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ムンクの太陽と焦げた鯖   Naja Pa Sue [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私のようなどこにでもいる家政婦にも、臭いものには蓋をして見せながら、人目を憚りながら蓋をそっと開けて、丸くて愛敬があるだけの鼻先を近づける時がある。たとえばロシアの画商が持ってきたピクルスの瓶は、その刺すような酸臭によろめきながらも、絶妙な程よい歯ざわりに驚き、それからは少女のようにつまみ食いしてしまった。しかし缶を蹴破って吹き出す鰯の熟成には、イースターの空騒ぎのように、廊下の突き当たりまで逃げ出してしまったものだ。
「腐敗は加護たる保存の賜物なのだ」
 私の夫バートは、何事も運命が諦めを強いるささやかな前触れ、と解釈しないではいられない質なのだ。口先だけはローレンス・オリビエでも、フォークの先は汗臭い農婦からキャベツを受け取っている執事そのものだ。
 コテージ風のホテル「馬舎の宿」の清潔な部屋に、饐えた香りが十分に満ちてから、ポールさまは笑みを浮かべて戻られた。銀髪まじりの栗毛の長髪が美しい…私のサー・ポール・スチュアート・ビリンガム子爵さま。たとえ私と夫が咽かえろうとも、すべては我が子爵の満足そうな笑みに霧散すべきなのだ。そして私ごときの嗚咽は、固くて酸っぱいパンに鰯片を挟めば何ら問題はなくなる。ところが不肖な夫にして執事であるバートは、何やら言葉を探しながら水っぽいビールばかり啜っていた。
 申し遅れました、私はメラニー・キャンベル。私の祖先はショナ族、しかも大柄な勇者だったらしいので、どうも祖先がンデベレ族の小柄な祈祷師だったらしいバートの言動には、度々呆れて首を傾げてしまう。そもそもこの世には何も悲観する事物などはないのだ。夫バートのことはさておき、御主人サー・ポール・スチュアート・ビリンガム公は、テムズ・ウォーターThames Waterの役員にして、ロイヤルホロウェイRoyal Hollowayの論理哲学の講師にして…(あとは何だっけ?)そう、動物愛護団体Dogs Trustの理事にして、最近では国際災害救助隊IRCの広報まで請け負われていられる。実際にインドネシアにおける火山噴火と地震津波の予知についての活動は、インドネシアはむろんスリランカやムンバイでも高い評価を得ていられた。
「考えてみれば、ラスコーの洞窟しかり、壁画にこそ芸術の息吹があったのだ」
 バートはまた芝居じみた呟きを私の鼻先に吹きかけた。
「よほどムンクの朝日が気に入ったのね」
「何度言ったら分かってくれるんだ。あれは朝日じゃなく、沈んでしかるべき時間に沈むことができない夕陽なのだ」
 私は祈祷師の子孫の皿の手付かずの白濁の鰯片を、手が止まったままのポールさまの皿を窺いながら自分の皿へ移した。そして些か躊躇しながら言葉をおかけした。
「昨夜は軽く咳き込まれていたようですけれども、まさか、お風邪を召されたのでは」
 ポールさまは植物園の老いたオリーブ樹を見るような目を私に向けてくださった。
「大丈夫、紅色のシーマニアは寒さに強いから」
「失礼しました。旅行をこよなく愛されていらっしゃるポールさまに向かって…。ホテル側が少々、心配していたものですから、夏のメニューが、鯖の冷盛がお気に召さなかったのではと」
「ここの鯖は大昔のテムズ川の鰻のようだよ」
 そう言われた後、ポールさまは鈍紅な卓灯に退かれるように目を伏せられた。
「シーマニアの強さと情熱、それとも、私という男が単に愚かなだけなのか…」
 そう呟かれてから揺らめくようにフォークを置かれて窓辺に立たれた。
「バート、メラニー、愚かな私は、また人を好きになってしまったようだ。水のように、雨水のように、何事にも代えがたく、私に驟雨のごとく降り注いで、夕暮れから私に哲学を強いる彼女たち…」
 私の閉じた瞼の裏で、どこにでもありそうなマッシュ・ポテトの山が、飛んできた縞の鮮明な鯖に弾き飛ばされた。就寝前に聞いたところ、バートの閉じた瞼の裏では、大学の壁画よりも前に見た美術館の「マドンナ」が、堂々と居座ったとのことだった。
「哲学というものが、知性の惑溺からの自由な発想をいうのだとしたら、そう、恋愛こそは哲学そのものだろう。そして誰もが、哲学が示す残酷さだけは知っている。驚かないでくれ、驚いているのは私であって…私はあの鯖の冷盛に、輪切りにされた鯖の艶やかさに、彼女の義足を想っていたのだ…」
 私、メラニー・キャンベルは、ビリンガム家に仕えて三十二年になる。プリマスの港湾労務者の娘は、ビリンガム子爵家の家政婦としてお勤めに上がってから、放心、いや思索なさってばかりいる御子息ポールさまを、お独りの食卓において微笑ませることができる料理ばかりに専心してきた。そして親の代からビリンガム家に仕える執事、私の夫であるバート・キャンベルは、亡くなられた父君ビリンガム子爵から、息子の女性関係にだけは全身全霊で傾注してくれるよう言い渡されていた。
 北欧の夜風はネグロイドの首筋には厳しい。ポールさまはまたもメランコリーに陥られてしまった。最古参の家政婦は何をやっていたの?野良猫を誘うにこれ以上のものあって?鯖の冷盛なんて猫舌に加担したもいいところ。唯一の執事は何をやっていたの?御主人さまが何を求めていられるのか、何を嫌っていられるのか、視線の先を深読みするのが仕事でしょう?そもそも「叫び」を鑑賞してみたいなどと余計なことを言うものだから。Muri kuitei(何をやってんの)

 それにしても地上は何処も彼処も野良猫だらけだ。そしてポールさまの膝にのりたがる野良猫はさすがに多い。「叫び」で招き、「マドンナ」で惑わせ、「太陽」で男性をその気にさせる、なんとも憂愁にして劇的な北欧の手練手管というか、ショナ族の末裔には手強すぎた。
 今更でもないのだが、あの日、ベルゲン鉄道はさりげなく野良猫を、これ見よがしのNFC(ノルウェイジアン・フォレスト・キャット)を乗り込ませていたのだった。
 バートの手垢染みた手帳によれば、オスロ中央駅を七時三十分に出発するには五十六秒遅れたとのことだった。コンパートメントではない列車に乗った時、いつものように私とバートは通路側で向かい合っていた。つまりポールさまは窓側で進行方向に向かれて、いつものように私というプリマスの気配り娘を左において、いつものように前の席にはウィトゲンシュタインが入った鞄か…しかし私の計算によれば、旅行中の七行程に一度の割合で、バートの手違いか駅員の無神経さにより、どこかの誰かと向かい合ってしまわれることになるのだった。
 あの日、その七行程に一度の割合の手違いか無神経で、ポールさまの御前の席に彼女がいた。バートが荷物を確認している間に、ノルウェイではあまり見かけない楓模様のセーターを肩にかけた若い女性がふわりと座ってしまった。私たちが挨拶して同席させてもらうと、彼女は貧相な胸にノートの束をしっかりと抱えながら、微笑の泥仮面さながらのバートを些か畏怖を込めた横目で見ていた。やがて額にかかる赤毛を気にしながら、ポールさまの怜悧な顎先、今にも山々に語りかけそうな唇、そして天球と重力が集約したような眼を、燭光にまどろむ様にゆらゆらと見続けていた。
 私は小さく咳払いして注意をこちらへ向けさせた。ポールさまの思考にお邪魔することは何人たりとも、特にポールさまの美貌を零れ鰊のように辿り見る愚かなだけの雌猫には許されない。尤も、かく言う私はポールさまの美しい鼻筋の背景、車窓を流れる清涼にして些か峻厳な大自然に目を奪われはじめていた。そして私のかけがえのない印象と追憶に、いつだってバートはンデベレの小男詩人さながらに踏み込んでくるのだった。
「感動したね…凍りついた大河のような大気の中央に佇むゴリアテの挽歌」
「書き留めていかが、並べただけの美しくもないイングリッシュ」
「昨今の画家は反省しているのだろうか…ムンクといえば『叫び』と返す、叫びに耳を澄ませたこともないような陽気な印象派が多すぎる時代」
