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凧   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 礼庸(リィヨン)はずっと女攫いをやってきた。それも目の前の養殖池を任される一年前のことだ。だから稚海老を人の娘を見るような目で見守っていると、攫ってきた女の両手を縛ったり背中を鞭で叩いたりしたことが夢のようである。しかも実際の夢に出てきて礼庸を殺しにくるのは、攫われてきて泣き腫らした女たちではない。きまって一機の爆撃機だった。誰でもそうだ。自分の悪逆を棚に上げて幼い頃の鬼を懐で飼っている。礼庸が生まれてまもなく壮族の一家は、文革から逃れるべく桂平を出て北越南(ベトナム)へ渡った。赤子の礼庸は二年ばかり田圃を切り裂く爆撃機の群れを見た。そのうちの一機が明け方に見る夢の中で、轟音を立てて黒布のように被さってきて腹に爆弾を突き刺す。それだけだ。今となっては逃げまわっていた父母も病死して、姉は新興の越南で外貨を獲得するために働いている。礼庸も米仏を逆恨んでいたわけでもない。しかし早々に英語を学ぶことを断念して、女たちと夜な夜な遊び耽ってしまった。怠惰の先には女攫いという人でなしの所業が待っていた。母にしても姉にしても攫ってきた女たちにしても、礼庸を残虐にするだけの記憶などは微塵もなかった。しかし人を泣かせることだと知りながら日々の糧のために女攫いをやってきた。無人島で仲間とウイスキーを呑みまわして何度もやめることを想った。その頃に見た明け方の夢は、攫ってきた女たちがいない浜辺で痙攣して動けない自分だった。仕事らしい仕事というものが欲しかった。
「雪非(シュエフィエ)の弟、礼庸だな。私の北京語が分かるなら頷きなさい。君を頭目から譲り受けた」
 海老王が島に上陸した。女攫いを教えてくれた兄貴がひれ伏した親分。その親分がひれ伏したインドネシア人。そのインドネシア人が握手した台湾人のような男が海老王だった。姉の雪非が世話になっているのか、妾の一人になっているのか、どちらにしても通称、海老王と言われる台湾在住の日本人、彼が礼庸を人攫い島から引きずり出してくれた。
「ブラックタイガーをずっと見ていた。そして気がついた。海老でも豚でも子供でも、育めばこうして何も恐れることなく生きていける。あとは土地の霊に感謝する」
 海老王は礼庸に説き続けて目まぐるしく連れ回した。バリの養殖池からスラウェシ島の養殖池。そして海老と関わらない中部の山岳地帯へ踏み入った。そこは険しく鬱蒼とした山々に囲まれているサダントラジャ。バリの養殖池を統轄しているラナンが峠で出迎えてくれた。海老王はラナンの父の葬儀に列席しようとしていた。ラナンは道すがら声を上げて泣いた。息子を一旦は勘当同然に扱った父親の死。しかし地元トラジャの人々は葬送儀礼において悲しまなかった。彼らは死を新たな世界への旅立ちと考えて盛大な祭礼のごとく執り行う。葬儀は三日間に及んだ。連日連夜、踊りあり闘鶏あり闘牛あり。そして岩壁の高所に掘った風葬墓に棺を納めた後、その入口の正面に故人を表す木偶が立てられて高揚は極まった。
「俺の妻、小哲はタイヤル族だ。妻の父が亡くなったときも立派な葬式だった。俺は生前に会ったこともない父親の遺骸の前で泣いた。そして日本へは戻らないことを誓った」
 海老王が礼庸に見せてくれたのは海老を育む風土だけではなかった。床の高い船倉のような優美な家。ラナンの生家もそのひとつだった。そして葬式の前日にラナンの従姉弟に出会った。ラナンの叔父は等身大の椅子に座った人形タウタウを作っていた。十八歳の娘ネリと七歳の息子ミンケは父を手伝っていた。タウタウは選定された生木を彫刻して、煌びやかな衣服や装身具をまとわせて故人を形どっている。ネリは金色の布地を貼っていた。礼庸を待っていたかのような微笑。ネリは何ひとつ臆することもなくタウタウを正面に向けた。故人と見なされるはずの木偶は、彼女に抱かれて目の明かない仔犬に見えた。礼庸に二つの自然な問いが錯綜する。ネリには恋人がいるのだろうか?礼庸はいつだって中国人じゃないのか?ネリの姿が礼庸の網膜に点いて剥がれなくなると、葬式の三日間は山頂の雲のように過ぎていった。
「ネリが気に入ったか。いい娘だ。しかし今日しかないぞ。ネリと話してこい。何かして遊んでくればいいのだ。弟のミンケと遊んでこい。このあたりは時折、つよい風が吹くから凧がいいな。凧を作れるか?作れない。女、子供を攫うのは簡単だ。しかし女、子供と遊ぶのはなかなか難しい。余っているビニル袋と転がっている竹を持ってこい」
 海老王は小刀で竹を割いて凧の骨を作った。そして燻らしていた蚊取り線香を引き寄せる。切り開いた袋を竹骨に架けて線香の熱で張り合わせた。手並みに感心していると肝心の糸がない。タウタウ用に薄緑の化繊を切り束ねていたことを思い出した。しかしネリは家に戻って昼寝をしている。ミンケは小川へ飛びこんでいる。礼庸は上着を脱ぎ捨てて小川の方へ向かって行った。
「日本人は言う、台湾にも越南にもバリにも、そしてスラウェシにも自然が残っている、と。俺は聞き飽きているから、男は度胸で女は愛嬌ということなら残っている、と言ってやる」
 海老王は帰りの船の中でエンジン音に負けず大声で礼庸に言った。礼庸はそのときネリが編んだ煙草入れを見つめていた。
 あれから一年経った。明日には海老王がネリとミンケを連れてやってくる。礼庸は一昨日の電話を思い出して微笑んだ。
「ミンケは凧に夢中だ。俺はそっちに行ったらもっと大きい凧を作る。俺とミンケは凧を作ってから浜まで出て凧をあげる。おまえはネリと一緒にタイガーを見張っていろ。そしてネリの手を握って、男らしく言うんだ」

                     了
足跡 (プラムディヤ選集)

足跡 (プラムディヤ選集)

  • 作者: プラムディア・アナンタ トゥール
  • 出版社/メーカー: めこん
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 単行本



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この世は宜蘭   梁 烏 [詩 Shakespeare Достоевски]

 私が宜蘭庁への派遣命令を拝して出航したのは、明治三五年、西暦一九〇二年の八月八日のことだった。後に帰朝してからの伝聞では、前日に伊豆鳥島が大噴火して島民の殆どが亡くなったという天災があった由。母は島近海であわや沈没の憂き目に遭った船舶事故と、遥か台湾へ向かっている私の乗船を混同して一月ばかり消沈していたらしい。
 私、乃至、私の家族のことはともかく、宜蘭の印象を辿ろう。
 ご存知のように、私が宜蘭へ向かった日より遡る七年前の明治二八年、日本による台湾の統治が開始された。その頃の宜蘭はより中央官制が整備された台北県の管轄だったが、度々の行政改制が実施されて、私が渡台した明治三五年には宜蘭庁と改編されたばかりだった。また先走るようだが、私が帰朝した年は大正七年、西暦一九一八年のことで、二年後の大正九年に宜蘭のあたりは、宜蘭と羅東、そして蘇澳の三郡に分割されて台北州の管轄となった。
 基隆を経て宜蘭へ着いた。
 私のような一介の役人、うら若い農業技手に「この世は宜蘭」と言わしめた宜蘭は、漠とした太平洋を前にまどろんでいる少女のように在った。正真の熱帯がそこに隆々と鎮座していた。椰子や蘇鉄しか目の当たりにしたことがなかった私は、尾根や段丘、焼畑や灌漑、いや、街角や庁舎裏にも繁茂する熱帯植物の数々に興味を持った。
 愛玉子(アイギョクシ)をご存知だろうか。数ある熱帯植物のうちで私を魅了したのは、現地名「愛玉子」和名「かんてんいたび」というクワ科イチジク族の台湾固有種である。平たく申せば無花果(いちじく)の仲間のつる性植物である。昭和となった今では日本でも売られている。上野浅草界隈で女子や甘物好きが堪能している寒天状のあれのことである。あれはアイギョクシ(愛玉子)の種子を乾燥させたものを、水で戻して固まる成分を抽出して寒天状にしたオーギョーチ(愛玉冰)という菓子である。和名は寒天に対して漢字をあてれば崖石榴(いたび)を足した分けで、崖石榴はそもそも犬枇杷のことだが、愛玉子は一言で言えばオオイタビ(大崖石榴)の変種であろう。
 もとい、宜蘭の愛玉子について、美麗島の極みとしての宜蘭について語ろう。
 私の宜蘭庁における主な勤め、大袈裟に申せば使命とは、後に「宜蘭酒廠」として日本でも知られるようになる酒造工廠の設立に関わる計画調査であった。それも平たく大雑把に申せば、庁舎の北西から北東の大浜に向かって流れる宜蘭河の水質調査、そして宜蘭河の北岸にあたる一結から四城を経て三十九結に至る得子口渓の南岸、この地帯の耕地整備と作稲推進の計画である。さらに奇を衒わずに申せば、私は二人の農学博士の現地案内と現地世話係りといったところだった。滝本先生は四十代半ばながら海浜住みの高砂族と見紛う色黒精悍、もう一人の次野先生は二十代の末ながら白髪交じりで日焼けを気にしている青瓢箪、といったところだったろうか。
 今更ながら思うに、年齢も近い次野先生との出会いが、この老残に「この世は宜蘭」と回顧せしめた契機だったのかもしれない。私が宜蘭についての一文を残そうと思い立ったのには、常夏の夕暮れに愛玉冰の鉢を差し出してくれた玉界(チョウチャ)への慕情がある。さすれば、愛玉子について秘密を吐露する少年のように語ってくれた次野先生、彼こそは正に甘美への誘惑者であったわけである。そもそも滝本先生の本懐たる地道な水質調査、これに浮薄な次野先生が嫌気を感じて、何かと理由をつけては宜蘭河の支流や得子口渓の上流の山中へ分け入ったこと、そして私が父から拝領した「盛国」を携えて同行したこと、やはり玉界との出会いへ手招かれたのは次野先生だった。

「そもそもだ、愛玉子という名の由来はだね、その実を水の中で揉みだすと固まって寒天状になるということを発見した人がだね、自分の娘の名をつけたとされているんだね」
「するってぇと、玉子っていう名前ですか?」
「そんな芸子みたいな名前じゃないよ。君、ここは台湾だよ、愛玉だろうよ」
「アイギョク…待ってくださいよ、私もそうですが、先生も台湾へは初めていらっしゃったんでしょ?予め愛玉子について勉強なさったんでぇ?」
「勉強なさったとかいうほどのことじゃないよ。滝本先生のようにだね、米の増産に命を懸ける、といったように腹を括っていないだけだよ」
「腹を括っていない…するってぇと、先生は台湾へは、さほど望んでいらっしゃったわけじゃないと?」
「何を言っているんだ、君は。するってぇと、するってぇと、と何かと江戸弁そのままに…私はね、ここ台湾へ、ここ宜蘭へ、もの凄く望んで来たんだよ。だから滝本先生の推薦をもらうために必死だったよ。君、聞いているかい?」
「聞いています…先生、先生の南部大拳、使えるように…」
「抜いてはいかん、こちらから刺激してはいかん…どうやら武器らしきものは持っていないようだ」
「漢人ではないような…蛮人、クバラン(噶瑪蘭)でしょうか?」
「柄から手を放したまえ…おそらく漢人と同化した種族だろうね」
「やり過ごしますか…」
「無論だ、我々は悠々たる日本人だ…明治十一年に弓矢の蛮人に対して銃を発砲している清国のごときではないのだから…」

 私が次野先生の南部式自動拳銃、陸軍からの伝聞でいう南部大拳を握らせてもらえたのは、翌々にあたる明治三七年の早咲き山桜の二月も末だった。名誉なことに、南部大拳を手にできた練兵経験のある民間人としては、おそらく私が二人めであったろう。何故なら次野先生の御伯母上が、陸軍中将にして工学博士、南部麒次郎(きじろう)夫人であられた由、渡台の任を得た甥へ南部博士から直々に授けられたからである。
 私の手に南部大拳は「盛国」のように重かった。それは敵を射抜く斬るといった道具としての重みではなく、滝本先生が満足そうに手渡してくださった紫水晶のように、単純に選ばれた鉱石の練磨と造形の極みとしての重さだったように記憶する。
 ここまで鉄の意匠について書いてくると、血気盛んな青少年諸君は、南部大拳の号砲と轟音、その殺傷力の描写を期待するかもしれない。しかしもって私が「盛国」を抜いて、酒宴の痴話喧嘩を抑制すべく長押を斬りつけてしまったこと、包丁がなくて不覚にも万寿果(パパイヤ)を切り分けたこと、そのような自らの恥かき事は面白くも書けようが、南部大拳については一切書けない。不肖私が知る限り、次野先生は一度も南部大拳を使用されたことがなかったからである。
 親しみから勝手に青瓢箪などと形容させていただいた次野先生は、不運にも灼熱の疲労からか病を得られたのである。未だ衛生所の完備が整なわない中、熱帯特有の麻剌利亜(マラリア)に侵されて、一年半年も経ずに帰朝の憂き目に遭われたのだった。
 惜別の日、山桜は劇的に朱よりも深く赤かった。それは噶瑪蘭たちの宴に供せられる山羊や鹿の鮮血ごときである。私は愚かにも晴天に映える紅を梅に例えて、幼少時に京都の梅宮大社で遊ばれたという次野先生を些か泣かせてしまった。

「そもそも…君の脇差しにしてもだね、この弾なしの銃にしてもだね、実用的な鉄鋼、鍬や槍矛の成れの果てじゃないか…まあね、こんな意気地なしには必要なかったわけで…何を笑っているのかね?」
「申し訳ありゃせん、こんなときに…弾なしから勝手に連想しちゃいやして、馬鹿もいい加減にしろっていうか…先生がまだお元気だった八月頃でしたかね、よく宜蘭河に水浴びにご一緒くださったじゃないですか」
「ああ、あれは楽しかったね…君は相変わらず江戸弁そのままに、詩情たっぷりなここ宜蘭を語ってくれる」
「あんときに水浴びをしながら先生が仰りやしたこと、対岸の蛮人の女たちを見ながら仰りやしたこと、憶えていらっしゃいますか?」
「蛮人の女たちを見ながら…女たち…ああ、思い出したよ。たしか女たちの乳を見ながらだね、君の性癖について意見させてもらったよね」
「ええ、私が興奮しちまって股間を気にしていたら、陽に焼けた乳を見て勃起しているのは愛情を伴わない反射行動にすぎない、とか先生が仰って」
「実際にそうだろう、今でも君は」
「ええ、何とでも仰ってくださいよ…おやまあ…もう先生、こんな綺麗な娘さんの前で乳がどうこうなんて言わせないでくださいよ、もっとも日本語は分からないでしょうが」
「忙しないね、君の話は。それが、チョウチャ(玉界)が持ってきてくれたのがアイギョクシ(愛玉子)だよ。食べてみなさい、京都の葛菓子に似ていて…玉界に作らせたんだよ」
「あの子に作らせた…大丈夫ですか?」
「何を言っているんだね、失礼な、玉界は清純そのもので朝夕の沐浴を欠かさない子だよ。母親はクバラン(噶瑪蘭)らしいが、父親は漢方と陽明学に通じているリン(林)家六代目のセイハ(成波)先生だよ。先月から熱冷ましの薬を届けてもらっていて…凄ぶる聡明な子で…知識に貪欲で…愛嬌もある」
「こいつはうめぇ、失礼、美味ってもんじゃありゃせんか…」
「ちなみにだね…父娘そろって、林先生ご本人も娘の玉界も、本朝人顔負けに日本語に堪能だから…君のべらんめぇ調の江戸弁が気になるんじゃないかと…」
「するってぇと、先生、っていうことはですよ、乳を見て勃起している、なんて私が言ったことは…」
「ああ、それはそれは随分と助平な嫌らしい男だと思っただろうね」
「勘弁してくださいよ、私はただ水浴び場で先生が仰っていたことを思い出しただけで」
「笑うと苦しい…君の性癖などと言ったが、要は君の性体験が乏しいだけなんだろうね」
「だから私が言いたかったのは…私の股間の話の後で、十代の終わりに…おたふく風邪をやって種無しになったもんだから…健康な私が羨ましい、って先生が仰ったことで…申し訳ありゃせん、こんなときに」
「そんなことか…苦しい、笑わせないで…水がほしい、玉界を呼んでくれたまえ」
「あの子を呼ぶんですか…私は助平な嫌らしい男で…」
「いいから呼んでくれ…何だったらお代わりしたまえ、玉界の乳房のような愛玉子の鉢をだよ」
「もう勘弁してくださいよ。先生はね、宜蘭に残る私に嫉妬なさっているんですよ」
「それはそうだ、この麗しい島…この世は宜蘭だ」

                                       了
数III方式 ガロアの理論

数III方式 ガロアの理論

  • 作者: 矢ヶ部巌
  • 出版社/メーカー: 現代数学社
  • 発売日: 2016/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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救貧院   Naja Pa Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

「世が世なら…ポークチョップが好きなリィディアも…イングランドを代表する美女だったかも…」
 リィディアは彼女らしくなく呟くように母グロリアの口調を真似てみせた。
「美女ね…ミセス・ショアは確かに美女だったわ。ここも、バンクェッティング・ハウスも、お母さんと一緒に来ているのでしょう?」
 エマはセント・ジェームズ教会の尖塔にかかった陽に左手を翳してそう言った。
 リィディアは頷きながら掌をさらりと虚空に返す。母グロリアが亡くなって九ヶ月が経っていた。かつてはナイル河を遡上したリィディアとグロリア、シティのカムデン・タウンの友人医師を毎年のように訪ねた母と娘、そしてコッツウォルズの古英語の響きが懐かしいChipping Campden、その小さな市場には一昨年に訪れていたショア親子。時として姉妹のように見えさえもした二人の旅姿は記憶のものとなっていた。
「一昨年にここへ来たときは、あたしも母も…非ホジキンリンパ腫なんて知らなかった」
「ホジキンリンパ腫だって知らない人が多いわ」とエマは脇へやるように言った。
 真夏のコッツウォルズに翳りは似合わない。コッツウォルズストーンを積み上げて仕切られた家屋の内側には、老婆がなぞり飽きた少女時代の担任教師への揶揄笑いの記憶、そして奥梁に代々巣食ってきた蜜蜂たち、彼らはロンドンでのオリンピックの聖火が市道を走り過ぎた記憶を明瞭に持っていることだろう。そんな蜜蜂もふわりと午睡に誘われそうな通りに、大柄なリィディアとエマは俯きながら踏み入った。
「エマはやっぱり仇をとりたいんでしょうね」
 リィディアは舗道の敷石に舞い降りた紋白蝶を蹴るようにして呟いた。
「仇?…」
「そう、ホワイトヘヴンのお父様の仇よ」
 エマはリィディアの唐突な物言いには冷えていないエールのように慣れていると思っていた。
「ダグの?あたしがダグラス・ウェインの仇をとるって?」
「仇はともかく…『一七四抗のうち二十抗』を唱えていたお父様、あなたのダグが、あなたの背後にいつもいるのよ」
「そういう言い方はシースケールで酔っ払ったときだけにしてよ」
 エマはリィディアの二歳年下で四十一歳になったばかりだった。二人は共にウォーリックで学んで数学教師となり、奇跡的なのか宿命的なのか、一昨年にカンブリアのシースケール村で同僚として再会した。そして余計なことかもしれないが、二人は共に未だ独身であった。
「だいたいね、仇って何よ?ダグの思い出を持ち続けるのは仕方ないことでしょう」
 エマの父親ダグラスは、近隣のホワイトヘヴンの炭鉱医として一九八四年まで働いていた。ダグラスの父、エマの祖父は炭鉱夫として一家を養い、学業優秀だった息子をロンドンのキングス・カレッジへ進学させて医師への道を支援した。医師となったダグラスはインターン時代から北部炭鉱地帯に勤務して、エマが生まれてまもない頃に故郷ホワイトヘヴンへ炭鉱医として戻ってきたのだった。
「エマ、あなたには女性として幸せになってほしいの、あたしなんかと違うのだから」
 リィディアは舞うように大袈裟に手振って言い放った。
「そう、エマ、お父様の思い出は永遠のものだわ。でも…シースケールを出る時がきたのよ」
 エマは聞き飽きたというように逃げ足を早めた。
 コッツウォルズへの旅を促していたのは生前のミセス・ショアだった。そのときにはリィディアと一緒にチッピング・カムデンの観光を果たしていて、すでに非ホジキンリンパ腫という悪性腫瘍に侵されていた。娘が悪性腫瘍の研究者レオ・キンレンの報告論文を読んでいる傍らで、病床の母親は嬉々としてコッツウォルズの裕福な羊毛商人ヒックスのことをエマへ説いていた。グロリアが亡くなった年の末、夏になってからのコッツウォルズ行きを提案してきたのはリィディアだった。エマは忌まわしさの欠片もないようなチッピング・カムデンのことは忘れていた。
「逃げるわけにはいかないの、一二・九倍と二八・五倍からは」
 エマは吐き捨てるように呟いた。そして二の息を吸い込んで涙に咽る。父ダグラスの口癖「一七四抗のうち二十抗」が縋るように蘇る。閉坑を知ったときの悲哀は娘の耳にも馴染み過ぎていた。父親が無念さを記憶すべく呪文のように口にしていた閉抗させられた数、そして娘が忌まわしさを糾弾すべく片時も手放せない比率、地元セラフィール近辺のパブでは無論、ロシアのチェリャビンスクでも「いいですか、シースケール村で生まれ育った青少年は、英国平均に比べて、白血病で一二・九倍、非ホジキンリンパ腫で二八・五倍もの発症が認められているのです」を彼女は言い続けてきた、呪文どころか宣誓のように。
「エマ、待って、あれって、モーツァルトのアダージョよ、きっとそうよ」
 リィディアが背後で喘ぎながら言った。まるで救われたとでも言わんばかりに歓喜を捉えている。ヴァイオリンを断念して数学教師になった彼女は、明らかに十七世紀の堅実を保っているような建物を指していた。
「あそこよ、あそこが救貧院よ。誰が弾いているのかしら…あれはト長調のカッサシオン、第五楽章…」
 エマには救貧院から漏れているらしい音が聞き取れなかった。それでもリィディアが背後にいることは浮かれた心地にさせている。子供のようにモーツァルトを捉えたことが嬉しかった。
 エマは今晩、B&Bの寝床に入ったとき、リィディアに話そうと決心した。二人が再会してからも黙っていたこと、それは四年前、婚約まで交わした教師の同僚を白血病で亡くしていることである。

                                       了
林檎の木の下で (新潮クレスト・ブックス)

林檎の木の下で (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者: アリス マンロー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/03/30
  • メディア: ハードカバー



