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アベル、そして瀬に羽と霧   Jan Lei Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 正直なところ、セリーヌは格好いい、と四十代半ばにもなって思った。ろくに読みもしないで「なしくずしの死」や「城から城」という題名を格好いいと思った。なんとか「夜の果てへの旅」を読みきって、医者としての実体験からくる、剝き出しの白い腕の鳥肌を見たような気がした。格好いい男は駄目男だが、駄目男は格好いい男ではない、厄介なことに。


 一九四二年 晩秋

場所
 フランス ル・アーブル港に係留するUボートを見下ろす招待所

登場人物
 アベル…アベル・ボナール、文部大臣
 シャルル…シャルル・モーラス
 クルト…クルト・フォン・ワイツゼッカー少将
 ベルント…ベルント・フォン・ワイツゼッカー、広報将校
 艦長
 副艦長
 給仕

(Uボートが係留されている港は正面客席側、父祖伝来の小奇麗だったビストロの二階、戦時下にあって洒落た調度品、退廃的な絵画、蓄音機などにはみよがしに灰色の布が掛けられている。純白のテーブル・クロスの正面首座には文部大臣になったばかりのアベル・ボナール、アベルの右側下手にシャルル・モーラス、左側上手にクルト・フォン・ワイツゼッカー少将、その横すなわち正面手前にベルント・フォン・ワイツゼッカーがすでに居座っていて、ベルントは誰かを探して窓の外、すなわち正面を忙しなく見ている。デザートが済もうとしていてシャルル一人がパイプを燻らし始めている)
アベル 私は頭の古い文人で軍隊のことはよく知らないのですが、その…酒場の女のような言い方で申しわけありませんが、叔父さまが有名な少将でいらっしゃれば、その…
ベルント (殴られたように振り返って)私も文人でいたいのです。できれば、おこがましいのですが、大臣のように永遠なる紀行文を書きたいと思っています。
シャルル そしてアカデミーの文学大賞を受賞!
ベルント それは今話している言語で書き上げればでしょうが、(窓の外に探していた人物を見つけて手招く仕種)総統は大層お嫌いなようで、フランス語が。
シャルル それは…(大きく咽かえって咳き込みはじめる)
アベル 私が思うにですよ、お国の言葉、ドイツ語でお書きになられては…そして、こちらアクション・フランセーズの編集長に翻訳していただくとか。
(シャルルは水をかけられたように咳き込みを止めるが、席を立って窓の外、すなわち正面を向いてパイプをくわえる)
ベルント アクション・フランセーズですか、なるほど。(叔父のクルトの横顔を見つめて目が合うまで続く)しかしモーラス先生は、ドイツと我々ドイツ人が大層お嫌いでいらっしゃるとか
アベル (大袈裟に吹き出し笑って)彼も、シャルルも子供じゃありませんから…
(シャルルが仏頂面でアベルの方へ振り返るのと同時に、上手ビストロ二階入り口からUボートの艦長と副艦長が入ってくる)
艦長 Ich lade Sie ein.
ベルント お招きに参上いたしました、とのことです。Setzen Sie sich neben Dr. Morras(モーラス先生の隣へ座りたまえ)
(シャルルは慌てる様子を隠すように席へ戻り、艦長はその横へ些か横柄に、副艦長はその横へ静々と座る)
ベルント Wir sind fast fertig, aber man muss langsam essen(我々は殆ど済ましてしまったが、君たちはゆっくり食事してくれたまえ)
艦長 Vielen Dank(ありがとうございます)
副艦長 Kapitän, kannst du einen Flunder essen(艦長、ヒラメは食べられますか?)
(艦長がゆっくりと副艦長を睨みつけて、副艦長が慌てて給仕を手招く)
副艦長 時間がないので…艦長は魚が駄目なので塩漬け豚肉を、そして若い赤を。
給仕 かしこまりました、そちらは(と目を伏せがちに副艦長を伺う)
副艦長 私はヒラメにシャルドネを…待って、ソースを塩辛めにしてくれるかな。
給仕 かしこまりました。
ベルント 副艦長は随分とフランス語に堪能なようだね、どちらで学ばれたのかな?
副艦長 はい、母がブルターニュのオーレーの出身ですのでドイツ語並みに教え込まれました。
(ベルントは右肩を落としてクルトへ囁く仕種)
副艦長 あの…父は、父は生粋のバイエルン人です。(少々慌てて左の艦長を見るが、艦長は無視)この辺りからブルターニュには詳しいので、必ずや総統閣下のお役に立てるものと信じております。
クルト (両腕をテーブルへおいて身を傾けて)それは殊勝なこと、しかし無駄な言動は慎みたまえ。
シャルル なめらかなフランス語じゃありませんか、ワイツゼッカー少将
