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蛭の道   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 私は鱒田俊(ますだ・しゅん)、二年後に還暦を迎える宝石貴金属の鑑定士である。
 店は奈良市の元興寺の裏界隈を京終町に向かう通りにある。寺町筋の名残を保とうとしている裏通りの古角、そこの四丁目に「BLOOD マスダ宝飾店」の看板を掲げて、かれこれ気がつくと三十年近くになった。もっとも、洒落た「BLOOD」のゴシック文字は平成になってからで、昭和の頃は創業者である姉夫婦が登録したままに「マスダ宝飾店」のみだった。
 店名「BLOOD」の由来はビルマである。鳩の血に形容される良質のルビーを産するビルマに敬して、「BLOOD」の名を掲げるべく私は姉を説き伏せた。お陰さまで、荘厳なルビーの緋色を想像させる「BLOOD」は、いまやマスダ宝飾店よりも知られていた。
 私はそもそも昭和の末、そのビルマ、今のミャンマーに旅行している。そして帰国してから、幼馴染の土井に絆されて、タウン誌へ拙文と写真を掲載したことから慌しくなった。思い出すのも気恥ずかしいが、タウン誌には「恩師の従軍俘虜記録の読後に、ビルマへ単身で渡って、彼の地の仏教美術とルビーに大いに魅せられて、帰国後は一般的だった家業の宝飾店を全面改装して、颯爽としたマンハッタン風な店舗に」と写真入の四ページで紹介された。しかし新装成った茜色の売り場の写真、そして借りて展示したルビーと金によるヒトデ形の「海の女神」の写真などよりも、私がビルマで撮ってきた夕暮れの寺院や、愛嬌ある現地の女子供の写真の方を注目された御仁も多かった。以降年に一度は掲載に与り、土井の迷文で「古の宝飾ロードがここに再現される」などと、再三大げさに採りあげてもらったこともあって、飛鳥と平城のロマンを慕う観光客に「BLOOD」の文字を探させていた。
 九月の風が秋めいた夜、私はテレビの音声を聞き流しながらビールを飲んでいた。
 ミャンマーからの速報だった。アナウンサーは日本人が撃たれたことを告げた。私は目を上げて、ヤンゴンの騒乱を久しぶりに凝視する。長井健司というジャーナリストが倒れた瞬間を、息を呑んで愕然と見ていた。
 これがビルマなのか?煙幕の中を突っ走る僧侶たち、それを見るのは初めてではなかったが、どうしてもベトナム戦争に重なる。どこかで見たような女性たちの投石。自動小銃を翳している軍の彼、やはりビルマ人なのだ。そして彼の同胞が、一人の日本人を撃ったのだ。彼は今日も命を受けて鎮圧する側であり、彼女は今日も怯え泣いて制圧される側だ。それにしても日本人が撃たれた。衝突や動乱を飽くこともなくブラウン管で見てきた私は、改めて今の現実が、悲劇的な二十世紀という濁流の波上にあることを、大袈裟でもなく突きつけられる。日本人が撃たれたゆえか、ビルマの地を知るがゆえか、項垂れさせる逼塞は凄まじかった。私の脳はすでに逃げている。いつものブラウン管の中のデモ隊と体制側じゃないか。あのビルマもミャンマーに代わって、周りと同じく一皮剥けようとしているだけさ。人間が石ころのように頑なに静謐でいられるものか。
 私はチャンネルを替えようとしてリモコンを握った。しかし替えなかった、というよりは替えられなかった。民主化運動の先頭に立つ女史の聡明な横顔が入れ代わる。彼女がどう扱われているかという音声を聞きながら、泰然と横たわっていったようなジャーナリストを想っていた。
 これがあのビルマなのか?金色の蝋画のようなビルマなのか?日本人の勝手な幻惑や邪推を、素直な祈祷に誘う南方らしい小乗の世界。そこへ規格と抑圧を持ち込んだのは誰だ?やはり全ては西欧ではないか、と短絡に脇へ打っ遣りたくなる。英明なる大英帝国の残滓ではないか。彼等が民主主義の種を蒔いて…しかし彼等の後にのこのこやって来たのは誰だ?先生たちだった。先生たちは早晩につける実の収穫を教えたのだ。そうであれば、それはよかった。西欧に問いかけて、英国に腐った米飯を突きつけて、堂々巡って後追い日本人を確認させられると、たちまち納得している自分。円環に閉じたような観想を持って、どこか奈良人ぶっている自分がいた。先生たちの死の行軍は虚しくなかったのだ、と言い聞かせている自分。そして先生の従軍及び俘虜の記録の跡を追った、やはり後追い日本人の典型である自分がいた。それは今日もショーウィンドウに、エメラルドカットした蚕豆大の合成ルビーを飾っている私だった。
