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ジュリア   氏家 秀 [Malraux Camus Sartre 幾何]

 アキラこと杉原亜貴等(あきら)は、蓄冷剤をたっぷり詰めた保冷バッグを抱えながら電車を降りた。自分の指先がすでに白く悴んでいるのを見て苦笑する。来週から八月だという炎暑の夕暮れにあって、和歌山の日高川町から京都の桂川まで来てみると、西瓜のような頭の額にあてた右手が心地よかった。
「アッキーラ、こっちこっち」
 改札口には中学の担任だった華菜先生が待っていてくれた。アキラを見出してくれたと言っても過言ではない恩師が随分と小柄に見える。結婚して子供ができたと聞いたものの、童顔で貧弱胸だった数学教師の妊婦姿はとても想像できなかった。実際に目の前の旧姓佐々木華菜(かな)は、街中ゆえの化粧っけが幾らか見えるだけで、何ら体形も雰囲気も変わっていなかった。
「子供できたん言うたやない?」
「とっくに先月に産まれとるよ。今日はセンセーが見てくれとる」
 華菜の言うセンセーとは、旦那さんの小南晋三(こみなみ・しんぞう)京都大学工学研究所准教授のことである。アキラはメールに添付された写真を見て思わず身を引いた。磔(はりつけ)にされたキリストのような痩せぎすで朦朧とした目つきの長髪男。趣味が三つあって、華菜先生とカレー作りと解析的数論と言い切る、どちらかと言えばアキラ側の変人だった。
「安心して、というか、がっかりせんでね。数論なんか放りっぱなしで、あたしとカレーと絵葉(えば)にかかりっきりの駄目親父よ」
「えばって?」
「娘の名前よ、女の子、男の子だったらガロアから我に郎で我郎(がろ)にしようと、それはもうセンセーが大反対でさ。女の子だったんで名前のエヴァリストから絵葉になったんよ」
 アキラは保冷バッグを持ち直しながら華菜の後をついて行った。
「ガロアって…そうか、名前はエバリストだったんや。華菜先生は結婚しても、子供産んでも、やっぱ物知りやわ」
「何言うてんの、あんたのように本物になれんかった数学教師やで、ガロアの伝記を読み返して憧れるしかなかったんよ」
 桂川の駅に近いマンションの三階、絵葉を抱えながらドアを開けてくれたセンセーこと晋三さんは、もはや「キリスト」ではなくTシャツ水色トランクスの「中村俊輔」だった。そして晋三さんは恋女房と同じく謙虚な眼差しでアキラに見入るのだった。
「本当やな、華菜ちゃんから額が広い人やって聞いておったけど…本当に純粋数学をやる人ってこんなんやろなあ」
 アキラが人並みに謙遜ぶってみせようと頭を振りながら顔を上げると、赤ん坊を抱いた晋三さんの背後を尻尾が揺らめいて通った。そのままお尻をこちらに向けている華菜の脹脛に纏わったのは、敏捷と跳躍を予感させる鈍い金毛の猫だった。
「ああ、この子はね、ジュリア、アビシニアン・ルディの雄、といっても去勢しとるオカマちゃんの五歳。華菜ちゃんよりも僕との付き合いは長いんよ」
 これが二十歳を迎えようとしている神童とジュリアの出会いであった。
「ジュリアはね、ガストン・ジュリアからで、なんかキャバレーの女の子の名前みたいでしょ?」
 華菜はそう言いながらスリッパの先で猫の頬擦りを受けていた。ジュリアはお土産の岩魚の燻製を感知したのだろうか。
「ガストン・ジュリアって?知りません、それも数学者でっか?」
「アキラのとこって魚の燻製もやってるんや…そう、あまり有名じゃないけれどフランスの数学者。あたしもよく分かってないけど、力学系にジュリア集合とかあるみたい。そんでな、岩魚の燻製やけど、山形のお土産に持って行ってもええ?今晩は焼肉にするよってな、そうや、アキラがやっと飲めるようになんたんやで、センセー」
 夕餉はアキラにとって久しぶりのビールと牛肉が馳走された。ジビエ料理のための食材工房とはいえ、猪の脚足と老馬の売れ残りばかり齧ってきたアキラにとって、オージーから遥々飛んできたビーフは途轍もなく甘かった。
「ジュリアがアキラにすり寄るんは、一つは猫本来の習性、そして一つはアキラのジーンズの岩魚やら猪の残り香や」
 華菜は教師時代と変わらず娘をあやしながら箸を使ってさらりと言った。
「のこりがって?」
 アキラは股間にぐるぐると寝そべる金毛を見下ろして、水から上がったばかりの岩魚の斑点のような猫目と対峙した。高貴ではある。猫という存在の原点を見ている気がした。

