帰られたら水は葡萄酒に取って代わられる。
(ネアルコスはハルパロスから瓶を受け取り、薄ら笑いのプトレマイオスを睨みつけながら一飲みしてハルパロスに返す)
算術 (瓶を舐めるように一飲みしてからアレクサンダーに渡して)思い出しました、我が王がエウボイア島から戻られた宴のこと。貴族が言った、最近は太陽と月が海から上り海へ下っているのではない、と思うようになりました、とのあれにはさすがに我が王も嘆かれました。
アルケ (声に出して笑い)そうそう、我がプトレマイオスが見事にエジプトのプトレマイオスを蹴とばしたわけだ。
貴族 (また逡巡とうろついてから)補足しよう。あの時は、前の晩に寝違えていて、葡萄酒の酔いが回ってくると、我らの海と大地が、昼側では太陽に向かい、夜側では月に向いているのではないか、と思ったのだ。
アンフィ (呵呵大笑)お許ひふぉ。
アルケ (ネアルコスが酒に弱いことは周知)今日は一段と早いな。
アルフィ (プトレマイオスを殴るように指して)こいつはヘタイロイとひての剣はからっきひで、その~口先だけのラゴスの子でしゅから。
貴族 ネアルコス将軍には葡萄酒、遥かペルシャのダリウス王にはビュザンティオンの娼婦。(ハルパロスを指して)どうだ、美しいだろう?
算術 それなりに。
アルケ (ぐびぐびと飲んでから)人にはそれぞれ好み、弱み、というものがある。なるほど、だから貴族は高潔の噂高いHo clestos(高士)と呼ばれる、我が父の目の上のたん瘤、フォーキオンが気になるのだな。
アルフィ (プトレマイオスの胸倉をつかんで)おまえは、俺がHo clestosだと?おまえはいい奴だにゃ。
アルケ (嘆息をもらして)そうだ、今の我らは恵まれている。酒好き、女好き、高潔さ、なるほど、人をして求めてやまないものなのだろう。
貴族 (ネアルコスの手を払って、逡巡しようと立って)整理しますと、フォーキオンの高潔さはアルフィの酒と表裏一体なのでは?
アルフィ 表裏ぃ一体なんだってぇ!俺がフォーキオンなら…(ゆらりとハルパロスを見る)フォーキオンが俺なら?
算術 フォーキオンがあなたなら、ミエザの井戸に走っていって桶いっぱいの水を飲むでしょう。
(ネアルコスは一瞬、理解できないでいるが、アレクサンダーが大きく鷹揚に頷くのを見て下手へどたどたと走り去る)
貴族 (ほっとしたようにしばらく逡巡して、小走りにアレクサンダーの足元に胡坐をかいて)フォーキオンは危険です。
アルケ (瓶をプトレマイオスに渡す)父は危険とまでは思っていないようだ。
貴族 我が王の和解策を受け入れるようアテネ市民に説いているようです。
アルケ 和解はデモステネスらが黙っていないだろうな。
貴族 そして我が王は向かってくるデモステネスらを破られるでしょう。
アルケ (飲んでいないプトレマイオスから瓶を取って)残るフォーキオンが危険だというのか。
貴族 高潔な者はアリストテレス同様に大王の好まれるところでしょうが、買収することが難しい者は大王にとっては厄介者となるでしょう。
(アレクサンダーはなだめるようにプトレマイオスの肩を軽くたたいて微笑み、一口飲んでから頬杖をつく)
算術 噂では、フォーキオンが笑ったり泣いたりしたところを誰も見たことがないそうです。
アルケ フォーキオンのようなギリシャ人は果たして珍しいのだろうか。
算術 難問です、ギリシャ人が我々よりも優れていると認めるように。
貴族 我々よりも優れているギリシャ人が、やがては我らの王に膝まづく、こっちの方が難問中の難問だ。
算術 その通り…おまえの詩才は駄馬にも等しいが、おまえの直観力はザンザスの蹄を想わせる。
貴族 おまえこそ見えているはずだ、フォーキオン然り、アリストテレス然り、ギリシャそのものが危険なことを。
アルケ (空になった瓶をプトレマイオスへ向かって放る)なんとも、私は恵まれている、お前たちがこうしていてくれて。
算術 大王の意欲が我らに意見させるのです。
貴族 大王の世界への意欲を誰が咎められましょうや。
アルケ (首を振りながらハルパロスに指を一本立てて瓶の催促をする)笑い、泣き、そして飲み続けるとするか。
(プトレマイオスは喜び勇んで下手へ向かったハルパロスの後を追う)
アルケ 参ったな…アリストテレスはよく聞いてくれる。しかしアリストテレスの知の広がりはエーゲ海の広がりほどにしか思えない。私は傲慢なのだろうか。傲慢なのだ。フォーキオン?やがて見ることになるフォーキオン。笑いも泣きもせぬ者が、この世の広がりを求める私の助けになるとは思えない、まして和解と安寧を求めるギリシャ人であれば。
(椅子から立って、下手のプトレマイオスとハルパロスに向かって手をゆらゆらと振りながら)まずは髪を伸ばしてみようか。