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漂木   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 三太郎トンネルに幽霊がでる。苔を被ったようなじっとりした短髪、宇宙飛行士のような白装束、そして苔と泥をカモフラージュしたブーツを履いているらしい。
「脚のない幽霊がブーツを履いていたら変でしょう」
 私は仄かに苛立って歯切れのいい標準語を発した。
「脚があってもよかとぅ、なんせアメリカ人の幽霊なら」
 私が島に来て最初の友だちとなった晃子(あきこ)だが、いきなり私の手のひらに背中ぶつぶつのオットンガエルをのせて「日本で一番きれいなカエルさ」と言った。後に先生から聞いたところ「日本で一番きれいなカエルは奄美イシカワガエルさ」とのことだった。何が言いたいかというと、晃子は分かりやすくて良い友だちなのだが、時として無神経なのである。
「苔を被ったようなって…あたしが去年、島に来る前、編んであげたキャップだよ。『ユザワヤ』っていう手芸用品のお店でさ、あんな地味な緑色、野菜ジュースのような色の毛糸を選ぶもんだから…」
 私は微妙に安堵したような息を吐いた。そう、幽霊は私の父である。私を悩ませているのは父である。
 そもそも私は父をヒルギなのではないかと思っている。ヒルギとは漂木と書くヒルギ科の常緑木で(しばらく付き合って)メヒルギ(雌漂木)とかオヒルギ(雄漂木)、ヤエヤマヒルギ(八重山漂木)とかがあって、奄美大島のような亜熱帯から西表島のような熱帯の干潟に、小さいものから広大に広がっているものまである森、マングローブ(おバカさんでも聞いたことあるっしょ)をかたち造っているそうな。そうだ、似たような仲間でヒルギダマシ(蛭木騙し)とかヒルギモドキ(蛭木擬)なんてのもあるそうな(うちのクラスみたいなもんかね)。そして父はこのマングローブの調査研究と再生植樹(父の口癖)を仕事としているそうな。ここまで書くと「ご立派なお仕事に携わっていらっしゃるじゃないのぉ」なんて、晃子のママさんばりに言うオバサン声が聞こえてきそう。晃子のママさんはパパさんと別れて十年近くになるものの度々、島に現れる横浜育ちのお嬢さま(晃子が言うには)である。いやいや、晃子のママさんのことはさて置いて、私の「ご立派なお仕事に携わっていらっしゃる」父のことだが、ともかくいつもずぶ濡れの泥だらけ、奄美はよく雨が降る環境に加えて干潟ばかり歩きまわっているから合羽姿(宇宙飛行士?)。酸性雨がちょっと心配だとか言い出したので、好みの色のキャップを苦労して編んであげたものの、雨と泥、時としてヒルギの葉っぱはもちろん皮や花、この前なんかは小バナナのような胎生種子(ちゃんと調べて書き写してるカレンもバカ茶髪)をカンザシ(簪)みたいに付けていたもんね。ああ、あの父にあってこの娘の私(って何を言ってるんだカレン?)。そして温かい島だっていうからついて来てみれば、冬は糀谷(東京都大田区糀谷)と換わらず寒くて、じとじと雨ばっかし…ああ、アランがいたイル・デ・バン(ニューカレドニア)とまでは言わないけれど、この頃はフリオと遊んだヤウンデ(カメルーン)あたりでさえも懐かしい。
 そうだね、自棄になっちゃいけないね。たとえ漂木のような男を父に持とうとも、今の日本じゃ聞くこともなくなったドイツ賢婦人を母に持ったのだから、そうだね、自棄になっちゃいけない。高校で英語を教えながらも、私の制服にアイロンをかけてくれて、どこの豚肉であろうが定形定厚のハンバーグとして焼きあげてくれる母クララ、クララを見習って整理しようかね、私と家族のこと。
 私は中田可蓮(ナカタ・カレン)、奄美市の高校に通う十六歳の女子。母はシュツットガルト生まれの中田クララで英語教師、ついでに父はヨーロッパ・アフリカを渡り歩いてきた中田英雄(ヒデヲ)で林野庁の技術者だそうな。
 私は母のハンバーグを平らげた後、母と晃子、そして常識的な奄美の皆さんに成り代わって、レント(黒糖焼酎)の一升瓶を抱えて座ったパンツTシャツ姿の父に問うた。
「どうしてさ、あのトンネル、三太郎トンネルを抜けてくるの?晃子がね、トンネルの向こうの小学生とか中学生が言っている噂を聞いてきてさ、三太郎トンネルに幽霊が出るって」
 父はふんふんと頷きながら、ぐいっと透明を髭面の喉へ流しこんで、頬杖をついてふっと息を吐いてから言った。
「つい最近まではさ、三太郎先生が茶屋をやっていた峠、あの峠を何も気にすることなく越えて戻ってきていたんだけどさ。あの辺の藪はハブに気をつけたほうがいいな」
「ママ、パパはハブが怖いんだって」
 父はまた頷きながら一口飲んで嬉しそうに言った。
「俺も歳をとったかな。アフリカで野犬を撃ったり、コモドでオオトカゲを刺したり、そうだね、昔のことさ」

                                       了
イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者: アリス・マンロー
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/03/29
  • メディア: ハードカバー



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いずれ采女か   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 杉原等崇(とすう)が、山本芳香堂の桜羊羹を頬張ったとき、テルモの祖父は濃いお茶を啜っておもむろに凄いことを言った。
「仕事がないとか、失業中とか言っている人は、犬の代わりをすればいいんじゃないかと思うのです」
 等崇はよくよく意味を咀嚼しないまま、頷くともなく俯くように目を逸らした。その目先の居間の敷居に、黄ばんだ青林檎色の割烹着を被った小太りの老婦がふわりと立った。いつも左手にコーラの赤いアルミ缶を持っている。老眼鏡と銀歯をひんやりと煌かせてさっさと消えた。居間の空気を茶化したようなその察過に、小鼻をふるわせて噴出し笑いを堪えた。
「冬瓜猫(とうがんねこ)…」
 不思議なもので堪えるあげく呟いてしまった。テルモから最初に教えてもらった、テルモの祖母のあだ名である。盆栽犬(ぼんさいけん)というあだ名を頂戴しているテルモの祖父は、さすがに静聴などあてにしていない校長経験者ゆえ、天井に微笑みかけるようにして続けていた。
「犬を飼っている九〇パーセント以上の人は、犬を飼う理由として、犬との触れ合いを挙げているそうです。実際に長く入院しているような人、そういう人たちを慰めるために、たしか…」
 盆栽犬は、苛立って若々しく反転するように反り返った。棚の新聞束から週刊誌を引き出すと、等崇の前に左手をヒットラーのように翳して、老眼特有の反り見で犬に関する頁を読みはじめた。
「あった…セラピー犬、セラピー犬とかいうらしい。この他には、盲導犬は言うまでもないし、車椅子を使っている人には介助犬、きついところでは災害現場の救助犬、それから麻薬の捜査犬、なんていうのもありますな。そうなのです、仕事がない人は、ああいった犬の代わりをすればいいと思うのです」
 等崇は正面きっての言い方に唖然とするしかない。内容以上に弁論大会ふうな語り口には、慣れたつもりでも相変わらず辟易してしまう。冬瓜猫に伝授してもらった唸り頷きで応ずるしかない。そして盆栽犬の皺頬を辿りながら背後の置時計を窺った。
 盆栽犬ことテルモの祖父は、等崇が家庭教師として教えている小学六年生、松本照茂(てるしげ)の父親方の祖父にあたる。この御仁は出入りする家庭教師や御用聞きに苔だけを盛った洗面鉢の盆栽を見せて、感想が芳しくないと、顔色がよくないとか、眠そうだとかこじつけて、居間に招き入れて渋い茶を飲ませる。夕食時にはきまって「歳をとってから肉が好きになってきた、これ即ち老いては狼犬のごとくあれ」を吹聴するこの祖父を、テルモは「入れ歯の盆栽犬やのに」と揶揄していた。
 テルモは言うまでもなく、同級生による照茂の呼び方である。奈良の近鉄の葛駅にほど近い歯科医院の一人息子で、放っておけば最近までは、市尾地区の造成中止になった空き地でサッカーばかりしていて、分数の計算を相変わらず間違えているような少年である。盆栽犬や冬瓜猫のような祖父母と同居しているが、そもそも歯科医院を営む父親とテルモの父子家庭だった。
 歯科医の父は旧姓坂上で、それはむろん盆栽犬と冬瓜猫の姓である。テルモの父、いまひとつぱっとしないショウメイ、照明(てるあき)は、川崎市の教員夫婦の坂上家に次男として生まれた。長男がお決まりのように教師になったので、少々利に敏そうな次男は金融人になる方向付けを促がされたが、ショウメイは親から逃げるように関西の歯科大学に行ってしまった。昭和の終りの年に卒業して、なんとか歯科医師免許を取得すると、ずっと交際していた松本歯科医院の一人娘、その娘婿としてあっさり収まってしまった。待望の男子テルモは、平成一桁生まれとして生を受ける。しかしテルモ三歳のとき、母親が旅行先で病原性大腸菌により急逝してしまった。こうして定年退職後の盆栽犬と冬瓜猫が、息子と孫の面倒見がてら大和の田舎暮らしも好かろうと、川崎から奈良へやってきた次第である。
 等崇が訪問しはじめたのは凍てつく二月、祖母の冬瓜猫は、寡男となって久しい息子と遊び盛りの孫のために八面六臂の活躍を見せていた。三度の食事は勿論、医院の隅から隅までの清掃を日課としている。そして何よりも懸念して目を光らせていることは、妻を亡くしてから女気の欠片も欲さない息子が、美人の助手と技工士に支えられて黙々と仕事をしている様だった。受診者が「肥えたお婆さんが猫のように走っておる」と言っているように、等崇も最初の訪問時に挨拶を交わして以来、落ちついて会話した記憶がなかった。階段を譲りあったときに「コーラがお好きなんですね」と聞くと、物怖じしない女教師そのままの口調で「好きじゃないわよ。ありがちな甘党じゃないのよ。学生時代の意欲への回帰の象徴がこれなの。つまりベトナム戦争にノーを言っていたころのね。ベトナム戦争は知っているわよね?」と言いながら缶を握りこんで軋ませてみせた。
 息子であるショウメイによると、母親の飄々とした賢婦ぶりは生来のものだが、多摩川の魚止めの青鷺ように苦みばしっていた父親が、随分と大らかで多弁になったことには驚かされたようである。
「照茂がほしいというので調べたのですが、犬ほど体の大きさを改良しやすい動物もいないそうです。だからチワワだろうがダックスフントだろうが、愛玩だろうが煩いだろうが…まあ、人と共に生きることが奴らの戦略なわけですな」
 ここでテルモに懇願され続けたものの飼うまでに至らない現実に及んだので、祖父としてはお茶をずずっと啜ってわざとらしく膝をたたいた。
「話をもとに戻しますと、先生はろくに大学に行っていないとおっしゃった。しかし、免状を持った教員にせよ、ろくに大学に行っていない家庭教師にせよ、あなたはあなた、やるべきことを遂行して俸禄を得ている。そうです、その自負があればよいのです」
 等崇は声にならないまま耳を赤らめて頭を下げた。結局はよく冷えた水で火照りをしめられたように感激している。ちゃんと時間の算段から結論を右上がりの傾きに向けている。さすがは現役を退いたとはいえ本物の教師だと思う。こういう素晴らしい身内が傍らにいながら、何故、適当な遊び相手のような自分が家庭教師として週に二度も来ているのか、困惑すること以上に不可思議な気分にさせられることも度々だった。
 ともあれ自分を認めてもらうことほど甘美なことはない。その日の等崇は睡眠不足も手伝ったのか、盆栽犬の高説が伝染したように御立派なことを言ってしまった。
「何て言うのか…こうしてお話を聞いていると、人に教えるということは、ラッキーな仕事なのかもしれませんね」
 水面の金粉を追っているような等崇の言い方に盆栽犬は大きく頷いた。
「照茂はなかなかいい先生に教えてもらっているようだ」
 盆栽犬はそう言うと、感激して達したかのようにがっくりと黙ってしまった。算段どおり時間内に治まって満足そうである。等崇も最後に褒め言葉を置かれては、満悦の面持ちで職責を実感するしかない。そんな二人の前の艶々している桜羊羹の上に丸めたちり紙が落ちた。羊羹の粘りに止まったちり紙は、階段の中ほどから凝視しているテルモの苛立ちを如実に示していた。
「そろそろ時間なので…」
 等崇がソファから立つと呼応するかのようにテルモが階段を上がる足音がした。盆栽犬は頷きながら放縦気味にてれっと言った。
「気をつけなくちゃならないのはひとつだけです」
「気をつける…何でしょう?」
「女ですよ、お・ん・な」
 等崇は不意を討たれて聞き返そうとした。確かに「おんな」と言った。見抜かれたように肋骨の裏の腑が軽くひきつったような感じだった。気がつくと盆栽犬は笹竹が繁茂する庭の方へ向いて背を見せている。脈絡なくからかい半分で洒落て言ったことじゃないか。女体を知らない等崇は、前立腺の噴孔に群がった痒みを蹴散らすように階段へ足をかけた。
「モスラと爺ちゃん、なにを話してたん?」
「人間が犬の代わりになる未来について」
「なんやそれ?もうええわ、犬の話は」
「あとはモスラの大学のことさ」
 等崇は近眼が一目瞭然の分厚い大きな丸眼鏡をしているからモスラである。テルモと同級生のヒミコこと金田緋美子が、等崇に会ったその日にヒミコの部屋でそう決めてしまった。
「大学?モスラは京大やったな?」
「ごめん、あれは嘘なんだ」
 テルモはびくりと顔を上げた。お河童の前髪をけっこう揺らして驚いていた。
「驚いたか?」
「驚いたっていうか…ヒミコの言ったとおりや…ヒミコ、やっぱり凄いなぁ」
「ヒミコがなにか言っていたのか?」
「先月や、みんなで植物園に行った日、モスラの部屋へも行ったときや。あんときの帰りにな、ヒミコがな、モスラの大学って本当は東京の方やないか~って言っておったんや」
 等崇は些か赤らんでいた自分の頬がゆっくりと醒めていくのを感じていた。
「ああ…そうか、牛渡先生からの、東京からの宅急便の包みとかを見たら一発で分かるもんな。テルモは吉祥寺大学って聞いたことないだろうな」
 テルモは小さく嘆息をもらしながら算数の問題集を引き寄せた。
「紹介してくれた人は、牛渡先生の友人で、ちゃんとした京大の助教授で、甲殻類、海老とか蟹とか…がっかりしたか?」
「どうでもええ、大学なんかどこかて。それよりも、ヒミコってやっぱ大人なんやな~、とか思って」
「大人?ヒミコが?」
「みんながよう言う、ヒミコは大人やて。何でやろうな~思ってな」
 日曜日の二時間なんていうものは、面積の計算の合間にテルモのサッカー談議につきあっていれば光陰である。しかし女性の早熟さを実感しはじめたテルモに、ノート上の求積計算はとても味気なく辛い。テルモは安部山の上空に浮かぶ雲に定規をあてながら、モスラが古生物学者の牛渡と夢中になっている絶滅種の話に流れようとしていた。
「アンブロが恐竜やったらもっと注目されたとちゃう?」
「アンブロケトゥスは鯨の先祖だから哺乳類」
「こんなん山の中で、鯨とか言われても想像できんわ」
 早い雲から目を戻したテルモは渇いたような吐息のまま言った。
「これから壺阪山やろ?一緒に行ってもええかな~」
「ヒミコに門前払いだろうな」
 テルモは苛立ちまぎれに生え揃わない牙を見せた。そして安部山に向かって定規を上段にふりかぶった。すると羽音のような気配が窓の前に止まった。目を凝らすと、ぼんやり鈍い鉛色で鶉の卵大の…甲虫?通りかかった人が振り返るように、垂直飛翔したまま頭部をテルモの方へ向けた。仰け反って、勢い定規を投げつけてしまった。
「見た?何やあれ…」
「何でもいいから定規を拾ってこい。盆栽犬、お祖父さんの頭にでも刺さったらどうするんだ、まったく」

 等崇は葛から壷阪山へ向かう電車へ走って乗りこんだ。呼吸が整ってくると車窓から流れ込む陽光が優しく見える。あいだに市尾の駅があるのでしばしまどろむことができた。
「吉祥寺大学よりも武蔵野大学、そっちの方が響きよかったかな。まあ、どうでもええ、って言われちゃったけれど」
 浪人崩れの偽学生が、昨年の師走に畿内にきてから明けてはや七月になっていた。生活のためとはいえ偽学生が算数を教えている。教えた経験もないままに、指示されたお宅の小学生に手取り足取りで問題を解かせてきて、子供たちの気持を丁寧に抱えている自分、仕事に責任を見出してきている自分、はぐれ烏と自負する等崇本人がそういった心境変化を確実に感じていた。
 何事であれ一事に傾注していることは大なり小なり生活に繋がってくる。きっかけは浪人してからの補習のときだった。牛渡は半ば居眠りしながら数学の試験監督をしていた。一生懸命に積分の計算に取り組んでいる二十二人は、理工系志望なのに数学がいまひとつぱっとしない連中だった。答案をあげて牛渡らしく右から左へ採点されて返されると、等崇は一瞬戻りかけて牛渡を睨んだ。
「面積がマイナスなんて、おまえはアホか、とはどういうことですか」
「どういうことも何も、面積がマイナスなんておかしいと思わないのか、アホかどうかはともかく」
「アホでも構いませんが、面積を求める計算の結果がマイナスなのは計算が間違っている、もしくは、計算の結果がマイナスなのは面積として認められない、どちらなのでしょう」
「ほう、そうきたか。こういった問題は計算が間違わなければマイナスになることはないように作られている、つまり君の計算が間違っている。そしてこの場合の面積の定義としては、測度という集合関数、つまり面積を決める元の関係が、ゼロから正の無限大の間で定義されている、おそらく。よってマイナスの数値は認められない、この場合はね」
 牛渡は鼻毛を指先で玩びながら流れるように言い切った。等崇は脊椎を痺れ走ったものを感じた。そのまま化石掘りが専門で仕方なく予備校で数学を教えている牛渡に魅せられていった。数学は基礎が大事だ、と訳知り顔で言う大人は結構多い。しかしそう言う大人たちの殆どが、基礎が立つ公理等の認識の危うさなどは知ったことではないだろう。牛渡はその危うい基礎を遥かなる番外編として話してくれた。等崇は拾われた犬のように付き纏った。こうして師と仰げる遭遇を持てたことは幸運なことに違いなかったが、等崇の身勝手と「助平ジョーンズ」と揶揄される牛渡の性格もあってか、肝心の受験勉強はそっちのけになって、牛渡の本業である発掘旅行などにも同行していた。それでも二十歳を過ぎて少々先の見える生活をするには、社会と折り合う懸念を抱えながら一人旅立たねばならないときがやってくる。まして師の立場にある者が独立不羈の見本であれば、尚更のこと旅立ちは自然だった。
 等崇がさほど躊躇せずに師走の京都駅に降り立ったのは、中学の修学旅行の優美な記憶に因ることは否めなかった。絶対の兆しは修学旅行の最終日にやってきた。
 清廉この上なく凄惨なまでに美しい人を見たのである。比叡から白川へ下って東山界隈の寺巡りの翌日、半日だけの奈良観光にあって東大寺の次に春日大社の本殿にたどり着いた。何人かの巫女が優雅に応じていた。そこにその人はいた。中学生の歩き疲れた股関節がするすると揺れた。その人は朱色の袴の台座に捧げられている人型に抜かれた和三盆だった。この世には食欲に似た狂おしいほどの玄妙な甘さがある。ありえぬままに冷めた糖蜜が紅を嘲るように血潮を満々に孕んだ唇を持っていた。瞳は存在しているのだろうか。毛氈苔の捕虫葉を思わせる長い睫毛に守られたそれは、伏せていれば猛禽の威を秘めていて、幸いに捕捉された参拝者は金色の瞳に射抜かれることだろう。そして信じられないことに顔という概形をもって人のように微笑んでいる。呼吸を忘れさせて危うさに手招く巫女というものがあろうか。美はえてして期待に沿うべく反抗の姿態をとることがある。昼の陽は童女のように彼女の辺りにだけ自在にあった。彼女のあわせられた白い胸元は、女らしい脹らみをもたどらせず硬質に愚礼を拒否してすでに神聖だった。さらにくびれた腰から落ちていく朱の袴だけは、六、七人の巫女の中にあって泣きたくなるほどに艶めかしく赤々としていた。彼女の袖口の緩やかな羽ばたきに天女を想っては陳腐だろうか。いや、おそらく彼女の袂にこそ甘美な中天があるのだ。中学生の等崇は快感と格式による煩雑な記憶を確実に持ってしまった。
 六年ほど経って大晦日の春日大社の参道を歩いた。彼女はいなかった。常人離れした月采女のような顔を隅々まで捜したが見あたらなかった。何故か、失望よりも遠大な羽ばたきを見送ったような心持になって、嬉々として興奮したまま牛渡へ電話した。すると牛渡は呼応するように朗報をくれた。京大で助教授をしている友人に掛け合ってくれて、小中学生対象の家庭教師の口を斡旋してもらえることになった。元来ユニークすぎる助平ジョーンズと呼ばれている牛渡の口添えなので、まともな児童に受験向きな算数を教える、などという正真の大学生めいた家庭教師ではない妙な予感もあった。助教授の奥方の一家が関わっている特別な児童を相手する家庭教師会で、具体的には、ひきこもり、登校拒否、自閉症関連、高知能児などが対象ということだった。
 正月三が日も過ぎてから、伏見の竜馬通りの裏にある本部を訪ねた。アインシュタインのような爆発白髪の塾頭は「変わりもんの牛渡せんせが言うとったよ、あんたもなかなか変わりもんかて」と言って迎えてくれた。そして誤複写の塵の中から配布前の問題用紙を取り出して「このつまらん問題に渋ちん(ケチ)をつけてくれ」と言って等崇へ突きつけた。三角関数の問題の不備を遠隔に指摘したつもりが「素晴らしい、そやけど今日は初顔合わせやから緊張もおますよって、まともな指摘でしょ~もないわな」とはんなり認められた。そして多忙極まる二月を前にして「特殊預りいうのもなんやけれど、受験と関係あらへんし、土曜か日曜、どっちゃか先はんの都合によって、ちょいややこしいお子の数学、いや算数を見てくれやらん?」とややこしいお子に算数を教える旨を要請された。もちろん所持金もだいぶ淋しくなっていたので即答で引き受けた。
 等崇にとって数学は時として魔の辻板だった。会ったこともない助教授の奥方から桃山の古びた格安四畳半まで紹介されて落ち着くと、カップヌードルを啜りながらシャツの袖を見ていると、格子縞がぐわんと投網のように広がって対角線論法の数表に見えてくるのだった。やっと女の肢体を愛しむ凡夫の日常という脚立に上がれたと思った矢先、消毒された冷たくて硬いリノリウムの床に落下せよ、とカントールはまた性懲りもなく言ってきている。しかし定めて行為が扉を開くとおりである。牛渡がくれた自閉症児だった数学者ジーゲルの伝記を読みながら嘆息ばかり洩らしていると、テルモの忙しい父ショウメイから電話をもらって、週末にはぬかるむ聖櫃に踏み込むように橿原神宮前で乗り換えたのだった。
「それにしても、数学も確かにアホを振りまわすけれど、ここに来てしまったのは、やっぱり天に帰ってしまった彼女のせいだな」
「女か…」と等崇は吐き出すように言って、笹竹ばかりの庭を見ていた盆栽犬の背中を思った。
「そういえば女はどうなんだろう。男が女に縁遠いように思っているように、女も男に縁遠いように思っているのかな」
 等崇はこういう朴訥にお邪魔したような言い方が気に入ってきていた。随分と和やかな目線になったものだと微笑む。見回してみればそこは古代の残り香ばかりである。そこに自分を魅了した幾何的な絶対はすでになかったが、まさに懸恋の地で自分の鏡像にも似た子供たちのことを想っている。次はヒミコだった。
「男がする数学というものを女もしてみんとな」
 等崇はそう呟いてから壷阪山のホームが接近してくるのを見ていた。そしてこれから会うヒミコの上目遣いと怜悧な顎を思い浮かべて苦笑した。
 ヒミコは一般にいう四世にあたる在日韓国人である。女の悲哀な顔を見逃せないまともな男であれば、少女ヒミコの成長した姿を想像してしまう自分の助平さを納得するだろう。彼女は飛鳥の野で細首を傾げる生まれながらの采女だった。その采女の算数を中心に見てほしいということで、洒落た暗灰色の内装で統一したKJという焼肉レストランを訪ねたのは春休み直前だった。前年の初夏に日韓共催のワールドカップがあったので、サッカー好きな父親が経営するKJは、ヒミコと同じクラスのテルモもよく知っていたので案内してもらった。
「男の子なら才能があればサッカー選手、ちょっとなかったら審判…しかし女の子やさかいね、ふつうにお嫁に行くっていうもええけんど、頭がいい子やったらそれを伸ばしてやりたいんやわ」
 鶴橋の肉屋の丁稚あがりだという筋骨隆々の父親は、引き伸ばした朴智星(パクチソン)がドリブルするパネルに目を細めながらそう言った。
 確かにヒミコは父親が自慢するだけの娘だった。等崇が尋ねる前から中学の数学をやっていた。そして最初に真剣な顔で約束を交わさせられた。
「うちが中学の算数、ちゃう、数学をやっていることは絶対にヒ・ミ・ツ、ええね。もし誰かに知れたら…石舞台でドク飲んで死んだる」
「なにを言っているんだ、数学者で自殺した人は俺が知る限り一人もいない」
「うっそや、いっちばん自殺が似合いそ~な感じや。女の子にもてそうにない近眼の青白~いモスラみたいな人が、問題が解けなくておつむ掻きむしって自殺するんかと思った」
「そりゃあ頭がパアになったら分からないけれど…でもパアになったら自殺する気もなくなりますわな」
 等崇は自分の関西弁に鳥肌めきながらも続けた。
「それはともかく、なんで石舞台なんだ?あんなところまで行かなくてもいいじゃないか」
「あそこがええの。学校とか道頓堀とかで死んだら、何か不満を持っとったみたいで、みっともへん気がする。不満なんかあらへん。あそこだとな、大和の前の前のずっと前の縄文時代の気持ちで死ねそうなんや」

