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漂木   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 三太郎トンネルに幽霊がでる。苔を被ったようなじっとりした短髪、宇宙飛行士のような白装束、そして苔と泥をカモフラージュしたブーツを履いているらしい。
「脚のない幽霊がブーツを履いていたら変でしょう」
 私は仄かに苛立って歯切れのいい標準語を発した。
「脚があってもよかとぅ、なんせアメリカ人の幽霊なら」
 私が島に来て最初の友だちとなった晃子(あきこ)だが、いきなり私の手のひらに背中ぶつぶつのオットンガエルをのせて「日本で一番きれいなカエルさ」と言った。後に先生から聞いたところ「日本で一番きれいなカエルは奄美イシカワガエルさ」とのことだった。何が言いたいかというと、晃子は分かりやすくて良い友だちなのだが、時として無神経なのである。
「苔を被ったようなって…あたしが去年、島に来る前、編んであげたキャップだよ。『ユザワヤ』っていう手芸用品のお店でさ、あんな地味な緑色、野菜ジュースのような色の毛糸を選ぶもんだから…」
 私は微妙に安堵したような息を吐いた。そう、幽霊は私の父である。私を悩ませているのは父である。
 そもそも私は父をヒルギなのではないかと思っている。ヒルギとは漂木と書くヒルギ科の常緑木で(しばらく付き合って)メヒルギ(雌漂木)とかオヒルギ(雄漂木)、ヤエヤマヒルギ(八重山漂木)とかがあって、奄美大島のような亜熱帯から西表島のような熱帯の干潟に、小さいものから広大に広がっているものまである森、マングローブ(おバカさんでも聞いたことあるっしょ)をかたち造っているそうな。そうだ、似たような仲間でヒルギダマシ(蛭木騙し)とかヒルギモドキ(蛭木擬)なんてのもあるそうな(うちのクラスみたいなもんかね)。そして父はこのマングローブの調査研究と再生植樹(父の口癖)を仕事としているそうな。ここまで書くと「ご立派なお仕事に携わっていらっしゃるじゃないのぉ」なんて、晃子のママさんばりに言うオバサン声が聞こえてきそう。晃子のママさんはパパさんと別れて十年近くになるものの度々、島に現れる横浜育ちのお嬢さま(晃子が言うには)である。いやいや、晃子のママさんのことはさて置いて、私の「ご立派なお仕事に携わっていらっしゃる」父のことだが、ともかくいつもずぶ濡れの泥だらけ、奄美はよく雨が降る環境に加えて干潟ばかり歩きまわっているから合羽姿(宇宙飛行士?)。酸性雨がちょっと心配だとか言い出したので、好みの色のキャップを苦労して編んであげたものの、雨と泥、時としてヒルギの葉っぱはもちろん皮や花、この前なんかは小バナナのような胎生種子(ちゃんと調べて書き写してるカレンもバカ茶髪)をカンザシ(簪)みたいに付けていたもんね。ああ、あの父にあってこの娘の私(って何を言ってるんだカレン?)。そして温かい島だっていうからついて来てみれば、冬は糀谷(東京都大田区糀谷)と換わらず寒くて、じとじと雨ばっかし…ああ、アランがいたイル・デ・バン(ニューカレドニア)とまでは言わないけれど、この頃はフリオと遊んだヤウンデ(カメルーン)あたりでさえも懐かしい。
 そうだね、自棄になっちゃいけないね。たとえ漂木のような男を父に持とうとも、今の日本じゃ聞くこともなくなったドイツ賢婦人を母に持ったのだから、そうだね、自棄になっちゃいけない。高校で英語を教えながらも、私の制服にアイロンをかけてくれて、どこの豚肉であろうが定形定厚のハンバーグとして焼きあげてくれる母クララ、クララを見習って整理しようかね、私と家族のこと。
 私は中田可蓮(ナカタ・カレン)、奄美市の高校に通う十六歳の女子。母はシュツットガルト生まれの中田クララで英語教師、ついでに父はヨーロッパ・アフリカを渡り歩いてきた中田英雄(ヒデヲ)で林野庁の技術者だそうな。
 私は母のハンバーグを平らげた後、母と晃子、そして常識的な奄美の皆さんに成り代わって、レント(黒糖焼酎)の一升瓶を抱えて座ったパンツTシャツ姿の父に問うた。
「どうしてさ、あのトンネル、三太郎トンネルを抜けてくるの?晃子がね、トンネルの向こうの小学生とか中学生が言っている噂を聞いてきてさ、三太郎トンネルに幽霊が出るって」
 父はふんふんと頷きながら、ぐいっと透明を髭面の喉へ流しこんで、頬杖をついてふっと息を吐いてから言った。
「つい最近まではさ、三太郎先生が茶屋をやっていた峠、あの峠を何も気にすることなく越えて戻ってきていたんだけどさ。あの辺の藪はハブに気をつけたほうがいいな」
「ママ、パパはハブが怖いんだって」
 父はまた頷きながら一口飲んで嬉しそうに言った。
「俺も歳をとったかな。アフリカで野犬を撃ったり、コモドでオオトカゲを刺したり、そうだね、昔のことさ」

                                       了
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