 私がビルマで実際に手にした粒ルビーの感触、煤煙のように群れた羽虫、脛の蛭を摘まんで見せた老爺…壮麗で混沌としたビルマの風俗は、タウン誌で語れるだけ語ったつもりだった。またもや大袈裟な、と揶揄されるかもしれないが、汚辱と聖性が犇めき合うビルマに、「BLOOD」の名を捧げた自負は今でも変わらない。私が今もって奈良の遊び人の鑑定士であっても、あのビルマでの記憶のひとつひとつが、仏教の実際を少しでも顕示するものならば、破廉恥な一生も捨てたものではないのかもしれない。
 過日の感慨に浸る歳でもないが、私を今日まで生かしてきたのは、ビルマへ旅したあの十六日間の記憶と言っても過言ではない。
 しかし、私はあの十六日間の上澄みの煌めきしか語っていない。誰の目にも見える限りの、芥と見まごう金の漂いを、土井のタウン誌へ気楽に渡したにすぎない。そして私は今になって底の沈泥を見ている。ブラウン管の市民の怒号の彼方に沈泥を見ている。語られるべきは、金泥に見まごうことも適わない骨肉の汚泥なのだ。

 私は、土井へ渡すことなど思いもよらなかった記憶、それを語ろうとしている。そして汚泥の記憶の体裁が整えば、やはり拙文を土井へ預けようと思っている。奔放な言い方をすれば、「BLOOD」のビルマの発端は土井にある。最近の土井は、千代原口に近い女子大の講師で、(ドイツ人に言わせれば)下手なドイツ語を並べていて、タウン誌の編纂は学生任せである。しかしビルマへの道を開示したのは、安穏とした学生の土井だった。
 確かに夢見がちの少年だった土井は、利と女に敏いだけの私にとって、時として刺激的ではあった。今となっては、ヨーロッパ志向で気障な土井に感謝しなければならない。何と言っても先生、会田教授との出会いを取り持ってくれたのである。
 共に三回生の折にとった西洋史の特別ゼミに始まった。このゼミ自体、普段は怠惰な土井が、担当教授が有名な著書の教授だから、と熱くごり押して取らせたのである。
 ゼミそのものはルネッサンスのイタリア史で、当時の政争の殺伐さに閉口する日々だったが、担当の会田教授には初日から魅せられた。従軍俘虜体験だけでなく、ルネッサンス史を飾った群像の行動原理から、日本の当時の状況を論評された著書も好評のようだった。長身痩躯で大学教授らしい品のある風貌でいらっしゃったが、いたって軽快で気さくな語り口は我々を魅了した。
 ゼミ後の先生との歓談は素晴らしかった。私の一世代上による安保闘争による学内荒廃、その迷流を果敢に渡りきられた先生は、つい先日の傍若無人にも飄々として拘らず、父が息子に語るように、従軍体験を痛快に人間臭く語って下さった。私と土井、そして体ばかりの成長に地団駄踏んでいた者たちは、先生が歩まれた生死の狭間の地ビルマに、不謹慎を覚悟で憧れてしまった。二人で図書館のビルマ地図を辿ったり、姪から「叔父さん、お団子みたいな文字だね」などと言われながら、三角関数のSIN、COSのような丸文字のビルマ語を睨んでいた。
 しかし卒業と同時に、土井は母親に懇願されて、東京の製薬会社に就職することになり関西を去っていった。鈍重な私はそのまま「マスダ宝飾店」に入った。勤める女子店員とすぐに懇ろになって、鑑定士を目指してひたすら石を凝視することになった。