「数学ってな、建築とか、ロケット飛ばすとか、そない言うことには役に立ちそうや。でぇも、うちはCGみたいなひらひらしたようなことやってみたい。ねじれちゃったんとか、ぷっくらしておるとか、そない言うこっても表現できるはずやろ?」
 いつも問題の解答が横たわって動かなくなるとヒミコは空しそうに尋ねてくる。それも子供じみた効用のあるなしや歯応えないことの愁訴などではない。ただ率直に才能を感じさせられるものだった。来年には微積分を教えるようになるかと思うと少々気が重い等崇だった。
「これ持ってって、お願い」
 帰りがけにヒミコは、不愉快そうにベッドの下から黒くて薄いプラスチック箱をひっぱりだして押しつけてきた。A4サイズのノートパソコンである。彼女の上目遣いと真っ白な手の下で、製造元ACERの文字が白銀色に鈍く輝いていた。
「どうしたんだい、いきなり」
「ちゃんとした日本製が欲しかったんやわ。それはそれでもう注文しちゃったから」
「持ってくわけにはいかないだろう」
 ヒミコはタオルでも渡すようにノートを押しつけて机に向かった。
「お父さんがな、言わはったの、やれば、モスラにでもって」
 等崇は憤慨されるのを覚悟しながら開けかけた蓋を閉じて言った。
「それじゃあ、お父さんに返してくるよ。お父さんも本当はパソコンを覚えたがっているようだから」
 背を向けていたヒミコはわざとらしく机上に突っ伏せた。チョコレートと薄荷の匂いが踊るように広がる。むろん等崇の教師ぶりを萎えさせるには充分な塞ぎ様ではあった。
「あのな、持ってってもらわんと往生するんよ」
「往生する?困るってことか?どうして困るんだ」
「お父さんがな、うちのおらんときに、電源を入れてな、中を見たら…」
 ヒミコはいつものようにぐんと仰け反って訥々と言いはじめた。幽鬼のような乱れ髪のまま天井を見上げるのも慣れたものである。そして軟体動物の触手が絡みつくように等崇の右手首を取って白痣を擦りはじめた。
「モスラは、きっと、お父さんに、殺される。なんでやと思う?聞きたい?」
「一応聞いておきますわ」
「うちの悪夢がむっちゃ書いてある。それを最初にモスラに読んでほしい」
「悪夢?また石舞台がでてくるのかな」
 ヒミコは脛をまわし当てるようにして等崇の鼻先へ顔を近づけた。甘らんだ薄荷の匂いが解禁されたように放たれた。
「海や、夜の海にぽっかり浮かんだフランスパンのような潜水艦」
「潜水艦?そりゃあテルモの夢みたいだ」
「潜水艦の上でな、モスラがな、うちのアイボを壊してしまうんや」
「アイボって犬のロボットの?どうして俺がそんな乱暴なことをするんだよ」
「アイボが狂ってな、うちの首に咬みつきそうになって、モスラがうちを守るために壊してバラバラにしてしまうんや」
 等崇は夢らしい支離滅裂とは思いながらも小さく息を呑んだ。
「モスラは血だらけの手で、バラバラのアイボを海へ投げ棄ててまう。格好ええわ~。そんな夢がぎょうさん書いてある」
「そっか、パソコンよりもアイボがほしいんじゃないか?テルモは生身の犬がほしいって言ってたけれど」
 ヒミコは悪夢を真剣に語ったのか、等崇の肩すかしに怒りの眉を吊り上げて窓辺へ立った。男子をさて置いて激越の感情を持っている緋美子。さっさと事務的に退散することが大人の手並みである。等崇は四時に長針が架かりそうなことを確認しながら封筒を引き寄せた。
 テルモとヒミコは高取町のたかむち小学校の生徒だが、次の二人は明日香小学校の六年生で幾分か授業の進度が異なる。四人共々、モスラという家庭教師を通じて知り合う仲にはなっていたが、明らかに各々の惑星環境は違っていた。次の最も体力がいる岡寺のクロちゃんに備えなければならなかった。
「怒ったのか?ヒミコ」
 ヒミコは乱れた前髪に指をかけたまま中腰で止まっていた。視線は窓下に向いている。薄い胸が上下していて、いつになく興奮していることが見て取れた。

 岡寺の駅から二十分ほど歩くと、かつての豪農の屋敷を彷彿とさせる宅が見えてくる。クロちゃんこと黒田一義も一人っ子だった。父親は地元の信用金庫の職員だが、土地持ちの税対で大根や南瓜をこつこつ作っていた。
 その日のクロちゃんはいつにも増して情緒不安定が歴然としていた。
「アホウドリは中学には行けんわ、って言うて…」
 クロちゃんは算数の教科書を掴んだまま縁側から雲蚊の見える裏庭へ出ていった。例に よって人目を気にせずにうろつける古墳跡だろう。そのあたりの墳墓としては小振りな円丘には、簡単に梟の巣箱とも犬小屋ともとれる御稲荷が祀られていた。
 等崇は小太りな背を揺すってずんずんと行くクロちゃんを追いかけていった。
「アホウドリ?誰がそんなことを言ったんだ」
「お母ちゃんに決まってるやろ!」
 等崇はクロちゃんの怒声よりも夕陽に向かう背影に驚いてしまった。彼の猛進が熱気と汗ばみを持っているせいか、蚊を差しおいて大小の羽蟻が群れ囲んですがりつくように舞っている。何やら苔むした祠柱が些か切なく見えてきてクロちゃんを立ち止まらせた。
「からかわれたんだよ!」
「なんやて!アホ言うたってか?」
「中学校は義務教育なんだよ。行きたくなくても行かなきゃならないんだ」
 クロちゃんはコルクを捻り切るような奇声をしぼった。そして振り返りざまに教科書を投げつけてきた。
「アホやからアホ言うたってか…」
「俺も経験があるよ。セブンスターはセブンティーン、十七歳から吸っていいって言われて吸ってしまった」
 等崇は教科書を拾いながら自分の記憶の抽斗にあきれていた。
「セブンスターって煙草やろ?モスラは吸わん言うてたやん」
「そうや、煙草はセブンスターでもショッポでも二十歳を過ぎてから、未成年はともかく吸ってはいけない。俺の場合は、モスラの場合は金がないから吸わんだけだけどな」
 クロちゃんの豊かな頬の涙汗に羽蟻が魅せられていた。等崇はじっくりとした怒りを爪先に感じた。唸りながら教科書を救助旗のように大きく振って羽蟻を追い払う。疲れた最後の一振りは達したかのようにクロちゃんの側頭を叩いてしまった。
「お母ちゃんがな、恥ずかしいから中学に行かんでくれって…」
「そう言ったのか?」
 クロちゃんは嗚咽をたてはじめた。等崇は突進してくるのを察知して構えた。しかしその日のクロちゃんは、赤みがかった濁り雲を見上げて額に陰を深めていった。そしてやんわりと等崇の痩せ胸に突き当った。
「お母ぢゃんは嫌いや~、女はみんな、みんな嫌いや~、ヒミコかて嫌いや、みんなで僕のことをアホなデブかて思うとる」
「待て待て、女にからかわれるだけでも幸せだ、とか思うときがそのうちくるから。ましてヒミコまで巻き添えにしちゃあ…ヒミコのことは好きだろう?」
 等崇は両腕でクロちゃんの背を抱いて教科書を摺りこむようにがしがしと擦った。そして苦い舌打ちをして幾分か家庭教師になったことを後悔した。
「クロちゃんのお母さんは、冗談がうまくて、料理が上手で、楽しいお母さんだ。この前の南瓜の煮物、美味かったなあ。お父さんは幸せだよな」
「お父ちゃんもアホや!お父ちゃんもお母ちゃんにアホばっかり言われてんで」
「そうか、それを聞いて安心した。クロちゃんはこのまま冗談を笑いとばすお父さんそっくりの大人になるってことさ」
「でもな、お父ちゃんはな、子供のときは僕のように太っていなくて、胡瓜と算数が好きなウォーターボーイズやったんやて」
「胡瓜はともかくウォーターボーイズって何?」
「水球の選手やったんや、大阪の大学におったとき」
 そう言ってクロちゃんは涙湿った手をひろげて夕陽に翳した。
「僕の手もな、お父ちゃんに似てて広いらしいんやわ。テルモが言うたけど、叩くとものすごく痛いらしいで。そいでな、ヒミコはテルモのことが好きやから、僕の手は竜の手やから人を叩いたりしたらあかん、って言いおった」
「さすがにヒミコだな。やっぱりヒミコはクロちゃんのことも好きなんだよ」
「でもな、お母ちゃんに同じこと話したら、こんな野菜嫌いで肥えた竜がおるかいな、そう言うて…」

 等崇は暮れ馴染んできた飛鳥の通学路を早足で歩いていた。宵闇が黒煙のようにもたりもたり染みてきている。寂漠とした明日香小学校の校庭を右に見ながら飛鳥駅の方へ向かえば、高松塚古墳が近いヒデヨシこと中谷秀善の防風林に囲まれたお宅である。ヒデヨシは祖母から伝授された百人一首に詳しい文学肌ゆえの算数嫌いだった。等崇は幾分か汗ばんで黄ばんだ七分袖の口を見ながら、いつものように感情豊かなクロちゃんとの夕暮れの後に、夜を待ちわびていたようなヒデヨシの呟きを思い出していた。
「アンブロ…ケトゥス、アンブロケトゥスじゃなくてもいいんじゃない?」
「そうなんだよ、どうして、アンブロケトゥスが付き纏って離れないのか、分からないんだ。牛渡先生は、逆に水から出て陸へ上がってきたイクチオステガなんだ。両生類の先祖なんだが、そのイクチオステガっていうやつに付き纏われているんだ」
「そっちが普通なんじゃない。海から陸へ上がってきたのが…進化なんじゃないの?」
「そうか、そうだよな、ヒデヨシはそれが普通の進化だと思うよね。それじゃあ、ちょっと難しいけれど、普通の進化って何なのだろう?」
 ヒデヨシは珍しくシャープペンを放るように転がして言った。
「それは難しいよ、子供にとっちゃ」
「難しいよな、進化って。でもな、気軽に考えてみると、陸で生きとる動物が、水に戻っても、海に戻っても、それはそれでいいと思わないか?」
「いいと思うけど、この辺だったら、陸で駄目やから海に逃げるんやろ、とか言われそうだよ」
「ああ、そうか、そっちの方か。この辺じゃなくても、海に逃げたと大抵の人は思うのかな、逃げる前には、食べておかなくちゃならないんだが。魚とか、蛸とか、捕って食べなくちゃならないから、潜ったり泳いだりしなきゃならない」
 泳げないヒデヨシは両腕を抱えてうな垂れた。
「泳げないと、魚を捕れないと、食べていけないんだよね。だったら進化って…泳いで魚を捕まえたり、槍とかを作って獣を殺したり…食べるための競争でいいんじゃない?」
「決めつけなくていいと思うよ」
 ヒデヨシはシャープペンを握り直して先端を喉元へ向けた。
「テルモが言っていた、木の高いところにしか葉っぱがなければ、首の短い駄目な麒麟は死ぬしかない、って」
「そんなことはないよ、現に首の短い麒麟の先祖の化石が残っているんだから。首が長かったり、短かったり、分数の計算ができたり、できなかったり、ひとつの物事だけで決めつけられたら、誰も何もかも地球上では生きていけないよ」
「でもヒミコのように、ぱっぱっと計算できる頭の方がいいんじゃない」
「いいかい、知能は、脳が発達したのは、麒麟の首と同じで偶々のことだ。進化の行き着く先は、水から陸上に上がって生活したり、脳が発達してこうやって話せたり…そんなことは誰にも決められないんだよ」
 等崇は脱力したように足をとめた。父親が早逝しているせいか、ヒデヨシは恐る恐るながらも理屈っぽい会話を欲しているようなところがある。加えて等崇自身もついついその気になっていて、自分の台詞に自身がさほど照れていないことに気づかされた。
 たとえ海へ戻ることが逃避だとしても、生きることそのものが害悪からの逃避ではないか。代数幾何学をしこしこやるまでに進化したつもりの類人猿。半導体の進化などと言っても、逃げ惑う人間が作ったピノキオじゃないか、そんなものはクロちゃんやヒデヨシの感情の一端にさえ近づけないだろう。そして大多数の人間が共感をもって海へ戻る未来もありえるとしたら…。
 思わず辺りを憚らずに、月を探すように旋回して撒き散らすように言った。
「そう、あの子だって犬の代わりでもいいじゃないか。あの子の遺伝子だって大昔、始新世の大阪湾を泳いでいたんだ」
 等崇は青黒い獣が断崖から飛翔して饗宴の海へ落ちる凄まじい飛沫を想った。
「そのへんでやめておき」
 左後方から声がした。橘寺の方の蒼墨たる闇を仰ぎ見る。女と思しき枯れた唐黍を裂いたような声だった。
「かっこええなぁ、とは誰も思うてへん」
 大根の収穫が終わって土塊が匂いたつような一画があった。宴の後に放心しているような蛍光の点滅が見える。声はそこから等崇を威嚇したまま逃がすまいと続いた。
「大丈夫、今は何もせんよって、今日のとこはとりあえず脅し、脅しでやめておきまんねん」
「脅し?脅しって…誰が何で脅している…」
「そりゃそうやな、脅かされる訳を知りたいわな。せっかく偉そうに教えることにも慣れてきはったしな、あんたのような関東の屑でも」
 等崇は「関東の屑」の言に思わず摺り足で後退して身構えた。地元学生による邪険な怨嗟と思うのが現実的である。しかし蛍光の点滅はゆらりと闇に浮遊して接近してくるのだった。
「話せば長くなってもうて…中国の古代神話に二人の女神様がおってな、一人は女媧(じょか)、中国語発音でヌーワ、ヌーワは大地の女神や。もう一人は共工(きょうこう)、中国語発音でゴンゴン、ゴンゴンは大海の女神で、場所によっては媽祖と混同されとるわな」
 等崇は項のいやな汗が下に伝うと同時に、腰をへたへたと通学路の縁に落とした。
「そうやな、ここでの話は夢を見ていたと思うたらええわ。そやけど、先々のために図式的な関係いうかな、それは呼吸ができている間は、頭の隅に置いといてくれへんとな。簡単に言うとな、どうもこの世界では、千年に一、二度くらいゴンゴンの系統のもんが眼を覚ましおって悪さをするんや。それがどういうわけか、このたびは海からずっと遠い日本の大和地方の盆地の中っちゅうことになってもうた。ま、神話によればゴンゴンが最初に現われたのが広西から雲南の山奥やから、水を求めて海を目指して世の中をなぎ倒すっちゅうことは、ま、パターンやな。とりあえず、それはそれでええけんど」
「とりあえず…ええけんど?」
「そうや、ゴンゴンが悪さをして人を泣かせてくれんと、人は普段の地上の豊饒さを忘れてしまい、ゴンゴンを諌めて、分相応を分からせるヌーワのありがた味、それものうなってしまう。同じ女神いうてもな、人の姉妹と変わらへん。しっかりもんの姉は時々、貞淑いうことをやんちゃな妹に説かんと。そこで、乱暴に言うとな、ヌーワに創られヌーワに仕える我らが言うことはひとつや。あんたはそもそもゴンゴンの遊び相手、粋がりはじめたゴンゴンを、堕落させるために選ばれた駄目兄やん、のはずやったんやけどな。ところが、どうも見立て違いやったんか、男のお子たちには好かれて、女のあの子の気持も解らない鈍い奴で…あんた童貞やろ?」
「いきなり…童貞だっていいじゃないか」
「あかんわなぁ。あんたのような弱含みの変態がおるさかいに、ヌーワのきちっとした未来図の端に黴がつくんや」
「変態って…黴がつくぅ?」 
 等崇は順列組み合わせ算を間違えたような嘔吐を覚えて口許をおさえた。
「怒らはった?駄目兄やんでも意地はおますかいな、一応は数学から逃げんかったように」
「何でも知っている虫なのか…」
「そうや、こちらは何でもお見通しの虫。そのお見通しの虫が言うよって、あんた大人になりなはれ。このまま家庭教師のモスラ先生でいたいんやろ?」
「何をどうしろって…」
「だから大人になりなはれ。男のお子たちを、それこそちゃんとした受験生にしなはれ。そいで女の子は放っておき。こうなってくると、ま、あの子は駄目兄やんのあんたの手には負えまへんよって」
 枯れた京女のような語り口の蛍光は瞬々と虫の息そのものに明滅した。等崇は手強い言葉が土中の蚯蚓や芋虫をも戦慄させていることを願う。そして蚯蚓や芋虫を盾にする甘ったれも戦略のひとつであるべきだ、と縋り思うと臍下の腸でガスが動いた。
「屁しよって…この世界はな、そうやって屁をする駄目兄やんや、駄目僕ちゃんの泣き言を、いつまでも聞いておる暇はないんよ」
 笑ったような揺らぎの後の一瞬、僅かな灯光に照って鶏卵状の輪郭が見て取れた。
「作り物なんだろ…ラジコンで操作してるにきまっている」
「ラジコンやない。人間は逃げたらあかん、と教えられるわな。そうや、逃げんかった意志が、意思を持った我らを創りあげたんや」
「意思を持った…スカラベ?」
「そうや、この完全な我らの形状を見てフンコロガシいう人間もおるわな」
 畑奥の雑木林の方から電燈が踊るようにして来るのが見えた。
「フンコロガシの模型が自分の意思を持っているのなら…どうして関西弁なのだ。こっちの関西の人間が作ったから…」
 蛍光の双眼は抉らんばかりに等崇の鼻骨寸前に止まった。
「あんたは、ほんまにアホやなぁ。大人になりなはれ。ええか、お子たちにはこう言いなはれ。アホな大人になりたくなかったら、ちょっとばかりの論理的な思考から、分数計算などから逃げてはあかんと。そして、女の子には、お母はんのお腹ん中のような海へさっさと逃げたらあかん、とな」
 夜烏が鳴くような嘲り笑いが闇に広がった。そして掠れた呵々大笑は浸食するように腰腹のあたりを旋回して、一瞬静止したと思った瞬間に星空へ向かって見えなくなった。蛍光が消えて音声も聞こえなくなってみると、目前ではなく背後から囁かれていたような心地の飛鳥路だった。
 こちらへ向かってくる懐中電燈が等崇の汗まみれの腕を照らした。倦怠を伴った敏感そうな電燈の光輪を突きつけているのは秀善だった。ヒデヨシは阿修羅像のように不安に捉えられた眉尻をしていた。

 その年は七月の末になって梅雨が明確に明けた。
 テルモの父ショウメイは、夏雲とビールに絆されたような格好で、従業員の慰安のためと称して白浜に一泊旅行した。息子テルモは多忙を極める父の息抜きを泰然と見過ごしていたが、祖父母の盆栽犬と冬瓜猫は女三人に囲まれての泊まりは不埒千万と嗜めた。
「とは言うものの、杓子定規の教員家庭に生まれた次男としては、息子一人を守って実に健気に励んでいる、と私は思っている。加えて、暑さが淀むような奈良から、白浜あたりへ出て大洋の風を吸い込むことは、医者として健全たる証である、と私は言ったのだ。これ即ち老いては狼犬のごとくあれ」
 盆栽犬のどこか開き直った語りの終いに、冬瓜猫は苛立つままにコーラを呷って唸るように言った。
「あんたが助手の女の子とどこへ行こうと構わないけどさ、ここ暫く中学二年くらいまでは、もうちょっと照茂の相手をしてやってもいいと思うんだよ。だいたい体が大人になってくるだろ…そりゃあ、まあ言ってみれば、あたし等も息子二人をなんとか育ててきたし、教員として多くの子供、語り尽くせない様々な家庭を見てきたけれど…照茂の先々を思うと、不安ていうんじゃなくて…いきなり背後から呼び止められて、振り返った瞬間に、舌先をぱっと摘まれて、もう何も言えない、何もできないような気分になるのよ。そりゃあ、母親もいないことだし、孫のことを思う祖母さんの不安神経症でも何でも構わないけど」
 盆栽犬は傍らで語る古女房を凝視して珍しく問いかけた。
「おまえの舌先をぱっと摘まむ奴か、なるほど、それはおそらく女で、歳のころは四十代くらいじゃないか?」
「また精神分析医みたいなこと言っちゃって…ええ、たしかに女ですけれど、お父さんがついに照茂に買ってあげなかった、そう仔犬のように元気な十代の女の子ですよ」
 ショウメイは父母の戒めを遣り過す勢いのままに、息子テルモを海へ連れて行かなければならなくなった。そして冬瓜猫ならぬ母の六感に便乗して、父子二人だけはなく交友関係の詳細を見極めるべく、ヒミコとクロちゃん、さらにヒデヨシとモスラ先生にも同伴するよう声をかけた。ヒデヨシが行けない理由は不明瞭だったが、モスラ先生は下痢のついでに夏風邪をひいて寝込んで断られた。ショウメイは息子共々三人を連れて行くことで予約や経費割りを済ませた。しかし出発する前夜に松本歯科医院の電話が鳴った。そしてテルモが腕組みをして抹茶を含んだような頬でぼそりと言った。
「ヒミコがな、お腹が痛くて行けなくなった言うてるわ」
 テルモの落胆は、そのまま海水浴の中止につながった。
 等崇はいつもどおり週末に松本家を訪ねることになった。どうも薬漬けらしく風邪薬の他に安定剤なるものも服用していた。テルモは顔つきが少々疲弊している等崇に向かってやおら質問した。
「聞いてもええかな?」
「ああ、俺のことは気にするな。駄目兄やんの撹乱っていうところかな」
「あんな、調べたんやけど、生理っていうのは二十八日おきにくるんやな?そんな顔せんでもええわ、僕かて来年は中学生や。聞きたいのはな、女は誰でもぴったし二十八日おきなんかな、と思うてな」
「そんなこと…いきなり聞かれてもなぁ」
「ヒミコがな、昨日のプールも休みよったんよ、白浜に行くんをやめて何日もたっとらんのに。泳ぎは上手いんよ、ヒミコが泳ぎだすと水がふわーっとなるんや。分からんかな、水がな、長い着物を着ているように」
「天女みたいな、神社の巫女さんみたいにか?」
「巫女さん?そうや、ふわーっとして、しゅるしゅるっとして…あまり音も、水音もしない」
「それじゃあ、まるで水の女神だな」
 テルモは頷きながら机上の空気をクロールの手で掻き寄せた。
「なんかな、ヒミコの脚がな、去年よりも長くなったような気がするんや」
「女の子の体はそういうもんだ。複雑で難しいんだよ」
「女の子の体…この割り算みたいに割り切れないんかな」
「そう、いや、俺もまだ若いからよく分かってないが、こんな問題よりもずっと複雑なんだよ」
「女の子の体は複雑いわれたら話は終わりやな。分かった、ちゃんとやるから、もうひとつだけ聞きたいんやわ。あんな、速く泳ぐには、真面目な話やで、おちんちんがない方がええのとちゃうか?」
「じゃあ泳いだら男は女に敵わないって言うのか。くだらんこと言っていないで、いいか、ちょっとばかりの論理的な思考から逃げてはあかん」
「何やけったいな言い方やな、まるで学校の先生や。中学受験でもせい、みたいな」
 テルモは鼻白んだまま憮然とした唇で素直に問題を読みはじめるのだった。
 等崇は荒れた胃の酸い嘆息を吐いた。テルモの片時も休まない桃肌のような頬を見ながら、夏の終わりが淋しくなったのは十二歳頃からだったと思った。二次成長に伴ってプールサイドでも白浜でも彼と彼女は油断できなくなる。そして情熱と倦怠を伴う存続の分岐がそこらへんにあることは直感できる。しかし無邪気に水辺で遊び続けることは叶わないのだろうか。大袈裟に夏空に向いて大人になることを拒むのは、時間とダーウィンに対しての冒涜、それ以上の狂気なのだろうか。いずれにせよ水から出た彼らが淋しく思いはじめるときが近づいていた。
 壷阪山の駅では灼熱がとぐろを巻いていた。
 等崇は傍目には暑さに閉口したように陽射しに出ることを躊躇った。風邪気味の痩せた肺活が向かうことに臆しているわけではない。寝不足から下痢を経て夏風邪を手繰り寄せることになったのは、一過性の妄想と済ませられないスカラベが語った神話の挙句の脅しである。仕事ゆえに親の意向に沿ってテルモたちを受験生にすることは、耐えがたきを耐えて子供たちに嫌われること、それはさほどの受難でもない。しかしヒミコのことは放っておけなくなった。男気でもなく、ましてや助平な少女慕いでもなく、あのようなことを聞かされては放っておけなくなった。
「何をしてんねん、風邪ひいたみたいで機嫌がわるい言うたってだで、テルモが」
 ヒミコが逡巡な様子を見ていたかのように立っていた。確かに脚が長くなっているような気がした、この一週間で。しかも先週までの一抹の憂いの痕もなく女らしい微笑を湛えていた。
「まいったな、迎えに来てもらっちゃ病人扱いもいいところだ」
「迎えと違う、って言うたらがっかりやな。お父さんに言ってきたから、今日はうちと石舞台で夕方までデートや。時間はたっぷりや、クロちゃんとこはお母さんのお見舞いで、中谷は急に海遊館に連れて行かれたよって」
「どうして…どうして俺しか知らないことが分かるんだ」
 ヒミコは悪戯っぽく窄めた口をバッグに向けて紐のようなものを取り出した。綿白と瑠璃色を混ぜたレース編みのヘアバンドである。ヒミコは慣れた手つきで髪をかき上げて「面倒やなぁ」と呟きながら被った。
 等崇は近寄って彼女の額に収まったレース編みの象形に目を凝らした。一見して木の葉が連なり流れるように見えたのだが、正弦波のように上下して連なる流線形の一匹々から鰭のような足のようなものが覗いている。鰐一匹のロゴマークのシャツはよく見るが、睫毛の上のヘアバンドには数匹連なっている。これは…鰐じゃなければアンブロケトゥスじゃないか。半歩後退すると彼女は一歩近寄ってきた。
「鯨には何でもお見通しや」
 そう言ってヒミコは甘すぎる髪の匂いを散らしながら首を傾げた。

                                       了
量の測度【新装版】

量の測度【新装版】

  • 作者: アンリ・ルベーグ
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2016/11/19
  • メディア: 単行本



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Skipjap   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 日本人は桜を愛でながら、その純白が覆う天蓋の下で、時として迎えるように狂気を感じとっている。狂気を平衡の破綻と解すれば、感情は常軌を逸した固執か放縦に走るわけだが、この破綻した亀裂を誤解を恐れずに自由への逆光と言わせてもらえれば、日本人が奮えるほど自由を味わえる桜の樹下は、風が舞うアメリカにあるのかもしれない。
 ちなみに桜花の首都と自称しているジョージア州メイコンには、三十万本以上のソメイヨシノの木があって、毎年三月半ばには国際桜花フェスティバルが催されている。そして市は女性の殺人者アンジェット・ライルズ、斧の殺人者トマス・ウールフォークの出身地としても有名である。


 二〇〇三年 三月の終わりの週末

場所
 ジョージア州メイコン 西部地区ダウンタウンの桜並木を前にしたモリソン邸の前庭

登場人物
 ジェイムズ…ジェイムズ・モリソン、退役軍人、七十六歳
 トレイシー…トレイシー・モリソン、モリソン夫人、四十九歳
 アサオカ…浅岡兵衛、浜松の水産会社経営者
 サミー…サミー・ウェザーフォード、クリーク族を先祖にもつ州議会議員
 レイ…レイ・フランシスコ・アライサ、ニューメキシコ州公認調査員
 
(午後五時ごろ、上手はモリソン家の居間ベランダに通じていて、下手は庭を出れば桜並木の設定。芝生の中央手前に濃緑の丸大テーブル、同じ濃緑の背もたれをもった椅子が五脚、正面奥の隣との鉄柵は下手側奥は満開の桜で、上手側奥は樅の樹であまりよく見えない。テーブル上には壜のないワインクーラーとセッティングされているワイングラス)
(上手邸内からジェイムズが両手にシャンペンを持って、その後ろからレイが赤ワインと日本酒の壜を持って続いて登場。ジェイムズはやや無造作にシャンペンをクーラーに入れて、下手桜並木の方を仰ぎ見る。レイは丁寧いに壜を入れて揃えるような仕種からジェイムズの方を窺い見る)
ジェイムズ 日本人は「ハナハサクラ」と言って、この薄いピンクの白い花がともかく好きらしい。
レイ ハナハ…サクラ?
ジェイムズ まあ意味としてはThe cherry blossom is the best(花は桜が一番)くらいかな…思い出してしまった、日本からのお客さんもいるというのに。日本との戦争中だった、驚いたよ…爆弾を抱えた、いや、爆弾に人が乗ったロケット機が飛んでくるという情報で、日本人はそれに桜の名前をつけていたが…聞いたことはないかな?
レイ ロケットですか?
ジェイムズ ああ、ロケット機というよりも、ロケット弾に人が乗って操縦して、駆逐艦に突っ込んできたのさ。
レイ メキシコの親戚から、日本贔屓のメキシコの爺さんから、人が乗った魚雷の話は聞いたことがありますが、人が乗ったロケット弾は…
ジェイムズ 我々はそれを日本語のfoolishの意味でBAKA BOMBと呼んでいた。(振り返って上手の邸内を見ながら首を傾げて)その恐ろしいBAKA BOMBの日本人が、今度は化石化したようなSkipjack tuna(鰹)を持ちこんできた。何をやっているんだろう?薄く削いでいるようだが…SkipjackよりもBonito tunaと言ったら…魚は?
レイ アサオカには申し訳ありませんが、僕は生の魚はだめで…化石化した魚を見るのは博物館以来ですが、やっぱりだめですね。
ジェイムズ 彼は陽気な漁師だ。女はどうして陽気な漁師に惹かれるのだろう…
レイ 僕には、奥さんがアサオカに惹かれているようには見えません。目の配り、そして体の距離の置きかたからすると
ジェイムズ その昔、留学でメイコンに住んでいた日本人の水産会社社長ではなく…今年やっと四十歳になった、先祖がクリーク族でもある若々しい州議会議員か…
レイ 僕がサミーなら、立場や利害を考慮すれば、奥さんとどの程度の関係であれ、現状維持ですね。あなたに直接ないし間接に手を下すなんて、あの冷静な物腰のサミー・ウェザーフォードには似合わない。
ジェイムズ つまり、この年寄りが死ぬのをじっと待つわけか…しかし、陽気で情熱的な日本人が、五十代半ばということもあって、長年のつき合いに焦れてきているとしたら?
レイ (下手端の椅子に座りながら)僕はあなたの半分も生きてきていません。まして調査事実を報告する者としては、調査事実に客観的な方向性を示すことはできても、依頼者の推測に必要以上に加担するのは、調査事実を歪めるものでしかありません。
ジェイムズ レイ、ニューメキシコ州の公認調査員レイ・フランシスコ・アライサに、客観的な方向性とやらを問うているわけじゃない。佐世保、仁川、そして板門店でも一緒だったジョゼ・アライサ少佐、つまり戦友ジョゼの末の息子に話しかけているだけさ。
レイ (ジェイムズが正面中央の椅子に座るのを腰を浮かせて気遣いながら)分かっていますよ…醒めた眼が必要ですね、誰しもが。だから年に一度の桜のフェスティバルといえど、今晩はシャンペンも程々に飲まれて、アサオカが持ってきたセンジュ(千手)は飲まない方がいいでしょう。
ジェイムズ センジュ?ああ、さっき飲んだライス・ワインか、あんなトニック・ウォーターよりも薄いような…
レイ どうしました?
ジェイムズ そうか、なるほど、陽気な漁師だけじゃない、ライス・ワインだよ。退役してから、日本と韓国へ旅行したのだが…トレイシーは、日本で水のように淡白な酒に口をつけて、そうだ、あれから詩の内容が明るくなっていった。正直なところ私はあれ以前の、パーティーで出会ったころの、寂しげな詩の方が好きだった…そうだ、ライス・ワインだ、それもアサオカが地元から持ってくるようになったセンジュだ。
レイ (上手邸内の様子を窺って)魚を削るのは終わったようです。来ますよ、サミーとアサオカが。この桜の香りのする夕闇は独特なものだ…センジュもそうですが、サミーが持ってきたボルドーもできれば飲まない方がいい、七十七年なんて…
ジェイムズ 大丈夫さ、あの削った魚さえ食わせられなかったら、なにしろ朝鮮半島で鍛えたのだからこの胃袋は…
(上手邸内からアサオカが鰹節削りの木箱をそのまま持って、その後ろからサミーが邸内で何やら調理中のトレイシーを気遣って振り返りながら赤ワイン二本を持って続いて登場)
ジェイムズ うちの雌鶏は着替えてくるつもりじゃないだろうな?
アサオカ あなたのトレイシーはとっておきのレッド・チェダーと格闘中です。
ジェイムズ 今日ぐらいは腕力のあるところを隠すものなのに…
(ジェイムズはそう言うなりシャンペンをクーラーから出すが、レイと目が合って彼へ壜を渡す。レイはソムリエ・ナイフとタオルで器用に栓を抜いて、まずジェイムズのグラスに注いで、ジェイムズが親指を立てると、ジェイムズの右隣で自分の左に座ったアサオカのグラスに注ぎ、正面をややまわってジェイムズの左隣を越した上手端にあたるサミーのグラスにも注いで、自分のグラスに注ごうとしたときに、上手邸内からチーズの皿を持ったピンクのロングドレスを着たトレイシー登場)
トレイシー ああ、今年もやってきたわね、あたしのウェールズの夕暮れが。もう乾杯しちゃったの?(レイがとんでもないといったふうに首を振りながら、ジェイムズの左隣に座った彼女のグラスにシャンペンを注ぐ)さあ、あとは閣下、モリソン大佐、宜しくお願いします。
ジェイムズ (わざとらしく気がついたように)おう、私のことか…(グラスを持って腰を軽く浮かせ、他の者が腰を浮かせるのを制するようにして)遠路遥々小さな庭へようこそ、それでは合衆国と星条旗に栄光あれ、乾杯!
レイ・サミー 大佐と奥さまに、乾杯!
アサオカ メイコンの桜と太平洋の友情に!
トレイシー 太平洋の友情とセンジュ・カノンに。
ジェイムズ (思わず飲み乾してしまって軽く咽てから)えっ?センジュ・カノン?
アサオカ (頷きながらチェダー・チーズに手を伸ばして)生きているカツオのような色…もう一度正確な発音をしますと「センジュ・カンノン(千手観音)」です。直訳すると、千の手を持った修行中のブッダ(仏陀)のことですが…私が思うに、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーのことでしょうね。
ジェイムズ ドゥルガー?日本人は、ほとんどが仏教徒だよね?
アサオカ (頷きながらクーラーのシャンペンをジェイムズのグラスへ注ぎながら)ええ、我々は本をただせば仏教徒ですが、ヒンドゥー教は仏教を取り込んだようなかたちになっていて…シャカ(釈迦)、つまりブッダも、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の九番目の化身とされちゃっていますからね。
ジェイムズ (すぐに一口飲んでサミーの方へグラスを掲げて)未来の上院議員、やっぱりボルドーのメルローの方がいいかね?
サミー いいえ、提督閣下、このチーズにはこのシャンペンでしょう。
トレイシー (左隣に冷たい視線を流しながら)ヒョウエ(兵衛)、ああ、アサオカさん。
アサオカ ヒョウエで構いません、奥さま。
トレイシー そう、それじゃヒョウエ…何を聞こうとしたんだっけ…そうそう、ブッダがヒンドゥー教の…
アサオカ ヴィシュヌ神ですか?
トレイシー そう、そのヴィシュヌ神の化身って…あれかしら、イエスが、実はユダヤのヤーウェの化身みたいなもの?
アサオカ 素晴らしい、発想に広がりがある。あなたはやはりアメリカの詩人だ。
サミー (グラスを乾して)メシアニック・ジューのことですね。(テーブルを正面の方へ回るようにして、赤ワインの壜をクーラーから取って、レイにソムリエ・ナイフを要求しながら)君ほど素早く開けることはできないが…
レイ (ソムリエ・ナイフを渡しながら)メシアニック・ジューはイスラエルの若者などに広がってきているようですね。ウェザーフォードさんはたしか…
サミー (幾分苦労しながらナイフを操り苦笑しながら)どうぞ、何でも聞いて。
レイ (正面の方へ回って、受け継ぐようにサミーの手からナイフと壜を取って)ウェザーフォードさんは、公に信仰について聞かれると、たしかパウワウ(pow-wow)がすべてだと仰っていませんでしたか?
サミー (あっさりと開けられた壜をレイから受け取って)さすがは、ニューメキシコ州公認の腕利き調査員でいらっしゃる。すべてというのは大袈裟だが、パウワウに集う祖先の声を聞きに、十一月の第四木曜日、マサチューセッツのプリマスまで行って祈ることにしている。
アサオカ 十一月の第四木曜日っていったら…
トレイシー (素早くグラスを乾してサミーの方へ差し出し)感謝祭の日よね、酋長さん?
サミー (トレイシーに注ぎながら)全米哀卓の日、ともジェイムズ兄弟によって言われています。
ジェイムズ (慌てて乾して、サミーの持つワインへ自分のグラスを差し出して)ローウェルの下着工場の裏、そこで遊んでいたアイリッシュの子孫にもジェイムズっていうのがいた…
トレイシー (グラスに口をつけかけてやめる)いいのよ、この国の感謝祭の日が、この国の哀卓の日、それが現実なんだから…(アサオカの方へ向いて)ヒョウエ、チーズなんかよりも削ったSkipjackはどうなったのよ?
アサオカ カツオブシですか、ここにこうして…(削り箱から一片を摘まみ取って口に放り込みシャンペンを飲んで)ああ、この香ばしさ…
トレイシー あたしね、子供の頃、スウォンジーでヒョウエに似た人を見かけたわ。
レイ (削り箱を指差して)乾燥させた魚を削って食べていた人ですか?
トレイシー (指先を掲げてアサオカに促す仕種で)あれは魚じゃなかったわ。
アサオカ (削り箱を開いて差し出して)魚じゃないとすると…
(トレイシーが摘まむよりも早くジェイムズが摘まんで口に放り込み、誰もが唖然とする中噛みしだいて、一瞬苦みばしった顔をするが、赤ワインを含み一気に飲み下す)
レイ 大丈夫ですか?
ジェイムズ (いささか上体を揺らしながら)この胃袋はな、朝鮮半島で鍛えてきたんだ。
トレイシー 大袈裟よ、場所によっちゃ日本人の方々に失礼よ。あたしが見た人っていうのは、牧場のお爺さんで
アサオカ 分かった、サンショウウオ、Salamanderでしょ?乾燥させたSalamanderをかじっていたんでしょう?
(トレイシーは強張った頬のまま、恐々と削り箱の中の一片を摘まみ取ってじっと見る。ジェイムズは勝手に山椒魚の乾物を想像したのか、急に口許を押さえて椅子から立って、芝生奥に両膝をついてもどす仕種。両端にあたるレイとサミーが、軽蔑するようにアサオカを睨んで立って何か言いかけるが、レイはジェイムズの介抱の方へ向かう)
サミー なるほど、ある種の仏教徒の僧は、人を呪い殺せたというが…
トレイシー 大袈裟よ、朝鮮半島で鍛えた胃袋ですって…(摘まんでいた一片を口に放り込み)塩気のないビーフジャーキーよ、こんなの。
アサオカ (椅子から立ってジェイムズの様子を見ながら小声になって)乾燥させたSalamanderっていうのは、やっぱり気味が悪いですか?
トレイシー えっ?乾燥させた何ですって?
アサオカ (やや大きめな声でゆっくり発音する)Salamanderです。
(呼応するように、正面奥で膝をついて伏しているジェイムズが吐き気をもよおした声、付き添っているレイも口許を押さえてアサオカを睨みつける)
アサオカ (目のやり場をなくしてトレイシーの右手を握り)私は日本人ですが、そんなに無神経な日本人じゃない、お分かりですよね、敬愛するモリソン夫人。私はアメリカが好きで…私はメイコンの桜が大好きで…
トレイシー (左手で振り解くようにアサオカの手を離して)大丈夫、太平洋の友情でしょう?ヒョウエ、子供のあたしが見た、あなたに似た牧場のお爺さんは、いつも白樺の皮を噛んでいたのよ。
アサオカ これは白樺の皮なんかじゃありません。
トレイシー 分かっているわよ、あたしだって日本へ行ったこともあるし…このSkipjackのチップスに合うのは日本の酒なんでしょう?(クーラーの中を覗き込んで)この白っぽい壜がセンジュね。グラスも替えましょう。センジュ用のグラス、あなたに頂いた陶器がキッチンのテーブルに用意してあるから、持ってきてくださらない?
アサオカ (がくがくと頷いて)ああ、常滑焼きですね、分かりました。
(アサオカは小走って上手邸内へ向かい、立ちつくしていたサミーが溜め息をついて、困惑しているアサオカの後を追おうとすると、トレイシーの左手が素早くサミーの右手を掴む。サミーは一瞬トレイシーを見て戸惑うが、仕方なく視線を下手桜並木の方へ向ける。トレイシーはサミーを一顧だにせず、握っている左手を強く握り直して、右手で鰹節の一片を摘まんで、下手桜並木の方へ吹き飛ばしあげる)
トレイシー 分かった、日本人がSkipjackのチップスが好きなのは、桜の花びらのように風に舞うからだわ。
(トレイシーはまた鰹節の一片を摘まんで、振り返るように左背後のサミーの方へ吹き上げる)

                                       幕

ハロルド・ピンター (3) 灰から灰へ/失われた時を求めて ほか(ハヤカワ演劇文庫 25)

ハロルド・ピンター (3) 灰から灰へ/失われた時を求めて ほか(ハヤカワ演劇文庫 25)

  • 作者: ハロルド・ピンター
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2009/11/30
  • メディア: 文庫



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内なる擬球   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 平原の彼方に馬の群れを見つけたとき、亡くなった人間達が彷佛と立ち現れたような感慨を持った。何人かの困惑したまま凝固したような顔が、風にたゆとう綿毛を戴いた草の波上に見える。そして眩しい固そうな草と草の間に、あいつが見える。アキオが立ちあがろうとしている。あいつが右耳の上を掻きながら立った。見よ、あいつが一掻き一掻きごとにあたりを睥倪して歩いていくと、今まで蜜蜂が舞っていたペーチ郊外の暖春の草原が、あいつの切れ長の眼に畏怖して膠着するかのように、無風の晩夏の赤茶けた校庭に変わっていくのだ。なんと、山懐に生まれ落ちた者なのに、こうしてハンガリーの大平原に彼らの霊を引きずり出してよいものであろうか。思うまもなく、黒馬の群れがアキオの芒洋たる頬を過ぎる。彼は凄まじく馬の前歯の煌めきに吸収された。
 アキオが死んでちょうど二十年になる。
 それにしても馬とはああも野を駆けるものだったのか。そして馬群を見るままに、若くして逝った故人が沸き立ってくる。私はどうしてしまったのだろう。草の匂いと陽光が、今更ながら連想の健常さを刺激するのだろうか。馬を見れば見るで、あの村へ帰っていく私の眼の奥はどうだろう。
 馬といえば最後の農耕馬が、あの村の茅葺き屋根の軒下を闊歩していってから、三十数年は過ぎていることだろう。真夏の炎天下だった。幼すぎた自分は愕然と見ていた。奥会津の栗毛は優しい目を伏せて、埃舞う県道に蹄の音をたてていた。疲れ果てている、と思った。あれが最初の憐憫の情かもしれない。手綱をひいていた農夫は、今の私と同じほどの年齢だったのではないか。彼は無機質な荒れた頬のまま馬よりも無表情だった、と驚愕は記憶の襞に割り込んでいる。致し方ない。憧憬をどう歪曲しようとしても、晴れやかな顔などにするほど悠長な歳ではない。アキオも生き続けていれば、あの栗毛のように疲れ果てていただろうか。それともあの農夫のような荒涼とした頬をしていただろうか。
 アキオは大きい少年だった。そこかしこの大人以上に大きかったアキオは、握る竹刀やボール、そして土塊までをも唯一の剛力をもって扱っていた。彼の背中と垣間見る腕力が平然と校庭や川原、そして木造校舎の軋む教室や廊下をも支配していた。威勢は職員室の教員たちの口端にかかると、校長室に至る頃には武勇伝に脚色されていた。保健室でテーピングの練習ばかりしていた女体育教師も、彼の汗まみれの上腕筋に目を細めていた。アキオに縁がなかったのは音楽室くらいだろうか。
 私とアキオは、その音楽室で出会った。
 音楽室からの見晴らしは、緑に塗りこめられて鬱蒼としていた。出会いに蒼紺の緊張をもちたければ、薄暗い音楽室はうってつけである。私は何とはなしに憶えていた名前の作曲家のレコードを手にとっていた。ベーラ・バルトーク。そう、あのときもハンガリーだった。聴きはじめると、不思議な組み立ての音は私を不安にした。ひとつひとつの小曲は、あるいは(十代にとっても)懐かしく、あるいは(十代ゆえに)気恥ずかしいメロディなのだが、繰りかえされる転調に縋っていくと、原初の掻き鳴らしに墜落したような不快を感じていた。あのときも予感がしたのだ。軽やかに傾れ落ちてきた祝祭の音、あれはアキオを迎えるための歌だったのだ。
「なんだ?それ」
 アキオの声は些か甲高かった。音楽室の入り口で塞ぎながら、彼は怪訝そうに私を見ていた。アキオは誰もが知る怪物である。そして、私もまた誰もが知る化物だった。
「十五のハンガリーの農民の歌、そのうちのひとつだ」
 あのときの私の舌は臆することを忘れていた。そしてアキオの素早い挑発は、誰よりも親近の響きをもって自然だった。
「クラシックなんだべ?」
「ま、そんなどごだな」
「おめえ、変わってるって言われてんぞ」
「おめえと同じだよ」
 私が恐る恐る俯くようにして小さく笑うと、アキオは不味いものを含んだように舌打ちして天井を仰いだ。
 それから急速に接近していった。不安と期待の間を揺れながら陰獣どうしは近づいた。二人には舐め合う傷らしい赤みがあったのだ。私とアキオは互いの傷の赤みを見比べるように、孤独という以前の逃れ難い我がままな意志を認め合った。私たちは粉末ジュースがじれったく溶け込んでいくように友人となった。

「農務次官がさきほどから言っています、社長が随分とお疲れではと」
 晶子(アキコ)の落ち着いた声が、風を止ませるように耳に掛かった。
「馬を見ていたんだ。元気な馬は見ていて見飽きないもんだ」
 私は理知的に過ぎるきらいのある怜悧な晶子の口許に同意を求めた。涼やかな目許はすでに女らしい。疲れているのは我が儘な私に付き添っている彼女だった。
「社長は蒲田生まれの蒲田育ちでいらっしゃるから、こういう風景もたまにはよろしいんじゃありません?」
「よろしいね、よろし過ぎるよ」
 原田晶子が私の嘘につき合ってから五年ばかりが過ぎていた。
「あの農務次官を困らせても、何も面白い話は出なかったみたいだね」
 晶子は私の襟巻きを直しながら飲む仕種をしながら言った。
「ワインの話に次ぐワインの話」
「お土産にだったら買っていってもいいがね」
「でも、彼も同じ名前、ヤノシュなの」
 彼女は娘が父に懇願するように哀しい目を上げた。
「同じって誰のことだ?」
「バルトークですよ、ヴィクトル・ヤノシュ・ベーラ・バルトーク、この国ではバルトーク・ベーラですけれど、リストの弟子の弟子にあたるのかな」
「ヤノシュって名前は多いのか?」
「みたいですね。彼のオペラ、えっと『青ひげ公の城』とか『中国の不思議な役人』とか、知りません?」
 私は迂闊にも彼女の聖域に口出ししてしまった。
「オペラはだめだな。しかし、たしか音楽室で見たような記憶があるな、あれは『十五のハンガリー農民歌』とか…」
「練習で弾いたことがあります」
「何か賑やかなお祭り風な曲だったが、まったくメロディを憶えていないな」
「あれはお祭りじゃなくて悲しみの歌です」
 晶子がきっぱりと言い切って踏み出した先では、農務次官が馬の群れに向かって古いカメラのシャッターをきっていた。運転手が茶化すように珍しくなったカーラジオのボリュームをあげる。しばらくすると「クロコダイル・ロック」が鳴った。かつて蒲田の汗臭い三畳間で跳ねていた音が、格好の場を得たように奔放に流れ出ていった。

 私はアキオとつきあって大胆になっていった。音楽室にエルトン・ジョンを持ち込んで、モーツァルトのアダージョの後に聞かせた。
「おめえのとごろは金持ちなのか?」
 アキオはレコードの音を明らかに煩がりながら真直ぐに聞いてきた。
「いいや」
 私も後で驚くほど真直ぐに首を左に振った。
「んだけどよ、こういう音楽は金持ちが聴くんだべ?」
「ほんなことはねえだろ」
「おめえは金持ちのふりをしているのか?」
「まさか…」
 アキオは飽きれたふうをして見せてから音楽室から出て行った。
 あれが金銭の話の始まりだったのかもしれない。金銭がアキオや農耕馬を生かしも殺しもすることを、対極の化物である私も既に知っていた。しかし音楽室で「イエロゥ・ブリックロード」が鳴っているとき、アキオがあと半年ほどで学校をやめるとは想像もできなかった。彼がやめてしまってから、随分と彼の家の貧しさが噂された。私は知っていた、アキオ自身は貧しくなどなかったことを。
 あれは校門を出たところだった。彼はいつのように私を追いかけてきては、単純で酷薄な問いかけをした。
「なんで?東京では金持ちしか馬を持っていねえのに、この村じゃ馬を持ってりゃ、俺んちの裏のところみてえに貧乏ばっかりなんだ?」
 あそこは赤トタン屋根のアキオの家の前だった。
「なんで?おめえがあいつらに貸した銭だべ?だから俺は倍で取り返してきてやったんだぞ」
 そして麻丘めぐみのポスターがはってあるアキオの狭い部屋だった。
「それにしても、なんでだ?チャイコフスキーじゃ千擦りもこけねえべ」
 やがて赤茶けた夕暮れの校庭だった。
「なんで?なんで、こんな山の中で田植えして、裏のところみてえに馬ひいて、ああだ汚ねえ女と…なんで結婚しなきゃなんねえんだ?」
 そしてアキオが中退した翌年に私は卒業した。上京してみると、世界は手続きが面倒だった。さらにアキオが死んでから世界は増々ややこしいものになっていった。

 ペストのエルジェーベット橋の上で、晶子の右眼に入った塵を取ってあげようと顔を近付けると、自転車に跨がった陽気な若者が夫婦と勘違いしてか、何やら奇声ではやしたてて過ぎて行った。晶子は奥二重の瞼なのだが睫毛は長い。しかも昨夜の読み疲れ目が薄い充血にあらわれていた。
 私は咄嗟に、彼女の首に巻かれていた紺絣に酷似した模様のスカーフの端を縒って言った。
「昼間はドナウ川を見て、夜はじゃが芋を食ってビールを飲んでいればいいのに」
 晶子は目尻に薄らと涙を滲ませて口を尖らせた。
「議定書をなるべく早くまとめるように言ったのは社長でしょ」
「帰ってからでいいよ」
「帰ったら帰ったで、あたしの報告なんか見ている余裕なんかありません」
 私がスカーフの端を湿らすために軽く口に含むと、彼女は私のネクタイの結び目あたりを軽く押すように俯きながら離れた。
「どうも…とれました」
 私はスカーフの絣柄風な白十字の模様が彼女に還っていくのを見ながら聞いた。
「須磨子が何か言ってきたのか?」
 晶子は欄干を背にしてしきりに右眼を瞬かせて首を振った。
「洋二か?」
 私が女房の次に息子の名前を口にすることを予測してか、晶子は子供っぽく人さし指を立てて意地悪く微笑んだ。
「社長は父親でいらっしゃることもお忘れなく。洋二さんの新潟営業所の売り上げは、惨澹たる様子です」
「そんなことは分かっている。立ち上げたばかりのこの半年は駄目だ」
「洋二さんはお酒を飲めないので、白鳥ばかり見に行っているそうですよ」
「白鳥?夏に白鳥か…」
 晶子は薄茶のスーツパンツの片脚を私に向かって蹴り上げて見せた。
「女のいる店か何かのことか?」
 晶子は髪をドナウへ放るように反り返って笑った。ガラスの壜の中で歪な真珠を振ったような笑い声。私は不愉快を覚えず笑い終えるまで返答を待った。
「可笑しい、可笑しいわ。アルビよ、アルビレックスという新潟のサッカーチームのキャラクターです。マスコットっていうか、キャラクターが白鳥なんです」
「サッカーか、それに夢中なのか、あいつが…」
「おつきあいのお酒よりいいんじゃありません?」
「飲めん奴は飲めん奴で何かしら愉しみを見つけるもんだな」
 アキオも飲めなかった。我々モンゴロイドの男の体は、見た目を大いに裏切るから時として痛快だ。ビールを二口ほど啜ってアキオは毒を盛られた赤鬼のごとしであった。
「百万円貯まった、って言うのがそんなに悪いことなのか、え、おい、ネクタイさんよ」
 東京の板橋は大山の駅近くのラーメン屋だった。
 私は損害保険の代理店のセールスマンになったばかりだった。餃子のたれが真新しい紺の背広に跳んでくることを気にしている私。再会をさほど喜んでいない二十一歳だった。アキオは身長がとまった頑健を、ピンクの半袖カッターシャツに包んでいた。
「静かにしろ、その百万で、家か車でも買うのかって聞いているんだよ」
 私の身長はアキオにとどかないまでも見劣りしないほどになっていた。
「俺はな…測地、知っているか、測量でもいい、その測地ってもんを身につけていと思っているんだ」
「測地?」
 私の目に浮遊していた餃子屋の卓板が、一瞬にして音楽室の古ピアノに変容した。いつもこうだ。そこには昼間の清浄な陽射しがあった。何を話していたのだろう。窓の外ではこれ見よがしに向日葵があの頃を飾りたてていた。そして紋白蝶が儚げに鼻のさきまでやってきた。それを心理学者なら、青少年期の未来に対する不安の表象とか何とか言い片付けるのだろうか。しかし私もアキオも、まだ不安が不安のままで愛しいものであることを知らなかった。少年時代と変わらず迫力のある三白眼を、あちらこちらに飛ばしてアキオが目の前にいる。百万円貯まって不遜と喜悦を交えた口許。兄弟をはじめとする周囲への不信に疲れていた私は、友の喜びを共に喜んであげられなかった。紋白蝶は想像ではない。私とアキオは執拗な白い羽を追い払いながら話していたのだ。金銭と女性、そして次にくる三つめのものがあるのか。
「測地だよ測地、どうした、酔ったのか?」
 アキオは音楽室で最初に私を見た時の怪訝そうな眉間をまた見せてくれた。
「いいや」
「おめえは酔ったふりがうまそうだな」
「まさか…」
 アキオ、私はおまえのおかげで最初の懐かしさというものを知ったのだ。孤独の毒というものがあれば、アキオこそが私にとって懲りずに毒消しを処方する漢方医だったのだ。

「なにか見つかりました?」
 晶子は済まなそうに聞いてきた。目線の先にあるドナウの流れに、私が何も見つけていない、あるいは流れに静物として対峙しているように見えたことだろう。
「いや、急に何かこう…餃子、餃子なんかが食いたくなったもんだからね」
「餃子って、またあの饅頭のような餃子?」
 私も拙宅で催した餃子パーティーの折の愚形を思いだして吹き出した。
「饅頭って…饅頭も餃子も同じようなものさ」
「餡を閉じ込める、というのは同じですけれど」
 原田晶子の専攻は化学で、趣味はピアノである。
 うら若きまずまずの才媛は、時として形象を冷ややかに抽象化して楽しみ、時としてピアノの楽譜の判読に歪められる。旅先で甘いワインに酔ったときだったか、自分と他人の感情の合致や縺れを、数多の協奏曲をピアノ・ソロに編曲する労苦にイメージして、孤独な自分を納得させている、などと漏らしていた。
 アキオも編曲するような労苦に手を出そうとしていたのかもしれない。
「測地って地面を測るんだろ?」
「ああ、測るんだろうな」
「それで不動産屋にでもなるつもりか?」
 アキオは急にうわのそらな目付きになり首を振って両手を広げた。
「こっちへ来てみて、東京へ来てみてな、たまげたのはよ、平地ばっかりだってことだ。村と比較すればあたりめえのことかもしんねえがな。しかし、どうのこうの言ってても、俺らはよ、この土地の上に暮らしているんだからよ」
「そのとおりだ」
「地価っていうのか、この東京の地面の高ぇこと…この下も土地、あの村の山の中の土地も、あれはあれで土地だっていう」
「たしかにあんな山の中でも土地は土地だ」
 アキオは一気に両手をすぼめて今度は球形を想像させようとしていた。
「測地を身につけたらよ、今の会社の社長が金を出してくれるって言うから、この丸い地球ってもんをよ、じっくり買い占めていこうと思ってんだ」
「でっかくでたな、丸い地球の前に鼻糞のような日本から始めるとなると大変だぞ」
 アキオは恍惚とした眠気眼のまま恐るべきことをゆっくりと言った。
「馬鹿だな、いいか、俺はな、シベリアの方から、こんなふうにぐるっと林檎の皮を剥くように、回るようにしながらやっていく」
 悔恨と挫折に酒ほど殊勝なものはない。
 眠りこんでしまった農務次官のシュテファンにしても然り、それを冷ややかに見ながら話している晶子にしても、あのアキオにしても、この私にしても、挫折の強打の麻痺のままに生きてきたのかもしれない。それは執念には程遠い。脳髄を冒す液体の成分に絶えず頼っている日々。そして誰もが知っている、あとは自分がちょっと運がいいことを。
「死ぬまで処女で、生理の度にいっぱいの楽譜を掴んできて、終わった翌日にジグソーパズルのようにベッドへ並べる…しばらくすると、助教授から依頼された深海魚の肝臓の成分分析の束が、雪達磨の頭のようにぽんと落ちてくるんです」
「大変だな」
「大変だなあ頭のいい人は、って?」
「ああ」
 私と二人だけの晶子の酔いはいつも明晰で残酷だった。
「嘘…嘘にきまっている。大変だなあ、って言ったときの社長の顔は格好いいもん」
 私は反り返って不味いコーヒーを催促した。
「自分に嘘をついているときの社長の顔は、哀しそうで格好いいもん」
「まいったな」
「頭のいい人の大変さを知っている社長が、頭のいい人は大変だなあ、なんて言うことがどんなに馬鹿々しいか一番よく分かっている…そうでしょ?」
 私は頷くともなく鼻毛の先を指に感じていた。小奇麗な娘が振るう緑の小枝に戸惑う老犬のようだ。そして焦げ臭いばかりのコーヒーが不機嫌そうに注がれる。するとその濁りからひとつの記憶が立ち現れた。
 私は晶子に申し訳なさそうに微笑んでから、マルギット島の大柄な浮浪者を思い出して嘆息を吹き上げた。
 彼は陽光に煌めくドナウの流れから忽然と現れた。いや、そのように見えた。肩で大きく息した逆光の影は、中欧の古都で観光めく腑抜けた仕事にある五十男にとって久々に奇怪に見えた。彼は両手に絶命寸前の大きな鯉を抱えながらずぶ濡れだった。私はたじろぎ直視を避けた。しかし彼は鯉を差し出すようにこちらへ向かってくる。私は観念して身構えた。泥顔の中の黄水晶のような眼球が向かってくる。反り返るようにして身をかわすと、彼は島へ渡る橋の方へ捧げ手のまま行ってしまった。
「あけてくれ、俺だ、アキオだよ」
 あの晩のアキオもずぶ濡れだった。
「刺身だ、もう飲んでるのか?」
 濡れたビニル袋から残りもので半額に下げられた鮪のパックが二個取り出された。
「おいおい哀しいねえ、缶ビールとピーナッツだけで男がひとり飲んでいて」
 私は小皿と醤油を棚からアキオにわたした。つけっぱなしのテレビはいつのまにか消された。私はアキオのまだ滴っている前髪を見ながらピーナッツの袋を引き寄せて聞いた。
「なにがあったんだ?」
「ちょっと、いや、ちょごっと摩っただけだ」
 アキオが大損したときは必ず土砂降りだった。賭けることの根底にある不信感。そもそも奥会津のようなところでは、労苦を伴わない金銭は堕落しきった不浄なものだった。彼の地の田圃と山林では蛭や虻のように嫌われた。
「林檎の皮を剥くように…土地をぐるっと買い占める、って言ったのは誰だ」
 アキオは鮪片を口に放り込んでから天井を見上げて、麻丘めぐみのポスターをはがしたときのように鼻で笑った。
「馬鹿だな、おめぇも」
「馬鹿馬鹿しくてもだな、丸い地球を林檎の皮を剥くようにぐるっと…スケールのでかい話はおめぇに似合っている、と思ったんだよ」
「だから馬鹿だって言ってんだ」
 私の耳奥でアルマイト板を掻いたような音がした。
「飲めねえくせに…酔っ払いのようなでかいこと言って…大人になっちゃった、ってことか?まだ三十前なのによ」
 アキオは布巾をひったくって濡れた前髪にかぶせて、初めて聞く鼻歌の一節のように唸った。そして緩やかに畳に仰向けになっていった。私は毛布をかけてやらねばと嘆息を吐いた。
「馬鹿だな、おめぇも…丸い地球ぅ?地球が丸いと思ってんのかぁ?」
 私は耳を塞ごうとしていた。雨天の明日に仮託された前途を思っていた。明日も前途も洋々とは程遠くても近くに転がっている。怠惰に対してだけは素直だったのだ。
 アキオは弾かれたようにゆらりと体を起こした。そして凄まじいあの言葉を吐いた。
「分がったんだよ。俺は分がったんだよ。俺がな、いや、おめぇも、俺もだ、俺たちはな、林檎の中から皮を剥こうとしているんだってことがな」

 私は中学生だった息子の部屋の本棚で、非ユークリッド幾何という名称を知った。
 ヤノシュは農務次官、ヤノシュは作曲家、そしてもう一人のヤノシュは、数学者もどきの軍人だった。ヤノシュ・ボヤイは数学者だった父親の影響の下に、ユークリッド幾何の公理のうちでも胡散臭い平行線公理に夢中だった。父親は性悪女に引っかかるようなものだと嗜め続けたらしいが、親の言うことなど分かっていても、やめられずに奈落へ落ちて落ちていくのも血筋なのだ。ヤノシュの数学上の業績、それもロバチェフスキーや聖ガウスの名前が見えてくると、平行線公理とヴァイオリンを愛した軍人の科学史における一挿話でしかない。
 非ユークリッド幾何では二つの球が示される。誰もが解している林檎のような球そのもの、そしてラッパの吹き口と出口が無限に広がる様のベルトラミの擬球である。息子の部屋で直感した。アキオは脳髄にこの二つの球を見たのではないか。
「俺たちはな、林檎の中から皮を剥こうとしているんだ」
 アキオはそう言い残すようにして寝入ってしまった。日焼けも落ちた大人のアキオの寝顔には、音楽室の隅にあったベートーヴェンの彫塑にそっくりの眉間皺があった。私は毛布を掛けようとして「立派な死に顔だな」と呟いたのを記憶している。
 ドナウの流れから浮浪者によって引きあげられた鯉、あれはやはりアキオからの暗示だったのではないか。上京した頃の私とアキオが、濁り淀んだ流れに鯉の影を見ていた蒲田の呑川。アキオの遺体は呑川に浮かんでいた。
 アキオがあの汚泥の流れに落ちた。林檎の中から皮を剥こうとして、疑球に沿って測地しようとして、反り返って反り返って林檎の中心へ落ちた。
 擬球、なんと素晴らしく幻想的な言葉であることか。「だから、それが何だと言うのだ」とアキオは看破するだろう。アキオは確かに擬球を持った。私は擬球を持つのだろうか。
「須磨子と…別れようかな」
 晶子はドナウの流れへ打っ遣るように言った。
「聞き飽きました。ヤノシュがそろそろ来ますよ」
 世界が虫食いで蔕なし尻なしの瓢箪まがいなのか、色気も素っ気もない空洞を持った冬至南瓜なのか、あと少なくとも三百二十四年は解読され得ないだろう。何度もアキオの墓の上に雪が降り積もり、何度もタンポポや露草が点々と花弁の色を置いて、やがて墓石が擬球の稜線を転がるように崩落した後、この世界は灼光によって刻むように語られるだろう、類人猿が時として持ってしまった好奇心の彼岸について。


灼熱

灼熱

  • 作者: シャーンドル・マーライ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 単行本



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玉葱   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 大地震の八ヵ月後、茉莉(まり)はやっと土を握って呟いた。
「腰をうったかて…抱いてもらえんなんておかしいわ…」
 父、規一(きいち)はそれを最後の籠を積み終えたときに耳にしてしまった。
 そして、娘の泣き言を耳にしたとて、父親に果たしてなにができよう。最悪の年の最悪の玉葱を籠から手にとってみる。些か小振りで艶のなさは随分と神経質に見える。気遣うべき玉葱を気遣えず、ひたすら面倒見きれなかった自省の一言につきた。
「叔母ちゃんに相談したんか?」
 茉莉は土を離してくりくりした眼を閉じた。そして小さく笑って抑揚なく言った。
「叔母ちゃんとこは断層の真上やろ…それに叔母ちゃんには、面倒見なあかん叔父ちゃんがおるやろ」
 規一は茉莉が中学一年生のときに妻を亡くしていた。父娘だけの生活が十六年続いている。茉莉は農協に勤めながら規一の玉葱栽培を助けてきた。「玉葱やないで、あんたの娘は」などと周りから揶揄されながらも十六年が過ぎた。男の手に負えない(玉葱作り以外のすべて)事柄は、茉莉が叔母ちゃんと慕っている妻の妹に任せきりだった。
 そんな慎ましい淡路の玉葱農家にも、幸も不幸も分け隔てなく供される。大地震は砂地の上で生きる者たちの心根を大いに攪拌していた。
「もう出たる、ここはあかん」
 茉莉のやりきれなく低まった声に規一の視点は失われた。父は奥歯を噛みしめて常備薬を探すように籠の中を掻きまわす。そして不思議にまともな見解を淡々と口にできた。
「明石に行ったかてな…地震のあとは同じやいうの知っとるやろぉ?」
 娘は蒼白な横顔を見せて頬をふるわせた。
「ここが厭や」
 規一は追いつめられた自分の指が、なぜか形のよいひとつを掴んだことを訝った。
「平八(へいはち)さんがな、その…一緒に住んでくれる言うたんは…嘘やったんかぁ?」
 茉莉は鼻水をすすりあげてうな垂れた。
「あたしが出たいんよ。あたしがここから出たい…平八と二人だけでいたいんよ」
 数秒ながらも鈍重に凍てついてしまったような沈黙があった。玉葱の手ごたえだけは変わらない。地の利を知るものだけが生き続ける、たとえそこが裂け崩れる地でも。しかし規一の信念も規一の玉葱と同様に砂上の産物ではないか、と囁くように虻が勢いよくあたった。
 父は娘にむかって立派な玉葱を投げつけた。それは茉莉の腰にあたった。そこは箪笥がたおれて傷めた部位である。茉莉は苦笑しながら足下の玉葱を拾おうとした。勢い屈んだ瞬間の痛みは絶大だった。思わず唸ってしまって、悲痛さは後先をさておいて怒りへ転じていった。茉莉は父へ向かって投げ返した。規一の股間をすり抜けてトラックのタイヤにあたった。
 二人は籠ひとつが空になるまで投げつけあっていた。

 明石と富島の間を行き来する船舶交通を西淡路ラインという。この八ヶ月間の西淡路ラインは、富島へ到着して降りてくる人という人すべてが眩しく見えていた。
 茉莉は改札の脇で髪を結い上げ直していた。あと十分もすれば平八が来る。正月に挨拶に来た時、彼の帰りを見送りながら、誰がこれからくる神の咳払いを予知できたであろう。あれから引き裂かれたまま、平八は富島へ渡ってこなかった。彼も彼で震災後の家族と向き合って悩んでいるのだった。
 平八は茉莉と出会った高校で、音楽教師が隠れながら弾いていたアコーディオンに魅せられた。大阪から東京、ブエノスアイレスからローマ、哀切の鍵盤に捧げた二十歳前後の日々は、帰国して間もない交通事故に断ち切られた。仕方なく指置きを鍵盤からキーボードに替えて、農協に出入りしている肥料会社に勤めはじめた。そして平八は富島の農協へ初めてやってきて、迎えにきた職員の茉莉とここ改札口で再会した。それまでの営業社員とは違う茫洋とした雰囲気の平八に、苛々と伝票整理と軽トラックの運転ばかりしてきた茉莉は、父規一が島らっきょうを探り掘るように魅了されていった。
「嬉しそうですね」
 老人はそう言ってリュッサックを振りまわすようにして下ろした。
「あれぇ、カレーの先生、金野(こんの)先生じゃないですか…」
 茉莉の緩みかけた頬を見とめた老人は、長めの白髪に度の強い眼鏡、そしてサビーナの赤の千鳥格子模様のネクタイをきちんと締めた金野先生だった。農協が講演者として度々招いている京大名誉教授である。若かりし情熱を捧げた専門は「偏微分方程式の数値解法」とかいうものらしいが、退官されてから情熱を捧げているものは「野菜カレー」と言いきっていた。
「たっぷり頂きましたでぇ、おおきにや。これから暫くは、ここの玉葱を使って、カレー、カレーの毎日だわ」
 先生はリュックサックを抱えながら近いベンチの端へ腰を下ろした。
「先日は貴重なお話、カレーのお話、有難うございました」
「いや、カレーって言うてもね、マサラとか何とか言うたけれど、カレー粉の女房役と言ったら、何はともあれ野菜なんだわ」
 茉莉は咄嗟に共済金のことだけが頭を占める組合長の言を思い出した。
「次にいらしていただけたら、簡単な統計の話をしていただければ、などと申しておりました」
「統計よりも、一昨日は茄子のカレーの話をしたから、今度はズッキーニのカレーなんかはどうやろう」
「ズッキーニ?」
「そうだよ、こんなに素晴らしい正妻としての玉葱があるんやから…次の新しい愛人としてはズッキーニあたりがええわ」
 茉莉が唖然となったのを見ると先生は子供のように舌をだした。
「こりゃ、あかん。あんたは未婚やからな、まずは立派な玉葱にならんとな」
「奥様に叱られないんですか」
「ま、なんと言うか…船が来おった」
 茉莉が振り返った時、先生はまたリュックサックを振りまわすようにして背負った。この先生とは是非とも落ち着いて話がしたかった。しかし先生を見送るよりも、自分の網膜が船を下りる平八を捕捉しようと必死なのが感じられた。
 降船客の最後尾に、杖をついた老婆の荷物を抱える柔和な平八がいた。改札をやっと通った平八は、茉莉の苛立っている厳しい顔に驚いた。
「茉莉、なにしてんねん?」
 就業時間中なので迎えに出られない、と言っていたのは茉莉なのである。
「あかん、してんねん、なんて言うたらあかん。ここでは、なにしとん、言うの」
「茉莉はあほや…」
「あほ言わんて…だぼ、だぼや、平八はだぼやぁ」
「だぼ言うたかて…」
 茉莉は平八の背後の乾いた笑い声に目を細めた。それは黄金色の玉葱が表皮をそよがせているような音。金野先生は笑顔のまま誰にともなく手を振って、西日を背に後退って乗船されるところだった。

                                       了
偏微分方程式 (数学クラシックス 第 12巻)

偏微分方程式 (数学クラシックス 第 12巻)

  • 作者: F.ジョン
  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本



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我らの時代のロシア語   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 柏の蕪が味も生産量も日本一だということは、何よりも土壌の良さという事実に直結しているのだろう。
 涼子は農婦が引き抜いている白蕪の土汚れを見てそう思った。そして良いはずの土に、もし忌み嫌われるイットリウム90が含まれているとすれば、二十九年前のあの土塊にはストロンチウム90があったということになる。鳥肌がたった。極東でプルトニウムに手を焼いている人間がいれば、北極付近ではおこぼれのストロンチウムで電池を作っている人間がいる。涼子は紙コップを握りつぶして窓辺から離れた。
 山崎涼子(やまざき・りょうこ)は、ドイツに本社を置くオクト・ワグネルに勤務して六年目を迎えていた。余計ではあるが三十歳になった名古屋女である。エネルギー部門が野菜畑を見渡せる所に設立されて以来、柏の勤めも三年目を迎えていて、秋らしい収穫の後の匂い立つような関東ローム層の沃土も見慣れてきていた。毎日見る風景を暗く塗りこめるには、何かしらの白い悪意の一滴があれば充分なのかもしれない。涼子は気取り気にそう思うと、もう一度モニターに浮かぶ略図面の円筒形に顔を近づけて凝視した。それは縦割りで開かれたドラム缶状の物の内部構造を見せている。疲れたせいか中心にある90Srという文字がちらついて見えていた。しばらくすると全体が白い毒蛾に見えてくるのだった。
 原子力電池のファイルを開くことになったのは、出社して条件反射よろしくPCの電源を入れてすぐだった。原子力エネルギーを専門とする涼子のもとへ、原子力云々のファイルが転送されてくることは日常である。しかし略図はともかく現物の写真を見るのは初めてであった。誤送かと思い送信者の潘世備(ハン・セイビ)GM(ジェネラル・マネージャー)の内線番号に電話した。
 潘GMはいつものように淡々と言った。
「そう、原子力電池だ。一九八二年にシベリアのオイミャンコに設置されたものだ。手が空いていれば、話しておきたいことがある」
「原子力電池を買ってほしいと言ってきているのでしょうか?」
「電池はきっかけにすぎない。君にとっては、ちょっと嫌な話をすることになるかも…」
 潘にしては珍しく語尾を濁らせて、些か奇妙で熾烈な内容ということなので、特別室でのコーヒー・ブレイクとなった。
 オクト・ワグネルの能源事業部の日本支社は、柏郊外の戸建住宅が途切れる農地に面してあった。大手の重機メーカーが縮小対象として貸し出した三階建てである。外壁をチャート斑のスレートで補修したので、環境を重視した郊外型の学校のように見えた。正面玄関の社名プレートには、エネルギー部門の全権である潘GMのこだわりがあって「OCTWAGNER 日本支社 能源事業部」とあった。潘GMにとって、エネルギーはあくまで中華の能源でなければならなかった。その潘GMが一昨年、アジアの拠点として上海の次に選定したのが、蕪の生産量が日本一というベッドタウン柏の郊外だった。
 潘は中国の山東省煙台の出身だった。大阪とボストンに学んで、日本語と英語はまったく流暢である。さらに潘世備という個人の能力もさることながら、夫人がシンガポールの財界を牛耳る客家の名門の子女だったので、エネルギーに限らないオクト・ワグネルの中国販路を左右する重役となっていた。
「あんなものを作る連中はロシア人と相場がきまっている。暖をとるために隣の家に火をつける奴らだ」
 潘はそう言ってから白髪の端正な横顔を緩ませた。そして乱暴なジョークを裏付けようとするかのように手帳を取り出して読みあげる。涼子は自分のブラックと上司のカフェ・オーレを持って美しい眉をひそめていた。
「写真を撮った奴らの計測では、電池から約一メーター離れたところで一九マイクロシーベルトの放射能があったらしいが、通常の何倍くらい?」
「六〇〇倍以上ありますね」
 潘は女性のような指で紙コップを受け取って続けた。
「ありがとう。九六年の北方圏フォーラムでの核処理技術者の報告では、約一立方メーターのドラム缶型の放射線源量は三五万キュリー、見当がつかん。あのドラム缶型の電池は北極海沿岸などにおける灯台や無線標識の電源として、七七年あたりからソ連崩壊まで、約一千ヶ所に設置されたらしい」
「主に北極海沿岸と思っていいのですか」
「いや、オホーツク海つまりサハリンまでもふくめていて…八七年八月にはサハリン沖で原子力電池を運搬中のヘリコプターが事故をおこして、機体もろとも海中に没している」
 涼子は頷きながら窓際へ寄って一口啜ってから微笑むように言った。
「ボスが原子力電池を作りたいとか、掻き集めてアフリカの沿岸諸国に売りたいとか、ジョークで言われるのならともかく」
「この手の物の回収や運搬はロシアのマフィアでも断っているようだ。それに知ってのとおり、原子力関連、そして放射性廃棄物等は、二〇〇八年のロシア連邦法で、外国投資の制限に関する筆頭に挙がっている」
「ということは、これが原子力とは無関係なラインの障害になっているのですか?」
 潘は手帳で頬を軽くたたきながら椅子をひき寄せた。
「そう、金物屋のクラウゼヴィッツから直々に連絡をもらってね、彼の事業部の極東開発チームからの依頼なのだよ」
「メタル?金属事業部の極東開発チーム…足踏みしていると聞いています。能源としても油田とガス田、そしてウラニウムをざっと調べてみたのですが、先程の連邦法による制限もあってか…」
「クラウゼヴィッツもざっと言っていたよ、ニッケル、モリブデン、タンタル、ニオブ、そしてリチウム、これらがあるとは聞いているが、場所と埋蔵量がどうも不確実だと」
 涼子は困ったように唇を綻ばせて首を傾げた。
「希土類、イットリウム類も手に入れたいから情報がほしい、とかですか?」
「それは言っていなかったな…あとは高純度クオーツとかプラチナ類とか…メタルの連中が、クラウゼヴィッツが打診してきたのは、具体的な人材の支援なんだよ」
 潘も応じるように困ったような額へ手帳を翳した。
「人はまったく剣であり、羽であり、そして能源そのものだ。我が社で専門に原子力エネルギーを扱っている者は四十人ほどいるが、日本支社の山崎涼子、君をご指名ということだ」
 涼子は実しやかに謝した笑みを浮かべてみせた。
「私が?確かに扱っているMOX(モックス)と電池のストロンチウム90が無関係とは言いませんが、霜降り牛のためにコーンを買い漁っているのと同じで、発電のための触れたこともないMOXを扱っているだけですよ」
 MOXとはプルトニウムとウランの混合酸化物燃料である。
「MOXのプロをお呼び立てしているようじゃないのだ。それにロシアでMOXを使うには相変わらず処理施設の技術が伴わない」
 涼子は髪をかきあげて油断させる微笑を見せた。そして慣れているように椅子をひいて潘の視界へ入った。
「完了後に長期休暇を取らなくちゃならないような仕事は嫌ですよ、やっと三十になったくらいの普通の女なんですから」
「危険な仕事にはならないだろう…とは言っても、シベリアには行ってもらうことになるがね」
 涼子は寒いしぐさで純白の七部袖の両腕を抱えた。実際に川崎にある金属事業部の鉛色のプレートを想うと冷ややかさが身近になった。
「断ってくれても構わない。日本人のように言えば、私はクラウゼヴィッツに義理立てする関係でもないし、優秀な部下を別セクションの支援にまわすほど余裕があるわけじゃない。それに危険は伴わなくとも、君にとっては原子力電池を買い漁ること以上に不愉快なことかもしれない」
「いつも日本人のようにお気遣い頂きありがとうございます」
 潘は涼子の慇懃な言葉を噛みしめるようにカフェ・オーレを飲み干した。
「君が、お父さんからお祖父さんのことを、どれくらい聞いているかによるのかもしれないが…」
「祖父のこと?満州で行方不明になった祖父のことですか?」
 涼子は意外さを隠しもせず苛立つように脚を組んだ。そして分厚くて堅固なレザー表紙の手帳を引き寄せた。
「そう、黒須欣一郎、その人だ。君の祖父は戦前から大陸でクロス、黒い恵比須の須で黒須の名で、我々中国人顔負けの商売をしていた方だったらしいね」
 涼子は紙コップに薄らとついた口紅のコパーピンクから目を逸らした。
「父の旧姓が黒須だということと、祖父が満州や沿海州、そしてシベリアで毛皮などを扱っていた人だということは聞いています」
「竜骨大王…私は二十年ほど前にガスと石炭の事情を見るためにモスクワからシベリア鉄道に乗った。そして大学の地理学部の技官から竜骨大王の話を聞いた。竜骨って言ってもマンモスの骨だがね」
 潘は竜骨と称する漢方薬の材料にもなるマンモス象の化石に話が及ぶのを堪えた。
「それはともかく、君の祖父だが黒須と呼ばせてもらうと、黒須が行方不明、と言うよりも商いの表舞台から姿を消してからのことは、クレムリンへ報告されて引き継いだロシア側の公的記録に残っていた」
 涼子は眉間をいくらか歪ませて削り掻くように手帳へ書き込みはじめた。
「たった二行だ。八七年にチクシという北極海に面した港湾都市で象牙公団に船ごと拿捕されて、その中に日本人、黒須欣一郎、七十五歳を確認する。そして逮捕、監禁の後にアンバルチクという有名な強制収容所に送られて、翌年、亡くなった、ということになっている」
 潘は仕切りガラスの向こうから様子を窺っている秘書に指のばつ印を見せた。
「ここからはクラウゼヴィッツたちの推測だが、おそらく黒須はKGBに嵌められたのだろう。老齢ではあるが、彼はマンモスの象牙市場を牛耳る立役者で、採掘権等に何ら摩擦を持っているわけでもなく悠々としていたから、KGBがロシア人の採掘業者と結託して追い落としたのではないか、ということだ。しかし今回、ニッケルとモリブデンを採掘精錬している業者と郡知事の名前を連ねて、フランクフルト経由で日本支社の山崎に伝えなければならない事実がある、と言ってきたんだ」
「祖父、黒須は収容所で亡くなったんじゃないのですか?」
 潘は頷きながら舞扇のように手帳を煩雑に開いてたどった。
「詳細は血縁者遺族に直接話したいという前提で…九〇年十月、北緯六四度・東経一三三度、レナ河の支流アルダン河中流域にて電池の放射能汚染により死亡する。埋葬された場所は黒須と親交があった地元ヤクート族の猟師が知る、とここまでだ」
「すると電池を電源にした灯台は、海岸沿いだけじゃなくて、大きい河沿いにも設置されているのですね」
「船が航行できる大河はシベリアならではだが、冬期に凍りついてしまえばハイウェイに様変わりして電池を電源にした無線標識が役に立つ」
 涼子は脚を組み直してもたれ掛かるように頬杖をついた。
「それで孫にあたるあたしが、墓参りがてらに祖父の最後を詳しく聞くことは縁者として納まりがよい話で、ニッケルとモリブデンでしたっけ、うちのメタルのラインの支援に繋がってくる、ということですか。本当にそれだけなのでしょうか?そもそも祖父の死亡原因が、放射能汚染で電池のストロンチウム90に因るものだということを当局は知らないわけですよね?」
 藩は頷きながら諳んじるような眼差しを天井へ向けた。
「知らぬふりのモスクワだろうな。クラウゼヴィッツの読みとしては、現政権が極右政党の資金調達に絡んだBAM、バイカル・アムール鉄道の保線計画に関与する出鼻を挫くために、鉱山業者と知事を使って放射能汚染の実態を、敏感な筋であるこちらへ流してきた」
「たしかに日本人は敏感な筋なのでしょうが、それなら日本のメディアとか、フランスやドイツのメディアに吹き込んだ方が効果がありますよね」
「広大なソ連、失礼、ロシア連邦の当局にあっては、こういった地方レベルの汚れ話の使い方は、間接的に利権が及ぶ範囲で充分なのだろう。大々的に各国のメディアに取り上げられて、あげくは現状使ってもいるこの電池を撤去することにでもなったら、他人事でも厄介なことなのだろうな」
 藩の眼は獲物を銜え捕った猛禽のように見開かれた。
「だから、政治と利権が後ろ楯になったマフィアが接触してこないとも限らない。断ってくれても構わない。明後日までに返事をくれないか」
 涼子は弾かれるように肘を立てて苦笑しながら頷いた。
「金属のチームからは今回の件の責任者、竹之内美恵、今話したBAMの大使館主催の懇談会で会わせたので憶えていると思う」
「ええ、とてもよく、クラトン4って知ってる、といきなり試されましたから…不勉強で存じあげません、と申しあげたら、あたしが今度行くところのすぐ近くで行われた地下核実験よ、と嬉しそうにおっしゃっていました」
「ロシア通にしてロシア人そこのけの強引さ、そして周囲の雑音に惑わされない利に聡い頭脳」
 潘は精力的な竹之内の言動の記憶を打っ遣るように深く座り直して続けた。
「しかし山崎涼子には、周囲の雑音を吸収して方向性を見い出す二枚腰の頭脳がある」

 山手線の内側には白く濁ったような雨が似合う、などと思いながら涼子は驟雨に煙る西麻布の街角を見ていた。実際に画廊喫茶の軒先からの滴りを見ていると、老婆の白粉を吸って茹だった汗、そしてそのまま立ち働く母を連想してしまうのだった。
 母は今日もまた自慢の塩瀬帯を締めて、さも粛々と少ない客に酒を注いでいるのだろうか。
 涼子の母は、名古屋の栄町の雑居ビル六階で小料理店を営んでいた。はぐれ烏の止り木のような「おばんざい・清子(きよこ)」は開店して十三年経っていた。大養鶏場の山崎家の煥発な長女だった母は、京都の女子大生の傍ら水商売を手伝いながら炊き合わせなどを身につけたらしい。しかし開店前にホットドッグを呑みこんでいるような母に、白々しく老け込んだ雨は似合わない。すると窓を曇らせた吐息の向うに、何故か湯気の立つ蕪蒸しが想像できた。涼子は気丈な母から蕪蒸しに至った連想を小さく笑った。
「お待たせね。ご無沙汰していました。その微笑みは仕事に充実しきっているマラソン・ドーチ(娘)そのものね」
 竹之内美恵は半刻前から観察していたような落ち着きで現れた。背後には落ち着かない様子で長身の男が立っている。顔立ちは細面で眩しそうな目つきの日本人そのものだが、痣だらけの逞しい腕をCSKA(陸軍中央スポーツクラブ)の星ロゴも賑やかなTシャツにとおしていた。
「電話で絵の興味はないって言っていたけれど、こちらもご同様らしくて…こちらは低温科学研究所のガイシ・ペトロヴィッチ・アラキ、荒木凱史(がいし)さん。六年前からシベリアへ亡命されて、三年前からはなんと消防士としてヤクーツクにいらっしゃるの。ロシア航空森林消防隊の特別研修生なんですって。日本では荒木さんでいいのよね?それともピーターとか?」
 竹之内は浮腫んだ手で荒木の肩甲骨をぴたぴたと叩き満面の笑顔をひろげた。
「荒木です、亡命は大袈裟ですが」
「昭和のくさいジョークよ。早速だけれど、あたしはこちらの荒木さんの案内で、新潟からウラジオストクへ入国して、ヤクーツクでフランクフルトの投信運用会社の社員と合流する予定です」
 涼子は上目遣いに頷いた荒木が頼り無げに見えて嘆息を漏らした。
「GMから聞いているかもしれないけれど、あたしは事前に一足早く入国して、投信会社のリポーターとポイントへ向かうかもしれないわ。そしてニッケル、リチウムの採掘の支障となっている地下核実験の忘れ物をリポートして、一刻でも早く既存のメタラ(Металла)の株式ファンド(投信)の信用を補正しなくちゃならないの。山崎さんはロシアは全く初めて?」
「はい、私は恥ずかしながら北緯五一度よりも北へ行ったことがないのです」
「五一度って言ったら本社かプラハあたり?」
「ウクライナのプリピャチです」
 竹之内は不意を突かれたように案外純朴そうな瞳を泳がせたが、荒木は心なしか姿勢を立て直して刺すように眼光を強めていった。
「プリピャチ、御存じかと思いますが、チェルノブイリの発電所に勤務した従業員たちが生活した町です」
「簡単には行けないでしょう?」
「行けますよ、簡単気ままなわけにはいきませんが。原子力関係者の研修ツアーがあるんです」
「保険付きなのかしら?」
「自己責任です。見学してからの健康に関しては自己責任による、という署名をしてからのツアーでしたが、トラックとか装甲車には近寄らないで路上なら安全だと言われていましたし、ガイガーカウンターを持っての短時間でしたから。あたりまえですが、それはまあ静かな町でした」
 竹之内は弛んだ二の腕を両手で摩りながら媚びる目尻を躍らせた。
「よかったわ〜山崎さんのような本当の原子力の専門家が一緒って凄く心強いわ。あたしなんか、未だにどこかの鉱山の中に入れって言われたら辞職しちゃうもんね。それに今回は町から離れた奥の奥でしょう、やっぱり荒木さんのようなツンドラ大好きで、危険大好きな男の人が先導してくれなくちゃ」
 荒木は涼子の睫毛が自分に向いて不意を突かれた。
「いえ、そんな、危険が大好きってわけじゃなくて…僕は馬鹿なんですよ」
「そういう謙遜の仕方って日本人らしいわ。そう思わない、山崎さん」
 涼子は頷きながら荒木の右肘の黒ずみに目を細めた。
「僕は岩手の生まれなのですが、岩手の男って昔から変な奴が多いんですよ。それにシベリアが、たまたま岩手に似た樹林帯ということで…普通の人はいくら生態に関心があっても、就労ヴィザまでは取得しないでしょう」
 竹之内は右肘の黒ずみを見て露骨に眉間に皺をよせた。
「だけどね、シベリアから日本やアメリカへ亡命した話なら、毎日のようにニュースになった頃があったわけよ。だからあたしの世代だとさ、こちらへ逃げて来る話なら云々と頷けるけれど、荒木さんは生態に関心があって、早い話がシベリアの虎とか鹿とか、それが好きで好きでたまらなくて、サハ共和国にずっと滞在しちゃってるんでしょう?その腕だけ見ても恐いもんね」
 荒木は火傷痕が斑に走る左手を掲げて言葉を探していたが、竹之内は運ばれてきた紅茶を配して腕時計を見ながら言い続けた。
「こうしてエキスパートが揃ったところだし、早めに概略と日時を打ち合わせて、途中にあったフレンチで食事しましょうよ。山崎さんがどこかご存知なら、そこでも構わないけれど」
「西麻布なんて二年ぶりです。普段は柏の蕪畑を眺めているんですから、先輩にすべてお任せします」
「柏は拍でいいところよ」と言いながら竹之内は腕を組んで天井を見上げた。
「それじゃ…あとメタラのお仕事として話しておくのは、メタラから離れるかもしれないけれど、BAMとかの鉄道路線の確保拡充による、えーと、流通の排気ガス規制、なんていうのがあるの。これによって環境関連のファンドを新しく設定したいという構想もあって、今回のメタラのファンドの裏付け調査に加えて、現地から提示された日本人の消息の件、つまり山崎さんの縁者の方のドキュメント、これは今後の関係強化のためによい材料になるのではないか。まあ、勝手も踏まえてそんな方向なんだけれど」
「分かりました。ただ、あたしはロシア語も話せないのに、祖父の墓参を目的のひとつとして同行するものですから、オクトの社員としては竹之内さんのお手伝いどころか足を引っぱらないか…」
「とんでもない、こちらが旅費だけじゃなくて防寒、じゃなくて夏だから防虫手当てを出さなくちゃならないところよ」と言って竹之内は振った手を茶碗にぶつけた。
「それにヤクート族のソ連邦時代の英雄、というご老人が会いたがっているんだわ、あなたに。なんでも伝説的なご老人で、場所柄もあって、猟師としても狙撃手としてもスーパーマンみたいに言われていてね。そのご老人が、あなたのお祖父さま、黒須さんのことで、是非とも伝えたいことがある、と仰っているらしいの」
「竜骨大王クロスか…」と荒木は唸るように言った。
「きっと地元の人達には馴染み深かかった素敵な方だったのよ」そう言いながら竹之内は荒木を軽く睨んで続けた。
「あとね、メタラの取り引きをやっていると、胡散臭い錬金術師みたいな伝説とか、鉱山での事故隠しなんかを、それこそ猟犬のように探している連中がいてうんざりするのよ。今回の一トンサイズの放射能を出す電池にしても…だいたいキュリー夫人だっけ?自分たちで放射能を見つけておきながら、大平洋で核実験をやっているような連中がよ、ドキュメンタリーを撮って、何かの賞でも取りたいのかもしれないけれど、早速嗅ぎつけていて煩いんだよね」
「フランス人は知っているんですね?」と言って涼子は唇をすぼめて眼を細めた。
「荒木さんに聞けば分かるけれど、森林火災の現場を取材していたフランスのTV局が、電池の放射能汚染を拾っちゃったのよ。取材用のベージュホートっていう車、北極とかそういう極地を調査するための雪上車みたいな車があるのよ。その車が電池の設営などで使われたものだから、モスクワの調査グループが車体から放射能を測定していて、そこをTV局が撮っちゃったみたい。撮影の種を探していた連中にとっては、まずまずの情報なんでしょうね」
「柏で準備のために収集しているうえでは」と言いかけて涼子は手帳を掴み上げた。
「昨日まで実際にオンエアされた情報は得ていませんが」
「それはそうでしょう、よそのお宅の粗探しなんだから。核にしても電池にしても、ロシアの技術をけなすのは構わないけれど、ロシア人を甘く見てもらっちゃ適わないわ」
「そうですよね、よその国に来て」竹之内の軽い憤慨が涼子の口許をほころばせた。
「それに、フランス本国からも圧力というか、原子力発電当局からなどの取材の制限ないし圧力、それもあったとみていいのでしょうか」
「そうね、TV局だって人並み以上に電気のお世話になっているんだし、フランスも資源としてのシベリアの天然ガスと石油は欲しいしね。しかもそのガスがよ、森林火災の原因のひとつと考えられているのよ。それで連中は、火災の現状と消防隊の華々しい活躍はしっかりカメラに収められたけれど…火災と関係がない電池の話、トナカイの角を三本にした放射能の汚染については、ちょっと待て、となったんでしょうね」
「トナカイの角が三本ですか?」
「あたしったら、こんな場所でいつもの調子で喋って、あたしこそ馬鹿ね」
 竹之内はそう言って隣の荒木の腕をもたれるように小突いた。
「日本でも詳しい筋では、もう知られていることだと思うんですけれど…」と荒木は飲み込むように言った。
「そうですね、荒木さんのところ、低温科学研究所の調査報告では、昆虫の突然変異が増えているとか」と言いかけて涼子は荒木の方へ凛と向いた。
「それで、汚染の実態は日本のメディアにはどの程度伝わっているのでしょうか。どこかTV局か新聞社で動いているところはありますか?」
 荒木がふわりと口を開きかけると、竹之内が遮るような眼光を送ってきた。
「日本のメディア以前に、ニュースソースとして、どこでどれだけ事件視させるか、そういった判断は、ロシアの科学アカデミーと共和国の郡部保安当局が連係して牛耳っているから心配ないわ。さらに今回の件は、保安当局と我々の上、金属事業部の本部との協議に形式上は一任されているわ」
「わかりました、お膳立てしてあるわけですね」と涼子はかわすように即応したが、彼女も潘の下で鍛えられてきた論舌の自負がある。
「それにしても私なりに情報を収集してみて首を傾げるのは、放射能被害がまったく日本に伝わってきていない現状で、日本人の黒須だけがクローズアップされていった繋がりが見えてこないことなのです」
 竹之内は噂どおりの怜悧を目の当たりにして満足そうに頷いた。
「そうよね、あたしの粗い話を荒木さんに補足してもらわなくちゃ。お祖父さま、黒須さんについて、こちらの荒木さんのご親戚が関係していらっしゃるようなの。どうぞ、お話して」
 荒木はあらためて目の前の女性が黒須の孫にあたる感慨に捉えられていた。
「えーと、わかりました、いやー何て言うのか、こうしてロシアのあの辺に関わる日本人が集まるとは考えたこともなかったものですから…僕の実家は盛岡なのですが、祖父の弟にあたる大叔父に、中に凱旋する凱旋の凱で、中凱(ちゅうがい)という人がいました。大叔父の中凱は、少年時代は体が弱かったそうで、兵隊に召集されないまま終戦を迎えたそうです。それでも青年になってからは、友人の影響からか、共産党員になってしまって、家を出てしまったそうです。しばらくは釜石を中心として、労働争議とかいうものに関わっていたようですが、六九年に、サハリンの蟹漁船に拾われるかたちで、亡命してしまいました。そうです、ソヴィエト連邦に本当に亡命してしまったのです。そこから先は、甥にあたる僕の父へ、父へ度々送ってきた郵便でしか様子を知ることはできなかったわけですが…父に見せてもらった手紙には、社会主義国家の称賛ばかりが書いてありましたね」
「検閲もあったでしょうからね」と言いながら涼子は首を傾げた。
「でも、亡命してから、やがて黒須と関わったということは…すみません、せっかちなものですから」
「いいえ、おそらく最初は喜んで迎えられたのでしょうが、そうはうまくはいかなかったのでしょうね」
 涼子は自分こそせっかちだという自負を呑み込むようにして真摯な眼光を放った。
「失礼ですけれど、大叔父さんはある立場から失脚、ないし放免された」
「そうです、七五年あたりから手紙は来なくなって、家族も消息は諦めるしかなかったようです。そして僕が高校生になった九六年、もちろんロシア連邦になっていましたが、エニセイ河沿いのノリリスクという町から、キャビアの缶詰と一緒に大叔父の手紙が送られてきました」
「ノリリスク、聞いただけで寒そうね。苦労されたんでしょうね」と言って竹之内は目を伏せた。
「ええ、やはり苦労されたようで、二重スパイの容疑で逮捕されてから、モスクワからウラジオストク、船に乗せられてマガダン経由でチェルスキー、東シベリアの方なのですが、そこへ送られて強制労働に耐えていたようです」
「アンバルチクの近くですね」と言いながら涼子は幾分すがるように手をあわせた。
「ごめんなさい、地図で見ただけです。黒須も一時そこに拘留されていたところだというので」
 荒木は剃り残した顎髭を立てるようにして反り返った。
「アンバルチクをご存知でしたか、ラーゲリ(強制収容所)でロシア人には有名なところですが…一度行ったことがあるのですけれど、夏でも流氷が漂っていて、まったく凄まじい所です。僕は子供の頃から、顔立ちやこんなふうにぼーっとしているところが、大叔父の中凱に似ていると言われてきました。その大叔父も、僕が休学してロシアへ渡った翌年に亡くなりましたが…やっぱり良くも悪くも、僕の伝説っていうか、神話っていうか…」
 竹之内は涼子の手帳を押さえるように浮腫んだ手をおいて微笑んだ。
「ラーゲリ、あたし達の時代のロシア語ね、ソヴィエトの陰部の象徴であり…」
「崩壊の象徴となったわけですね」と涼子は呟くように言った。
「まあ、ラーゲリの話はとてもお腹が空いてくるから、食事をしながらにしましょうよ」

 涼子は荒木凱史と地下鉄で同方向になった。荒木は上野駅近くのホテルに宿泊を取っていた。西麻布で食事を済ませて、横浜住まいの竹之内と別れてみると、ワインの酔いも手伝ってか、二人は話し足りなさを実感して日比谷で降りることにした。涼子の足は潘に二度ほど連れられた山手線ガード下のビヤホールへ向いた。
 バイエルン地方の風俗を模した店内には、珍しくリヒャルト・シュトラウスの交響曲が流れていた。ビールとお決まりの酢漬キャベツは、出会いを祝うように賑やかに運ばれてきたが、二人は仕事上の探り合いも佳境といった観で、静かにビアマグを小突きあった。そして女と男のお洒落なそれとは言えそうもない会話に陥っていった。
「…するとドイツは放射能放出や事故を懸念して、使用済み燃料の再処理をやめたのではないのですか?」
 涼子は接近してきた凱史の口許からノースリーブの肩を反らすように距離を置いた。
「経済的に割りに合わなくなったからです。現状の原子力需要では、再処理よりも直接処分した方が安いとふんだわけです」
「そのやめた再処理契約をオクトは買い取って、イギリスの再処理燃料を、日本の電力会社に供給しているわけですね。採算が合いますか?」
「そうね、長い目で見るしかありません、その時々の原油価格の動向とか、投資家が望むような金融商品への組み込み方に左右されますから」
 凱史は上腕筋をそびやかして拳をにぎりこんでみせた。
「どちらにしても、世界はプルトニウム余りにやっと気づいてきて、増殖や再処理から手をひいてきているわけですね、日本を除いて」
 涼子は頷きながら白ソーセージをてきぱきと切り開いて微笑んだ。
「原子力が好きでプルトニウムを集めているわけじゃありません、日本も、私も。もっとも、あたしみたいな人間をプルトニウムを求めて漂流するプルトニウム・ローバー、プロのプロ、とか冗談で言っている人もいますけれど」
「いや、何て言うのか、あなたの仕事を否定しているわけじゃなく」と言ってから凱史はマグカップを飲み干して続けた。
「自分のことになりますが、僕は消防隊が夏よりも格段に時間が持てる真冬には、低温科学研究所の現地法人として実験観測や研究者のお世話に追われるのですが、そうそう、最近はTV局クルーをお世話することもあります。その際に携帯するようになった機材のひとつとして、ガイガーカウンター、放射能検知器があります」
 放射能を気にしている都市生活者を探すのは困難だとしても、放射能に関わっている僻村隠遁者を探すのは容易いこの世界である。
 涼子は唇から咽喉もとを凱史に見つめられて噛むことをやめた。
「何かあったのね」
「ええ、二〇〇四年に友人を癌で亡くしました。さっき話に出たノリリスク、そのノリリスクよりもエニセイ河上流にあたるイガルカという町で、永久凍土研究所の父親を手伝っていた二十四歳のアーニャという女性です」
「詳しく伺ってよろしいかしら、その方はロシア人?」
「父親のフョードロフはユダヤ系のロシア人ですが、母親はヤクート人なのでアーニャは混血で、そうそう、色の白い日本人のようだったなぁ」
「不躾ですけれど、恋人だったの?」
「いやー、何て言うのか、亡くなってから自分が意識していたことを覚った次第で、鈍いものだから。そもそも八八年に彼女の母親、フョードロフの妻がやはり癌で亡くなっているんです。それを知りながら…僕は思いやりが足りなかった」
「その原因がストロンチウム電池だったの?」
「いいえ、フョードロフが断言しているところでは、アーニャがまだ胎内にあった八〇年頃、ダイヤモンド鉱山で繰り返された核爆発の結果、プルトニウムで汚染された地下水が河へ浸透して、母親がそれを生活水として使ってしまったとか」
 涼子は口許のマグカップで煌めく泡に熱い息をかぶせた。
「消防隊の認識票にある僕の父姓ペトロヴィッチですが、航空森林消防隊という特殊な部門の研修生だから、フョードロフが後見人になってくれて、登録のときに自分の父姓を分けてくれたのです」
「言わば、あなたにとってのシベリアの…義兄弟、でいいのかしら。それとも、亡くなったアーニャへの想いからすれば…」
「フョードロフは年齢からすれば父親ですが、今でも研究者としては若々しくて、僕にとっては憧れの兄貴っていう感じです。僕がシベリアへの思い入れを語る中に、アーニャの存在があったことを正直に言うと、彼はヴォッカのトゥラバ(グラス)を当てて言いました…」
 凱史は俯き加減にビールを飲み下した。
「アーニャはズェムリェ(大地)になった。だからアーニャこそがシベリアなのだ。ユーガヴァストーク(東南)から君が来るのを待っていたよ、と。すみません、夏の東京の新橋で、シベリアの自分のことばかり喋っていて。どうしたんだろうな?酒は、日本人にしては強い方だと思っているのですが…」
「いいえ、これからシベリアへ行くにあたって、先導していただくあなたが率直な方だと知れてよかったわ」と涼子は潔癖な心象をさらりと言って続けた。
「先ほど西麻布のフレンチでお聞きしたけれど、大学の生物学教室を出てから、望みどおりウラジオストクへ渡ることができたのよね。それから二〇〇四年まで、放射能汚染を伝える情報がなかったわけではないでしょう?」
「もちろん、放射能汚染はアーニャだけじゃない」と言って凱史はテント地のウェストポーチからラミネート写真を取り出した。
「見てください。僕はアルセーニェフ、デルスー・ウザーラのアルセーニェフ、デルスー・ウザーラはご存知ですよね?」
「黒澤の映画よね」
「そうです。そのデルスー・ウザーラのアルセーニェフに憧れて休学し、そしてフョードロフ・ペトロヴィッチの導きの許、ウラジオストクの東にある、えーと、ラゾ自然保護区、そこで生態研究を始めました。そして最初に確認したチーグル、虎のことだが、これがタイガの神、シベリアン・チーグルのヨシフです。こんなに美しい虎を、僕はこの眼で、肉眼で見たんですよ」
 凱史は五本指を立てて五亜種の虎の生息地、そしてシベリアのヨシフがいかに大きかったかを力説した。さらに涼子の持つ写真に、指を翳して森林中の縞の迷彩効果を語りながら突然、放心したように空のカップを咥えてウェイターを呼んだ。
「二〇〇二年のときは間近で凄かった。野生の虎を一年間に二度も見れたことは、まったく奇跡だろうな。そして二〇〇三年の二月、三度目にヨシフを見たときは死んでいました。保護区から出て、ナホトカ近くの村に現れたところで、麻酔銃を撃たれました。ヨシフは麻酔銃のショックで死んだと…僕は何も知らずに日本からのこのこやって来たので、麻酔銃のショックでヨシフが死んだということを丸呑みに信じていた」
 凱史は涼子から写真を受け取って大きく頷いた。
「一週間もしないうちに森林官レオーノ…失礼、彼は現役なのでエルとしか言えないが、エルから酒を誘われて真相を聞かせてもらった。解剖を担当した獣医がエルの友人で、その獣医から放射能の影響を分析してほしいと言われたので、エルが情報を収集してみると、沿岸近くに転倒して放置されたままの原子力電池とその基盤台の間に、ヨシフはしばらく住み着いていて…猫のように暖をとっていたんだろうな」
 涼子は咳き込んだかのように一瞬の嘔吐を押さえこんだ。そしてシンフォニーがやんでいるのに気づいて辺りを窺うように言った。
「鉄条網で囲って塞いであったんでしょう?ヨシフ、虎じゃなくても、他の家畜などにとっても危険なことは分かっていたんでしょう?」
「ところが、エルが収集した情報を基にした獣医の解剖報告書は、騒がれない方向で修正された。実際に写しを読ましてもらったんだが、細かく隅々まで読めば、前脚の骨から一般に毒性が低いストロンチウムは確認された、とかはあったけれどね」
「それはそうでしょう。釈迦に説法かもしれないけれど、ストロンチウムはカルシウムと置換しやすくて蓄積しやすいから」
「僕もストロンチウムが身近かに転がっている物だとエルから聞いて驚いた」
「問題はね、磁石とか花火とかで使われているストロンチウムじゃなくて、核の種、核種として危険な90なの、β線を出すストロンチウム90のことなのよ」
 凱史はつきあうように辺りを窺う目配せで微笑んだ。
「さすがはプロだ。エルが僕だけに言ってくれたことは、ヨシフの体内に実際にあったのは、そのβ線を出す危険なものだったってことだ。だからヨシフは毛皮どころか爪ひとつ残さず処分された」
 しばしの沈黙も許さぬようにシューベルトのテーノル曲が歌われはじめた。涼子は苛立ったような眼をスピーカーへ向けた。
「アーニャは生まれつき右手が使えなかった」凱史はそう言って二つのマグカップを受け取った。そして片方の持ち手を替えて涼子へ差し出した。
「こんな話ばかりしていると、竹之内さんからチームを外れるようお達しがくるかもしれないから、こうして山崎さんと飲むのも、最初で最後になるかもしれないな」

 シンポジウムの懇親会という場で、一時間を費やすほど山崎涼子は閑な体ではなかった。上物のシャンパンといっても、ダイオキシン汚染の専門家と長々と楽しむ気は毛頭ない。胸毛の中に十字架を埋れさせているブラジル人からやっと逃れて、上階の店舗を確認してエレベーターへ乗り込んだときは六時を過ぎていた。エレベーターの出窓から見る浜松の夕景は小雨に濡れていた。上海やムンバイの地下水汚染に関する形式的な報告を耳で聞きながら、手許で過去のウラン盗難に関するロシア原子力省のモホフ報告を熟読していた目には、浜名湖へ誘うような紫光の連なりは哀愁濃く見える。嘆息も仕方ない。向かっている最上階のラウンジには母が待っているはずだった。
「さすがにあたしの娘、いい女だわ。いつもの七部袖の白いシャツに、何か中近東風のスカーフね」
 母清子は紺染めの麦藁ハットを被ったまま、娘涼子の接近を舐めるように見て喜んでいた。しかしジーンズにサンダル履きの微笑は油断ならない。涼子は母の右隣へ椅子を引き寄せてから、トルコブルーに銀砂のスカーフを整えながら首を傾げてみせた。
「これはマラケシュよ。そっちこそ、今日はお着物じゃございませんの」
「着物は仕事着だからね」
「まるで海からの帰りみたい。でもね、そんな常滑帰りのような格好だから、大した話じゃなさそうだと思わせておいて…もう何も驚かないからね」
「常滑って、よほどあそこが楽しかったんだね。あの潮干狩りね」
「あそこは、あたしにとってニュートンの浜辺よ、今でも」
「でもさ、あんたは世界中あちらこちらに行っていて、今度はシベリアの奥へ行くんだからさ、母さんをカネオヘくらいは連れて行ってくれてもいいんじゃない?」
「カネオヘ?」
「ハワイのカネオヘよ。オアフ島の裏側の観光客が少ないところで、落ちたてのマカデミアンナッツが食べられるんだって」
「ハワイね、人並みにハワイなんて行けるかどうか…あたしはいつだってIAEA(国際原子力機関)の監視下にあるし、母さんは大学病院の監視下にあるんだからね」
「そっちは大丈夫。それに何かまた見つかったら見つかったで、余計に行きたくなるだろうね、カ・ネ・オ・ヘ。ともかく、余命幾ばくもないとなったらさ、親孝行の極めつけとして、思い出しておくれよ」
 涼子は自分に似た口調に畏れ入りながら安堵していった。母清子の最たる懸念は子宮筋腫手術後の定期健診にあったのだが、せっかちで素直な性格は体調不良を隠すようなことはなかった。しかし店を休んでまでして、浜松に来ている娘を訪ねて来ている。逡巡する自分を見られることが嫌な涼子は、メニューを一瞥してから軽く指を鳴らした。
「食事は?話っていうのは、白焼きで一杯やりながらの方がいいのであれば、場所を替えなくちゃね」
 清子は俯くようにして暗んできた窓辺に顔を向けた。
「それとも、鰻が重たい感じだったら、チヌのお造りでも?」
「今のチヌだったら、グリルでバルサミコ、それも話し終わってからにしようよ」
「分かった、そういう静々と拝聴する話なのね」と言いながら涼子はウェイターを呼び寄せた。
「マカデミアンナッツがなければピーナッツ、ブルーハワイがなければジン・トニックでもやりましょうよ」
 話すべきか迷っている母がいた。
「来週の今頃はサハ?サハ共和国にいるのよね」
「やっぱりね、シベリアへ行くのは反対だ、って言っていたもんね」
「サハは、ちょっと前まではヤクート自治共和国っていっていたわね。お父さんが何度も話してくれたから憶えているわ」
 涼子は母の乾いた左手に右手を添えるようにおいた。
「大丈夫、話して。シベリアのこと、お父さん、そして黒須欣一郎、いつか話してくれるだろう、と思っていたわ」
「そうね、あんなお店をやっている経験上、こういうことは憶測を交えずに、まず見聞きしてきただけのことは、きちんと伝えるべきなんだろうね…」
「カネオヘのブルーハワイでいいのね?あたしは、行かせたくないという国のモスコミュールにでもしようかな」
 母娘の神妙さに合わせるように、闇が質量をもって黒々と遠州地平に降りてきていた。磐田の方に走る裂光は落雷だろうか。ともあれ親子であれ組織であれ、若輩が畏まれば話の堰は切られる。清子は麦藁ハットをとって髪に軽く指を置いた。そして予め整理しておいたように丁寧に話しはじめた。
「そう、お母さんは、あんたをシベリアへなんか行かせたくない。あんたが仕事上とはいえ、黒須欣一郎と関わりを持つ、と聞いた瞬間から、なんかこう憂鬱になったわ。母親とすれば、お父さんを惑わせた人、旧姓黒須次郎を惑わせた関係、それがお鍋のように沸々と煮えたぎっている大陸に、娘のあんたを行かせたくない。当然でしょう?常滑の見晴らしのいい浜辺で遊んでいた娘を、有無を言わせず拉致して、湿って凍てついた樹海の奥へ放り捨てる。まともな世界じゃないわ。お父さんがよく言っていた、大陸の北には、ある種の男にとって、仕事の一線を越えさせて、感情移入させる魔のような魅力があるのかもしれないと。その魔に憑かれたようになってしまって、今まで大事にしてきた平々凡々な日常に戻れなくなる危険があるのよ。…そんなふうに魔に憑かれた人達、中でもお父さんとお母さんの出会いを取り持つように現れた人、その人のことを話さないで、あなたをシベリアへ行かせるわけにはいかないわ」
 清子はマカデミアンナッツがあったことを喜んでみせてから続けた。
「お母さんが、京都の白川の叔父さんのところに下宿して、かたちばかりの女子大生生活をはじめた頃は、安保反対の学園紛争が真っ盛りで、おちおち授業を聴いているような雰囲気じゃなかった。しかも遊ぶ金には困らないお嬢さまだったから、あちらこちら跳びまわっていたけれど、裏千家のお茶と大学の聖歌隊だけでは、若かったから夜な夜な鬱憤が堪ってやりきれなかったのね。そこへお茶で知り合った人から、黒谷の割烹料亭のお手伝いを紹介してもらって、そう、あなたも一緒に二度は行っているよね。あそこで働きはじめて、聖歌隊をやめたりしたものだから、名古屋の親にばれてしまったときは、叔父さんに飛び火して申し訳なかったけれど…とても楽しかった、いろいろな人に会えたし、炊き合わせや焼き物、ちょっとした八寸の作り方なんかを教えてもらって。お父さん次郎さんと出会えたのも、あそこで働いていたからこそ…記憶を辿って細かに話すとね、昭和四十五年の十月ね、三島事件のあった頃だからよく憶えているわ。京大の経済学部の教授でマル経の論客なんて言われていた先生が、いつもは出版社との打ち合わせの昼食にしか使われないのに、珍しく夜に予約を入れられて、女性の方を同伴されたの。マチコ・シャービン、旧姓脇坂真知子。ボーイッシュな感じで若々しく見えたけれど、思うに今のあたしと同じくらいの六十代だったんだろうね。先生の先輩で久しぶりに日本へ戻られたとかで、床の間を背にして注がれるままに冷たそうな眼でじっと飲んでいたわ。翌週から、彼女はアメリカの新聞記者とか雑誌記者と一緒に来るようになったんだけれど、新聞記者が日本贔屓で名古屋にいたこともあったせいか、学生のあたしをヘボ仲居として指名して必ず呼んでくれたの」
「そのご婦人マチコさんはロシアから、ソビエト連邦から日本へ戻られたのよね?」
「お察しの通り、たしかモスクワではマルクス・レーニン研究所に勤めていて、あたしには滅多に話しかけてくれなかったけれど、時折、日本人向けの広報担当みたいなことばかりやっているのよ、とか言って苦笑いしていた…そうそう、どう転んでもスパイだと疑われているにきまっているなら、とか言って、京都府警の上の方とご一緒のときもあったわ。あたしなんかも、ちょっとスリルがあって楽しんでいたようなところがあったわね。なにしろ右の組関係の方からは、売国奴にのうのうと酒を飲まして湯豆腐食わせおって、とか電話がかかってくるし、マチコさんに憧れている左の学生たちは光明寺の前に集まったりで、物騒でお巡りさんとは顔馴染みになっちゃうし…ほんと、今から思えば、若かったからどこか楽しんでいたのよね」
「お父さんはまだご登場されないのかしら」
「お父さんと出会ったのは、卒業した年の五月下旬だったね。京大の先生から女将伝いで、敦賀で教師をやっていた教え子を、四月から助手として呼んだんだけれど、俳優みたいにいい男なんだけれど女っ気がまったくない。暇さえあれば腕立伏せをやっているような筋肉男で色気がない。そこで知り合いの料亭に可愛い娘さんがいる、ともう話してあるから一度会ってくれ、となったわけよ。笑っているけれど、あなたがこの世に生まれ出るかどうかの瀬戸際でしょうよ」
「笑っていないわよ、どうも親のロマンスは想像するのが難儀だわ。ところで脇坂真知子だっけ?そのマチコさんは、さて、お父さんとどういう関係なんでしょう」
「お父さんとつきあいはじめて半年ばかり経った頃、マチコさんの訃報に接したの…昭和五十一年かな、ベトナム戦争は終わっていたね、お母さんは叔父さんの精密機械の工場で事務員として働きながら京都にへばりついていたけれど…二人で嵐山の紅葉を見に行って、常寂光寺の苔の上に散らばった紅葉が凄い赤だったから覚えているわ。お父さんがね、次郎さんが、マチコ・シャービンがモスクワの病院で亡くなったようだ、って言ったの。それまで二人の会話にその名前は出てきていなかったので、お母さんは正直びっくりしちゃったわ。後になって考えてみると、おそらく次郎さんは、教授からそことなく聞いていて、仲居の真似事をしていたあたしとマチコさんが、素性を知り合っている仲だと思っていたみたいね。だから昭和四十五年にマチコさんが日本へ戻ったときに、突然に敦賀の次郎さんのところへ訪ねて行ったこととか、昭和三十二年頃から教授宛の外国郵便を経由して、マチコさんから黒須のお母様へ手紙が届いていたことまで話してくれたの」
「せっかちなのでご免」と言いながら涼子はウェイターを呼んだ。
「ウオッカをダブルにしてください。マチコさん、彼女も敦賀の出身だったの?」
「あたしはスペイサイドもののスコッチをロックでいただきたいわ」そう言って清子はグラスを渡しながら窓辺の闇に何かを見ようとしていた。
「あたしが聞き集めたところでは、マチコさんは琵琶湖の西、今でいうマキノ町の教員夫婦の長女に生まれて、師範学校を卒業してから篠山で教員生活を送っていたようね。そして教員生活の傍ら左翼思想に感化されていったみたいね。そうなると戦前だから特高、特別高等警察に睨まれて篠山を追われることになって、大阪の都島あたりに潜伏するようになっていたみたい。そのときに殺傷事件に連座した容疑で指名手配されて、たしか博多まで逃げて、大阪の朝鮮人の手引きで大陸へ渡っていった…そんなところかな」
「戦前だから亡命第一世代ってとこね」と言って涼子は反り返ってマカデミアンナッツを頬張った。
「メール読んでくれた?今の話からすると凱史の大叔父、中凱さんは戦後で第二世代にあたるわけだけれど…結局はソビエトもなくなっちゃって、夢が夢の痕を残したまま、シベリアのかなり涼しそうな風土だけは変わっていないみたいね」
「凱史って、メールにあった森林消防隊、山火事を消している奇特な日本人?彼の大叔父さんが次郎さんのお父さん欣一郎と最後に接触した日本人なのね?」
「知りえている限りでは」と言いかけて涼子は諳んじるように遠くの夜景に目を細めた。
「公の文書では、黒須欣一郎は八七年にチクシで捕まって、翌八八年にアンバルチクの収容所で亡くなった、ということになっていたらしいけれど、メタルの亡者ども、うちの金属事業部が拾い集めてきた今回の情報では、九〇年十月にアルダン河水系にて腫瘍疾患にて死去。これらの情報源が、八二年夏くらいから黒須ファミリーの一員として、裏市場で働きはじめていた荒木中凱その人なの。中凱さんの黒須からの聞き伝えでは、黒須欣一郎はアンバルチクからは買収に次ぐ買収でなんとか脱出して、山脈を挟んで商売を再開した頃に…おそらく放射能汚染に遭遇したらしいの」
「やっぱり行くのをやめなさい」と母清子は眉間を摘むような仕種で俯いた。
「言うつもりはなかったんだけれど、お祖父さんが黒須欣一郎だから何だって言うのよ。あんたが原子力の材料を扱っているから何だって言うのよ。あんたにもしも何かあったら、あの世でお父さんに顔向けできないどころか、あたしとお父さん、次郎さんとの結婚も生活も、丸ごと最初から黒須欣一郎に呪われていたようで…」
「そんな母さんらしくないこと言って」と言いかけながら涼子は携帯電話を取り出してメモをとりはじめた。
「ワキサカは普通の脇坂でマチコは?真実を知る子で真知子ね。あちらへ行ってからはマチコ・シャービンね。さて、聞かせて、本題を。大陸に渡ったマチコはいつ、どこで黒須欣一郎と出会って、そしてお父さんとどう関わっていくのか」
「懲りない子だね、誰に似たのか」と言いながら清子はスコッチを含んで憂鬱な目を流した。
「あてにしているようなドラマチックなことは、何もありゃせんて」
「乗りかけた舟だよ、お母ちゃん」と言って涼子は子供っぽくグラスの氷を吸い含んだ。
「いまさら廻りまわってお父さんが実はロシア人でも驚かないからさ」
「お父さんは、あなたが貰ったそのくりくり眼(まなこ)そのものの縄文人よ、残念ながら」
 そう言って清子はやっと母らしい興奮が胸奥で静まったのを感じた。
「例えば、お父さん、次郎さんがマチコさんの子供だった、なんていう韓国ドラマみたいな話ではないにしても…そもそも次郎さんのお母さま、黒須欣一郎の妻、奈津子さんは、昭和二十八年に二歳の次郎さんを抱えて、中国から引揚船で舞鶴へ戻られたのよ。あの有名な興安丸、と言っても知らないか。ともかく、親子はお母様の実家がある敦賀と京都を行ったり来たりしながら戦後を生き抜いてきて、お母様は苦労が祟って、昭和三十九年に亡くなった。それからの次郎さん、天涯孤独っていうか一人になっちゃったお父さんは、資産家だったのか、あるいは大陸の父親、欣一郎から華僑のルートを伝って送金されていたのか、世間が思っているほどは困った生活もせずに、京都でそこそこの学生生活を送ることができていたみたいね。そして卒業後は教授から声がかかるまで、敦賀でのんびり教師をしていたわけよ」
「それで、お母さんと出会う前の敦賀のお父さんのところを、マチコは昭和四十五年に訪ねてきたのよね。どんな名目、っていうか、どんな関係で?」
「お父さん、次郎さんはマチコさんがいつか訪ねてくる予感を持っていたみたい」と言って清子は胸元を覗き込むように粛々と俯いた。
「黒須欣一郎という人は、最初から象牙を商う商人なんかじゃなかったのよ。あんたがさっき言っていた亡命第一世代の先鋒の一人で、おそらくマルクス・レーニン研究所の足許で活動していた最初の亡命者の一人じゃないかと思う。思うっていうのは、京大の先生がおっしゃるには、戦前の満州やカラフトでの日本の勢いに苛立っていたロシアのお偉いさんからすれば、日本人の革命同士っていうのはあまり…」
「表立って活動させられる存在じゃない、ってことね」
「そう、マチコさんのときにはもう戦後で、日本人で、しかも女性だから宣伝効果もあったでしょうしね」
 そう言って清子は苦々しそうにグラスを呷った。
「だから裏方にせよ、先に活動していた黒須欣一郎とマチコさんは、日本にいたときに知り合っていたかは不明だけれど、モスクワでごく自然に出会ったと言えるわね。そして女手一つで次郎さんを育てていた奈津子さん、つまりお母さまの許へ、御主人欣一郎さんと活動を共にしている西近江出身の脇坂と申します、という最初の手紙を送ってきた。それからお母さまが亡くなられた後の四十二年頃まで、次郎さん宛も含めて年に一通くらいの割合で送ってきているわ。手紙の内容は、最初のもの以外は欣一郎の動向にまったくふれていないし、教授がおっしゃるには、活動家としての黒須欣一郎は、ソビエト側のどこを探しても見あたらない。だから手紙が送られてきはじめたこの頃には、黒須はシベリアで象牙を商いながらも、活動家としてはモスクワと縁遠おくなっていたのか、もしくは追放されていたのか、逃亡の憂き目になっていたのではないか、ってことなのね。だからマチコさんが日本の妻宛てに送っていた手紙は…そうね、欣一郎恋しい、自分も寂しい、正妻も気になる、そこで他愛もない女同士の腹の探り合い慰め合い、ってとこかな。あなたも三十路女ならなんとなく気持ちが分かるでしょう。それにしても、欣一郎はお父さんと違って大もてだったようね。写真見たことあるでしょう?女ってさ、亡命してマルクスを研究している堅物女でも、細面の不良ぶった男には弱いもんなのかね…」
「女心はとてもとてもまだ分かりませんけれど、お父さんも手紙の中身まで、事細かくお母さんに教えているのね、さすがの恐妻家」
「何を言っているの、この子は」と清子は斜に座りなおしてウェイターを呼んだ。
「これってタムデュー?同じものをちょうだい。手紙の中を事細かく知っているのは、あたしが今でも持っているからよ、封筒ごと全部。お母さまは亡くなるときに処分するように仰っていたみたいだけれど、次郎さんは独りぼっちになっちゃってそんな気分じゃなかったんでしょ。それに次郎さんはやたら海外出張が多くなってくるし、父親似なのか、あなたは昔から手がかからない変な子供だったから、このままだとキッチン・ドリンカーになっちゃうと思ったところに、ソ連が崩壊してから、サハ共和国のお役所からお父さん宛てに二度ばかり手紙がきたのよ。お父さんに内容を聞いてみると、マチコさんの功績を讃えているとか、彼女の墓参りに来ないかとかいうことで、モスクワからきた手紙なら分かるけれどサハでしょ、いくらあたしだって変に思うでしょうよ。そうきたら蛇が出ようが何が出ようが、知りたいことは知りたい、となっちゃうわね」
「仰るとおりです。探るなと言われても、やめろと言われてもやめられないこの性格は、お母さん似なのかな」と言いながら涼子は勢い空の氷を歯にあてた。
「やっぱり、お母ちゃんはどえりゃい(ど偉い)女房じゃな」
「どえりゃあもなにも、お父さんのアイデンテテはお母さんのアイデンテテだからね」
「なるほど、アイデンテテを持ち出されては痛テテだな。しかし、ありがとう、こうなると探りの血統は証明済みということで、あたしも知りたいことは知りたい、蛇が出ようが羆が出ようが」
 清子は嘆息のまま麦藁ハットを摘んで、それに語りかける風にロシア語をぽつぽつと置いた。
「Причина, по которой человек несчастен, состоит в том, что он не знает, что он счастлив(人間が不幸なのは自分が幸福であることを知らないからだ)」
「ドストエフスキィ?」
「そう、あたしの時代のドストエフスキー、あたしの時代のロシア語さ」

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ドン・シプリアーノの娘   Jan Lei Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 フランス皇帝ナポレオン三世の皇后、ウジェニー・ド・モンティジョその人を書くことになってしまった。いくら彼女がウジェーヌ・シューの名付け親とはいえ、筆名の洒落にふわふわ乗じて、史実のナポレオンの周辺を散策してみようかな、などと嘯いてみるほど暇ではない。さらに謙虚を装って、後々に女を書いて彼は些か巧妙だった、などと評されることは妄想の欠片にもない。しかしカスティーリャのフアナをちまちま書いたあたりから、戯曲の型押しの型の一つとして、井戸端会議や茶飲み話、いわゆる一端の賢婦人、ないしは賢婦人気取りのお喋りの集いを認知歓迎することとなった。とは豪そうに言ってみたものの、未だ分析どころか数えあげにも程遠い、家族というスキーム(概形)、そのスキーム上を渉猟して表現するにあたり、古くから使われている手垢に黒ずんだ木型が、何気なく机上の隅にぽろりと置かれていただけのことかもしれない。


一八三八年五月五日、ウジェニーもしくはエウヘニアの十二歳の誕生日

場所
 パリ、サクレ・クール寺院女子修道院に近いヴァレンヌ街のモンティホ伯爵邸

登場人物
 エウヘニア…スペイン貴族ドン・シプリアーノの次女
 フランシスカ…スペイン貴族ドン・シプリアーノの長女
 マリア…エウヘニアとフランシスカの母、マリア・マヌエラ・キルクパトリック
 アンリ…考古学者にして作家アンリ・イルデトロワ
 フアン…スペインの作家フアン・グランゴベルナール
 マルグリット…家政婦頭
 ルイサ…家政婦、マルグリットの娘

(午後、陽が傾きはじめた時刻、モンティホ伯爵邸の夫人マリアのサロン、正面に向いて窓が三つ並んでいて晴天を背景にサクレ・クール寺院の尖塔が見える。真ん中の窓の前に楕円形のロココ調白卓、背もたれを正面に向けて三人がけの長椅子、卓を挟んで窓下に一人がけ三脚、上手と下手に一脚づつ)
(正面に背を向けたかたちで、伯爵夫人マリアが長椅子の中央に座っている。前屈みになって揺れているので居眠りしているように見えるが、手には十字架が握られていて一心不乱に祈っている。上手から修道尼姿のエウヘニアとフランシスカの姉妹が入ってくる)
エウヘニア (立ち止まって、少々気だるい仕種で後ろのフランシスカを前に押し出す)物事には順番があるそうなので、お姉さまからご挨拶なさって。
フランシスカ 怖いことはあたしにさせるのね、あなたって人は。お母さま、ただいま戻りました。
(二人が近づくにつれて、前傾で揺れていたマリアの背筋が伸びてきて、二人が揃って会釈したときには堂々として微動だにしなくなる)
マリア (キスをさせるべく右手を娘たちに向かって差し出しながら)フランシスカ、怖いことなの?
フランシスカ (慌てて手を取り、キスをしてから頬擦り)お母さまのお祈りにお邪魔することは申し訳なくて…それはあたくしにとって怖いことですわ。
エウヘニア (続けて手を取り、頷きながら軽くキスして)お姉さまの仰るとおり。
(マリアが弾かれたように右手を引いて、エウヘニアは母の手を取っていた両手はそのまま虚ろな面差しになる。マリアは背筋を伸ばしたまま長椅子から立って、下手左回りに回って長椅子の背面、正面に向かって立つ。正面客席は壁面の設定で、数々の肖像画が架かっている)
マリア (上手入口に近い自分から見て左の肖像画に左手を翳して)マルグリット、マルグリット!(上手入口に速やかに現れたマルグリットを見ずに)その北へ向かおうとなさっているサン・ドニ、それを外して、入浴中に亡くなったマラーを架けておくように言わなかったかしら?
マルグリット 奥さまに忠実なあたくしの記憶にはございませんが、ルイサに申されたのであれば、ルイサが果たしていない任は私の責任ですので早速に
マリア マルグリット、パリにいてもグラナダにいても、あなたの忠節と記憶を疑ったことなどないわ。記憶を疑われるべきは、いつも二つの国と二人の娘と、そして二人の作家に気を惑わされている、このドン・シプリアーノの女房よ。
マルグリット めっそうもございません。(上手入口奥の気配に気をとられながら)ルイサったら…早速にマラーの…
(アンリ・イルデトロワがマリアの横顔を直視したまま颯爽と登場)
アンリ マラーの絵とは、マラーがオフェーリアのように浮かんでいる絵のことでしょうか?マダム・モンティホ、三文作家のアンリ、お招きに喜んで馳せ参じました。
(アンリはマリアの手を取りキスする。エウヘニアはフランシスカを脇へ押すようにして二歩前に出る。マルグリットは上手入口の方を見ながらサン・ドニの肖像画の下枠に手をかける)
マリア 謙虚で情熱的な短編の名手、よくぞいらしてくださいました。(袖を翻すようにして素早くマルグリットの手を押さえる)このままにしておいて、そしてベレの用意をして。
(アンリは娘二人の方へ向かおうとするが、マリアはまた翻すような仕種で呼び止める)
マリア サン・ドニがフランス人ならあなたもフランス人。アンリ、あたくしマリア・マヌエラは、つまらない女なものですから、サン・ドニが自分の首を抱えて北の方へ歩いていった話を聞いてから、この青白い横顔を見ると寒気を感じてしまうの。
アンリ それで…臨終のマラーの方がまだましかと?
マリア どちらにしても、この辺りを伝説の地となさったフランスの偉人、そういった方々の肖像を外せだの、替えろだの、アンリはご不満よね。
アンリ 不満などはございません。それに、(娘二人の方へ向いて)私ごときの三文作家でも、いやしくも文筆を生業とする者であれば、語り尽くされた地下の偉人のことより、今日という日には、五月の甘い風が揺らしている青春の髪を語らなければならないでしょう。
エウヘニア (髪に手をやって首を傾げる)今日は五月五日です。
(マリアがエウヘニアとアンリの表情を凝視しながら言いかけると、上手入口から母マルグリットを押しのけて、赤薔薇の花束を抱えたルイサが登場)
ルイサ イルデトロワ先生、お花をお持ちしました、仰せのとおりに。
アンリ (恭しく花束をエウヘニアへ手渡して)愛らしいエウヘニア、いいや、ここはパリ、咲き誇る前夜祭を迎えたマリア・ウジェニー・モンティジョ・シプリアーノお嬢さま、十二歳のお誕生日、おめでとうございます。
エウヘニア (受け取った花束から目を上げずに)なんて綺麗な薔薇、ありがとうございます。次にいらっしゃるときには…フランスが誇る新進作家の新作を読ましてくださいね。
アンリ (マリアの方へ向いて肩をすくめる)これは手厳しい、来週には献辞を添えて、早速に活字組みを始めなければならない。
(アンリとマリアは弾けたように高笑い、マルグリットが追いかけるように引きつった笑い、ルイサも追いかけるように母似の引きつった笑い、そしてエウヘニアとフランシスカが顔を見合わせて些か困惑した笑い)
マリア この子ったら…伯爵とあたくしが、あなたの新作をあれやこれや話していたのを聞いていたのよ。二番目の子っていうのは、何についても目敏いというか、耳聡いというか…アンリも二番目だったわよね?
アンリ 仰るように二番目、目敏くて耳聡くて、蜂のように落ち着きない次男です。ところで、伯爵とお二人で話されていたあれやこれや、拙作のあれやこれやが、小心の私にはとても気になります。
マリア (上手の方の気配を察してルイサに向かうよう顎をしゃくって)その話はまたにしましょう。アンリ、今日はウジェニー十二歳の誕生日ですよ。それに、バスクの詩人もお見えになったようですし。
(マルグリットとルイサを弾き分けるようにして、白百合の小さな花束を持ったフアン・グランゴベルナールが入ってくる)
フアン ご機嫌麗しゅう、マリア・マヌエラさま。エウヘニアお嬢さまのお誕生日にお招きいただき…(エウヘニアが持っていた薔薇の花束にわざとらしく眉をひそめる)ボナパルティステ(bonapartiste)にはこちらの清純な花を捧げます。
(エウヘニアはアンリの方を見ながら大きく頷いて、後ろの姉フランシスカに薔薇を持たせる。恭しくフアンから花束を受け取って、百合の匂いを嗅ぐようにして目を上げる)
エウヘニア ありがとうございます。グランゴ先生は…あたくしマリア・エウヘニアに、この国フランスが似合っていると仰いましたよね?
フアン ええ、会うたびに申しあげています。そして、似合っているどころか、もはやフランスが、百合のようなお嬢さまに靡こうとしているように見える…(母マリアの手を取ってキスしてから、気がついたように振り返る)そうだ、エウヘニア、グランゴ先生はいけません、あれほど申したのに。私はバスクの浜辺のフアンですからね。
マリア (どこか不満気にサン・ドニの肖像画の前まで戻り)その浜辺のフアンのためにベレにかたどったショコラをご用意したわ。
(マルグリットが顔をひきつらせて、ルイサに目配せする。母娘は慌てて部屋を出る)
フアン そちらは自分の首を抱えたサン・ドニ、あるいは自分の手に抱えられたサン・ドニの首…たしか気味が悪いから外したいと仰っていませんでしたか?そして私に、この絵の格と大きさにひけをとらない、ここら辺りにちなんだ絵を探してみてくれないかと…
マリア そんなこと言ったかしら…ここはパリですよ。地元のイルデトロワ先生に頼んだかもしれないけれど。
アンリ (不意をうたれて戸惑う)地元ですが…ここら辺りにちなんだ絵ですか?
フアン (やっと気がついたかのように、大袈裟にアンリの手を握って)おお、アンリ、読ましてもらったよ。胸が張り裂けそうだった。ボナパルティステと王党派の間で揺れ動く女心を描いてご立派、まだお若いのに。いやはや、政治や軍事に携わる方々も、青臭い恋愛小説などと陰口を叩かずに是非に…そうそう、メヒコに介入なさろうとしていらっしゃる方も、是非に読んで
マリア フアン、ここは伯爵がご不在のシプリアーノ家、政界の話は礼を失してますよ。
フアン これは失礼しました、これですからバスクの浜辺の蟹は嫌われる。(塞いだと思わせて反転してアンリの方へ向いて)ところで、あの主人公の麗しい女性だが、ブルボン家に列する貴族の長女ということで、どうしても私は…(フランシスカを大袈裟に捜すような仕種)そちらの、もの静かなフランシスカを想ってしまった。
フランシスカ (皆に注目されて驚き、過呼吸のように胸を押さえながら)あの、あの小説の彼女のことぉ?確か名前は…
エウヘニア ミリヤでしょう、お姉さま。
フランシスカ あたくしがぁ?あたくしが、あの小説のミリヤに…
エウヘニア あたくしもそう思ってましたよ、お姉さま。アンリが、イルデトロワ先生が書かれたミリヤは、とってもお姉さまに似ているって。
フランシスカ (よろめいて後退して窓下の椅子三脚のうちの上手前に座る)あたくしがミリヤに似ているって…ミリヤは愛されているけれど、最後は幸せになれないわ…
アンリ 待ってくれよ、ウジェニーもフランシスも、書いた本人がここにこうしているのだから…
(アンリは慌てて姉妹のほうへ近づくが、エウヘニアの斜め下方から睨み上げたような視線に硬直する。マリアは正面を横切るようにして長椅子をまわり、フランシスカの隣り中椅子に座り、長女の肩を抱き寄せる)
エウヘニア ミリヤは誰なのでしょう?やっと今日、十二歳になった子供のあたくしにも分かるようにおっしゃって、修道院でも噂のイルデトロワ先生。
アンリ いいですか、私は実際の人物を描く作家ではありません。
マリア ウジェニー、今日くらいは十二歳の娘らしくしなさい。アンリ、ウジェニーをここまで大人びた十二歳にしたのは誰あろう、伯爵ご自身なのですから、気になさらないで。乗馬はむろんのこと、狩りにまで幼いウジェニーを連れ出しておきながら…十二歳の誕生日という今日、これから花開くお披露目の日なのに、お見舞いと称してベイル領事のところに立ち寄られるとかで、フアン、お戻りまで乾杯はおあずけよ。
エウヘニア 仕方ありませんわ、お父さまはベイル先生の小説が大好きなのだから。
マリア (フランシスカの肩を押さえつけるようにして)ベイル領事、あの赤と黒の作家、アンリ、あなたが尊敬なさっている大作家先生ですよ。
フアン (はたと思いついたように手を打って)なるほど、それで合点が行きました。話しに上っているミリヤの男とのつきあい方、どうも彼の先生の
マリア フアン、アンリの小説を褒めるなり貶すなりは、シプリアーノ家を出て明日以降にしてくれないかしら。さて、今日はウジェニー十二歳の誕生日、まずベレにかたどったショコラを…(上手の方を窺って大きな声で)ベレはまだなの!親子で味見しているんじゃないでしょうね…まさか、ルイサが落としてしまったとか!
(フランシスカがくぐもった鳩のような音で笑い、フアンが続いて笑い感服したようにマリアに会釈する。マルグリットが慌て気味にベレをのせた大皿を抱えるようにして持って、ルイサが息切れ気味に食器類をのせた台車を押して来る。その様子を見てエウヘニアが微かに笑い、彼女と目が合ったアンリが誘われるように小さく笑う。それを見ていたマリアは、袖を翻すようにして右腕を掲げて、エウヘニアに自分の隣りに座るよう促す)
フアン (エウヘニアが小走りに座るのを追うように、長椅子の下手に向かいながら)それではお喋りなバスクの蟹もショコラをいただきましょうか。アンリ、長椅子に仲良く並んでいただこうじゃないか。
(マリアはマルグリットが並べようとした皿を危うく払わんばかりに、右袖を翻して下手の椅子を指す)
マリア フアン、いらぬ気は使わないで、ここ、普段あたくしが座っているここにどうぞ。伯爵は身内だけだと長椅子をお一人で独占なさるのよ。(右側に座ったエウヘニアをちらりと見て、指し出すように上手の椅子を指す)アンリ、そちらに座ってショコラを味わったら、フランシスカに分かるように、あなたがあの小説で言いたかったこと、ミリヤの幸せについて、それを話してあげて。
(マリアが目配せすると、マルグリットは大皿のベレをエウヘニア、マリア、フランシスカ、フアン、アンリの順に見せる。そしてマルグリットが台車の上で切り分けて、ルイサはショコラの小皿とフォークをアンリ、エウヘニア、マリア、フランシスカ、フアンの順に配る。アンリは考え込んだ様子でなかなか食せず、フアンはフォークを使わずに素手で二口で一気に食してしまう)
フアン これこそショコラですな、甘い中に一抹の大人の苦味を散りばめた、このグランゴ先生が清純な百合を捧げたエウヘニアのような
アンリ グランゴ先生、グランゴ先生はいけません、などとご自分で仰いながら…
フアン どうしたんだい、アンリ・イルデトロワ先生。
アンリ 伯爵がお戻りになってから申しあげようと思っていたのですが、私は、フアン・グランゴベルナール先生の作品が実は嫌いなのです。
(誰もが息を呑んで膠着する中、ルイサが小さく噴出して窓の方へ顔を向け、マリアがそれに呼応するようにフォークを置いて、両腕を広げて両の娘二人の背にまわして笑い出して、窓の方へ仰け反って哄笑となる。ルイサを咎めようとしたマルグリットは、窓の外の気配に気づいて、ルイサの尻を素早く蹴ってから上手入口へ速やかに向かう)
マリア アンリ、あたくしはあなたのそういうところが好きなのよ。
フアン マリア・マヌエラさま、このような若者の無礼はスペインでは言語道断、まさに決闘ものでしょうな。しかし、このバスクの蟹は、騎士道由々しきスペイン人でありながらも、お二人のお嬢さまのグランゴ先生です。パリでいただく野卑な言動も、甘い日常に散りばめられたショコラの一抹の苦味として飲み込みましょう。
マリア フアン、あなたのそういうところもあたくしは好きよ。それに、お互いの作品について、胸が張り裂けそうだっただの、実は嫌いだの、仲がいいから言いたいことを言えるのよ。
エウヘニア そうです、今日はあたくしの十二歳の誕生日、お二人とも仲よくなさってね。(窓外の馬車の到着を気にしながら)イルデトロワ先生、あたくしの友だちは、あのミリヤは…ミリヤはデュドヴァン男爵夫人じゃないかしら、などと言っていました。
マルグリット (上手入口に慇懃に現れて)奥さま、ただ今ご主人さまがお戻りになられました。
(マリアは両側の娘たちを引き上げるように立って迎えに向かうよう促す。フアンは指先を舐めたり側髪を気にしながら、楚々とマリアとフランシスカの後を追う。続こうとしたアンリは、会話が中途なこととエウヘニアが残っているので立ちつくす)
アンリ 伯爵がお帰りのようなのでお迎えに…お父さまは大好きなのでしょう?
エウヘニア 大好きですわ、イルデトロワ先生と同じくらいに。先生、ミリヤはデュドヴァン男爵夫人なのですか?
アンリ アンリで構わないよ、ウジェニー。友だちはなかなか鋭い、ミリヤの三分の二はデュドヴァン男爵夫人だよ。
エウヘニア 残りの三分の一は、あたくしぃ?
アンリ (しばし沈黙、上手奥からフアンの大袈裟な笑い声が聞こえてくる)聡明なウジェニー、あなたにはミリヤの疑う眼差しが似合わない。分かるかい?
エウヘニア アンリ、今日これから、あたくしが誰かに嫁ぐその日まで、二人だけで話しているとき、その「分かるかい?」を言ったら、長い脛を蹴とばしますからね。
(アンリは一歩下がるようにして恭しくエウヘニアの手を取る)
マリア (伯爵を迎えている上手奥から)ウジェニー!マリア・エウヘニア、何をしているの!
(エウヘニアとアンリの二人は、厭きれたように微笑しながら上手入口へ向かう)

                                        幕
鹿鳴館 (新潮文庫)

鹿鳴館 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1984/12/24
  • メディア: 文庫



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