 アキラとジュリアの留守番三日間が始まった。猫と過ごすのであるからキャット・フードの定刻給餌さえ押さえておけば、あとの時間、午前中はコーヒーとシャワーと「π+e」が超越数であることの証明、午後は鱈子スパゲッティとベイカーの「Transcendental number theory」の熟読と昼寝、夜はTVでのJリーグ観戦と缶ビールとポテトサラダ…と理想的な休日になるはずであった。
 ジュリアに問題が生じたわけではない。アビシニアンは、英国とアビシニアの戦争時、英国兵がエジプトのアレクサンドリアの港にいた「ズーラ」という名の雌ネコを祖国に持ち帰った説、そしてリビアから同種の猫が米国に持ち込まれた説、日本の雉猫を祖とするとかの説、あれやこれや起源説はあるそうな。しかし俊敏さと毛艶とおとなしく粛々とした気品からすると日の本説は論外だ。さりとて寝てばかりで腹ぼてで夜中に大鳴きする三毛猫を否定するわけではない。いずれにせよ、ジュリアは優美で小食で滅多に鳴かない完璧な猫であった。
 アキラに問題、すなわち怠惰や缶ビールの飲み過ぎや冷房に夏風邪、などということが生じたわけでもなかった。そもそも冷房がなかったのだ。華菜先生の冷え性は何度も聞かされていたが、工学研究所の小南センセーの冷房嫌いは聞いていなかった。自宅では愛妻の体を思って扇風機使いなのは納得できるが、研究室ではもっぱら団扇で、冷房びんびんの通勤バスでは長袖シャツに扇子ときてはやはり変人だ。いずれにせよ、普段のアキラはジビエ工房に併設されたアパートの冷房ぎんぎんの部屋で「π+e」に取り組んでいた。
 その年の京都盆地の澱んだ猛暑がこれほどとは、日高川町で雨雲をのせた海風に向いているアキラは想像もしていなかった。髪も紙も何もかもがぶっ飛ぶほどに扇風機を強風にしても暑い、ともかく暑い。思考回路が後退しているのか、ベイカーの本どころか、TVをつけるのも億劫になってくる。気温が幾分か下がった一九時キックオフのJリーグを見ていても瞼がとろんとしてくる。飲んだビールが粘ついた汗となって染み出ていた。
「おやおや、これじゃあナポレオンのエジプト遠征に同行したフーリエの気分だねえ」
 アキラは朦朧としたまま仰け反るように振り返った。猫が居眠りしているだけだ。
「フーリエのおっさんは知っているわな?」
 アキラはTVへ向き直る。ヒサト(寿人)がまた入れたようだ、おそらく得点王だろうな…いや、フーリエはちょっとだけ、フリーエ変換とか少しだけ齧っているけど。
「フーリエはエジプト遠征の頃を忘れられなかったものだからね、パリに戻ってからも褞袍(どてら)みたいなものに包まってね、大汗をかきながらやってたそうだわ」
 アキラは今度はそぅっと怖々と振り返った。ジュリアと目が合った。思う間もなく牙をむきだした猫の大あくび。アキラは項垂れて五十を過ぎたおっさんのように熱い嘆息を吐いた。
「そこまでしてさ、やるものなのかね」
 アキラはまたTVの方へ向き直った。今日は優勝はおあずけ、世の中そんなに簡単じゃない。しかし広島のスタジアムの広がりに鳥取砂丘が重なってくる。
「あたしはジュリア、おっとそのまま振り返らずにTVを見ながら聞いてよ。ジュリアはジュリアでも、あんたの先生が言っているガストンのそれじゃない、ジュリア・ホール・ボウマン・ロビンソン、そうね、ジュリア・ロビンソンでいいわ。人間のときはれっきとした女だった。よく聞いてね、全米科学アカデミー数学部門に女性会員としては初めて選ばれたし、女性として初めてアメリカ数学会会長を務めたこともあるのよ。でも数学者としては、日本語で言う、そこそこ、だったかな。もうちょっとでさ、ヒルベルトの第一〇問題が解けそうだったけど…ま、いいか。ところでさ、自分ばっかしビール飲んでないでさ、あたしのボウルの水、干上がってるよ。あとね、ベイカーはね、才能も確かにあったけど、いい子だったぁ。暑いとか言ってないで、しっかり読み込むんだよ。でもって、早く水、水、死んじゃうよ」
 アキラは生唾をごくりと飲み込むと、弾かれたように干上がったボウルを取りに向かった。

                                       了
新版 いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。

新版 いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。

  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2022/07/27
  • メディア: 新書



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