アベル シャルル、皮肉屋の君なら世辞はドイツ語で言うべきじゃないかな。ところで…フランス語に堪能な副艦長、シャルドネとヒラメがくるまでに伺いたいのですが、無駄な言動ではないところで。
副艦長 (シャルルを睨みつけているクルトを窺って、ベルントの優しい頷きを得てから)どうぞ、私がお答えすることができることでしたら…
アベル もちろん、君と艦長が磨きこんでいる海峡の霧、Uボートのことを伺おうとしているわけじゃない。その…私が伺いたいのは、海峡の羽というか…
シャルル 鷗好きがやっぱり我慢できずに鷗について話したい。
ベルント それはそれは、詩人にとって水と鳥は欠かせない霊感への賜物だとか、ラインには断崖の鷲、ドーバーには断崖の鷗、素晴らしいですね、私たちのヨーロッパは。
副艦長 はい、仰るとおりで、ブルターニュの断崖の鷗が巣作りする様子も
クルト 君の故郷、ブルターニュはここからずっと遠い、そんな遠くの断崖の鷗を見に行ってるほど悠長な時代ではない。
副艦長 はい、仰るとおりで…
クルト 閣下がご覧になりたがっていらっしゃるのは、ここル・アーブルを離着陸する鷗なのでございませんか?
ベルント 少将、閣下は詩集「親しき人々」で知られる文部大臣ですよ、ここを離着陸する鉄の羽にご興味をお持ちとは思いません。
アベル そのとおり、小心の詩人の記憶にあるのは、その…生まれたポワティエ郊外の小川の瀬、そう、眠気を誘うような穏やかな小川の瀬なのです。
ベルント ポワティエの小川の瀬ですか、ブルターニュの海浜の荒波ではなく、すばらしいフランス語ですな。
クルト (呼応するように甥のベルントを睨みつけて大きく頷きながら)なるほど、ここが「大西洋の壁」と言われるほどの鉄壁の要塞港なれば、敵が大胆にも上陸しようとすれば、そうだ、ブルターニュあたりかも…
(一同沈黙、シャルルの落ち着かない顔を見てアベルが苦笑する。給仕が塩漬け豚肉の皿を二皿と赤ワインの壜を持ってきて艦長と副艦長の前へ配する)
給仕 申しわけございません、ヒラメがきれましたもので、ご勘弁ください。赤は若くもありませんがカベルネですので
副艦長 待て、ヒラメがきれた…ヒラメがきれた…
クルト (副艦長を嗜めようとするベルントを制するように左手をあげて)ヒラメは我々の分で最後だったのだよ、副艦長。キールの食堂の給仕ならあるものはある、ないものはない、と言うところだが、ここはル・アーブル、給仕の気遣いも(シャルルの方をちらと窺って)アクション・フランセーズの編集長並み、そんなところですかな?
シャルル (咽かえってから殴るようにアベルの顔を睨みつける)それは…フランスは…争うことが嫌いな農夫の国ゆえ…
ベルント 我々とて争いが嫌いな農夫ですよ。閣下、しかしポワティエは知る限りでは大きなコミューンじゃありませんか?
アベル コミューン…今となってはそう呼べるかどうか…
副艦長 これはヒラメじゃない…ヒラメじゃない
ベルント ブランシュヴァイクをご存知ですか?我々ワイツゼッカー家の父祖伝来の領地はブランシュヴァイクにあります。そうです、誰もが知るガウスが生まれ育った地ですが
副艦長 ヒラメじゃない…ヒラメ…
(クルトが副艦長を睨んで反り返ると、艦長は静かにナイフとフォークを置いてから、右隣の副艦長の胸倉を掴んで椅子から立たせる)
艦長 Zurück zum Schiff!(艦へ戻れ!)
副艦長 これはヒラメじゃない…
長 Ich esse Frankreich Schweine!(フランスの豚は俺が食う!)
シャルル (愉快そうにアベルの方へ顔を近づけて)いやはや何とも、彼は屈強な潜水艦乗り、しかも副艦長なのに、どこまでもブルターニュのヒラメがお懐かしいとは
アベル 大人気ないよ、シャルル。誰もが…今は疲れているんだ。
(艦長は副艦長を入り口へ押し出しきると、踵を鳴らし揃えてクルトの方へ向けて右手を上げてナチス式の敬礼をしてから、アベルの方へ軽く前傾する)
艦長 閣下、純粋なゲルマンであれば疲れを知らず、かような醜態をお見せすることはありません。お招き戴きありがとうございました。失礼します。
(アベルは艦長のフランス語に動じた風もなく頷き、シャルルは口をあんぐりと開けて驚愕のまま硬直、艦長は速やかに上手へ退出する)
ベルント (可笑しさを堪えるように口許へ手を添えて)アクション・フランセーズの編集長殿は、Uボートの乗組員に対して漁師であるかのような偏見をお持ちだったようですかな。
(シャルルは不愉快を隠さずに正面窓の方へ立って行ってパイプをがちがちと噛む)
クルト (シャルルの後姿を追うように憂い顔でベルントの前の窓辺に立つ)ヒラメ、ヒラメとそれこそ飢えた鷗のように言っていた。あれもまた総統に仕える神兵の一人か…
アベル 彼らが優秀な神兵であることは一目瞭然ですよ。彼が言っていたラインの鷲、それがご自慢のメッサーシュミットだとすると、もうひとつのご自慢のUボートは
クルト (遮るように)霧でよろしい。閣下が歌うように例えられた霧、我らのボートは霧なのですよ。