「反省なんていらない。干し鱈を煮戻した料理、何て言ったかしら、あのバターソースの素朴さは好んでいただけそうだわ」
「いつもおまえはそうだ。鍋底からの叫びに耳を澄ませることもなく、鱈だ、海老だ、じゃが芋だ、バターだと…それこそがメラニーの人生だな」
 今から思えば、所構わないバートの単調な哀吟が続くので、私の腹が苛々と煮え立ったところに、買ったばかりの銀のピアスを落としてしまったようなことが起きてしまったのだ。列車が急勾配にかかったときだった。あの女、彼女の方から自分の硬い脚をポールさまの膝にぶつけたのだった。
「失礼しました…こんなイングリッシュですけど」
「大丈夫です。立たないでください」
 娘は応じるように大胆に立って謝りながらよろけて、驚くなかれ、わざとらしくポールさまの腕の中にどさりと入ってしまったのだ。そして腕の中というより胸の中で謝り続けて、毛布に包まれたNFC(ほとんど山猫よ)のように、感謝感激の至福のまま転がり続けていたのだった。
「失礼しました、ビョルンソンです。グロ・エーレン・ビョルンソンです」
「大丈夫ですか、ポールです。ポール・スチュアート・ビリンガムです」
 
 外の冷気をよそに、微熱で炒られた香草を漂わせた列車は、最高地点駅と謳うフィンセ駅を通過した。
「水はwaterにして、ここではvannという響き…そうか、岩肌からの滴そのものだ」
「そしてビール、ビールはお国ではbeerですけれども、ノルウェイではφl(ファイ・エル)と書きます。紅茶はお国ではteaですけれども、この辺境ではte、teだけなんですよ」
「teか、堅い葉脈が見えるようで、どこか素朴で懐かしい響きです。ちなみに、私が育った所も自然が豊かな辺境です」
「失礼しました、ちょっと変なイングリッシュだったかしら」
「大丈夫です。私が育った辺境、愛すべきそこを、土地の人達はプリマスの貧乏海賊の岬と呼んでいます」
 赤毛の女はいつのまにかポールさまへノルウェー語遊びで話しかけていた。そしてポールさまの御冗談に醜く笑っている。さらに目映い貴族香を求めてバイキング娘の好奇心は募っていった。
「今は都市に住まわれていらっしゃるのでしょう?」
「都市か村かはともかく、私が住んでいる辺りも立派な辺境かもしれません。ちなみにサウスケンジントンのフルハム通りでは、下水道の盗掘の家、とか言っている人もいるそうです」
「下水道の?」
「御主人さまはテムズ・ウォーターの役員をなさっておいでなのです」と我慢しきれずに執事キャンベルは伏目のまま申し上げる。
「子供の頃から水に関した仕事に就こうと思っていました。そして、テムズ河が目の前を流れていることにやっと気づいたのです」
「それはOffentlig virksomhet(公共事業)…public worksかしら?」
「まあ確かにÖffentliche…これはドイツ語か、publicといえばpublicの事で、どこの国にでもある土木事業です。言わば、そう、穴掘り人なのです」
「掘る人?まさかご自分では掘られないのでしょう」
「当然です」と私は口許優しく目尻は野良猫退治で申し上げた。

 執事である夫バートの職業病ともいえる神経症を、天候は逆撫でするべく晴れたり曇ったりしていた。そんな北欧の背景に場違いも甚だしい執事と家政婦、私たちの肩を叩くように電車は減速していった。
「あの水辺の山小屋のような木造へはどうやって行くのでしょう?小屋の後ろや河原べりには、そこへ至る道らしい道もないので、船で行き来して、何事か生活しているのでしょうけれども、やはり漁業や林業なのでしょうか?」
「鉄道員が眠い目を擦りながら出てくるところを見たことがあります」
 バイキング娘の詩情の欠片もない応えに、ポールさまの息を呑むような哀愁の語らいが続いていた。
「時刻表と旅人と川面だけを見ながら、小屋と駅を行き来して、鰯の缶詰とかたいブレッドだけを食し、希に旅人から投げかけられる質問が音楽のように聞こえる。想像してみただけでも素晴らしい」