                                       幕
歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)

歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2012/10/24
  • メディア: 新書



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ジュリア   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 アキラこと杉原亜貴等(あきら)は、蓄冷剤をたっぷり詰めた保冷バッグを抱えながら電車を降りた。自分の指先がすでに白く悴んでいるのを見て苦笑する。来週から八月だという炎暑の夕暮れにあって、和歌山の日高川町から京都の桂川まで来てみると、西瓜のような頭の額にあてた右手が心地よかった。
「アッキーラ、こっちこっち」
 改札口には中学の担任だった華菜先生が待っていてくれた。アキラを見出してくれたと言っても過言ではない恩師が随分と小柄に見える。結婚して子供ができたと聞いたものの、童顔で貧弱胸だった数学教師の妊婦姿はとても想像できなかった。実際に目の前の旧姓佐々木華菜(かな)は、街中ゆえの化粧っけが幾らか見えるだけで、何ら体形も雰囲気も変わっていなかった。
「子供できたん言うたやない?」
「とっくに先月に産まれとるよ。今日はセンセーが見てくれとる」
 華菜の言うセンセーとは、旦那さんの小南晋三(こみなみ・しんぞう)京都大学工学研究所准教授のことである。アキラはメールに添付された写真を見て思わず身を引いた。磔(はりつけ)にされたキリストのような痩せぎすで朦朧とした目つきの長髪男。趣味が三つあって、華菜先生とカレー作りと解析的数論と言い切る、どちらかと言えばアキラ側の変人だった。
「安心して、というか、がっかりせんでね。数論なんか放りっぱなしで、あたしとカレーと絵葉(えば)にかかりっきりの駄目親父よ」
「えばって?」
「娘の名前よ、女の子、男の子だったらガロアから我に郎で我郎(がろ)にしようと、それはもうセンセーが大反対でさ。女の子だったんで名前のエヴァリストから絵葉になったんよ」
 アキラは保冷バッグを持ち直しながら華菜の後をついて行った。
「ガロアって…そうか、名前はエバリストだったんや。華菜先生は結婚しても、子供産んでも、やっぱ物知りやわ」
「何言うてんの、あんたのように本物になれんかった数学教師やで、ガロアの伝記を読み返して憧れるしかなかったんよ」
 桂川の駅に近いマンションの三階、絵葉を抱えながらドアを開けてくれたセンセーこと晋三さんは、もはや「キリスト」ではなくTシャツ水色トランクスの「中村俊輔」だった。そして晋三さんは恋女房と同じく謙虚な眼差しでアキラに見入るのだった。
「本当やな、華菜ちゃんから額が広い人やって聞いておったけど…本当に純粋数学をやる人ってこんなんやろなあ」
 アキラが人並みに謙遜ぶってみせようと頭を振りながら顔を上げると、赤ん坊を抱いた晋三さんの背後を尻尾が揺らめいて通った。そのままお尻をこちらに向けている華菜の脹脛に纏わったのは、敏捷と跳躍を予感させる鈍い金毛の猫だった。
「ああ、この子はね、ジュリア、アビシニアン・ルディの雄、といっても去勢しとるオカマちゃんの五歳。華菜ちゃんよりも僕との付き合いは長いんよ」
 これが二十歳を迎えようとしている神童とジュリアの出会いであった。
「ジュリアはね、ガストン・ジュリアからで、なんかキャバレーの女の子の名前みたいでしょ?」
 華菜はそう言いながらスリッパの先で猫の頬擦りを受けていた。ジュリアはお土産の岩魚の燻製を感知したのだろうか。
「ガストン・ジュリアって?知りません、それも数学者でっか?」
「アキラのとこって魚の燻製もやってるんや…そう、あまり有名じゃないけれどフランスの数学者。あたしもよく分かってないけど、力学系にジュリア集合とかあるみたい。そんでな、岩魚の燻製やけど、山形のお土産に持って行ってもええ?今晩は焼肉にするよってな、そうや、アキラがやっと飲めるようになんたんやで、センセー」
 夕餉はアキラにとって久しぶりのビールと牛肉が馳走された。ジビエ料理のための食材工房とはいえ、猪の脚足と老馬の売れ残りばかり齧ってきたアキラにとって、オージーから遥々飛んできたビーフは途轍もなく甘かった。
「ジュリアがアキラにすり寄るんは、一つは猫本来の習性、そして一つはアキラのジーンズの岩魚やら猪の残り香や」
 華菜は教師時代と変わらず娘をあやしながら箸を使ってさらりと言った。
「のこりがって?」
 アキラは股間にぐるぐると寝そべる金毛を見下ろして、水から上がったばかりの岩魚の斑点のような猫目と対峙した。高貴ではある。猫という存在の原点を見ている気がした。