アベル 静かに彼方の波間より粛々と近寄ってきて…生死の淵を垣間見せる、そんなところですかな。
クルト 閣下が仰ったように、戦争は誰をも疲れさせます。ムッシュ・モーラス、あの艦長をキールの技術学校の教師として復帰させること、そしてあの副艦長を鷗舞うブルターニュへ里帰りさせること、それが数多の霧を見送っている私の願いなのです。
シャルル (正面から目を背けてふらふらと布の掛けられた絵画の前に立つ)私とて霧の濃いル・アーヴルよりも晴れ渡ったル・アーヴルの方が好きです。そして港町ル・アーヴルよりも、十七歳の私はパリを愛していた。どこよりも愛していた、パリを。
クルト (シャルルをちらと見やって両手を広げながら)いただきましたよ、その愛されていたパリを。
ベルント ヒラメのように、焼き加減はあくまで焦がさずに。
(しばしの沈黙と張りきった静寂)
ベルント Im Norden klingelt der Alarm(北の方で警報が鳴っている)
クルト 相変わらず耳がいいな。しかし北なら地雷の絨毯の広がりに対戦車砲が待ち構えている。
ベルント (アベルをちらと見やって)羽、それもブリタニアの鷗なら少々厄介かもしれません。
(アベルが面倒そうに席を立って俯くシャルルの方へ向いたとき、明確な警報音が鳴る)
ベルント (立って正面窓辺に近寄り舌打ちする)行ってみますか…(軽く右手を上げて)Sieg Heil!(勝利万歳!)
クルト Sieg Heil.
(ベルントは踵を返して足早に上手へ退出、クルトは正面窓辺へ寄って腕を組む)
クルト Wenn du deinen Mut verlierst, bist du am Ende Mensch(勇気を失ったとき人間であることが終わる)閣下、ゲーテはお好きですか?
アベル そうですね、ゾラなんぞよりは好むところですかな。
クルト ゾラ?ああ、エミール・ゾラですか、ユダヤ人であるドレフュスを擁護していたとか。
シャルル (嘲るような笑みを浮かべながら振り返る)アベル、いや文部大臣閣下、下衆なフランス人の作家に偉大なるファウストの作家を並べるとは…ゾラのような、彼らのような作家がいることが、恥辱の極み、パリ陥落に繋がっていることが
アベル 落ち着きたまえ、シャルル。ワイツゼッカー少将、気にしないでください。彼はユダヤ人という言葉、加えてドレフュスなどという名前が出てきたら、アクション・フランセーズの編集長としてご覧のように興奮してしまう。まして警報なんぞ鳴りだしたら…座ってくれないか、頼むから。
シャルル (翻るようにして自分の席へ戻り)アベル、私は落ち着いているよ。
クルト (窓辺から離れて上手の給仕を手招きながら)ムッシュ・モーラス、作家といえば…(給仕に向かって)ベルントは軍帽を忘れていかなかっただろうね、あいつは冷静そうに見えていて慌て者だから…失礼、私がお聞きしたかったのはセリーヌという作家のことなのですが?
シャルル セリーヌ?ああ、ルイ=フェルディナン・セリーヌですか。彼もまた反ユダヤ主義者と言ってよいでしょう、ですよね、文部大臣閣下?
アベル 私はセリーヌは嫌いです、そう、「夜の果てへの旅」の作家は嫌いです。
(一同沈黙、シャルルはまた落ち着きをなくしてアベルとクルトを見比べる。給仕はクルトの軍帽とコートを持ってきて上手の出入り口際に立つ)
シャルル 待ってくれ、あんなものは流行り病みたいなもので、彼もまた未来のフランス文学を担う者だよ。
クルト (アベルの方へ軽く前傾して)閣下、まだ警報が鳴っているようなので、私は私の現場へ戻ります。ムッシュ・モーラス、この続きは永遠の都パリでお話ししたいものですな、失礼。
(クルトは正面窓辺の空をちらと見てから軍帽とコートを給仕から受け取って退場して、給仕はクルトの姿が見えなくなったのを見計らって食堂に足早に入り、気の抜けたように呆然と居座っているアベルとシャルルを横目に正面窓辺に近寄って上空を窺う仕種)
シャルル (給仕の後姿に苦笑まじりに)ナチスの連中もご苦労なことだな、ブリタニアの鷗が飛んでくれば飛んでくるで
アベル ありえないね、そう、ありえない。ここには霧が寄りつくことがあっても、羽が舞い降りることはありえない。
給仕 仰るとおり、ありえません。
シャルル 無礼じゃないか、ナチスの連中がいなくなったとはいえ、こちらは文部大臣閣下で
アベル 彼らが、彼の仲間が、何やら画策して警報を鳴らさせているんだよ。
シャルル 何のために?
アベル (爆発したように哄笑した後に)フランスのためさ、フランスのために決まっているじゃないか、飲み過ぎだよ、シャルル。
シャルル 飲み過ぎてなどいない!アベル、だいたいだね、君は文部大臣などになってから
アベル (給仕を手招きながら)いいや、飲み過ぎたんだよ、我々は。

                                    幕
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