 そして三十路、鑑定士になって結婚もしてみたが、出張販売を盾にして北陸や四国を行脚した日々、妻だった女はさっさと別居して慰謝料の請願に明け暮れていた。かつて左翼の闘士だった先輩も、ヒッピー受け売りのアクセサリー作りに習熟する、そんな姑息で無気力な風潮が蔓延していた。お坊ちゃまの土井は業界の販売競争に敗れて心神喪失、やはり母上の計らいで大学院へ逃げ込んで、ウィーンの分析哲学とかに凝って研究者面していた。やがて母上が逝かれてしまうと土井は困窮して、嫌々ながらもタウン誌「平城烏合」の編集に携わりはじめた。寄稿者が少ないこともあって、早速に貴金属商の幼馴染に声をかけてきたが、こちらは元より逃げ場が思いもつかない座敷の飼い猫同然、他を当たってくれと店奥へ引き篭ろうとした。
「いっそのこと、思いきって行きたがっていたビルマはどうや?ビルマへでも行ってきたらええやん」
「随分と簡単におっしゃいますわな、ひとごとや思うて」
「ひとごとやなくてな、昔からルビーの産地だって言ってたさかいな。だから仕事にも大いに励みになるんやないか思うてな」
「ビルマにしてもブラジルにしても、産地の見学は旅費、飛行機代が貯まってからや」
「どうも政情が不安定になってきているようで、まごまごしとると、再訪された会田先生たちのようにはいかなくなるで。そのうち軍を牛耳っている方の規制が煩くなって、観光といってもヴィザが取れんようなるかもしれんし」
 私は編集者になってから世間擦れしてきた近眼の土井をからかいたくなった。
「アウン・サン・スーチーって言ったかいな、あのインテリ美人。確かに、あのてのハッキリ美人は、哲学者の土井はんの好みやな。気になるんやったら、自分で平城何とかいうその雑誌から前借りして、まごまごせんと飛行機に乗りなはれ」
 土井のやり場のない童顔は昔と変わっていなかった。帰っていく彼の後姿に投げかけられた苦笑、私は自分の邪険さにじわじわと苛立っていった。
「スター・ルビーを探しに、ビルマへ行かれるんですか?」
 由梨(ゆり)が空布巾を持って視界に入ってきた。界隈では新しい愛人のように思われている女子店員である。醒めた目を上げ口端に笑みを浮かべながら、曇りひとつないケースを拭きはじめる。北国らしい彼女の白皙さは、時として厚かましく感じさせた。
「ビルマやなくて、今はミャンマーとか言うらしいですね」
「そうやね。姉ちゃんに、店長にそう教えといて」
 由梨もまた私の苛立ちを感じ取れない女だった。彼女は追い縋るように指輪のケースへ布巾を伸ばす。そして慌しくジルコンの粒で飾った橙赤色の石の指輪を取り出した。
「俊さん、ルビーは若い子には似合わんて言うてはったけど、スター・ルビーやったら…」
「なるほど、由梨ちゃんも、そろそろルビーが似合ってきたわけやな」
 私は由梨のしゃがれた笑い声から逃げるようにしてケースから離れた。店奥の点光源の下で仕事を続けようとすると、取り澄ました顔の姉が、抱えてきた鎖の山を机上に放り広げるのだった。
 土井も店先に現れなくなって半年が経った頃である。後にバブル景気と称された不動産景気に沸いた年も暮れようとしていた。
 私は郵便受けに入っていた「平城烏合」十二月号の表紙を見下ろしていた。何故か年の暮れの冊子に、野焼きに煙る若草山の遠景だった。今年も終わりは蕭然の如し、とか気取って言いたかったのだろう。そう思って重なり合っていた封筒の束を表紙にのせた。請求書類は経理を与る店の姉の下へ直に行くので、裏の母屋の郵便受けに当時から多かったのは、化粧品やジーパンや学習塾、ときには暴走族が欲しがるような安貴金属の問屋案内もあった。そういった束の中に、随分と痛んだ封筒が申し訳なさそうに紛れ込んでいた。
 本山和倫(もとやま・かずみち)、会田教授のゼミで知りあった経済学部の先輩からだった。最近まで商社に勤務していて、関西への出張の折には奈良まで足を伸ばしてくれていた。一昨年の夏、高松で血を吐いてから療養のため退職して、故郷の三河湾の篠島へ引き篭もっていた。
 本山からの賀状以外の郵便物を受け取るのは初めてだった。恐る恐る開封したことは否めない。中には筆圧の強い読みにくい手紙と写真の拡大複写が一枚入っていた。

前略
 御壮健のことと存じあげます。私めも今年はいたって体調もよくて、手遊びにはじめたペンションなど誰かに任せて、大手町にかけ合って元の商社マンの鞘に戻ろうか、などと思えたほどです。