 アキラとジュリアの留守番三日間が始まった。猫と過ごすのであるからキャット・フードの定刻給餌さえ押さえておけば、あとの時間、午前中はコーヒーとシャワーと「π+e」が超越数であることの証明、午後は鱈子スパゲッティとベイカーの「Transcendental number theory」の熟読と昼寝、夜はTVでのJリーグ観戦と缶ビールとポテトサラダ…と理想的な休日になるはずであった。
 ジュリアに問題が生じたわけではない。アビシニアンは、英国とアビシニアの戦争時、英国兵がエジプトのアレクサンドリアの港にいた「ズーラ」という名の雌ネコを祖国に持ち帰った説、そしてリビアから同種の猫が米国に持ち込まれた説、日本の雉猫を祖とするとかの説、あれやこれや起源説はあるそうな。しかし俊敏さと毛艶とおとなしく粛々とした気品からすると日の本説は論外だ。さりとて寝てばかりで腹ぼてで夜中に大鳴きする三毛猫を否定するわけではない。いずれにせよ、ジュリアは優美で小食で滅多に鳴かない完璧な猫であった。
 アキラに問題、すなわち怠惰や缶ビールの飲み過ぎや冷房に夏風邪、などということが生じたわけでもなかった。そもそも冷房がなかったのだ。華菜先生の冷え性は何度も聞かされていたが、工学研究所の小南センセーの冷房嫌いは聞いていなかった。自宅では愛妻の体を思って扇風機使いなのは納得できるが、研究室ではもっぱら団扇で、冷房びんびんの通勤バスでは長袖シャツに扇子ときてはやはり変人だ。いずれにせよ、普段のアキラはジビエ工房に併設されたアパートの冷房ぎんぎんの部屋で「π+e」に取り組んでいた。
 その年の京都盆地の澱んだ猛暑がこれほどとは、日高川町で雨雲をのせた海風に向いているアキラは想像もしていなかった。髪も紙も何もかもがぶっ飛ぶほどに扇風機を強風にしても暑い、ともかく暑い。思考回路が後退しているのか、ベイカーの本どころか、TVをつけるのも億劫になってくる。気温が幾分か下がった一九時キックオフのJリーグを見ていても瞼がとろんとしてくる。飲んだビールが粘ついた汗となって染み出ていた。
「おやおや、これじゃあナポレオンのエジプト遠征に同行したフーリエの気分だねえ」
 アキラは朦朧としたまま仰け反るように振り返った。猫が居眠りしているだけだ。
「フーリエのおっさんは知っているわな?」
 アキラはTVへ向き直る。ヒサト(寿人)がまた入れたようだ、おそらく得点王だろうな…いや、フーリエはちょっとだけ、フリーエ変換とか少しだけ齧っているけど。
「フーリエはエジプト遠征の頃を忘れられなかったものだからね、パリに戻ってからも褞袍(どてら)みたいなものに包まってね、大汗をかきながらやってたそうだわ」
 アキラは今度はそぅっと怖々と振り返った。ジュリアと目が合った。思う間もなく牙をむきだした猫の大あくび。アキラは項垂れて五十を過ぎたおっさんのように熱い嘆息を吐いた。
「そこまでしてさ、やるものなのかね」
 アキラはまたTVの方へ向き直った。今日は優勝はおあずけ、世の中そんなに簡単じゃない。しかし広島のスタジアムの広がりに鳥取砂丘が重なってくる。
「あたしはジュリア、おっとそのまま振り返らずにTVを見ながら聞いてよ。ジュリアはジュリアでも、あんたの先生が言っているガストンのそれじゃない、ジュリア・ホール・ボウマン・ロビンソン、そうね、ジュリア・ロビンソンでいいわ。人間のときはれっきとした女だった。よく聞いてね、全米科学アカデミー数学部門に女性会員としては初めて選ばれたし、女性として初めてアメリカ数学会会長を務めたこともあるのよ。でも数学者としては、日本語で言う、そこそこ、だったかな。もうちょっとでさ、ヒルベルトの第一〇問題が解けそうだったけど…ま、いいか。ところでさ、自分ばっかしビール飲んでないでさ、あたしのボウルの水、干上がってるよ。あとね、ベイカーはね、才能も確かにあったけど、いい子だったぁ。暑いとか言ってないで、しっかり読み込むんだよ。でもって、早く水、水、死んじゃうよ」
 アキラは生唾をごくりと飲み込むと、弾かれたように干上がったボウルを取りに向かった。