 そしてポールさまを歓待するように滝の飛沫が見える。夏の電車はヒョースの瀑布で、観光客の写真撮影のために六分間ほど停車してくれるのだった。
「あなたはオスロで教えていらっしゃって、こうして週末になると御実家があるベルゲンへ戻られる…そしてフィヨルドを観光する外国人がたまには隣り合わせる…」
「ええ…あなた達は次のミュールダール駅に着いたら、登山電車のフロム線に乗り換える…きっと楽しい旅ですわよ」
「どこへどう連れて行かれるのか、ソグネフィヨルドから枝分かれしているアウランフィヨルドとナールオイフィヨルド…あなたのようなオーディーンの娘の案内なら…」
 私は喉に刺すような不快を覚えて咳き込んで前傾に伏し、お優しいポールさまの左手の摩りに修羅場から至福へ駆け上がる。
「ご案内して差し上げたいのですが、この時刻ですと、グドバンゲンあたりに宿をとるようになってしまいますし…この脚がプラスティックでできているものですから…冷えたりはしないんですけれども…」
 そう、雌猫に酷薄と言われようと果断にも別れはやってくる。私は彼女との別れ際にセーターを指差した。
「観光案内を読んだのですけれど、セーターを買うならベルゲンは、ええと、確かブリッケン地区の…」
「これは新大陸のカウチン族が編んだセーターです」
 そう、NFCであろうが、アビシニアンであろうが、雌猫は最後まで雌猫だった。グロ・エーレン・ビョルンソンはポールさまに支えられて降りた。私とバートは、互いに鞄を押し付け合っていて、二人の雷光のような出会いの果ての別れを見ることはなかった。
 フロムからの船旅では、ひたすら荒涼を堪能させてもらった。
 バートは離れて舳先の方へ行かれてしまったポールさまを見ながら、囀るように「懺悔の巡航」という呟きを繰り返し、いつものように記憶のシェイクスピアを辿っていた。ショナ族とンデベレ族の末裔にとって、フィヨルドはカリバダ湖よりも涼しげに見えたことは間違いない。
 私がゆっくりと近づいた時、ポールさまは朽ちかけた小屋をいつまでも見ていられた。
肌寒く揺れる家政婦にミント・ティーがほしくなった頃、バスの運転手ばかりが陽気なグドバンゲンの入り江に船尾は落ち着いた。
 そしてスタイルハイム峡谷の「馬舎の宿」という名のホテルが、ポールさまの週に一度の(正確には百三十回目まで数えていたのだが)メランコリーを待っていた。

 翌日、私たちは「馬舎の宿」から山肌をぬってボスという所で降ろされた。またベルゲン鉄道に乗る。食欲がないと言われて朝食を抜かれたポールさまは、誰もいない向かいの席に珍しく片脚を上げられて、ウィトゲンシュタインの「青表紙」の同じところを何度も読まれていた。
 ダーレという駅でまたも災いが乗り込んできた。ジーザスが石灰を被ったような銀髪で、樵のような大柄な男が私たちの空席に目をつけた。彼が切符の番号と私とバートに見とれているうちに列車は動き出した。ポールさまは慌ててウイドゲンシュタインを仕舞われて、バートは鞄を抱えたまま立ち上がって英国執事らしく振る舞う。大男はポールさまの膝にぶつかって謝りながらも私とバートに見とれていた。
「ビョルンソンと申します。教師をしています。自分の国の言葉と、今聞いた英国の言葉を教えている身ではあるのですが…失礼ですが、お二人はアフリカですか?」
「生まれた場所は、という問いかけがあれば、育った場所は、という問いかけもあり、遺伝子の系統を問われていたり、動物園の河馬に向かってアフリカの河馬かと…」
「バートは私の夫でして、私と夫はこちらのビリンガムさまに御仕えするものです」
 バートの密やかな鬱憤がおさまらぬうちに、ポールさまは子供のように言葉遊びにとりつかれられた。それは私たちもいつもそうであるように、銀髪の大男も最初は教師らしく振る舞っていたが、やがてポールさまの歌うような異才に魅せられることになった。
「西はvest、確かに西には満々と水があり、東はΦst、ロシア正教会に集う農民たちが見える」
