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救貧院   Naja Pa Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

「世が世なら…ポークチョップが好きなリィディアも…イングランドを代表する美女だったかも…」
 リィディアは彼女らしくなく呟くように母グロリアの口調を真似てみせた。
「美女ね…ミセス・ショアは確かに美女だったわ。ここも、バンクェッティング・ハウスも、お母さんと一緒に来ているのでしょう?」
 エマはセント・ジェームズ教会の尖塔にかかった陽に左手を翳してそう言った。
 リィディアは頷きながら掌をさらりと虚空に返す。母グロリアが亡くなって九ヶ月が経っていた。かつてはナイル河を遡上したリィディアとグロリア、シティのカムデン・タウンの友人医師を毎年のように訪ねた母と娘、そしてコッツウォルズの古英語の響きが懐かしいChipping Campden、その小さな市場には一昨年に訪れていたショア親子。時として姉妹のように見えさえもした二人の旅姿は記憶のものとなっていた。
「一昨年にここへ来たときは、あたしも母も…非ホジキンリンパ腫なんて知らなかった」
「ホジキンリンパ腫だって知らない人が多いわ」とエマは脇へやるように言った。
 真夏のコッツウォルズに翳りは似合わない。コッツウォルズストーンを積み上げて仕切られた家屋の内側には、老婆がなぞり飽きた少女時代の担任教師への揶揄笑いの記憶、そして奥梁に代々巣食ってきた蜜蜂たち、彼らはロンドンでのオリンピックの聖火が市道を走り過ぎた記憶を明瞭に持っていることだろう。そんな蜜蜂もふわりと午睡に誘われそうな通りに、大柄なリィディアとエマは俯きながら踏み入った。
「エマはやっぱり仇をとりたいんでしょうね」
 リィディアは舗道の敷石に舞い降りた紋白蝶を蹴るようにして呟いた。
「仇?…」
「そう、ホワイトヘヴンのお父様の仇よ」
 エマはリィディアの唐突な物言いには冷えていないエールのように慣れていると思っていた。
「ダグの?あたしがダグラス・ウェインの仇をとるって?」
「仇はともかく…『一七四抗のうち二十抗』を唱えていたお父様、あなたのダグが、あなたの背後にいつもいるのよ」
「そういう言い方はシースケールで酔っ払ったときだけにしてよ」
 エマはリィディアの二歳年下で四十一歳になったばかりだった。二人は共にウォーリックで学んで数学教師となり、奇跡的なのか宿命的なのか、一昨年にカンブリアのシースケール村で同僚として再会した。そして余計なことかもしれないが、二人は共に未だ独身であった。
「だいたいね、仇って何よ?ダグの思い出を持ち続けるのは仕方ないことでしょう」
 エマの父親ダグラスは、近隣のホワイトヘヴンの炭鉱医として一九八四年まで働いていた。ダグラスの父、エマの祖父は炭鉱夫として一家を養い、学業優秀だった息子をロンドンのキングス・カレッジへ進学させて医師への道を支援した。医師となったダグラスはインターン時代から北部炭鉱地帯に勤務して、エマが生まれてまもない頃に故郷ホワイトヘヴンへ炭鉱医として戻ってきたのだった。
「エマ、あなたには女性として幸せになってほしいの、あたしなんかと違うのだから」
 リィディアは舞うように大袈裟に手振って言い放った。
「そう、エマ、お父様の思い出は永遠のものだわ。でも…シースケールを出る時がきたのよ」
 エマは聞き飽きたというように逃げ足を早めた。
 コッツウォルズへの旅を促していたのは生前のミセス・ショアだった。そのときにはリィディアと一緒にチッピング・カムデンの観光を果たしていて、すでに非ホジキンリンパ腫という悪性腫瘍に侵されていた。娘が悪性腫瘍の研究者レオ・キンレンの報告論文を読んでいる傍らで、病床の母親は嬉々としてコッツウォルズの裕福な羊毛商人ヒックスのことをエマへ説いていた。グロリアが亡くなった年の末、夏になってからのコッツウォルズ行きを提案してきたのはリィディアだった。エマは忌まわしさの欠片もないようなチッピング・カムデンのことは忘れていた。
「逃げるわけにはいかないの、一二・九倍と二八・五倍からは」
 エマは吐き捨てるように呟いた。そして二の息を吸い込んで涙に咽る。父ダグラスの口癖「一七四抗のうち二十抗」が縋るように蘇る。閉坑を知ったときの悲哀は娘の耳にも馴染み過ぎていた。父親が無念さを記憶すべく呪文のように口にしていた閉抗させられた数、そして娘が忌まわしさを糾弾すべく片時も手放せない比率、地元セラフィール近辺のパブでは無論、ロシアのチェリャビンスクでも「いいですか、シースケール村で生まれ育った青少年は、英国平均に比べて、白血病で一二・九倍、非ホジキンリンパ腫で二八・五倍もの発症が認められているのです」を彼女は言い続けてきた、呪文どころか宣誓のように。
「エマ、待って、あれって、モーツァルトのアダージョよ、きっとそうよ」
 リィディアが背後で喘ぎながら言った。まるで救われたとでも言わんばかりに歓喜を捉えている。ヴァイオリンを断念して数学教師になった彼女は、明らかに十七世紀の堅実を保っているような建物を指していた。
「あそこよ、あそこが救貧院よ。誰が弾いているのかしら…あれはト長調のカッサシオン、第五楽章…」
 エマには救貧院から漏れているらしい音が聞き取れなかった。それでもリィディアが背後にいることは浮かれた心地にさせている。子供のようにモーツァルトを捉えたことが嬉しかった。
 エマは今晩、B&Bの寝床に入ったとき、リィディアに話そうと決心した。二人が再会してからも黙っていたこと、それは四年前、婚約まで交わした教師の同僚を白血病で亡くしていることである。

                                       了
林檎の木の下で (新潮クレスト・ブックス)

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