                                       了
新版 いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。

新版 いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。

  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2022/07/27
  • メディア: 新書



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犀   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 Rhino
 あたしはオードリー。今、おそらくちょっと渋い顔をしながらコーヒーミルクのようなさざ波を見ている。微笑みなさいと言われても無理だ。あたしはそこがテムズ川で、たとえ一ポンドやると言われても、安易に手を浸さないご立派な英国の女なのだ。加えてこの気分には自嘲してしまう。二週間続いた下痢は収まってきたというより慣れてきたが、脳髄は不意をうたれて唐突な歓喜にたじろがざるをえない。このような状態を、一般には異国で恋に落ちたと言うのだろう。
 あたしがいるところはインドのアッサム州、カジランガ国立公園の中だ。だからあたしが見ている河はブラマプトラ。飽きもせずに一時間前と同じ色の水を流している。流れというものは大したものだ。特に雨後のこの河の流れは荘厳といえる。野生の生死を黙々と浮かべ去る。濁りには汚泥や雑菌が充満しているはずだ。鳥の鳴き声と羽ばたきは、ずっと下流で祈る老婆達を彷彿とさせる。そして視線を感じて目を上げると水牛。一頭の野生の水牛の眼差しが痩せた白い手の女の眼を潤ませる。彼の怒りのような瞳の黒光りに怯える。来ないでよ。そのままずっとそこから見ていてほしい、あたしを。あたしには逃げるところはない。この流れの前にすべては停滞している。何故あたしはここにいるのか?
 あたしがここにいる発端はルイの餌の問題だった。ルイは煙草の箱大の緑亀、というよりあたしの動いて食べて排泄する宝石だ。五月だった。FAカップの決勝戦をリンダと見終わってから、ふとルイを見ると乾いたように艶がなくなっていて、持ってみると軽くなったような気がした。リンダが劇団仲間の親戚が営んでいる爬虫類店を教えてくれた。そこはグリーンパークの駅裏で、インド人夫婦が愛想よく賑やかにやっている。漢方薬のような処方を買って釣銭を受け取ったときだった。カウンターの端に小箱が置いてあった。「カジランガ国立公園保護募金・密猟団からサイを守ろう」
 粗紙に印刷された説明書きの題に惹かれた。あたしは5ペンスを入れて説明書きを取って店を出た。
「私はカジランガ国立公園の保護官ハリマ・ダバワラです。ここは世界遺産に指定されている世界でも珍しい動物や絶滅の危機に瀕している動物が保護されている場所です。しかしここにはサイの密猟問題があります。サイの角は国際的な闇市場で高額の値段がつきます。サイの角は精力増強の漢方薬として効くと信じられていて、角を粉にして飲んだりする需要があることも事実です。しかしサイの角が科学的に薬効があるということは証明されていません。カジランガ国立公園は北はブラマプトラ川、南は国道37号線という幹線道路に挟まれていて、密猟者は車やボートで簡単に逃走できます。これに対して私達もブラマプトラ川の中洲や岸辺に監視所を設置していますが、毎年の洪水で監視所が度々流されて、その都度、新たに設置しなければなりません。私達、保護官は三、四人のグループでパトロールを行ないます。ニ月二十日のことでした。サイの落とし穴を掘削していた密猟団を別のグループが包囲しました。そして自動小銃の反撃に遭って、保護官二名が死亡、一名が重傷を負いました。この密猟団はまだ捕まっていません。しかし私達はあきらめません。必ずや密猟団を撲滅して、皆様が安心してこの自然遺産にお越しになれるよう奮励していきます。皆様からいただいた募金は…