「ベルゲンに着いて大事なことは、入り口はinngang、出口はvtgang、そして値段はpris、両替はveksleです」
「待ってください、ひっくり返せばelskve、知的で慇懃な響きだ。そうだ、eが頭にくれば、友人の太りすぎた両替商も女性にもてるかもしれない」
「南はsyd、小魚に聞こえるかもしれませんが…おう、あれはお国の言葉ではありませんでしたかね」
 空に置かれていた雲が高く去りはじめた。
「ベルゲンだ。ベルゲンの港町を感じる。恋愛とは、水面に映ったメデューサの朝の顔かもしれない。もっともメデューサに朝がくればの話だが…」
「海はsjΦ、心はsinn」
「あなたには海もあるし、心もある。大変に失礼ですが、あなたの成就された恋愛について、あなたの心なら海のように洋々たる恋愛について、唐突ですが、お聞きしてもよろしいでしょうか。狂っている英国人とは思わないでください…あなたの奥さまは、あなたが持ち続けていらっしゃるものを、信じていらっしゃるのでしょうか?」
 列車は速度を落としはじめた。男はノートをたたんでバートと私をちらりと見た。髭がなくて髪をもうちょっと刈りつめていればなかなかいい男だった。今から思えばジーザスどころか、私の初恋だったマサイ族が先祖の清掃夫に似ていた。
「私が言えることは、妻が私の目の前にいない時、私自身は娘…やはり今年から教師になったのですが、私自身はその娘のことばかり考えているということです」
「娘?娘さんのこと?…奥さまはすでに浜辺に置き去りなのですか?失礼しました…私は母国で紙屑のような子爵にすがっている身ですが、家庭で身につけた教育については、シティの亡者どもなどが平伏するほどの自信があります。教師のあなたを前にして、勝手に話す異邦人と思わないでください。教育とはビリンガム家では言葉なのです。ひとつひとつが大事な言葉なのです。私の父は、いつも晩餐で恋愛を『女子供の暇潰し』と嘲られていました。そして晩餐の後で、炊事場の隅でココアを飲みながら、恋愛は不滅だと教えられたのです。恋愛は不滅だと、恋愛こそは不滅だと、ここにいるバートとメラニーに教えられてきました」
 バートの膝があちらこちらと忙しかった。
「不滅です。今の娘は出会った頃の妻に生き写しなのです」
「奥さまから娘さんへ、彼女から彼女へ、私たちが女性を愛するということは、ヘーラクレースの受難が不滅なことと同じなのか…。私にも…生活だけを学び…いつものように生きれば…可能なのだろうか。それにしても、愛がそうやっていつも時間に抗うということは、すばらしく大変なことです」
「簡単なことではありません。そしてこれを話さなければ…娘が十二歳の時に、事故で右足を失わせてしまいました。あの時から…誰に言われるまでもなく、私の愛は不滅になりました」

 あの日のポールさまにとって、ブリィゲン通りほど輝く喧燥はなかっただろう。ハンザ同盟時代のまま三角屋根が並ぶ下を、義足の彼女を支えるようにして、まだまだ若い子爵が時折、佇みながら歩かれていた。市場では彼女の髭親父が待っていた。
「この怒った時のバートに似た魚は、メラニーと行ったプリマスで見たことがあるよ」
「anglerfishはbreiflabbと言うのよ」
「ブリキの小皿のような鰊がもっともっと煌くのは?」
「冬よ。herringはslidで、codはtorsk…冬にまた来る勇気はあります?」
 元気なショナ族から見れば水をさすような天候だった。再会を祝福するように晴れ上がったかと思うと、一瞬にして港の方から霧雨、山の方から小雨が誘われたかのように降りてくるのだった。
 バートは車中でポールさまにお言葉を頂いて以来、下手な戯曲のような言い回しが影を潜めて満悦そうだった。
「フロイエン山とやらへ登って、このベルゲンの町を見下してみようじゃないか」
「その前にポールさまのために鯖を一匹買わないとね」
「一昨日の山荘であの缶詰を開けただけでも、アレクサンダーがアリアドネの結びを切ったように…」
「なにもロイヤル・ホテルのテラスで焼くとは言ってないでしょう」