 さて、手紙など書いたこともない私が、本日は怒涛砕ける岬を遠目に見ながら一筆したためております。思案の末に、鱒田君の他には無理をお願いできる方がいない、と身勝手に判断いたしました。よって、以下に記します、かように不躾な乱筆の段、何卒、お許しください。
 それでは単刀直入に本題に入らさせていただきます。
 複写した写真は、今は大手町の本社勤めになっている、かつての部下が送ってきてくれたものです。彼とはカルカッタ事務所での勤務以来、気が利く後輩と退職した先輩の付き合いを続けさせてもらっています。写真に写っている白人男性は、二人がマニプルでの商談の際に紹介されたブライアン・オシスという男です。アングロ・サクソンだと思いますが、年齢は不詳、マニプルの品質向上委員会で紹介された時は、茶葉を専門に扱う信用できる仲買業者ということでした。写真でも分かるように、薮睨みなのは義眼のためで、口さがない連中は鮫のようだと言っていて、私も飲んで酔ってシロワニなどと仇名して、滞在中は意気投合していました。写真の彼ブライアンは、数年ぶりに、たまたま後輩に連絡を取る機会を得て、私が退職したことを知ったようです。その写真は言わばPR写真で、新規に扱いはじめたコーヒーのサンプルに添付されていたようです。後輩は私の近況を窺うかたちで電話をくれて、懐かしいでしょうからと写真と屑コーヒーを送ってきてくれました。
 私が多忙な鱒田君の許に、稚拙な一文とこの写真を送った訳、本題はこれからです。
 写真は見てのとおり、少々老けこんだシロワニが、どこかの廃窟かスタジオのセットのような場所で、商品を持って愛想笑いを浮かべているわけです。右手に持っているのは発酵させすぎた現地のお茶ですが、左手に持っているのは珍しい真空パックのミャンマー・コーヒーです。後輩に詳しく聞いてみると、サンプルが出荷された所はヤンゴンで、連絡が取れる住所として、ミャンマーのダニィンという所になっていたそうです。
 事の発端はこの写真にあります。具体的には、シロワニの背後で作り笑いをしている現地人の集まりにあります。見下ろす構図でシロワニを中心に撮っていますが、背景となる岩肌のような壁の前に全員が収まっています。薄暗い中に居並んで笑みを作っている彼等、おそらく現地のミャンマー人だと思います。そして左奥がスポットライトのように明るんでいて、老人が正面を見ているのが分かります。面長で色白の面立ちの老人、笑っていない痩せた男性が確認できます。意識してか偶然なのか、この男性を見てくれと言わんばかりに、適当な灯光か陽光が当たっています。
 偶々なのですが、後輩を知る妻にもこの写真を見せました。すると妻は珍しく戸惑って、その写真を暫く貸してくれと言い出しました。どうも写真の中の老人が叔父に似ているというのです。妻の叔父、義父の実弟にあたる方は、学徒動員で召集されビルマへ従軍して、家族は終戦時に戦死報告を受けています。しかし遺骨や遺品の何ひとつも帰ってきているわけではありません。妻は写真を持って東京の青山の実家に戻って、父母に確認してもらうことにしました。
 妻の実家での判断は、この写真の男性の口許右の黒子、そして目許や輪郭から、充分に弟本人と言えるとのことでした。早速、後輩に連絡をとって、シロワニと直接話したい旨を伝えました。そして一週間ほどすると、後輩が口重たく告げてくれたことは、ブライアン・オシスの名前は有名になり過ぎていて、しかも尋常な手段では連絡の取りようがない、ということでした。つまりシロワニは現地警察の指名手配に挙がっていたのです。罪状は売春容疑と監禁容疑とのことで、彼が裏社会に通じていた面を知らされては、妻も妻の家族にしても写真の確認追究を断念するしかありませんでした。
 ところが、二ヶ月ほどして、後輩が大阪からの帰りに名古屋で話せる時間を作ってくれないか、と連絡してきました。写真の妻の叔父らしき人物を確認できそうな機会がある、とのことでした。私は久しぶりに篠島を出て名古屋駅で後輩に会いました。