 募金者抽選番号 KPN2089
 厳選なる抽選をもって当選された方一名様を、このすばらしいカジランガ国立公園にご招待いたします。当選番号は六月第一週に募金活動にご協力いただいている各店舗にて掲示いたします」
 あたしはこの粗末な紙の匂いを嗅いだ。ターメリックとシナモンを混ぜたような匂いがした。そして多少の悪戯心からイングリットのカメオ張りのオルゴールに入れた。開けたためしがないからだ。そして六月のある日に雨宿りがてらに店に立ち寄って、サイの密猟団を撲滅する云々を思いだして当選番号を書きとめた。なんと、オルゴールの中の番号だった。あたしは単純に半日は狂喜したが、あとの四日は休暇を取ることで煩悶した。
 長旅だったが紅茶会社の莫大な援助に支えられて快適だった。
 公園の入口に辿り着いて待機していると、サイを守る保護官ハリマ・ダバワラが颯爽と現れた。サイを守るサイのような肩の張りをもつ男。スペイン人のような顔立ちにウェールズ訛りのような英語。サイと人を、特に女を見るときの優しい目尻と、密猟と虎の話をするときの屈強な眼光。部屋で亀を飼っているだけで足許の覚束ないあたしは、何度も彼のまめだらけの手を握り、何度も彼の汗臭い腕の中に囲われた。
「インドでは、水牛は家畜として珍しくありません。しかし野生の水牛は絶滅寸前です」
「水牛も密猟されているの?」
「野生のものは角が大きくて立派ですから、首から上は剥製になって大邸宅の壁を飾ります。お国で見たことはありませんか?」
「ないわ。やっと食べている階層ですもの」
 ハリマはあたしのスコットランドの顔を辿るように見つめた。
「本当よ。当選したから来れたけれど、当選番号を見たのだって雨宿りしたからなのよ。最初はルイ、緑亀なのだけれど、そのルイの調子が悪そうなので薬を買いに行ったの、グリーンパークの駅裏の…」
「ナーグラさんの店ですね」
「そう、それで募金といっても5ペンスしか入れなかったし…当選したと知ったあとでも、もう5ペンスを迷って入れたくらいなのだから」
「知っています。雨の日でしたね」
「…店の人から聞いたの?」
 ハリマは躊躇いながら内ポケットから保護官の認証を取り出した。そして随分と若々しい自分の顔の横の番号を指し示した。
「自分の番号を当選番号として書き込もうとしたとき…雨で肩を濡らしながら興奮しているあなたが見えました」
 あたしは彼から離れて苦笑するしかなかった。
「そして、私のオードリー・エリスをよろしく、とルイから連絡がありました」
 あたしはハリマの背後の流れに目を細めていった。

                                       了
ラマヌジャン《ゼータ関数論文集》

ラマヌジャン《ゼータ関数論文集》

  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2016/02/17
  • メディア: 単行本



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