 私は呆れ返っているバートにハンドバッグを預けて、山盛りになった鯖の塊から、目が水晶のように透きとおっている二匹を選び出した。そして財布からクローネ札を摘み出した時だった。脛に何かが絡み付いている。猫だ。それも動物園で見た山猫のように大きい猫だった。
 後ろから覗き込んだバートが悲鳴に近い声をあげた。
 ビリンガム家では亡くなられた旦那さまが、大の犬好きでいらっしゃったので、今でもそれぞれの大使館から貰ったチャウチャウと珍島犬を大事に飼っている。それはともかく、ンデベレ族が猫を食べていたかどうかは分からないが、バートは大の猫嫌いに生まれついた。
 だからあたしのバートは市場の中を逃げ惑うしかなかった。そして後になってから思えば、バートの受難はここに始まったと言える。
 ビョルンソン家の奥さまは、当然のように毛の長い大きな猫と共に玄関に立たれた。市場でバートを見て目を丸くしていたブラウン種よりも黒毛が美しい。彼はポールさまのように旅と魚が好きだった。
 父ビョルンソン先生は気の毒そうにバートを横目で見やりながら語った。
「お国の言葉では、Norwegian forest catと言うでしょう。我が国ノルウェー生まれのこの猫は、そもそも土地では森の猫と呼ばれていました。ノルウェー中心部の農家や森などに大昔から家猫として生息していたようです。ナチスドイツとの戦争の後で、他種の猫との交配によって、一個種としては消滅の危機にさらされましたが、献身的な保護のおかげで今のノルウェージャンがあるわけです」
 娘ビョルンソン先生はポールさまの目だけを見て語った。
「ノルウェーの神話の中では、雷神トールでさえも大きすぎて持ち上げることができなかったとか…愛と繁栄の女神フレイアの乗った二頭立ての馬車も、このような大きな猫によって引かれていたと言うけれど…そうね、馬車じゃなく猫車ね」
 奥さまがトナカイの腿肉を料理し終わったようなので、私はビョルンソン先生方とポールさまとバートの会話を聞きながら鯖を焼くことにした。
「祖先バイキングが、コロンブスよりも随分前に新世界に出港した時、船から鼠を追い払うために、この猫を連れて行ったという説もあります」
 バートは仰ぎながら言った。
「それがきっとピューマとかジャガーとかに進化したのですな」
「野生的に聞こえる名前とは裏腹に、この猫は何世紀にも及ぶ長い時を、人の側で、人と共に生きてきたの。たとえば…トライシルやフィンスコーゲンの森…ノルウェー中部とスウェーデンとの国境付近の地域の農家では、今でもこれの原種に近い猫が飼われているそうよ」
「私も見るのは初めてではないんだ。ロンドンのあちらこちらのキャット・クラブでも、まだまだ公認の浅い猫種のようで…ごめんよ、バート、本当はずっと猫を飼いたかったんだ。見てくれ、この美しさ…彼らは、長さが不揃いのセミロングコートをまとった紳士淑女で、とにかく人間が大好きで、甘えん坊で、いつでも擦り寄ってきて、優しく恋ばかりしたがる。このおとなしさは紳士淑女そのものさ。ところで、知り合いのキャット・クラブによれば、普通は最大種のメインクーンほどは大きくならないけれども、なかには五キロ以上になるのもいるらしいよ。毛の長さも個体差があって、ブラウンをはじめシルバーやブラックなどいろいろな色の猫がいて…この臭い、メラニー、大丈夫かい?」
 ポールさまの鯖は焦げてしまった。
 それでも地球は回っているように、それでもポールさまの人生は素晴らしい。よって私とバートの人生も素晴らしい。ポールさまと彼女の未来が、番いのフォレストキャットでも、焦げた鯖を種にけなし合うどこかの夫婦でも、それはそれで青表紙の本の先生が言っているように、ワンダフルな人生なのだ。

                          了
岩波講座 現代数学の基礎〈7〉Lie群とLie環1・Lie群とLie環2 (Lie群とLie環 1 2)

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