 後輩、斉藤毅(さいとう・つよし)は福井の出身で、船乗りだった父親の影響もあってか、夜討ち朝駆けの商社マンとして大成すべく奮励を惜しまなかった男です。彼が言うには、現在のミャンマーへ入国及び十五日から二十日間の長期滞在が可能なヴィザの申請と取得をできる外国人は、すでに米ドル換算で五十万ドル以上のミャンマーの指定産品を輸入して取り扱っている者、あるいは大使館を通じてこれから指定産品を輸入して取り扱う手続きを進められる者、あるいは……
                         
                                    草々

 商社勤務だった頃の先輩、本山はたまに京都の七条あたりで再会すると、益田孝の右腕だった老爺が言ったとかの言葉を繰り返していた。
「奴等が投資して、その精根が傾注するところ、所謂、リスクを商売の根幹とみなしているのなら、我々は、アジアの地道さというものは、コミッションという手汚しそのものを青龍刀とするのだ」
 彼がそう言う白くて臭い舌が、妙に鮮明に記憶されていた。
 私は行くに行けない先輩に代わって叔父探しを依頼されたわけだが、すぐに右手の手紙を打っ遣って左手の写真を窓際に持っていった。シロワニなどと仇名される白人は、薮睨みではあるが髭の剃り跡も青々としていて、健康に見せて撮影したかったのか、頬に薄く紅をあてていた。後背に居並ぶミャンマー人たちは、清潔さが匂ってきそうな白いシャツに、日本人好みに応えてか、懐かしい絣調の模様のロンジーばかりである。やはりスタジオのセットでの撮影なのか。すると最背面の薄茶褐色の岩肌は、発砲スチロールを造形した表面に、亜酸化銅を混ぜたガラス粉の塗料を塗ったものであろう。しかしだ、徐々に変化して 重なるこの層の作りはみごとだ、ミャンマーの撮影スタジオにしては。ここまで緻密なセットを如何わしい仲買業者が必要としただろうか。経費のことを考えれば馬鹿馬鹿しい。それにしても、この血のような点滅は何だ?この地は酸化アルミニウムのコランダム、つまり鳩の血に喩えられるルビーを有する。それこそ馬鹿馬鹿しい。しかしだ、本より馬鹿馬鹿しい一生ではないか。
 私は憑かれたように写真を打っ遣って、メロディにならない口笛を吹きながら興福寺の裏の店に向かって行った。
 由梨がショーウィンドウに乗り出すようにしながら鈍重な笑いを漏らしていた。相手は私の幼馴染のうどん屋の河馬。彼女の挨拶やら皮肉やら混同した嬌声に片手を翳して、平坦な口笛のままスチールデスクの最下段に鍵を刺しこむ。手提げ金庫を引き出して数字を合わせるときには苦笑していた。
 乾いた筋子のような石を入れたビニル袋から大きめを摘み出した。ルビーに六条の光筋が現れるアステリズムという現象は蛍光燈下では確認できない。石を窓辺の陽光に晒してみる。なんだ、これは合成か…分かっちゃいたことだが。こんなものじゃない、あの岩層が今もそのままであれば。私の頬は不信を携えた喜悦に歪んでいたことだろう。
 そして私は情けなくも変らぬ愚弟のまま姉の横顔を窺った。
「安もののスタールビーを仕入れたいねん。今度は本気になって、ビルマ、ちゃうわ、ミャンマーに行ってくるわ」
 姉は眼鏡をかけ直して帳簿を見るふりをしながら声を絞り出した。
「変な病気言うたら変やから…恥ずかしい病気だけは貰わんといてな」
 私は虚しく哄笑したように記憶している。
「泥の中から掘り出された赤い小石を買ってくるだけや。この面白うない日本を抜け出してな、やぶ蚊が煙のように蟠っておるジャングル、蛭だらけの泥の道、そうや、蛭の道をお散歩してくるわ」
 由梨と河馬は、私の痩せた肋骨の並びを初めて見たときのように、嘲り顔のまま訝っていた。

                                       了
俘虜記 (新潮文庫)

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  • 作者: 昇平, 大岡
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/05/12
  • メディア: 文庫



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