SSブログ

球根の袋   Mye Wagner [Malraux Camus Sartre 幾何]

 日が傾くまで欄干にもたれて風車を見ていたヘンドリッケは、夜になったらヨハンへ手紙を書こうと決心していた。
 老木のような風車が見渡せる花畑で、他愛もない事で憂喜する農民達の歳月を書こうとしていたヨハン・リンデルも、失業保険とヴィレムⅡのスタディオンの売店で働く女の稼ぎに頼りながら生きているらしい。結婚する前から分かっていたことだ。ヨハンに書けることは生活することへの呪い。生活できない弱さというものを表象できるこの時代への謝恩。それに引き換え、あの風車の寡黙さはどうだ。生活することは掃天の下にある。球根を採取するために花を摘み、妻子のために食えない才能というものを見ず、花祭りのその日の泥酔のために酒場へは通わない…彼等に共鳴し、彼等の死に涙する人生。あの老人もそうだ。この緩やかな坂を上れずに自転車を押してくるあの老人も、かつてはノルドウィックの「風車男」のひとりとして、ハーレムの電力会社へ招請されながらも、妹達と僅かな豚の世話をする生活に留まったそうだ。過ぎたことを学びとしてはいけない。備えることにたじろいではいけない。美しい人間を見てはいけない。あのヨハンに彼等を書けるわけなどなかったのだ。
 風車が嘲笑うように大らかにまわる。あれは二百五十年前から回っている。そして白昼の凡様のままで、地上での確たる生を強要してきたのだ。
 ヘンドリッケの移ろわない目には、黄色い花弁の群生は荒涼な中春を想わせ、風車の背後の真紅の団塊は歓喜の初夏を想わせた。今、この瞬間に、あの吐き出された卵黄のような稜線に、真新しい白いコートを着たヨハンが現れてくれたら、どんなに素晴らしいだろう。彼の人のよい笑顔が視界に入るまでに、彼女はこう言って彼が来た道を指すだろう。
「来た道を戻って。あたしが署名した離婚届けは、あなたのティルブルフのアパートへ今朝、送ったわ、返信用の封筒も一緒に。切手もちゃんと貼ってある。戻って。あたしは従姉弟と結婚するの。そして明日は花祭り…母さんと兄さん夫婦、甥のエド、あたし、そして従姉弟。あなたの分のシューコはないわ。だから戻って」
 ヨハンのことだから明日の祭りの真最中に、何気なく広場あたりにふらりと現れるだろう。貧困を知るがゆえの自尊心は灼熱や寒風に危うい。彼は草臥れた濃緑のコートを着て、通り掛かりの旅人のように、花絵のひとつひとつを夢見がちな子供っぽい表情で見るだろう。演じていると自覚している人間には、世界は仮構されていると見えるのだろうが、彼が身を滅ぼすべきであった芸術は、おそらく故郷の花祭りなどに彼を向かわせるほど恥知らずなものではないと信じたかった。
 ヘンドリッケは欄干の剥げた赤ペンキが付いた膝を軽くたたいて、足早に用水路の淀みへ向かった。暗くならないうちにギドを見ておきたい。ギドは今日も通行人が落としてくれるパン屑を待っているはずだ。ギドの眼は虚ろだが強かだ。パン屑を飲みこんで深く翻っていくときの、甲冑のような後ろ姿は愚鈍なまでに堅固そうで見惚れていた。
 ギドと名づけた大きな鏡鯉が見れる淀みに誰かの後姿があった。ヘンドリッケの掌が一瞬にして汗ばんだ。
 鯉と話しているのは男か女か。少々太っているがヨハンに見えなくもない。自分がかつて編んだ乾土色の帽子をふかく被っている。自分が今着ているコーデュロイ地の上下のサフラン色がそこにもあった。これもあれも、あの頃「レッド・ツエッペリン」のコンサートを見に出発する前日に買ったものだ。そのコーデュロイの上下で、もう一度チューリップ畑に出たい、などと言い出したらあたしは彼を必ず殺すだろう。その前にこのまま突き落としてもいい。あの帽子だけは、あの帽子ぐらいは、この手に置いていっても構わない。
 立ち上がって帽子が取られると、間隔を置いて脱色された長い髪が背に落ちた。女だ。焦げた肌で恰幅のよい女は大きな紙袋を持っていた。ヘンドリッケに気づいたふうもなく風車を見上げはじめる。精悍な横顔に日の名残が照射していた。
「サスキア…でしょう?」
 ヘンドリッケは口に出した自分がほとんど信じられなかった。
 サスキアと呼ばれた女は、目を合わせずに小刻みに頷き続けた。
「ヨハンに何かあったの?」
 サスキアは唇をかんで首を振った。
「自分の代わりにあなたをよこしたの?」
 手紙に書いてあったマラッカの血をひく女は、長い苦笑の合間に点々と鳴咽を伴わせて口元を押さえた。
「死んだの?」
 サスキアは鼻水を垂らしながらよろめいていた。大きな紙袋が足許に転がる。
「はっきり言いなさいよ、英語でも構わないから。ヴィレムのお店じゃ毎日毎日笑っているのでしょう?あの作家くずれが書いていたわ。そしてあなたはショコラのようだって。ブリュージュの出なんですってね」
 ヘンドリッケは自分が時として風景にそぐわない傲慢な女だということは知っていた。
「ヨハンは、書くのをやめた」
 サスキアの幼子のような発音が落ちた。この女もスペインの黒豚のようにやり場がないようだ。
「知っているわよ、何年も前から書いていないことは。鼻を拭いたら?」
 サスキアは帽子で撲るように拭いた。そして勢い帽子を捨てて大きな紙袋を抱えて差し出した。
「ヨハンはヴィレムⅡの広報誌でちょっと書けるようになるの。あたしが橋渡してきたようなものだわ。それなのに、あたしはこの黄色い服を着て、この紅いワンピースをあなたに渡してくれって。言うべきことは言うわ、約束だもの」
 この時期には珍しい厚紙の球根の袋には、蹄のようなチューリップのデザインが垣間見れた。
 ヘンドリッケは自分の頬の微笑しているような痺れが信じられなかった。
「あたしには、白い肌の人間の誇りなんてないの。お金さえちゃんとくれれば黄色い服でも何でも着るのよ」
 サスキアはそう言って縋るようにもたれてきた。白い荒れた肌の女は泣きじゃくる焦げた肌の女からワンピースが入った紙袋を受け取った。
「あたしには働けない父がいるから、ヨハンは契約金の半分をくれるわ。そのうちの手付けは昨日、それを渡したから残りは明日の正午…」
 ヘンドリッケは歓喜と失念に震えながら老婆のように座り込んだ。しかしワンピースが入った紙袋は手放さなかった。
「言うわよ。明日の夕方五時、迎えに行くから、これを着て広場で待っていろ、だって。伝えたわよ、いいわね」
 サスキアは言い放って座り込んだヘンドリッケに背を向けた。この疲れた農婦も戻らないものを手繰るように追憶している。そう思うと、夕闇を振り払うように苦笑して、明日も会えるような別れを言ってしまった。
「さようなら。きれいにして来るのよ」
 ヘンドリッケも片手を上げて親しい友に請合うように言った。
「さようなら。きれいにして行くけれど、合う靴があるかしら…」
 女は世話の行き届いた花のように足許まで着飾らなければならない。まして花祭りの夜のためとあれば、別れ話も匂やかで洒落ていることだろう。気がつくと二人には風車が見えなくなっていた。
 
                                       了
阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)

阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)

  • 作者: 朝井 まかて
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/11/15
  • メディア: 文庫



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ: